34.生者と奇跡の選択
深い霧の中をディルは歩く。どこまでいっても先は見えず、右も左も不明確で、世界の形が曖昧になってしまったような心細さを覚えた。
確かに進んでいるはずなのに、どこかに辿り着いたっていいはずなのに、どこにも行き場がないような……妙な寂寞感。
足元のカーペットを見るに、ここが家の中であることは間違いないけれど。不可思議な空間は、ディルの感覚を狂わせる。
「なあ、アンゼリカ」
どのくらいそうしているのかわからなくなってきたころ。つと口を開いたディルに、となりを飛んでいたアンゼリカが顔を上げた。
「アンゼリカは……あの影が何なのか、わかってるんだよな」
それは確信に近い問いだった。なぜなら彼女は、驚かなかったからだ。
霧の世界で合流したとき、ぼんやり浮かぶ影の姿を見て。「どうしてまだ残っているの」と、その存在を知っていたかのような口振りで責め立てようとした。
一瞬だけ顔をしかめたアンゼリカが、おとなしくうなずく。
ディルの頭の中にはずっと、突き放すような影の声がこだましていた。
「あれは……」
「あれは。あんなのは、マジョラムさんじゃないんだよな?」
空恐ろしい気持ちを抑え込むように言葉をかぶせると、アンゼリカはあからさまに眉をひそめた。「ディル……?」
「だって、マジョラムさんがあんなこと言うわけないもんな。あんなふうに、人を傷つけるようなこと」
「いいえ。あの影もまた、マジョラムの一部よ」
ぴしゃりと言い放ったアンゼリカがディルの前に回り込む。思わず足を止めると、その翼の輝きがうっすら明滅していることに気が付いた。
アンゼリカを困らせていることがわかっても、ディルはあの影が何なのか納得できなければ、先には進めない。
「でも……マジョラムさんは……」
「そうね。あなたの会ったマジョラムは、そんなことを言う人間ではなかった。それはわかっているつもりよ」
すいと近付いてきたアンゼリカの小さな手がディルの顎を持ち上げた。
「ねえ、ディル。彼女はいつもどうだった? あなたの知っているマジョラムは、いつもどんなふうにしていたの?」
空色の瞳に見つめられて、目をしばたく。
「……オレの知っている、マジョラムさんは」
彼女は何があっても穏やかに微笑む人だった。
転がり込んだ形のディルたちを温かく迎え入れてくれて、親切にしてくれた。
いつだって優しくて。どれだけ小さなことでも、ディルからすれば当たり前に思えるようなことでも丁寧に拾い上げて、窮屈で仕方なかった心を元気付けてくれた。
幸せになってね、と笑っていた。
今まで出会った誰よりも、美しいひと。
「でもね、それは彼女のすべてではないの」
アンゼリカの言うことが、ディルには理解できない。彼女が羽織っている白いケープこそ、まさにマジョラムの人柄を示すものなのに。
そうやって困惑していると、アンゼリカの手が離れた。
「あなたはマジョラムに、生きていてほしかった?」
「……え?」
穏やかなその一言は。
ディルがずっと気にしないようにしていた空恐ろしいものを、じわりと炙り出すようだった。
「なんだよ、その言い方……。アンゼリカだってそうだろ?」
「あたしはあなたに聞いているのよ、ディル」
「な……っ、そんなの、当たり前じゃないか! 今だって、本当は……!」
本当は、信じたくなかった。
あのマジョラムが一か月以上も前に他界していたこと。そしてその魂が、オレガノの作り出した霧の世界にとどめられていただけのものだったなんて、そんな救いようのない話は信じたくなかった。
しかも、ディルがそれを聞いたのは、マジョラムの正体を知った後だった。崖の上の家に戻る道すがら、例の霧がオレガノの魔法によって作られたものだということをアンゼリカから教えられたときは、自分たちをだましていたオレガノに腹が立った。ふざけるなと言いたかった。だからこそ、夢うつつでいたオレガノを追及しようとしたのだ。
しかし、そんな思いは一時で霧散した。
「……こんなの、オレガノさんがかわいそうだよ。エルダーには探してくるって言ったけど……オレ、伝えられないかもしれない」
だって、彼女は愕然としていたから。マジョラムがいなくなってしまったことをまるで認識していないかのように、エルダーの端的な言葉に傷付いていた。
