36.二人の姉妹と嘘の嘘
地下室に落ちたときに頭を打ったらしい。ぬめりとした血の感触、霞がかった意識のまま見上げた先には、どこか不機嫌そうな表情の少年が立っていた。
めちゃくちゃな量の魔力で天使の少女の傷を治し、自身が魔法使いであることに迷いなどなく、世界にはきれいなものがあると信じ切っている幼い少年。オレガノがなくしたものを無邪気に抱えて、この先にあるものは希望であると疑わない、挫折を知らないその瞳が、見るに耐えなかった。
思い返せば、年上としてあるまじき八つ当たりを何度繰り返したことだろう。おとなげない振る舞いで突っぱねて、そのたびに自分を嫌いになって。
この少年を前にすると、忘れたいことばかりが脳裏をよぎる。
「おはよう」
そんなことは知るよしもない彼から掛けられたのは、爽やかには程遠い目覚めの挨拶だった。
おはようなんて、姉のいない今のほうがよっぽど悪夢みたいなのに、それまでのことのほうが夢だったような言い方じゃないか。
オレガノは視線を落とした。頭の中に最愛の姉の像を結ぶ。
姉は確かに笑っていたはずだ。
自分は悪いものから彼女を守り、二人で支え合って、豊かではなくともささやかに幸せに暮らしていたのだから。
それなのに、なぜだろう。オレガノは首元に手を当てて気持ちを落ち着けようとした。
あれほどまでに大切だった姉の笑顔を前にして、どうしてずっと、あんなに苦しかったのだろう。会話が途切れるたびに、何が気まずくて、怖くて、居ても立ってもいられない衝動に襲われたのか。
自分は何に、怯えて。
不意に、少年の人差し指がすっと伸びてきた。押すように額に触れた次の瞬間、ずきずきとした頭の痛みが引いていく。
「目は覚めた? マジョラムはもう、死んでるんだよ?」
「っ、エルダー!」
赤い髪の少年が慌てて駆け寄ってきたけれど、言い合う少年二人を前に、オレガノは泣くまいと歯を食いしばる。
みんなでまかせだ。あんなことは本当であるはずがない。
目を閉じた姉の手が冷たかったのは、指先が固かったのは――あんなものは、たちの悪い夢だ。決して見てはいけない類の夢だった。
それなのに、この世界は真っ赤な夢なのに、どうして。
「嘘だ……」
涙の代わりにこぼれた言葉を、魔法使いの少年が耳ざとく聞きつける。「嘘じゃないよ」
「君が霧の世界に閉じこもったのは、マジョラムが死んだからだ」
「違う……!」
「違わないよ。マジョラムが死んだのは自分のせいだって思ってるからでしょ?」
「エルダー!」
オレガノの前に立った背中は赤い髪の少年のものだった。
「お前はそれ以上しゃべるな!」
「どうして?」
「オレガノさんが傷ついてるのがわかんないのか!?」
大層なことを言うものだと思った。頼りなくて臆病なのに、こんなふうに誰かを守ろうとするなんて、おこがましいにも程がある。それ相応に無力で弱いくせに、何かを庇おうなんて滑稽な話だ。
ツノオオカミに囲まれていたときもそうだった。彼はいつも、対峙しているものの力量を測り損ねる。
しかし、そんなふうに他人のことを軽んじられるほど、自分は殊勝なのだろうか。大事な人をきちんと守れていただろうか。
オレガノはしゃくり上げそうになるのを堪えた。
守れなかったのだ。あの日の誓いは、何の意味もないものになってしまった。
マジョラムはもう、死んでるんだよ?
僕は彼女をかわいそうだなんて思わない。
生きているのなら、前に進まなくちゃいけないんだよ。
命とはそういうものなのよ。
ねえ、オレガノ。
お前のせいだ。
お前が身の丈に合わないことをしたから!
胸のうちでたくさんの声が響いて、オレガノは肩を震わせた。
みんな、土足で人の心を踏み荒す。
みんなみんな、わかりきっていることなのに。
「そうだよ。お姉ちゃんは……わたしの、せいで」
*
ぼんやりとしたオレガノの言葉にディルはどきりとした。影に言われたことが思い出されて、無意識のうちに体を強張らせる。
そうだったとしたら、どうするの?
君もあの子を責めるの?
