3.エルダーとセルリーとパンとスープ
男は森に住んでいる木こりだった。名前はセルリー。
エルダーの印象としては彼は大変気のいい男で、ディルが気を失ってしまったあの場で魔法陣を踏んでしまったことなどを簡単に説明すると、すぐさま家まで案内してベッドまで貸してくれた恩人だ。怖いのは顔だけだった。
エルダーが話を付けている間、アンゼリカはずっと当惑していた。セルリーの家へ着いたあともそうだ。律儀に紐に縛られていたエルダーが逃げ出さないように見張るのを優先するべきか、眠り込んでしまったディルのそばにいるべきかで迷っていた。どうしようもなさそうだったので、エルダーは自分に巻き付いている紐の端を持たせたまま、ディルの横たわるベッドのとなりに置いておいた。
「しかし、あれだな。不運だったな」
温めただけの湯が入った木のコップをエルダーに手渡しながら、セルリーが椅子を引く。エルダーは木製の机を挟んだ向かい側に座っており、湯気ののぼるコップを受け取ろうとして、手が拘束されていることを思い出した。もぞもぞするばかりで手を出せないでいるとコップはそのまま机の上に置かれた。とりあえず頭だけ下げておく。
運良く紐が緩くなっていないかを確かめるように指先を動かすと、エルダーは少しだけ顔色を変えた。あっさりと解けてしまったのだ、例の細い紐が。アンゼリカは何をしているのだろう。
椅子にどっかと腰掛けたセルリーは、自分の分の湯をごくごく飲んでいる。エルダーの微妙な変化に気付くわけもない。
せっかく手が動かせるようになったので湯を飲んでみると、それは温かくて、おいしい気がした。
セルリーが口元を拭う。
「あんな小さいのに、こんなとこまでやってきちまって」
なんだか勝手に涙ぐんでいた。
セルリーが住んでいるのは、森の中の小さな家だった。木造のこぢんまりとした一軒家で、一階と二階がある。一人で暮らしているらしく、生活に必要なものはほぼ一階にあるという造りの家だった。二階はほとんど使っておらず、倉庫然となっているらしい。
エルダーがいるのはキッチンとリビングが併設されているような大きな部屋で、生活の基点はほぼここといった感じの場所だった。そこから扉を隔てた先にある奥の部屋が寝室で、一階はその二部屋しかないらしい。
ディルは今、その寝室のベッドを借りて横になっている。
一段落着いたといえば一段落着いたのかもしれない。
根本の問題解決は何一つとしてできていないけれど。
でも、今は。
「あの、セルリー、ありがとう。あのとき君が通り掛かってくれなかったら、僕たちきっと死んでいた」
エルダーは大男のつぶらな瞳を見つめて真摯に礼を述べた。不安定な状態で魔法を使わなくて済んだのもよかったと思う。
「あ? ああ、いいんだよ、気にすんなって。ガキは守ってやんねえとな」
「本当に助かったよ。ありがとう」
「だから、いいんだって」
セルリーは照れたように後ろ頭を掻き、にやにや笑っていた。
エルダーがセルリーに話したことは二つだけだ。
誰が仕掛けたものかわからない魔法陣を踏んで見知らぬこの土地へやってきたことと、野宿をするために火を起こそうとしてディルが無茶をしたこと。それ以外の、悪い魔法使いがどうとか、二人と自分の関係が何だとかそういうややこしいことは一切話していない。
「それで、お前たち、元々どこにいたんだ。帰りてえんだろ?」
本題を持ち出されて、すぐさまうなずくエルダー。
「僕たち、あの、トゥヴォーっていうところから来たんだけど。ここはどのあたりなのかな?」
セルリーがコップを傾けて湯を飲む。彼は難しい顔をしていた。
エルダーが住んでいたのはトゥヴォーという名前の町の外れだった。町自体に訪れた回数はそう多くはないけれど、そこそこ大きい町であることに間違いはない。が、もしかして、知らないのだろうか。
「ここはスィーニの南東のほうだ。わかるか?」
セルリーはトゥヴォーという地名について避けた答えを返してきた。しかし、エルダーはそんなことを気にしない。
それよりも、セルリーが口にした言葉のほうが気になる。
スィーニ。その地名に聞き覚えはあった。あったのだけれども、困ったように笑っておいた。
いろいろなところを旅しているセージが、その昔、スィーニへ出掛けたことがあったのだ。そのときは長旅になるからと言って一年以上帰ってこなかった。エルダーはその正確な位置を覚えているわけではないけれど、それが自分たちの住んでいる町からかなり離れたところにある国の名前だということは、知っていた。
そもそも大陸からして違う。海を越えなければ辿り着くはずがない場所に、エルダーは今いるのだ。海なんて見たこともない、エルダーが。
「聞き覚えはねえか。とにかく、明日あたりに町まで連れていってやったほうがいいな」
