31.歪んだ視界と悲しみの亡骸
夜風に揺れる花々がディルをせせら笑う。
アンゼリカの話を聞いていたら、あまりにも滑稽で、惨めで情けなくて、恨めしい気持ちが心をいっぱいにした。
打ちひしがれるディルの背後で、静かな足音が響く。反射的に振り返ると、細身でこぎれいな男が一人、従者らしき男を従えて高台にやってきたところだった。
その手には、ピンク色の花。
「おや、先客がいるじゃないか」
声を掛けられても返事をする気力がない。ディルはただぼうっと、その姿を眺めるばかりだ。
着ている服はそれなりのものだろう。少なくともそのあたりにいる平民が着るような質のものではなく、帽子やスカーフなど隅々まで上等にしつらえられている。細かな金糸の刺繍がいかにもだ。
予感めいたものがどくりと脈打った。
「マジョラムに会いに来てくれたのかい」
力無い微笑みに、ディルは言葉が出なかった。
現れた男は見るからに貴族だった。そして、話に聞いた限りでは、この町に暮らしている貴族らしい貴族はテグ男爵しかいない。
それに、こんな夜更けにこんな場所を訪れている時点で、その正体はおおよそわかるというものだ。
「やあ。初めまして、テグ男爵?」
呆けていると、となりのエルダーが貴族然とした男に笑いかけた。
その口調に、付き従っていたほうの男が眉をひそめて一歩踏み出す。
「おい、そこの子供。口の利き方に気を付けろ」
「よせ、オウギ。彼女の前で騒ぎ立てたくない」
「……かしこまりました」
男に制され、従者は下がった。
ディルはのろのろ立ち上がると男に軽く会釈する。
「申し遅れました、オレはディルと言います。こちらはエルダーとアンゼリカです」
「おお、めずらしい。こんな日に天使を拝めるなんて……」
ディルの陰に隠れていたアンゼリカの姿を不躾に眺め入る男。ディルがそれをただじっと見据えていると、彼はやがて気が付いたようにはたとした。
丁寧な仕草で帽子を脱いで会釈を返す。
「こちらこそ名乗りもせずに失礼したね。私はメドゥスイート……エルダーくんの言う通り、テグ男爵と呼ばれている者だよ」
穏やかなその肯定に、ディルは肩透かしを食らった。もっと下卑た、悪者っぽい男を想像していたのに……。
いや、見た目だけでは判断できないこともある。
揺れかけた気持ちを立て直し、返すべき言葉を選んだ。
「……オレたち、マジョラムさんを探すために町に来たんです。妹のオレガノさんと、とてもお世話になったので」
もはや何を信じていいのかわからないし、頭の中ではぐるぐるといろんなことが回っており、余裕なんてこれっぽっちもなかったけれど。
それでもディルには、手元にある情報を一つ一つ確かめることしかできないから。
しかし、相手の反応を見るためにディルが切ったカードは、想像以上の効果を発揮した。
メドゥスイートが急に顔色を変えたのだ。
「彼女の妹を知っているのか!? 教えてほしい、あの子は今どこにいる!?」
「え……!?」
痛いくらいの力で肩を掴まれて、ディルは狼狽えた。
「は、離してください……!」
「教えてくれ、頼む! あの子は!」
「……っ離せ! 聞きたいことがあるのはこっちのほうだ!!」
「!」
大声に怯んだメドゥスイートの指先から少しだけ力が抜ける。その隙に手を払って一歩距離を取ると、彼の腕はだらりと垂れ下がった。
「お前が……! お前がマジョラムさんを付け回して連れ去って、屋敷に閉じ込めてたんじゃなかったのかよ……!」
いっそ、そうであってほしかった。
そのほうが何倍も良かった。
賑やかだし、家族が増えたみたいでうれしい。
そう言って笑ったマジョラムのことを思うと、心がぎゅうと締め付けられる。
「どうして……!」
花の高台にあったのは、マジョラムの名前が彫られた墓標だった。
そういったものは一日二日で建てられるものではないし、それに何より、彼女はさっきまでそばにいた。ディルの目の前に、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに、いたはずなのに。
何が起こっているのかわからず混乱したディルは、広がる景色をすべて否定した。こんなものは嘘っぱちだと。マジョラムを探しに来た人間を追い返すために誰かが用意した、この上なくおぞましい仕掛けなのだと。
