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37.おはようとおやすみと少年少女




 気絶するように眠ってしまったオレガノを地下室から彼女の部屋のベッドに移すと、ディルはようやく息をついた。

 エルダーは一足先に休むと言って、オレガノを運ぶ前にどこかに行ってしまっている。聞きたいことは山ほどあったものの、疲れている彼を引き止めることははばかられたのだ。


 ぴくりともしないオレガノにブランケットをかけていたディルは、ふと、無性に悲しくなった。


「なあ、アンゼリカ。オレの考えてたこと、間違ってたんだよな」


 オレガノの上を飛んで光の粒を撒いていたアンゼリカが、ディルのほうを見上げる。

 ディルはどうしても、彼女と目を合わせることができなかった。


「マジョラムさんにもオレガノさんにも、失礼だった」

「……ディル」


 死んでしまったマジョラムを生き返らせようなんて少しでもよぎったことが恥ずかしくて、口元を歪める。だってそれは、マジョラムのためでもオレガノのためでもない、ディルのための選択だったから。ディルがただ空しくて、それを埋めるために選ぼうとしたことだからだ。

 マジョラムは幸せに生きたのだ。それを勝手に不幸なことのように受け取って、なかったことになんてしてはいけなかった。エルダーの取った手段には賛成できないものの、彼より先にオレガノを見つけていたとしても、ディルには彼女の目を覚ませていなかったと思う。


「ごめんな。オレの選択、正しくなかったよ」


 これが、アンゼリカの問いに対するディルの答えだった。

 空色の瞳を見るのは怖かった。こんな自分本位な願いだけで行動して、きっと、軽蔑されたに違いない。そんなことを確かめるのは恐ろしくて仕方なかったけれど、そうしなければならないと感じたディルは、意を決してアンゼリカと目を合わせた。

