29.霧の世界と少年少女11
しなやかな指で頭を撫でられるのが好きだった。きれいな声で褒められるとうれしくて、得意で仕方なかった。
父について狩りを学んでいたころ、初めて仕留めた獲物を鍋にしてくれたときのことは一生忘れないと思う。温かくて、優しくて、心がいっぱいになるような……どんな美食も、あの味にはかなわないだろうから。
オレガノにとってマジョラムは母のような存在で、他の誰より大好きで、一番大切な姉だった。
父を亡くしたときも、荒れ果てたオレガノの心を守ってくれたのはマジョラムだった。ツノオオカミに殺された父を弔い、命とはそういうものだと言って、泣きじゃくるオレガノを抱きしめてくれた。
姉はいつでも美しかった。その姿も、魂も。
それぞれ成長し、離れて暮らし始めた二人は互いに手紙を送り合った。なんでもない日常を、他愛ないおしゃべりでもするかのように、何度も。
そんな姉からの手紙が途絶えたのは、つい最近のことだった。
*
薪の爆ぜる音ががらんとした大部屋に響く。
オレガノはその場で立ち尽くし、アンゼリカに襟首を掴まれたディルはそれを振り払おうと躍起になっていた。
「待って、ディル!」
「でも、さっきまでそこにいたのにおかしいだろ!?」
「まずは部屋を確認しましょうったら!」
引きずられるようにして家の中に戻されたディルは、片っ端から部屋の扉を開けていった。何をそんなに焦っているのかと思いつつエルダーも屋内に入り、空いていたテーブルの上にツノオオカミの肉を下ろす。
振り向いた先、玄関から動こうとしないオレガノに首をかしげた。
「どうしたの?」
声を掛けても反応がない。近付いてみると、彼女はかすかに震えていた。
「あいつだ……」
「え?」
「あいつが、お姉ちゃんを連れていったんだ……!」
静かに、しかし確かに激昂したオレガノに、地下室の扉を開けていたディルがびっくりして体勢を崩す。それを支えたアンゼリカがオレガノを睨み付けた。
「何を言っているの?」
「お姉ちゃんは町の人間に付け回されていたの! 霧が出てる間は大丈夫だと思ったのに、油断した……!」
激しい剣幕とともに家の中に足を踏み入れたオレガノは、そのまま部屋をうろついてぶつぶつと独り言をつぶやき始める。「どこに連れていったの?」「やっぱり町?」「それとも別のどこか……?」
床にへたり込んだディルはそんなオレガノを見上げて呆然としており、となりのアンゼリカは先ほどから険しい表情を崩さない。エルダーは状況を掴めないまま、歩き回るオレガノを眺めていた。
とりあえず、マジョラムはどこにもいなかったのだろうか。部屋の扉がすべて開け放たれていることを確かめると、ディルを退けて地下室に顔を出した。
魔法で明かりを呼び出して降りてみる。
地下室は非常に寒かった。食料の詰まった木箱がいくつか置かれているくらいで、マジョラムの姿はおろか抜け道らしきものもない。
「エルダー、マジョラムさんは……?」
「いないみたいだね」
地上から声を掛けてきたディルに答えると、地下室の奥に一つだけ分けて置かれていた木箱が目についた。なんとなく気になったので中身を確かめたところ、その箱だけ食料が入っていないことがわかった。
代わりにしまわれていたのは小難しそうな分厚い本や紙束、乾燥したインクの残っている壺、ペンなどの筆記具だった。それらがちょうど収まりそうな大きさの革の鞄も無造作に放り込まれている。
それからふと、まわりの床に線のような傷があることに気が付いた。木箱を引いたときにできたものだろうか、曲線や直線が入り混じってそういった模様のようにも見える。
「うーん……」
ひとまず地下室から出て明かりを消し、扉を閉めるとディルがゆっくり立ち上がった。
「マジョラムさんを……探しに行こう。きっとまだ、近くにいるはずだ」
「ディル、落ち着いて」
