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28.霧の世界と少年少女10




 小屋にあった矢筒を背負い、弓を手にしたオレガノに「あくまでついてくるだけにして。わたしの指示は絶対だから。いいね」と念を押された上で、エルダーは再び霧の世界に踏み出していた。

 目の前で揺れる鮮やかな紫髪をふらふらと追いかけながら、小屋で聞いた話をもう一度反芻する。


 ツノオオカミはこのあたりの山岳地帯に生息している四つ足の獣で、性格は極めて獰猛らしい。視界が悪くても問題なくハンティングできるほど鼻が良いため、霧の日の外出は自殺行為に等しいと言われているそうだ。

 基本的に四、五匹の群れを作っているものの、こういう日には一匹でいることがあるらしく、オレガノはそういった個体を狙って単独猟をしているとのことだった。

 特徴であるツノやキバ、ツメは品質が良ければ良いほど高値で取引され、貴族のアクセサリーとして使われるほか、煎じて飲めば妙薬にもなる代物らしい。ふわふわの毛皮は根強い人気があり、少し繊維質な肉は癖のある味で、手に入れたがる層が一定数いるようだ。

 余すところなく価値のあるツノオオカミは、オレガノのような狩人にとって、とても大切な生き物だという話だった。


 あたりには朝から変わらない濃霧が立ち込めている。

 目を凝らしたオレガノは、周囲の様子を探るようにゆっくり歩いた。獣の形跡を拾っているのだろう、ぴりぴりした空気が伝わってくる。

 エルダーもオレガノの真似をして息を潜めた。


 それにしても、ツノオオカミとは一体どんな姿をした獣なのだろう。家にあった図鑑には載っていなかったけれど、世界を旅して回っているセージなら見たことがあるだろうか。


「……止まって」


 ぼそりと低い声。

 我に返ったエルダーは、霧の向こうに影を見た。


「あれ、は……」


 音とにおいで二人に気付いたツノオオカミが襲い掛かってくる――いや、オレガノが弓を引き絞るほうが早い!


「っ!」


 放たれた矢と並走するように地を蹴った彼女は、懐から取り出した短剣を振りかぶると、それをそのままツノオオカミの体に突き立てた。

 咆哮とともに鮮血が舞い散る。身をよじってオレガノを振り払おうとしたツノオオカミは、別の短剣を二撃、三撃と浴びせられて、たまらずよろめいた。

 それを逃さず手早く縄をかけるオレガノ。あっという間に一匹の魔物モンスターを捕縛した少女は、ふうと息を吐いてその長い髪をかき上げた。


「す……ごい……!」


 息を飲んでいる間にすべて片が付いていたけれど。思わず声を上げたエルダーの目には、流れるように美しい、鮮やかな光景が焼き付いている。

 あとからあとから溢れるように震える心を何と呼べばいいのかわからないまま、エルダーは口を開いた。


「すごい、すごいね!」

「……」


 眠気なんかそっちのけで飛び跳ねるようにオレガノの元に向かうと、彼女はむっと黙り込んだ。仕留めたばかりの獣を見下ろして瞳を輝かせるエルダーは、ツノを生やした狼のような生き物に興味津々だ。「大きいねえ、本当にツノがあるんだね! これは眠っているの? 今からどうするの?」

 はしゃぐエルダーに対して、オレガノは何も答えなかった。口を一文字に引き結んだままその場にしゃがみ込むと、ツノオオカミの体を引きずり始める。「どこかに運ぶの? それなら僕が手伝ってあげるよ!」

 言うが早いか、魔法でもってツノオオカミの体を持ち上げた。それを見たオレガノがぷいと顔を背けて歩き出す。


「これからどこに行くの? このまま家に帰る?」


 前を行くオレガノの頭がふるふると左右に揺れた。違う、という意味だろう。


「……まずは川で血抜き。それから小屋で解体作業」

「へえ、っうわあ」


 もっと話をしようと思って身を乗り出したエルダーは、自分の足元がおぼつかないのを忘れてすっ転びそうになった。


「……っ」


 しかし、バランスを崩した彼がぶつかったのは冷たくて固い地面なんかではなく、まるで真逆のものだった。温かくて柔らかくて、ふわりと甘いにおいのするもの。一つだって知らないその感触にただただびっくりしていると、倒れかけたエルダーを支えていたオレガノがぐいとその体を押し戻した。


「ええと、ごめんね? ありが――」

「あなたは楽しそうだね」

「え?」


 ぽつりと降ってきた不思議な言葉に、エルダーは思わず首をかしげる。


「え、っと……うん。世界には、きれいなものがたくさんあるから。君は、そうじゃないの?」


 ゆっくりとまばたきをしながら尋ねたところで、オレガノがふっと口元を歪めた。

 泣きたいのか笑いたいのかわからないような顔をした彼女は、エルダーから目を離すと。


「……そんな、きれいなものばかりって決まっているわけじゃないよ」


 つぶやいて、先を歩き始めた。



 *



 あくびがこぼれてしまいそうになるほど、のどかな昼下がり。

 暖かい大部屋から外の景色を眺めていたディルは、出掛けていったエルダーのことを考えては落ち着かない気持ちで部屋の中をうろうろしていた。

 恐ろしい獣がいつどこから飛び出してくるかわからないのに、どんな心臓を持っていたら狩りについていこうなんて思考に至るのだろう。エルダーは魔法使いだから、いざとなったら魔法でどうとでもできるのかもしれないけれど。

