32.優しい記憶と夢の蓋
オレガノは疲れていた。
何だか一瞬のうちにいろいろなことが起きて、頭の中の整理がうまくできない。
燃え盛る暖炉の炎をぼんやり眺めていると、昔のことを思い出した。父と姉と三人で、テグの中心街で暮らしていたときのことだ。
心がぽかぽかしてくるような、優しい記憶。
誘われるようにまぶたを下ろした。
あのころは毎日楽しいことばかりだった。つらいことや悲しいこともきっとあったはずなのに、こうして考えてみると、すべてがその通りで良かったものみたいに思い起こされる。
町の酒場で歌い手として働いていた姉が劇団に引き抜かれ、オペラ歌手としてデビューしたときのこと。オレガノは大はしゃぎで父とともにそれを祝い、何度も舞台を観に行った。主演が決まったときは自分のことのようにうれしくて、夜も眠れないほど興奮した。舞台上できらきら輝く姉は何より誇らしかった。
それから自分が魔法使いとしての適性を見出され、イェーディーンの魔法学校に通うようになったときのこと。父も姉も心の底から喜んでくれて、そのときのくすぐったい光景はいつだってオレガノの自慢だった。イェーディーンに移り住み、新しい生活を始めると、見たこともないような知らない世界がオレガノを迎えてくれた。何もかもが面白くて夢中になった。
「オレガノさん」
椅子に座ったまま浅い眠りに就いていたオレガノは、ゆっくり目を開いた。
そこにいた赤髪の少年に一瞬だけ戸惑う。誰だろうと思ったら、先日助けた少年たちのうちの一人だった。
その肩口には天使の少女が浮かび、数歩後ろにはもう一人の少年が控えている。
オレガノはふらりと立ち上がった。
「ああ、帰っていたのね。わたし、なんだかとても、眠くて」
「マジョラムさんを見つけましたよ」
少年の言葉にはっとする。
「そうだ、お姉ちゃん! お姉ちゃんはどこに!」
「しらばっくれるのやめてください!」
ぴしゃりと言い放たれ、呆気に取られた。
頼りなくて気の弱そうな印象のある少年がいきなり語気を荒げた理由がわからない。それを探るために顔を見てまた驚いた。
どうしてこの少年は、目に涙なんか溜めているのだろう。
「オレガノさん、本当はわかってるんじゃないんですか?」
少年の拳は震えていた。見覚えのある、ピンク色の花が握られた拳だ。
どこで目にしたのかわからないけれど、オレガノはその花に嫌なものを感じた。まるで手の届かないところから嫌悪感が滲んでくる。
自然と身構えた。
「あなた、何の話をしているの?」
想像以上に刺々しい声が出た。思えば、以前もこの声で少年を怯えさせたことがある。
しかし。
「オレが言わないといけないんですか? 気付いてないんですか? どうして……!」
彼は怯まなかった。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、青い瞳は揺れているのに、決してオレガノから目を逸らそうとしない。
動揺したのはオレガノのほうだった。
言わないといけない? 気付いていない? 一体、何のことだ。
まるで責められているような気がして、それでもそうされることに覚えがないこの感覚は、この感覚だけは、知っている。
きれいで高そうな服を着た男が、充血した真っ赤な瞳でオレガノのことを睨んでいた――。
違う。
途端に呼吸が苦しくなって、オレガノは大きく息を吸い込んだ。
そんなことより、姉の居場所だ。この少年は先ほど確かに「見つけた」と言っていたはずなのに、肝心の姉の姿はどこにもない。ということはきっと、どこかに隠しているのだ。オレガノはそんなふうに考えた。
口を割る気がないのなら、他の二人に聞くしかない。まずは少年のそばに控えていた天使の少女に目を向けると、刺すような視線に何も言えなくなった。
それでは、気は進まないけれど、もう一人の少年はどうだろう。そちらを見やれば、彼はにっこり微笑んだ。
「君も魔法使いだったんだね」
穏やかな言葉に面食らう。
オレガノは彼に、自分が魔法使いであることを明かした覚えはない。むしろそれは秘密にしていたことだ。誰にも知られてはいけないと、考えて。それをどうして。
「死霊をとどまらせるなんてすごいよ」
唖然とした。
ばちりと鋭い衝撃が走ったように、何かが脳裏をよぎる。
シリョウ?