 ところが。


「あたしこそごめんなさい、試すようなことを言って」


 謝罪を口にした彼女は、ピンク色のリボンの端に触れながら、ディルと同じような顔で微笑んでいた。


「あたしはあなたに嘘をついたの。奇跡の力でも死者を蘇らせることはできないのに、存在しない選択肢を与えた」

「え……?」

「ディルが恥じる必要はないわ。あなたの思いは、何にも代えがたいほど尊いもの」


 既視感のある表情に、はっとする。


「本当は、もっと早くに伝えるべきだったの。マジョラムのことも、あのおかしな霧のことも。あたしは最初から、わかっていたから」

「アンゼリカ……」


 たとえばの話だ。

 ディルが現実から目を逸らし続けて、オレガノと一緒に本当のことを見失ったままでいたとしたら。この小さな天使の少女は、一体どうしていたのだろう。

 彼女が愛想を尽かしたとして、一人になるのは、ディルだけではないのだ。


 それに、何かを伝えようとするアンゼリカに気付いていながら、あえて向き合わなかったのは、ディルのほうだ。その結果として彼女が嘘をついたのなら、そうさせたのは――。


 そんな態度を取ってしまったのに、彼女はディルを見放すことなく、そばにいてくれた。それはつまり、じっと、信じてくれていたということではないのだろうか。

 マジョラムがオレガノのことを信じて待っていたのと同じように、ディルが本当のことに目を向けるのを待っていてくれた。

 そんなことを考えたら余計に息が詰まるようで、ディルはちょっと無理をして、照れくさそうに笑った。


「オレ、そんなの全然、わかんなかったよ」


 アンゼリカの小さな手を取ると、彼女はその瞳を見開いた。


「……あなたはやっぱり、優しいわ」


 つぶやいたアンゼリカの頭上に浮かんだ天使の輪が、波紋のように淡い光を放つ。きらきらこぼれる光の粒はきれいで、ディルは素直にその光景に見惚れた。


「あたしはもう二度と、ディルに嘘はつかない。この翼に誓って、困難に挑むあなたを助けることを約束するわ」


 ディルの手を握り返したアンゼリカは、いつになく真剣だった。ディルは居住まいを正そうとして、それでもうっかり苦笑した。



 *



 どのくらい気を失っていたのかわからない。オレガノが目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。

 上半身を起こしてカーテンを開く。日はまだ昇っておらず、夜空に瞬く星々が妙にくっきり見えて、どことなく現実感がなかった。

 ふわふわした足取りでベッドを下りて部屋から出ると、大部屋に空いた穴が本当のことをオレガノに教えているようで、胸がちくりと痛む。

 かつて食料庫として使っていた地下室はぐちゃぐちゃに破壊されて、足の踏み場もなかった。床は盛り上がったりへこんだりしてでこぼこしており、隅のほうに転がった木箱から、魔法学校で使っていた革の鞄が飛び出している。


 かろうじて残っていた大部屋の端をつたうように歩いた。辿り着いた部屋の扉を一つ一つ慎重に開けて、中を確かめる。

 ある部屋では少年と少女が眠り込み、ある部屋はもぬけの殻だった。

 そのどこにも、探している人はいない。


 最後に玄関の扉を開けた。霧の晴れた外は月光に照らされて明るく、冷たい夜風が吹き抜けて、オレガノの長い髪を揺らした。

 あたりを見回したものの、誰もいなかった。誰も。


「そんなところにはいないよ」


 降ってきた声に後ろを振り仰ぐ。

 屋根の上の人影。真っ白に輝く月がまぶしくて、オレガノは顔をしかめた。


「マジョラムは、そんなところにいない」


 遠慮も何もないその言葉が、あまりにもしめやかにオレガノの心を突き刺すけれど。


「わかってるよ」


 どこかすっきりとした、ただただ悲しい気持ちで、オレガノは笑った。

 ふわりとマフラーがなびく。音も立てずに地面に降り立ったエルダーが、薄紫色の目をぱちくりしながらオレガノを覗き込んだ。


「じゃあ、何を探していたの?」

「……それは、別に。……あなた、とか」

「えっ」


 答えを聞いたエルダーは意外そうに口を開けて、さっと一歩距離を取った。


「魔力はもうあげないよ?」

「……その節はどうも、ごめんなさい」


 彼は訝しむように首をかしげている。オレガノはもう、そんな邪気の無さそうな姿を見ても、彼が何も知らないなんて考えることはなかった。

 オレガノはわかったのだ。エルダーの言葉は一見すると鋭い刃物のようでも、決して冷たくはないのだと。むしろそれは、生きている人間の温度でできたものだった。


「あの……おは、よう」


 返すのが遅くなった挨拶に、エルダーはきょとんとする。どう切り出せばいいのかわからないまま、オレガノはもごもご言い淀んだ。

 空いていた距離をとことこと詰めてきたエルダーが、改めてオレガノを覗き込んだ。


「僕に何か話があるの?」

「いや……その……」

「話したいことがあるなら話せばいいじゃないか。僕は聞きたかったら聞く、それだけだよ」


 あまりにも勝手な物言いに呆れてしまった。

 しかし、心のどこかで安堵する自分がいることに気が付いて、オレガノは少しばかり困惑する。


「……あなたは、怒ってないの?」

「怒るって、何を?」

「自分の魔力をあんなになるまで使われて。わたしは、怒られにきたんだけど」

「えっ、そうなんだ。君って変わってるね?」


 ちぐはぐな会話に気抜けしそうになる。


「変わってるのはあなたのほうだと思うけど……」

「だって、僕は怒ってなんかいないから。ちょっと大変だったのは本当だけど、あの霧の世界を作るために必要だったんでしょう?」

「……」


 オレガノは曖昧にうなずいた。この家の地下室にあった魔法陣を使うためには大量の魔力が必要で、それは彼女一人でまかない続けられるようなものではなかったからだ。エルダーが現れたことによって供給源が切り替わっていなければ、今日まで維持することなんてできなかったのは事実である。


