33.少年少女と幸福の影
マジョラムがいなくなった前日、アンゼリカの傷を魔法で治した日の夜のことだ。
誰もが寝静まった頃にふと起き上がったエルダーは、カーテンの隙間から覗く絶景に目を奪われた。
夢の続きみたいにあたりを覆っていた霧が晴れている。頭は妙に冴えていて、青白い光に照らされた世界は透き通って見えた。
エルダーはもちろん家を抜け出して――そこでまさか、天使の少女に遭遇するとは思わなかったけれど。
「この場所はおかしいの」
いやに真剣な顔をして話があると言ったアンゼリカは、その場で小さく震えていた。ピャーチと比べてここは気温が低いし、そもそも彼女は薄着だから、まあ道理だろう。天使が風邪を引くものかどうかはわからなかったけれど、こじらせでもしたら出発が遅れることは間違いない。エルダーは魔法を使って炎を呼び出した。
暖を取るように手招く。
「おかしいって、どんなふうに?」
アンゼリカと二人、火を囲んで会話するというのは確かに妙な感じだけれども。ディルはぐっすり眠っているようだったから、起こさなくてもいいということだろうか。
「まずはエルダー、あなたのことよ」
「えっ、僕?」
なんて悠長に構えていたら、急に渦中の人となってぽかんとした。
「あなたはここにきて六日間も眠っていたわけだけど、それを不思議には思わなかったの? 人間って、そんなに飲まず食わずで生きていられるものではないでしょう?」
すっきりした頭で思い返してみれば、アンゼリカの主張が正しいことは明らかだった。
長い夢を見ていたせいで眠っていたという感覚が希薄だし、目が覚めたときもちょっとおなかが空いているかなあくらいだったので、大して気にしていなかったのだ。昼間はどうしようもなく眠たくて、それどころではなかったというのもあるけれど。
「それに、あの霧。今は出ていないけど、四十日以上も続いているらしいの」
「へえ、そんなに? それはすごいね」
「すごいんじゃなくて、異常なのよ」
「異常?」
アンゼリカの空色の瞳が試すようにエルダーを見つめた。
それはまさか、つまり、あれだろうか。夢の中の世界でエルダーが考えていたのと、同じような。
「……魔力が働いているってこと?」
「ええ」
きっぱり言い切られて、エルダーは笑い出したくなった。
面白い、面白いじゃないか。そんなのは完全に盲点だ!
「でも、魔力って何の? 理由は?」
わくわくしながら口にしたところで、アンゼリカに魔法を使ったときのことを思い出す。あのときの彼女は何か聞きたそうにしていたはずだ。
オレガノがやってきてから部屋を締め出されてしまったので、うやむやになっていたけれど。
「ああ、そっか! 君は僕が霧をかけていると考えていたんだね。僕が魔法使いだから」
「それだけじゃないけど……あなたじゃないのよね?」
こっくりうなずいた。そんな覚えはさっぱりない。
それを見たアンゼリカは難しい顔をして「そうよね……」とこぼした。
「ねえ、それじゃあさ、あの霧って何の仕業だったのかな。ツノオオカミっていう魔物とか?」
「……いいえ。もっと厄介なものよ」
もっと厄介なもの?
