30.町と女と花と石
日が暮れたとはいえ、まだ眠るには早い時間。エルダーの魔法で火を灯しながら、三人はごつごつした坂道を下っていた。
マジョラムとオレガノの家は崖の上にあり、周囲は岩肌ばかりで急な斜面しか見当たらなかったけれど、空気が乾いているおかげか視界は良好だった。
焦る気持ちを抑えて、ディルは一歩一歩足場を確かめながら進んだ。
獣の遠吠えが聞こえる中、ツノオオカミにも気を付けて歩くことおよそ半刻。
マジョラムらしき人影を見ることはないまま、三人揃ってなだらかな道まで降りてきた。
民家が点々としている通りを行けば、もうすぐ町に着きそうだ。
「アンゼリカ。一つ、頼みたいことがあるんだけど」
それまでディルの少し前を飛んで安全確認を行っていたアンゼリカがちらりと振り返る。「何?」
「……空から、大きな屋敷を探してほしいんだ」
これまでにないくらいひやひやしつつ、一息に言い切った。
妙な動悸を鎮めるように努めて平静を装う。どうだろう、彼女の反応は。
「テグ男爵の屋敷ね。わかったわ」
「……! あ、ありがとう!」
アンゼリカが微笑してうなずいたのを見てディルはほっとした。
彼女はさっきから様子がおかしかったので、もしかしたらこの頼みに難色を示すかもしれないと思ったのだ。
流れ星のようにきらりと輝く光が夜空に昇っていく。
「絶対に見つけなくちゃ……」
マジョラムの笑顔が脳裏に蘇る。
ディルは早足で町に向かった。
テグはそれなりに栄えている町だった。
石で舗装された大きい通りがいくつもあり、街灯は明るく、人の往来も想像していたよりはるかに多い。
ずらりと軒を並べた店もまだ開いており、酒場などが盛り上がっているようだ。あちこちから騒がしい声が聞こえてくる。
大通りを進んだ先には広場があり、小さな劇場があった。
空から舞い戻ってきたアンゼリカが言うには、町一番の屋敷はこの広場を抜けた先にあるそうだ。馬車が通れるように広い道がまっすぐ伸びているので辿り着くのは簡単らしい。
目立たないようにこそこそ広場を横切っていると、ディルの肩がとんと叩かれた。
「ちょっと、あなたたち。子供がこんな時間に出歩くものじゃないわよ」
そこにいたのは派手な化粧を施した女だった。薄橙色の髪に、腰の絞られた細いシルエットのロングドレス。
ディルは驚いて口を開いた。
「ええと、その。人を探しているだけですから」
頭が真っ白になってそのままのことを話すと、女も目をぱちくりした。
「人? どんな? もう遅いんだし、明日にしたら?」
「いえ、その。マジョラムという名前の女性なんですけど、急がなくちゃいけなくて」
「マジョラム? マジョラムって、あのマジョラムのこと?」
「えっ、知ってるんですか!?」
予想外の反応に思わず食い付いた。
ディルが女に向き直ると、エルダーも無言でそれにならう。
「知ってるも何も、超有名人じゃない。なあに、あなたたちマジョラムの追っかけ?」
「違います! そういうのじゃなくて、お世話になった人だから探してるんです」
「ふうん? まあいいけど。探したって見つからないわよ」
女は胡乱な目をしてディルたちのことを眺めていた。そういう視線は何より苦手だけれども、彼女を貴重な情報源と踏んだディルは怯まず続ける。
「どうしてですか? やっぱり、テグ男爵の屋敷に閉じ込められているんですか?」
その言葉に女の片眉がぴくりと上がった。
「なんだ、そこまで知っているのね。それならわかると思うけど。それでも探すの?」
「もちろんです。オレたちはマジョラムさんを助けたいんです!」
腹の探り合いじみた会話にやきもきしてきたディルは思い切ってばっと頭を下げた。
「お願いします、知っていることがあるなら教えてください!」
一人で目覚めたときからずっと優しくしてくれたマジョラム。
ついさっきまでそばにいて、落ち込んでいたところを励ましてくれた。
独特な間合いに緊張をほぐされ、温かい言葉で不安だった気持ちがどれだけやわらいだことか。
ディルは間違いなく救われたのだ。あの美しいひとに。
だから、恩返しをしたいと思った。もらったものに見合う何かを返したかった。そうしなければ、彼女に向き合うこともままならないから。
女がつとため息を吐く。
「こんな男の子まで虜にするなんて、マジョラムってば罪作りな女だわね――そんなに言うなら、いいわ。少し待っていなさい」
ぱっと顔を上げると、女は広場の奥に歩いていくところだった。
息を吐いてそれを見送ったディルは、エルダーが全然別の場所を向いていることに気が付いた。何を見ているのかと思ったら、劇場のそばに置かれた看板に一枚のポスターが貼られている。
公演中のオペラの広告だろうか。月夜の花畑を背景に、橙色の髪の男と緑色の髪の女が切なげに見つめ合っている。雰囲気からしてジャンルはロマンスだろうけれど……。