「……でも、あなたには何の得もなかったはずだよね」


 自覚している悪い癖が出た。つっけんどんな言い方になってしまったのを後悔していると、不思議そうな顔をしたエルダーが一言。


「あったよ?」


 オレガノはどこに、と思った。


「僕は楽しかったよ。あの霧の世界で見た、君のツノオオカミ狩り」

「……」

「帰ったら自慢するんだ。面白いものを見たよ、って」


 うれしそうに笑うエルダーは、まるで明るいものを信じているようだった。

 この世界の不条理や、醜くて汚らわしいもの。悲しいことや、つらいこと。自分の手には負えない痛みから生まれたあの霧の中で、それでも彼が見つけたものは、オレガノにとって得難い救いだった。

 ひと月以上も前になくしたと思っていたものが、今、目の前にある。


 冷たい空気を吸い込んで息を整えると、決心を固めた。


「……わたしは今から、話したいことを話すけど。これは、あなたの魔力を勝手に使ったわたしが、一方的に感じている責任みたいなものだから。さっき言ってたみたいに、あなたも好きにしてほしいんだけど……」


 前置きから物々しい雰囲気を感じ取ったのか、エルダーが静かに目をしばたく。

 夜風は穏やかで、周囲には何の音もしなかった。姉の声はもちろんのこと、誰の声だって胸のうちにもありはしない。


「わたしはね、自分が許せなかったんだ。お姉ちゃんを守ろうって決めたのに、そんなわたしのせいでお姉ちゃんが死んじゃったのかもって思ったら、心が重くなった」


 久しぶりに聞いた自分だけの声は、そこまで悪くもない気がした。


「……心が、重く?」

「うん。つらくなったの」


 するりと出てきた言葉に驚きながら、気持ちを整理するように続ける。


「全然知らなかったから。これまでにお姉ちゃんがどんな苦労をしたのか、何を犠牲にしたのか、一つも知らなかった」


 他にも意外だったのは、エルダーがオレガノの話にきちんと耳を傾けていることだった。

 君の独り言なんて知らないと、そっぽを向かれるかと思っていたのに。


「男爵の言ったことが否定できなくて、鉛でも飲んだ気分だったよ。後悔と罪悪感で息ができなくなりそうだった」

「……後悔と、罪悪感?」

「そうだよ。間違えたと思ったんだ。わたしのしたこと、選んだことで、お姉ちゃんが不幸になったって。思い込んだの」


 そうして霧の世界に閉じこもったオレガノは、微笑み続けるマジョラムが次に何を言うのかわからなくて、ずっと怯えていた。「私が死んだのはオレガノのせいよ」と、世界で一番大切な人に非難されるのが怖かった。

 しかし、そんなふうに震えるオレガノに、マジョラムは何も言わなかった。いつも通りの笑顔を浮かべて、幸せそうに過ごして。そんな姿を見ていたら、もしかしたら彼女は自分を責めていないのではないかと、甘い考えがよぎって――オレガノはついに、自分を許せなくなったのだ。


「だけど、そんなの嘘だったんだよね。ごめんね。たくさん、迷惑を掛けて」


 マジョラムさんは、ただ……あなたに幸せになってほしいって、思ってたんじゃないんですか?

 頼りないだけだと思っていた赤い髪の少年が向けた、強い光を秘めた青い瞳。そこに最愛の姉の微笑を見た気がして、我に返った。

 天使の少女が正しかったのだ。真実を捻じ曲げていたのは、曇ってしまったオレガノの心だったから。


「ありがとう。わたしに本当のことを教えてくれて」


 それを受け入れられたのは、他でもない、この少年がいたおかげだ。

 自分のせいで姉が死んだのだと吐露したオレガノを、そんなわけがないと躊躇なく切り捨てた彼の前だから。彼女は安心して、うなずくことができたのだ。


「ありがとう、エルダー」


 深緑の瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。

 それを目にしたエルダーは、困ったような顔をした。


「……あ」


 ひんやり澄んだ空気の中、にわかに明るくなってきた周囲を見渡したエルダーが表情をやわらげる。


「ねえ、オレガノ。やっぱりきれいだよ、世界は」


 涙に濡れた顔のまま、オレガノはエルダーの視線の先を追った。

 山々の間から昇ってきた朝日を浴びて目を細める彼に、オレガノは小さく微笑んだ。

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