……死、霊?
「エルダー!」
「あんな魔法、簡単に使えるものじゃないよ? どうやってたんだろうね」
「そういうことじゃない! どうしてわかんないんだよ!」
涙声で怒っているような赤髪の少年と、それを受けて不思議そうに首をかしげる魔法使いの少年。
「オレガノ。あなたがやっていることは、マジョラムへの冒涜よ」
「冒涜……?」
言い合う二人の少年を置いて、天使の少女が進み出てきた。
「そうよ。あなたは彼女の魂を貶めたの」
「たま、しい……?」
頭の中で音がする。
音というより、声かもしれない。
薄暗い隅に追いやった、木箱に詰め込んだものと同じ。
それを開けてはいけないと、自分によく似た少女が振り立てる。
「あ、ああ……! い、嫌……!」
「魔法の霧は晴れたわ。あなたの視界を遮るものは何もないはずよ」
「やめて……何も言わないで。やめて……!」
目の前がちかちかとまたたく。
体の中で膨れ上がった魔力が捌け口を求めて暴れ出す。
*
その知らせを聞いたとき、真っ先に出てきた言葉は「嘘だ」だった。それを見たとき、口からこぼれたのは「どうして」という意味のないつぶやきだった。
信じていたものに裏切られたような救いようのない気持ちと、そこからまるで乖離した自分が現実を否定しているのを感じた。
元から色の白かった姉は、目を閉じている姉は、別の何かになってしまったように青白く、固く、冷えて――どうしようもないほどに、怖かった。恐ろしかった。その場にいることが、何よりも。
姉が死んだ。
わけがわからなかった。
*
メドゥスイートに非難されたオレガノはテグの町を飛び出した。
何も考えずに走って走って、気が付いたときには郊外の家にいた。長期に渡る狩猟を行うときに使っていたもので、父が他界してから随分来ていなかった場所だ。
真っ暗なその家に足を踏み入れて明かりをつけると驚いた。もっと埃っぽいかと思っていたのに、そこはまるでこまめに掃除でもされているようにきれいだったのだ。それどころか、ついさっきまで誰かがいたような気配すら感じられた。
暖炉には薪があり、オレガノはそこに火を入れた。椅子に座ると疲れが出た。そのままテーブルに突っ伏す。
悪い夢でも見ているのかと思った。
オレガノは知らなかったのだ。マジョラムから何も聞いていなかった。
わたしが、悪いのか。
お前のせいだと激しい口調で責められて、むき出しの憎しみを向けられて、無防備な心が抵抗もできずにおかしくなっていくのがわかった。
姉の苦労も知らず、彼女が笑って送り出してくれることに甘えて、自分だけ毎日楽しくて。顧みなかったわたしが、悪いのか……。
「違う……」
わたしは、悪くない。
わたしだけが悪いわけじゃない。
そんなふうに言われるくらいなら、魔法の力なんていらなかった。こんな気持ちになるのなら、そんなもの必要なかった。学校なんて行かなかったのに。
途端に何もかもが憎らしくなって、自分が自分であることに耐えられなくなった。だって、そんなことは認められない。
「違うよ……お姉ちゃんは……」
世界で一番大切だった姉の、死の原因が、
「わたしのせいじゃ……」
自分だなんて。
どうしてそんなところにいたのか、もはや覚えていないけれど。
地下室にいたオレガノは、目の前の床をぼんやり見下ろしていた。
いくつもの真新しい傷。
曲線や直線が織り成す模様に、無意識のうちに手を伸ばした。
――指先が触れて、わかった。
オレガノはありったけの魔力を、そこに注ぎ込んだ。