アンゼリカにはそれが何かわかっているのだろうか。エルダーは目をしばたいて言葉の続きを待った。
「先に聞いておくけど、あなたはグルンに帰りたいのよね? 目的はディルと同じはずよね?」
「うん? うん、そうだよ」
アンゼリカの話は相変わらず回りくどい。ディルの目的なんか知らないから厳密には違うのかもしれないけれど、そんなことを指摘したらそれこそ厄介ごとになりかねないので、当たり障りなく同意しておいた。
すると彼女は声をひそめて「それなら」とつぶやいた。
「それなら、あの子を止めて。オレガノという、あの少女を」
*
膨大な魔力が周囲に巡り始める。
見せかけの世界が動き出す。
オレガノが叫んだ瞬間、家の中に濃霧が発生した。あっという間に視界を奪われたと思ったら、エルダーの体がぐらりと傾く。
ディルはとっさにそれを支えた。
「おい、エルダー!? どうしたんだよ、なんだよこれ!」
「ディル、気を付けて! これが彼女の魔法よ!」
「アンゼリカ? どこに……!」
「エルダーは役に立たないわ! 魔力を吸収されているの!」
霧の向こうから聞こえる声が遠い。あんなに近くにいたのに、ディルはアンゼリカのことを見失っていた。
オレガノの姿もなく、言い知れぬ焦燥感に駆られて指先に力を込めると、エルダーが小さくうめいた。
「エルダー? 大丈夫か!?」
「ああ……、そういう……ことか……」
独りごちたエルダーは、虚空を睨むように目を細めていた。ぐったりしているものの、意識はあるようだ。
ディルは膝をかがめて、カーペットの上にエルダーを座らせた。それからバックパックを下ろすと、背もたれ代わりに置いてやる。
「これは……まりょ……く、……そく、だ……」
「……魔力、不足?」
こぼれたつぶやきを確かめるように繰り返せば、彼はわずかにうなずいた。
魔力不足。それは魔法使いに特有の現象だと聞いたことがある。
彼らが各個人で持っている魔力以上の力を行使したとき、その枯渇によって体に変調をきたすらしいのだ。代表的なものだと過剰な眠気や体の気怠さ、ひどいときは発熱や頭痛などの症状が現れ、多くの魔法使いが苦しめられるという。
エルダーについては魔力を吸収されているとのことだけれども、量が減っているという点に変わりはないはずだ。
そうか。そういう、ことか。
「……何を言っているのか、わからないけど。わたしたちのことなんか、放っておけばよかったのに」
どこかから声がした。少し低いこの声は、オレガノのものだ。
「そっちこそ何を言っているの!? 先に巻き込んだのはあなたのほうじゃない! こうなることはわかっていたはずよ、偶然見つけたエルダーの魔力を使ってそれを先延ばしにしていただけでしょう!?」
「……っ! わけのわからないことを言わないで」
見えないところで言い争うアンゼリカとオレガノ。
ディルはとにかく彼女たちと合流するためにあたりを見回して――「うわっ!?」腰を抜かした。
それに驚いたのか、エルダーがのろのろ顔を上げる。
影だ。
二人の前にいたのは、ぼんやり浮かんだ人影だった。
「ごめんなさいね、こんなことになって。あの子ったら強情で」
身構える間もなかった。影の発した美しい声に、ディルは衝撃を受ける。「その声、マジョラムさん!?」
ディルの言葉が聞こえたのか、霧の向こうのオレガノが反応した。「お姉ちゃん!? そこにいるの!?」
「君がいるってことは……ここは……」
「そうね。早く起きないといけない場所ね」
さも当然といった調子でやり取りを交わすエルダーと影の姿に、ディルは弱りきっておろおろするばかりだ。「どういうことだよ……? なんだよこれ、オレもう、意味が……」
多くのことが一度に起こりすぎて、心の中を素手でかき乱されたような、表現しがたい思いにめまいがしそうだった。
説明を求めるようにエルダーを見やったところで、はっとする。魔力不足を起こしているはずの彼は、それでも杖を頼りに踏ん張ろうとしていた。
ああ、と思う。エルダーは魔法使いで、なんでもできて、誰から見たってすごい存在だけれども。彼はそれと同時に、ディルと変わりないたった一人の少年だから。
ディルは注意深く立ち上がると、エルダーを背に庇う形で、得体の知れない影と向き合った。