歩き出そうとしたディルをアンゼリカが引き止めた。白く輝く翼を明滅させた彼女は何度も首を横に振っている。
「なんでだよ。マジョラムさん、誰かに連れていかれたんだろ? 追い掛けないと……!」
「それは、その気持ちは決して間違いではないけれど。でも」
「どうしたんだよ、アンゼリカ」
「まずは――まずは、そう、状況を整理しましょう。見落としていることがあるかもしれないわ」
問答する二人を横目に、エルダーはふーん、と思った。
*
アンゼリカになだめすかされるような形で、ディルは大部屋のテーブルに着いていた。正面にエルダー、斜め前に落ち込んだ様子のオレガノが座っている。
彼女の言い分はもっともだし、ディルも少し冷静になったけれど……アンゼリカとエルダーの二人が澄ました顔をしているのが理解できなかった。人が一人いなくなってオレガノはうつむいているのに、どうしてそんなに平然としていられるのだろう。
「じゃあ、説明するけど」
早速口火を切った。
マジョラムがオレガノの言うように誰かに連れ去られたというのなら、そんなことは到底許せなかった。心優しいマジョラムがそんな目に遭っていいはずがない。
「オレガノさんとエルダーが出掛けている間、オレたちはマジョラムさんの手伝いをしながら過ごしてたんだ」
皿洗いや洗濯をして、編み物をするマジョラムと談笑して。その間、家からは一歩も出なかった。
「それで、夕食の準備を始めた。オレは食材を取ってきてほしいって頼まれたからアンゼリカと地下室に降りたんだけど、戻ったらいなくなってたんだ」
順序としては、ディルとアンゼリカが同時に場所を移動し、一瞬だけ目を離した隙にマジョラムがいなくなったということだ。
地下から呼び掛けても返事がないのを不審に思ったディルが地上に顔を出し、マジョラムの姿が見当たらないのを確認した。そのまま慌てて家を飛び出したところで帰ってきた二人に鉢合わせしたらしい。
「でも、言い争う声とかは全然聞かなかったな。無理に連れていかれたなら暴れることもあるだろうけど……不意打ちで気絶させられたのかも。エルダーは何か見てない? 人影とか」
「霧が濃かったからね。あんな状態じゃ、見えるものも見えないよ」
肩をすくめるエルダー。
彼の言う通り厄介なのは、ここ一帯に広がっている濃霧だ。誰がどこにいるのか、目の前にあるものが何なのか、すべてを不明確にさせる深い霧。
マジョラムは一人ぼっちで心細くないだろうか。今頃、泣いていたりしないだろうか。
居ても立っても居られなくて口を開いた。
「オレガノさん。さっき言ってた町の人間ってどんな人なんですか? 連れていかれた先の見当とかは?」
オレガノの視線がゆらりと持ち上がる。
「……テグ男爵、だと思う。町に屋敷があるから、そこかも……」
「え!? 男爵ってことは、貴族!?」
「……うん。半年くらい前からしつこくされていたって……そのたびにうまくかわしていたらしいんだけど……」
この生活を見るに、マジョラムはごくごく一般的な平民だ。しかし、まれに見るあの美貌である。貴族に惚れ込まれていてもおかしくはない。
「……最近は、ちょっとそれも限界にきてたみたいで。……町からここに引っ越して、なんとかしのげたらって思っていたのに」
オレガノの暗い声を聞いて、ディルは眉をひそめた。
貴族はその土地の民を守るためにいるのであって、こんなふうに彼らを苦しめるためにいていいものではない。民の見本となるべき存在であるはずなのに、誰かを無理に連れ去ったり、そんなのはまるで真逆だ。外道のやることだ。
ふつふつと煮えたぎるような思いを胸に、ディルはテーブルの下で固く拳を握った。
しかし。
「ねえ。その……、マジョラムは、本当にさらわれたのかしら?」
「え?」
となりにいたアンゼリカがひどく真面目な顔をしてディルを見つめたので、少しだけ勢いを削がれる。