花の中に座り込んで、必死で前後を繋ごうとした。
それなのに。
「あれは……本来そこにあってはならない死者の魂、つまり死霊だった。それをあの場にとどめていたのが、例の霧なの」
淡々としたアンゼリカの言葉に、ディルの仮説を許すような隙はなかった。
ディルはそのとき、ここにやってきてから過ごした日々を馬鹿にされたような、ひどい気持ちに襲われた。何かに騙されたような、悔しくて恥ずかしくて空しい思いが膨らんで、どうしても抑えることができない。
どこを探したっているわけがない相手を絶対に見つけると意気込んで、こんなところに辿り着くなんて。
目を見開いたメドゥスイートの表情が悲しみに歪んでいく。ぐにゃりと視界が滲んだ。
「落ち着いて、ディル」
「でも……!」
「見失わないで」
アンゼリカの光が降ってくる。それはディルを勇気付け、正しい方向へと導いてくれる天使の輝きだ。
ディルはばっと首を横に振った。
そんなものはいらない。そんなものはいらないから、メドゥスイートを悪として糾弾させてほしかった。
「すまない。本当にすまない。すまない……」
聞こえてきたかすれ声に、ディルは奥歯を噛み締めた。
*
白い墓標にピンク色の花が捧げられている。
メドゥスイートは膝を折り、静かに瞳を閉じていた。
マジョラムが命を失ったのはひと月以上も前のことだった。
テグ一番のオペラ歌手として脚光を浴びていた彼女はある日、階段で足を踏み外して転落した。
原因はわからない。とにかくそれはあまりに唐突で、そして悲しい事故だった。
彼女の突然の訃報は瞬く間に町を駆け巡り、ちょっとした騒動になったらしい。
マジョラムのパトロンだったメドゥスイートはそれまで確かに彼女に付きまとい、テグの町にあった彼女の自宅を勝手に訪れたこともあったそうだ。何度となく屋敷に招こうとしては遠回りに断られ、それでもどうしても諦められなかった。
盲目だったと、うなだれていた。
「その頃、町は彼女の話題で持ちきりだった。彼女の死因について、無責任で様々な憶測が飛び交っていたんだ」
劇団の花形だった彼女を妬んで誰かが仕組んだものとか、メドゥスイートとの痴情のもつれが引き金だろうとか、陰湿で粘着質なファンの仕業、過労死、はたまた自殺説など。
メドゥスイートにはそのとき、それらの噂を押しやる気力がなかった。
「私はね、あろうことか、彼女の妹を責めてしまったんだよ」
立ち上がったメドゥスイートは墓標から目を離さないまま、ぽつりとこぼした。
「……マジョラムには振り向いてもらえなかったけれど、付き合い自体はそれなりだったと思う。私はパトロンとして、彼女にできる限りの援助をしていた」
マジョラムはオペラ歌手として休みなく舞台に立ち続け、贅沢などはせず、慎ましやかに暮らしていた。それゆえに、メドゥスイートはてっきり、彼女は何か積立が必要なほど高価なものが欲しいのだと思っていたらしい。
「だから、言ったんだ。欲しいものがあるなら何でも用意する、と」
しかし、マジョラムは何も求めなかった。
休息を取るよう言っても聞き入れない彼女は、メドゥスイートからすると少し異常に感じられたようだ。
そして、彼女は亡くなった。それを伝えるべき肉親がいないかどうか調べたところで、メドゥスイートはついに、マジョラムが何のために身を粉にしていたのか思い至ったのだ。
それが真実かどうか熟考する前に、彼の頭は真っ白になった。
「彼女の妹がイェーディーンの魔法学校に通っていることを知ったとき、その学費がとんでもない額だと気付いたときにはもう、私はそれ以外のことを考えられなくなっていたんだ」
悲しみに捕らわれ、呼び出したマジョラムの妹を衝動のままに責めた。お前が身の丈に合わないことをしたから、わきまえないから、マジョラムは犠牲になったのだと。激しく非難した。
姉の死を前に涙の一つも流さない少女が、メドゥスイートの目には悪しきもののように映ったのだ。
その翌日に少女は町から姿を消し、数日経って、メドゥスイートは己の言動を後悔した。
会って謝りたいと、震える声で言った。
ディルはそれを、やるせない気持ちで聞いていた。