そのとき、ディルは気付いたのだ。ディルが抱いたあてどもない気持ちは、そっくりそのまま、いや、それ以上に、オレガノにも当てはまるものだということに。
その瞬間、ディルの胸にずくりと重たい悲しみが生まれた。真実を告げることが、正しいことなのかわからなくなったのだ。
「オレガノも、見失っているのよ。マジョラムの死を、なかったことにしようとしている……」
ディルは手元の紐を握った。
その通りだ。でも、オレガノがマジョラムのことを受け入れられずに夢を見ていると言うのなら、それで幸せだと言うのなら、いいじゃないかと思った。
マジョラムを失って取り乱すオレガノは見ていてつらかった。彼女が本当のことを知らないままでいたいのなら、そっとしておいてあげたかったから。
「……ねえ、ディル。もし、今ならマジョラムを蘇らせることができると言ったら、あなたはどうする?」
聞こえてきた言葉に、ディルは自分の耳を疑った。
薄い霧を隔てた先にいるアンゼリカの、考えていることがわからない。
「そん……なことが、できるのか?」
「あたしは天使だもの。あなたに助けられたとき、約束したでしょう?」
「約、束……?」
「あなたが望む奇跡を、一つだけ起こす、って」
降って湧いたような提案に、ディルは呆然と過去の記憶を辿った。
アンゼリカと初めて出会った日のことだろうか。
あの日、町の路地裏で見つけたアンゼリカは野良猫に囲まれて泣きべそをかいていた。着ていた服はぼろぼろで、体にも傷があったので無理やり連れ帰り、何とか手当てをしたときのこと。それまで警戒心を剥き出しにしていた彼女が感謝の言葉とともに口にしたのが、この約束だった。
そのときは冗談半分に受け取り、そんな大それたことはしなくていいと断った。だからこそ、今まで忘れていたのだけれども。
「奇跡の力を使えば、死者を蘇らせることもできるの」
「だったら……!」
「そうね。それが正しいことだと、あなたが思うのなら。でも……それを決めるのは、オレガノを見つけてからのほうがいいわ」
アンゼリカのその言い回しに、ディルは違和感を覚えた。曖昧な感覚にこれといった理由はないけれど、心がざわつく。
「アンゼリカ……?」
彼女に手を伸ばした瞬間、ドォンと、大砲でも打ったような音が響いた。「っ!?」
ぐらりと揺れた床、ディルはとっさにアンゼリカを引き寄せて腕の中に抱え込む。メキメキと木が裂けるような音、その場でバランスを崩して尻餅をついた。「な、今度はなんだよ!?」
何も見えないけれど、してはいけないことだけはわかる。腕に力を入れたところで、何かにぐんと手を引っ張られた。「いだだだだあ!?」
握っていた紐が物凄い力で手を締め付けている! ディルはたまらず立ち上がり、揺れの収まった床を引きずられるように駆け出した。
「だけど、あたしはやっぱり……あなたを――」
ぴんと張った紐。
この先にいるのはエルダーだ。
先ほどの音といい、何かあったに違いない。
がむしゃらに走っていると、紐の締め付けが緩くなった途端に足場がなくなった。「うわっ!?」
浮遊感。どこから着地したのかよくわからないままドスンと落ち、横向きにごろんと転がると、目の前がぐわんぐわんと回っているような感覚に襲われた。「ディル!」
アンゼリカの光が舞う。起き上がって何回かまばたきをすると、あたりの様子がわかるようになってきた。
ディルがいたのは地下室だった。もうもうと埃の立つ周囲には木片が散らばっており、頭上には大きな穴がぽっかり空いている。
「ディル、頭は打っていない!?」
「あ、ああ、うん」
宙に浮かぶアンゼリカの様子をざっと見て怪我がないことを確認する。
「一体、何が起こったの? 霧が晴れているわ」
「そうだ、エルダー! エルダー!?」
きょろきょろとあたりを見回せば、少し離れたところに彼は立っていた。杖を手に、視線を下のほうに向けている。
どういうわけか抜けてしまった床ごとここに落ちたのだろう、エルダーに括り付けていた紐が急に引っ張られた理由はきっとそれに違いない。もう一度声を掛けようとして、ディルは固まった。
収まってきた埃の向こうに、片手で頭を押さえて座り込む人影を見つけたからだ。エルダーのそばにしゃがんだその人の額から、つうっと真っ赤な血が流れる。
エルダーが見下ろしていたのは、オレガノその人だった。