セルリーの声が右から左へ流れていく。「そろそろメシにするか」適当にうなずいておいた。
エルダーは戸惑っていた。これまで町の外れで一人で暮らしていたエルダーは、となりの町にすら行ったことがなかったのだ。それがいきなりこんな遠くに、しかも、セージが実際に訪れたことのある国までやってきてしまった。それはエルダーにとって物語の中の世界だと思っていた場所。
エルダーはうつむいて瞳を輝かせていた。
なんだか今すぐセージに会いたい。会って、震え出しそうなこの気持ちがなんなのかを教えてほしい。
セージは物知りだから、きっとぴったりな答えをくれるだろう。
ねえ、セージ、聞いて。
ねえ、僕、こんなところまで来ちゃった。
*
親切なセルリーから夕飯を食べさせてもらって眠ったエルダーはその日、夢を見た。
夢の中には都合よくセージが出てきた。
セージは夜も更けたというのにまったく眠る気配を見せずにクッキーをかじっていた。
視点は少し高い位置に固定されてしまっていたけれど、エルダーはその景色に見覚えがあった。ぴんとくる。セージがいるのはエルダーの家の中だった。
一人で湯を沸かし、茶を飲んでいる。
セージの黒い髪が肩からさらりと流れた。
エルダーはセージに声を掛けようと思った。聞いてほしいことが、教えてほしいことが、あったから。
しかし、エルダーはそうすることができなかった。夢の中のエルダーにはそもそも実体がなく、口なども当然のようになかったからだ。
もどかしい。
セージを見つめたままやきもきしていたエルダーは、そこでふと、その部屋に違和感を覚えた。
たとえるなら、そう、正しく掛けたと思っていたボタンが、鏡を見たときにずれていたときのような。
エルダーははたとして、その違和の正体を見つける。
セージが腰掛けている椅子のそばの壁に、エルダー愛用の杖が立て掛けられていたのだ。先端がぐるっと巻かれた、とぼけた感じの杖が。しかも、その先端部分に、エルダーがよくかぶっているつば広のとんがり帽子まで掛かっている。
エルダーは杖と帽子をあんなところに置いたことなどない。
クッキーをかじっていたセージがふと、中空を見上げた。それからゆっくりと視線を動かし、姿のないはずのエルダーを見た、気がした。小さく口が動く。何と言っているのかはわからなかったけれど、セージは苦笑しているようだった。
それから静かに立ち上がり、杖と帽子を手に取ると、エルダーに向かって振って見せた。
夢はそこで覚めた。
*
一晩経つと、エルダーの名前のない気持ちはそこそこ落ち着いていた。
理由はよくわからない。一人でお茶会をするセージが夢に出てきたせいかもしれない。
ところで翌朝になってもディルは目を覚まさなかった。
紐をしっかり巻き直したエルダーとセルリーが部屋を覗くと、ディルの顔の横辺りに座り込んでいたアンゼリカがディルの様子を教えてくれた。眠った分、顔色はよくなったらしい。その分、アンゼリカのほうがやつれた感じだった。もしかして、夜通し眠りもせずに看病していたのだろうか。
エルダーが昼にはきっと気が付くよと慰めたら、うなだれるようにうなずいていた。
セルリーが用意してくれた朝食を食べ、同じものをアンゼリカの元に運ぶと、彼女は力なく首を横に振った。儚げな光が舞っては溶けていく。
「ディルがこんな状態なのに、食欲なんてあるはずないじゃない……」
アンゼリカも疲れているのだろう。エルダー相手に随分と弱気だ。
それもそうかと思いつつ、エルダーはセルリーの味方だったので、彼を贔屓することにした。残飯を片付けるセルリーの寂しそうな姿を思い出しながら、困ったように笑いかける。
「でも、セルリーがわざわざ用意してくれたものなんだよ? 君、昨日の夜も全部残しただろう?」
「……」
アンゼリカが目をそらした。視線の先にいるのはディルだ。彼の赤い髪をそっとなでて、黙っている。
エルダーはパンとスープの乗った木の盆をずいっと押し付けた。逃がすつもりはなかった。
「アンゼリカまで倒れちゃったら、ディルが困るよ。ちゃんと食べて、しっかりしないと」
ね?と念を押す。
天使の少女は息をつき、そこで折れた。
彼女の体の大きさを考えればかなり大きいサイズのパンの端をちぎり、口に入れて、もぐもぐ噛む。
一欠片飲み込むとエルダーを見上げて、顔をパンのほうへとそらし、また、ちぎる。食べる。
懸命にパンを頬張るアンゼリカは泣きべそをかいていた。
スープもちびちびと飲んだ。意識のないディルにも飲ませようとしていたので、それは止めた。
アンゼリカの羽から発せられる光が力強さを取り戻してきたころ、パンは半分ほどなくなり、スープも見るからに減った。エルダーもやれやれと微笑んだ。