43.少女の護衛と祝いの一日(前編)
「何その格好?」
起き抜けに尋ねたエルダーの前には、かっちりした衣装に身を固めたディルの姿があった。シャツの上にベストを合わせ、すらりとしたズボンを履いた彼は、腰に差した剣を気にしながら落ち着きなく部屋の中を歩き回っている。
エルダーの質問は耳に届いていないのか、返事をするそぶりもない。
「今日受ける依頼には服装の指定があるのよ」
挙動不審なディルに代わって答えたのはアンゼリカだった。窓枠に座る彼女は先ほどからぶすっとしており、明らかにご機嫌斜めである。
まあ、それはそれとして。へえと相槌を打ったエルダーは、そんな決まりがあるなんてめずらしい依頼だなあと思った。ギルドに登録して半月経つけれど、そういったものなど見掛けた覚えがない。
何をするのか尋ねようとして、ふと、アンゼリカの格好がいつもと変わりないことに気が付いた。
「君は着なくていいの?」
彼女に睨まれるのも慣れたものだ。
「おーい、ディル! 準備できてるかー!?」
不意に聞こえた声に窓の外を見ると、表の通りと寮の敷地を繋ぐ拱門のあたりに二人の少女が立っているのが目に入った。
「このボリッジ様が! 迎えに来てやったぞー!?」
言うが早いか、三人の部屋まで一気に駆け上ったボリッジが勢いよく扉を開ける。それまでぼんやりしていたディルも、急に現れた彼女の姿にぎょっとした。
「ななな何その格好!?」
彼が仰天するのも無理はない。なぜなら、得意満面を浮かべたボリッジが着ていたのは、ディルと揃いの衣装だったからだ。
「にゃは、似合うだろ! 男装ってやつさ!」
堂々と言い放ったボリッジはくるりとターンしながらディルの元に歩み寄り、流れるような動きでその腕をがっしり掴んだ。普段から中性的な印象の彼女だけれども、今日はそれに輪をかけて性別不詳である。
ちなみに、言葉を失くしたアンゼリカはただただ歯噛みしていた。
「おはよう。……えっと、わたしたちはわたしたちで他の依頼を受けに行こうか」
静かに顔を出したオレガノがやや強引に促してくる。ディルたちがどんなことをするのかにわかに気になってきたエルダーは、その場でぐっと踏ん張った。
溜め息をつかれたところで意に介すわけがない。
「……指名があったんだって」
小声で教えられた内容にきょとんとした。
「最近、人さらいたちの動きが活発化してるらしくて。……護衛任務を、頼まれたみたい」
「護衛? ディルが?」
「そう。あの子が」
想像しなくてもわかる。愚の骨頂だ。
「護衛なら僕のほうが向いてるのに」
なんとはなしにつぶやけば、唖然としたオレガノに「下手な冗談はいいから」と呆れられた。
*
でんと構えた豪奢な屋敷を前に、ディルは今にもひっくり返りそうだった。金属製の格子でできた門扉の向こう、細い水路と瑞々しい草木で整えられた美しい庭園が見える。
閑静な高級住宅街の中でひときわ目立つその建物は、イェーディーンでも指折りの商家の邸宅だった。
「何だよ、緊張してるのか? 礼儀作法ならそこまで期待されてないって!」
にまにまするボリッジに苦笑を返す。ディルが指名を受けたのは、この屋敷に暮らすバニラという少女のエスコートだった。
憧れたのは間違いないけれど、展開が急すぎやしないだろうか。
「おい、しっかりしろよな! 昨日までの気概はどうしたよ!」
「うおう!?」
ばしんと肩を叩かれてはっとした。どう潜り込んだのかわからないボリッジのことは置いておいて、指名という依頼の性質上、普段のようにアンゼリカと一緒に行動することはできない。
しっかりしなくちゃと思った。大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐く。
任されたからには、やり遂げなければ。
「よし! 行くぞ!」
気合い十分で踏み出したディルは、支給された剣が木製だった理由をこのときはまだ知らない。
*