あのときディルが聞きたかったのは、そんな答えではなかった。あの質問は、否定されることを期待して口にしたものだったから。
オレガノのせいではないのだと、言ってほしかった。事実としてそうではないということを、何の憂いもなく彼女に伝えたかったから。
それなのに、予想外の答えに困惑していたらはぐらかされて、うやむやになってしまった。
ディルは迷った。違うと言いたいのに、確信が持てなくて言葉にできなかった。
その場しのぎの無責任な発言は、オレガノを救わない。
しかし。
「そんなわけないじゃないか」
逡巡するディルのとなりから、そんな躊躇いなんかただの一足で抜き去るような、呆れた声が聞こえた。
「マジョラムがそう言ったの? 君のせいだ、って」
ディルを押しのけたエルダーは、今にも泣き出しそうな顔をしたオレガノを見下ろして、心から不思議そうにそう尋ねた。
意味がわからなかった。言ったとか言わないとか、これはそういう話ではないはずだ。ディルは改めてエルダーを止めようとした。「おい……」
途端に後ろからぐい、と引っ張られる。
「アンゼリカ?」
それまで静観していたアンゼリカが首を横に振った。
黙って見ていろということだろうか。絶望の淵に立つオレガノをさらに追い詰めたりしたら、取り返しのつかないことになるのは目に見えているはずなのに。
ディルの当惑なんて構うことなくエルダーは続けた。
「それとも、メドゥスイートにそう聞いたから?」
「……」
「君はマジョラムを嘘つきだと思っているってこと?」
顔を上げたオレガノの、深緑の瞳が揺れる。「嘘、つき……?」
「うん? メドゥスイートの言ったことを信じて、マジョラムの言わなかったことを信じないということは、そういうことじゃないの?」
「違う、わたしはそんなこと……!」
言いかけたオレガノが絶句し、戸惑っていたディルもはっと口元を覆った。
声に出した言葉にはね、力が宿るの。良い言葉を口にすれば良いことが、悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる。
素敵な言葉をたくさん使ってね。幸せに、なってね。
これから行く君の旅路が幸せなものであるように。
きっとじきに、霧も晴れるわ。
二人のことなら大丈夫よ。
オレガノがいるんだもの。ちゃんと帰ってくるわ。
私はそう、信じているの。
ディルの頭の中を駆け巡った記憶は、たった数日間のものだったけれども。
それで十分だった。十分すぎる、ほどだった。
「マジョラムさんは……そんなこと、言って、ない……」
エルダーの伝えたいことがわかったのだ。アンゼリカの言葉の意味も、霧の中で出会った影が口にしたことや、テグの町でマジョラムの居場所を教えてくれた女が念を押したことも。
「死」という途方もないものに圧倒されて見えなくなっていたけれど、我に返った今ならわかるから。
「言ってない、のは。いつも笑って、いたのは。……ただ、幸せだった、から?」
一言一言を確かめるように、ディルはつぶやく。
死んでしまう前の彼女は生きていたはずだ。その人生にディルが関わったことはないけれど、でも、死後の彼女のことなら知っている。
悪いことを口にすれば悪いことが起こると信じていた彼女は、だからこそ優しく微笑んで、誰かの幸せを願っていた。
それは決して、彼女が聖人だったからではない。霧の世界に浮かんでいた影がマジョラムの一部であるならば、彼女が放ったひどい言葉は、確かにディルを傷つけた。
そういうことをしようと思えばできた彼女が、それでもずっと微笑んでいたことが大事だったのだ。
マジョラムはわかっていたのだ。
大切な妹がこうして苦しんで、閉じこもって、今にもくずおれそうなのを。
しかし、どんなに言葉を尽くしても、彼女は救われない。
そんなときどうすればいいのか、懸命に考えたのだ。
「オレガノさん……」
それだけが唯一の答えだと、気付けなかった。生きていた彼女のことを知っていたオレガノも、その後の彼女と出会ったディルも、見失っていた。
もどかしかった。わかっているのに、うまく伝えられないことが焦れったくて悔しい。
確信なんてずっと目の前にあったのに。
そんなディルを横目に肩の力を抜いた天使の少女は、翼を輝かせてオレガノの前に舞い降りた。
きょとんとした様子のエルダーが静かに一歩下がる。
「オレガノ。あなたの勝手でマジョラムの在り方を否定することは許されないわ。あなたが彼女に向けた感情は、恥ずべきものよ」
「わた、しは……っ」
「彼女はあなたが傷ついていることを知っていた。だからこそ、輪転の権利を放棄してでも、あなたのそばにいようとしたのよ。あなたが立つのを待つために」
嫌なことが溢れたとき、どうしたって視野は狭くなる。そこにある大事なものを、簡単に見落としてしまう。
それはとてもつらくて、悲しいことだから。
ディルはなけなしの勇気を振り絞った。
「オレガノさんのせいじゃ、ないです。誰かのせいとかでもなくて」
そのとき起こったことが何かはわからない。誰が言ったことが本当かもわからない。だから、可能性は消し切れない。
しかし、もしも、マジョラムがオレガノのせいで死んでしまったのだとしても。それはここで言う大事なことではないから。
「マジョラムさんは、ただ……あなたに幸せになってほしいって、思ってたんじゃないんですか? 違うって言ったのは、オレガノさんもわかってるからでしょう?」
目を覚まさないということは、知らないままでいるということ。
知らないままでいるということは、マジョラムを嘘つきにするということだ。
だからきっと、辿り着いたこの答えは間違いではない。
「わたしのせいじゃ、ない……? お姉ちゃんがいなくなったのは、わたしのせいじゃ……ないの……?」
消え入りそうな問いかけに息が詰まった。座り込んだオレガノは大きな街ではぐれた幼子のように頼りなげで、毅然と振る舞っていたときの面影なんてまるで感じられない。あまりに脆いその姿に言葉を選ぼうとしていたディルは、それよりもまず、無言でうなずいた。
「……わた、しは。わたしだけが悪いわけじゃないって、思っていても……。お姉ちゃんはわたしを責めてなんかいない、って……自分に都合のいいことを、信じても……許されるのかなあ……?」
安心させるように、もう一度うなずく。
己の過ちを許すのがどれだけ難しいことか、ディルはよく知っている。自分が無意識のうちに誰かをひどく傷つけたとわかったとき、その呵責はとても重い。
「ああ。お姉、ちゃん――」
オレガノの体がぐらりと傾いた。
ディルはとっさに腕を伸ばして彼女を抱きとめる。「オレガノさん!?」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん。ごめんなさい、ごめん、なさい……」
うわ言のようなつぶやきが聞こえると、オレガノは糸が切れたように動かなくなった。