横目に窺ったエルダーは、普段と変わらない、何を考えているのかわからない微笑を口元に浮かべているだけだった。
しばらくして戻ってきた女の手には花があった。枝分かれした茎の先にピンク色の小さな花がいくつも咲いている。
「誰かに会ったら『この花を捧げたいひとがいます』と言えば、みんな教えてくれるから」
ディルに花を手渡した女は、劇場の横にある細い路地を指差した。
「? 男爵の屋敷はそっちじゃなかったような」
「だけど、マジョラムがいるのはあっちだから」
あでやかに微笑まれて自然とうなずく。
「あの……親切に、ありがとうございます。あなたは何者なんですか?」
「何者って大袈裟ね、マジョラムの仕事仲間よ。彼女に会ったらよろしく言っておいて」
そう言って立ち去ろうとした女が、ふと歩みを止めて振り返った。
「ねえ、一つだけ勘違いしないでね。マジョラムは今も幸せだってこと、覚えておいて」
不可解な言葉を残して女は姿を消した。
ディルの手の中でピンク色の花が揺れている。
「なあ、アンゼリカ。さっきの、どういう意味だったんだろうな?」
「そうね、よくわからなかったわね」
「だよなあ……」
女に示された細い道は大通りと違って舗装されておらず、剥き出しの乾いた大地を踏みしめて進むと、明かりのついた家々をいくつか通り過ぎた。
やがて道が二手に分かれ、先頭を歩いていたディルは首をひねる。
「どっちだ?」
右の道も左の道も同じような路地だ。しかし、こんなところで選択を間違えて時間を取られるわけにはいかない。
こちらも二手に分かれるべきか……。
そんなふうに悩んでいると、そばにあった家の窓から初老の男が顔を出した。
「やあ、こんな時間にどうしたい。迷子かね」
「え? あ、ええと……」
とっさのことに戸惑うディル。
斜め後ろからすっと動いたのはエルダーだった。
ディルが手にしていたピンク色の花を抜き取り、男にそっと近付ける。
「この花をね、捧げたいひとがいるんだ」
それを聞いた男は目を見開いて、ゆっくり微笑んだ。「あちらだよ」と右の道を示す姿がどこか気味悪く感じられて、ディルは思わず眉をひそめる。
さっきから、この違和感は何だ?
「足元に気を付けてお行き」
「ありがとう」
男に微笑み返したエルダーがディルの手元に花を戻した。
そんなことを幾度か繰り返していくうちに道は上り坂になり、民家が少なくなって、魔法の明かりと月の光だけが頼りになった。
町に着いてから一時間ほど経っている。マジョラムはまだ見つからない。
「本当にこの先にいるのか……?」
「あの人たちから悪い感じはしなかったわ。信用してもいいはずよ」
「そう、なのかな……」
妙な胸騒ぎに、ディルは来た道をちょっと振り返った。
真っ暗な空には粉砂糖をまぶしたような星々が瞬いている。かなり見晴らしのいいところまでやってきたようで、目を凝らせば、遠くの崖の上にマジョラムとオレガノの家が見えた。ひょっとすると、あちら側からも同じように見えているのかもしれない。
冷たい風が吹き上がる。漠然とした不安を断ち切るようにディルは前を向いた。
*
アンゼリカは彼に言えなかったことがある。
それは彼のためなのか、あるいは彼女のためだったのか、今もわからないけれど。
結果として見つけたものを彼がどうするのか、見定めなければならないことに変わりはなかった。
*
「なんだ、ここ……」
ディルは茫然としながらつぶやいた。
女に渡されたものと同じ花が、視界いっぱいに咲き誇っている。
行く先々で助言を受けながら辿り着いた場所は、町から離れた高台だった。
喧騒は遠く、青白い光があたり一帯にまんべんなく降り注いでいる。空気も大地も乾いているというのに、瑞々しい花はさわさわと揺れ、清々しい芳香が漂う様はまさに幻想的だった。
「あれは……白い、石?」
そんな中でディルの目を一際引いたのが、花々に埋もれるように立つ、真っ白な石だ。
大理石にも似た、縦に長い石。奥行きはそれほどなく、文字らしきものが彫られているところを見ると石碑のようでもある。
どうしてこんなところに、いや、それよりもまず、これは何だ?
立ち尽くすディルの足は竦んでいた。まるでその場に縫い付けられたように動けなくて、そんなはずはないと、首を横に振る。
「どこかに……そう、ここのどこかに、隠し通路とかがあるんだ。きっと、その先にマジョラムさんはいるんだ」
つぶやくディルのとなりで、エルダーが花畑の中に足を踏み出した。
白い石の前で屈み込む。
「マジョラムの名前が書いてある」
「……!」
「この下にいるってこと? 動かせばいいの?」
杖を振ろうとしたエルダーに後ろから飛び付いた。
「やめろっ!」
「うわあ」
二人して花の中に倒れ込む。
衝撃で散った鮮やかなピンクが、どうしようもなく美しかった。
「ディル」
ふわりとかがよった光。
悲しげな表情のアンゼリカに覗き込まれて、ディルは彼女が何を知っていたのか、悟った。