まずは呼吸だ。剣を習っていたときに叩き込まれた呼吸法。それはどんな状況においても、ディルのやるべきことを明らかにしてくれる。
ゆっくり息を吐き出して、じっくり吸い込んだ。
「教えてください。あなたは……マジョラムさん、なんですか?」
震えを抑え切れなかった問いの中に、一縷だって望みがあったわけではない。そこにいるものが何なのか、ディルなりに理解しようと考えただけだ。
しかし。
「そうねえ、大雑把に言うとそうなるのかしらね?」
彼女の声でそんなことを言われたら、めまいどころの話ではなくなってしまう。こればっかりは反射みたいなものだから、ディルにはどうすることもできなかった。
返答に詰まっていると、影がくすくす笑った。
「ああ、それとも全然違うのかしら? 私は彼女の欠片だから……そうね、彼女そのものではないのよ」
「……そのものでは、ない?」
からかうような声音に怪訝な顔をして尋ねれば、影はうなずいたように見えた。
「だって、死者がこうして語ることなんかないでしょう?」
ディルは思わず押し黙った。ただの確認作業だったはずなのに、あまりにもあけっぴろげなその言い回しに言葉が出てこない。
わかっていたことなのに。花の高台を下りたときにはもう、わかっていたこと。
握り込んだ拳の中で、ピンク色の花の茎が折れた気がした。
影がふっと笑う。
「いいのよ。こんなことを言うのは野暮だけど、彼女の生涯は幸せなものだったんだから。気を遣うことはないわ」
「お姉ちゃん、どこにいるの!?」
霧の世界をつんざくように、オレガノの悲痛な声が響いた。ディルは口を開いて、うつむきがちに一度閉じる。
「……返事、しないんですか?」
聞きたいことは他にもあったはずなのに、ディルは意図的にそれを避けていた。
先ほどからオレガノのことを取り合おうとしない影は、ちょうど首を横に振るように揺らいで、ぽつりと返す。
「私は待つことしかできないの。そういうものだから」
不可思議な違和感の正体を掴めないまま、ディルは表情を歪めた。
絞り出すような声でつぶやく。「そんなの……」
「そんなの、マジョラムさんもオレガノさんも、かわいそうだ」
涙が滲みかけたところで、霧の向こうから小さな光がひゅんと飛んできた。
アンゼリカだ。ようやくこちらを見つけることができたらしい。
「ディル! エルダーもいるわね!」
光の粒を撒きながらディルのそばに降り立つと、素早くあたりを窺い、影の存在に気が付いて鋭く睨み上げる。
「あなたね!? さっきからディルを惑わせているのは!」
「あら。君がさっきからあの子を叱ってくれている女の子?」
「そうよ! あなた、どうしてまだ残っているのよ!」
今にも噛み付きそうな勢いのアンゼリカをディルは片手でとどめた。
袖口で目元を拭うと顔を上げる。アンゼリカのいる今なら、聞きたいことを聞く勇気が、少しだけある気がしたから。
「……マジョラムさんは何故、亡くなってしまったんですか? まさか、本当に、テグ男爵が言っていたような理由で……?」
ディルの口調は、一言一言を確かめるように慎重だった。
ごくりと息を飲んで待つ時間は長くて、重ねて何か言ってしまいたくなるけれど。
「そうだったとしたら、どうするの?」
「……え?」
「君もあの子を責めるの?」
淡々と。
否定も肯定もないその答えに、ディルはひどく動揺した。
「そんなつもりは……!」
「じゃあ、それ以外のことが原因だったら? たとえば、メドゥと言い争った結果、彼女が命を失ったのだとしたら」
「え!?」
「君はメドゥを責めるの?」
矢継ぎ早な言葉に言い淀むディル。
「大切なのは、そんなことなの?」
「でも……!」
「それは君たちの都合よ。彼女にとって、そんなことは大事ではないわ」
「ディル」
アンゼリカがディルの手を押しやって二人の間に割り込んだ。
「この霧を晴らすにはオレガノに目を覚ましてもらうしかないの。マジョラムが死んでしまったことを、認めてもらうしかないのよ」
「だけど……!」
「行きましょう? あなたの思いは正しいわ」
アンゼリカに促されたディルはしばらく口をつぐんでからその場にしゃがみ込むと、一本の紐を取り出した。その端をエルダーの手首に結び付けて、立ち上がる。
「……オレガノさんを、探してくる。エルダーはそこで休んでて」
もう一方の端を握ると、深い霧の中に踏み出した。