「家の中にはいなかっただろ?」
「そう、だけど……」
ディルの言葉に歯切れ悪く口ごもったアンゼリカは、テーブルに視線を落として黙り込んだ。
そんな彼女に空恐ろしいものを感じて、無意識のうちに目を逸らす。
「とにかく早く探さないと。霧さえなんとかなれば……、え?」
そのまま窓の外を睨み付けたディルは、そこにあった光景に思わず立ち上がった。
「霧が……!」
晴れている。
窓際に駆け寄ると、真っ暗な空にぽっかり浮かんだ満月が煌々とあたりを照らし、遠い眼下に広がる町に明かりらしきものが点々と灯っている様子がはっきり見えた。
今しかない。ディルは玄関に移動すると勢いよく扉を開けた。
「ディル!」
「アンゼリカ、オレ、やっぱり行くよ。マジョラムさんに返さないといけないもの、たくさんあるから」
決意を固めて空色の瞳を見つめる。アンゼリカは羽織っていたケープの裾をぎゅう、と握った。
「……そう。そうよね。ディルが行くなら、あたしも行くわ」
ふわりと近くに飛んできた彼女はテーブルのオレガノを一瞥すると「あなたは残りなさい」ときっぱり言い切った。確かに、こんな状態の彼女を連れていくのはディルにもはばかられるけれど。
ぼんやりと二人を見上げたオレガノは、何も言わずにうつむいた。
「あの……。もしかしたら、うまく逃げ出したマジョラムさんが帰ってくるかもしれないですし、オレガノさんはここで待っていてください」
「……お姉ちゃんが、帰って、くる……?」
「はい。だから、男爵の方はオレたちに任せてください」
「……」
小さくうなずいたオレガノの姿は痛々しくて見ていられない。彼女のためにも早く捜索を始めなければ。
「エルダーはどうする?」
にっこり笑った魔法使いの少年は当たり前のように腰を上げた。
*
ねえ、オレガノ。お姉ちゃんがいいことを教えてあげるわ。
幼い頃、恐ろしい夢を見て飛び起きたオレガノは、いつもマジョラムにしがみ付いて泣いていた。屋根の染みが魔物の影のように見えたときも、風や雷の音に驚いて怯えていたときも、マジョラムは笑ってオレガノを抱きとめてくれた。
内緒話をするみたいにささやかれて、マジョラムのぬくもりに安心しながら、オレガノは涙を拭いてもらっていた。甘えたさんねと頭を撫でられて、おまじないのキスをされて、ようやく泣き止むくらいだった。
勇気が出ないときはね、歌うの。小さな声でもいいから、歌うのよ。
そういえば、マジョラムは昔から、歌うことが好きだった。しっとりと澄んだ声で、いつだって伸びやかに、楽しそうに歌っていた。それがとても美しかったことを、覚えている。
オレガノはそれほどうまく歌えなかったけれど、マジョラムがにこにこしているので、つられて笑顔になった。
ほら、元気になってくるでしょう?
この世界には魔法という力がある。魔力があれば誰にでも使えるもので、魔力量が特に多い者を世間では「魔法使い」と呼んだ。
マジョラムは魔法のことを素敵な力だと言っていた。困っている誰かを救うことのできる力だと。そうやって微笑まれたオレガノは、マジョラムの歌声のほうがよっぽど魔法らしいと思っていたけれど。
そんなふうに優しい姉を、守らなければならないと感じたのはいつのことだったろうか。
父を失ってしばらく経った日。狩りから帰ったオレガノが、美しい歌声につられて姉のもとを訪れたとき――その頰に伝う涙を見て、だろうか。
いつも穏やかに笑っていたマジョラム。
明るい声で話し掛けてくれる姉が、自分と同じように泣くのだと知ったとき。当然のことに、気付いたそのときに。
オレガノは彼女を守ろうと、守らなければならないのだと、誓った。
「らんらーんらら……、らんらーんらら……」
一人ぼっちの家に、オレガノの小さな歌声が響く。
がらんどうの中で、彼女は一人、歌い続けた。