空色のドレスがふんわりと揺れる。腰に巻かれたリボンはひと目で上等とわかるほどつやがあり、そこから広がるスカートは細かい網目を持つレースがたっぷりあしらわれた愛らしいデザインのものだった。
「ようこそ、ディル! みじかい間だけだけど、エスコートよろしくね!」
「こちらこそよろしくお願いします、バニラ……様」
柔らかな黄緑色の瞳を細められ、今しがた習った通りに挨拶をしたディルは、穏やかな微笑の裏で非常に複雑な気持ちを抱えていた。彼女と顔を合わせる前に、依頼主であるこの屋敷の主人――つまりは彼女の母親と、話したのだ。
「今日はバニラの誕生日なんです。ちょうど七つの、大切な祝いの日。それで、プレゼントに何が欲しいか尋ねたら、街で見掛けたお兄さんにもう一度会いたいとせがまれて……ああいえ、人を物みたいに扱うつもりはないんですよ? ええ。誤解されても仕方のないことだとは思いますが……娘が探していたのは、草の根ギルドの依頼で駆け回っていた貴方だったんです」
思いっきり肩透かしを食ったディルは、それを気取られないようにとっさに表情を繕った。しかし、やり手の商人を相手に心境を見破られないわけもなく。
「日没までお付き合いくださいね? どんなことがあっても、定額のお支払いは約束しますから」
時間差で腹が立ってきた。考えてみれば、ギルドポイントランキングにも載っていない自分の存在をどこで知ったのかなど、おかしな点はいくつもあったというのに。
「ところで、……あなたは?」
吹き出てきた負の感情にぐらぐらしていると、バニラに声を掛けられたボリッジがにっこりした。
「おれはボリッジ! ディルと同じ草の根ギルドのメンバーで、花のように可憐なバニラ様をお守りするために、あの手この手を使ってここまで来たんだ! どうぞよろしく!」
随分荒っぽい挨拶にディルはひやりとしたものの、当のバニラは頬を緩めている。
「それはとってもおもしろいわね! そういうことなら、うん、わかったわ。今日は二人ともよろしくね!」
バニラが指摘しなかったおかげか、無作法なボリッジは彼女の使用人に非難されることもなく、ディルはほっと胸をなで下ろした。そういったところは本当に求められていないようだ。
「さあ、午前の予定は街の視察から! おお、バニラ様は勉強熱心だな!」
「もっちろん。わたしは商家のむすめだもの、大きくなったらお母さまをささえられるようになりたいの!」
ボリッジにもてはやされたバニラはまんざらでもなさそうだった。屋敷を出発してからもそれは変わらず、ディルは程々に相槌を打つばかりで、自分が同行している意味を見失いそうになる。
「お母さまはすごいのよ? みんなからたよりにされていて、いっつもいそがしいの!」
「そうだよなあ。土台はあったとはいえ、一代でここまでの富を築いたんだ。稀有な才能だよ」
「でしょ!? わたしのじまんのお母さまなんだから!」
だいたいだ。バニラの母親が「どんなことがあっても」と念を押したことや、腰に差した剣がただの棒切れであることからわかるように、この依頼の本質はエスコートではないのだ。他に雇われた正式な護衛はバニラに気付かれないように控えているらしいし、今日の予定だって、安全な場所を回るように調整されたものだと聞いている。
ディルはぽつりと、なんだかなあと思った。危険など少ないであろう周囲に注意を配りながら、まとわり付くような憂鬱を払えずにいる。
「それで夜はね、お母さまが予約してくれた大灯台の展望台でディナーをいただくの!」
「えっ、あそこでか!? バニラ様のお母様は本当に優しいなあ!」
「うふふ、とびっきりのドレスをえらばなくっちゃね!」
バニラはおしゃべりな少女だった。ちょっとした休憩をするという名目で立ち寄ったティールームで、こういった話を延々と続けられるほどだ。
よっぽど愛されて育ったのだろう。のびのびとした姿はディルの心を少しだけ傷つけた。
ああ。こんな依頼、早く終わればいいのに。
そうして容易く曇った瞳は、いつもの彼であれば見えていたものをあやふやにし、世界の彩度をいくらか落とした。