 それにしたって、わざわざそんな危険な真似をする必要はないだろうに。


 それからもう一つ、ついでに言うと。


「ふんふーんふふん、ふんふーんふふん……」


 鼻歌まじりに編み物をしているマジョラムもすごすぎる。

 オレガノはツノオオカミを狩って生計を立てている狩人だし、彼女が絶望的な状況から救ってくれたときのことだって覚えているけれど……マジョラムは妹のことを心配していないのだろうか。


「ねえ、アンゼリカちゃん。その毛糸、ちくちくしたりしないわよね?」

「……ええ。だから安心して、今のうちに仕上げるといいわ」

「うふふ。その通りね」


 テーブルでアンゼリカと談笑なんかしているけれど。

 もし、ディルが同じ立場だったら、あんなふうにしてはいられないと思う。屋敷にいるあの幼い少女には、少しだって危険な目には遭ってほしくないのだから。


 しかし、木漏れ日みたいに穏やかな表情で白い毛糸を編んでいくマジョラムは、ともすれば幸福そうにも見えた。

 いや、彼女はずっとそうだったのかもしれない。素敵な言葉というものを信じ、どんなときでも不安なんて口にしない。それが決して楽観などではないということを、ディルはなぜだか知っていた。知っていたということに、その瞬間、気が付いた。


 ディルはそれまで、彼女は自分たちを気遣ってそういう態度を取ってくれているのだと思っていた。マジョラムは優しいから、否定的なことを言わないのだと。けれど、もしかしたらそれだけではなかったのかもしれない。

 だって、彼女は……悪いことを口にすれば悪いことが起こると、そうも信じているのだから。


「マジョラムさん……!」


 衝動のままに振り返って名前を呼ぶと、きょとんとされてしまった。途端に恥ずかしい気持ちが押し寄せてくる。


「あ、あの。えっと、その……」

「二人のことなら大丈夫よ」

「え……」


 何気なく浮かべられたその微笑みが寂しくて、ディルは必死に返すべき言葉を探した。


「オレガノがいるんだもの。ちゃんと帰ってくるわ」

「そ……!」


 そんなふうに笑わないでください、とは、言えなかった。

 マジョラムに報いたいディルには、彼女の信じているものを侵すことはできない。



 *



 小屋近くの川に立ち寄って血抜きをしている間、高い木に登って二人で昼食をとった。血のにおいを嗅ぎ付けたツノオオカミが獲物を狙うらしいので、そのまわりを小さな炎で囲み、近付けないようにしておく。


 目に映るものは白い世界だけれども、オレガノの狩りは面白かったし、この先にあるテグの町を想像するだけでエルダーは楽しかった。

 だって、そこには。見たことのない景色、行ったことのない場所、たくさんの知らないものが溢れているはずだから。

 セージに話したいことが、きっと。


「……あなたは」


 小さな声が聞こえたのでとなりを見ると、遠くに目を向けたままだったオレガノがエルダーを一瞥した。


「あなたは、言ったよね。魔法使いが魔法を使うことは、魚が泳ぐのと同じことだって。だけど、そうするべきじゃなかったって思ったことは、一度もないの?」


 ふっと、その瞳に怒気を宿したクマのような男の顔が、エルダーの脳裏に蘇った。オレガノの言葉でどうしてそんなことを思い出したのか、エルダーにはそのわけがわからない。

 ただ、あのとき感じた不快感が再び吹き出してきて、気持ちが悪かった。


 それまで明るいもので満たされていた心がそんな質問一つで揺らいでしまうなんて理不尽だ。言葉にできないもやもやしたものに翻弄されるなんてまっぴらだった。


「わか、らない。僕は……魔法使いだから。魔法がない世界なんて、わからないよ」


 今のエルダーにとって精一杯の答えを吐き出すと、はっとした様子のオレガノが「あ……」と小さな声を漏らす。


「ち……違う。そうじゃない。ごめん、ごめんね。おとなげなかった」


 ごめん、と繰り返されても、彼女の言っていることが理解できないエルダーは、首をかしげるしかない。


「どうして謝るの?」


 ガラス玉みたいな深緑の瞳を覗き込もうと体を傾けたところで、思い切り顔を逸らされた。おや?と思っていると、一人でさっと木から降りてしまう。

 エルダーはもちろんそれを追いかけた。


「急にどうしたの?」

「火を消して。獲物は小屋に移して」

「あ! 解体作業をするんだね?」

「……見たいんでしょ?」


 それはそうだ。だってエルダーは、そのためにここにいるのだから。

 大きくうなずけば、重苦しいものがちょっとだけ薄れた気がした。




 楽しい時間なんてあっという間に過ぎてしまう。セージが旅から帰ってきたときもいつもそうだった。次の旅に出発するまで日取りとしては余裕があっても、気が付いたらその日を迎えていた、なんてこともざらだったから。

 それをセージに訴えると、本当にその通りだと言って笑っていた。解決するすべは教えてくれなかった。


 陽が傾き出して、外に広がる濃霧がほのかに橙色を帯び始めた頃。

 ばらばらになったツノオオカミを宙に浮かべてオレガノたちの家に戻ると、ぎりぎり軒先が見えるくらいのところで向こうから勝手に扉が開いた。そこから飛び出してきたのは赤い髪の少年で、しかし彼はなぜかそれ以上前に進めないらしく、前傾姿勢のまま動きを止めている。見えない力に後ろから引っ張られているようだと思ったら、その影にはディルの襟首を必死で掴むアンゼリカの姿があった。

 何事かと目を丸くしたオレガノが二人に駆け寄る。


「ちょっと、あなたたちどうしたの?」

「オレガノさん! 大変なんです、マジョラムさんが……!」

「! お姉ちゃんがどうしたの!?」


 少し遅れて家の前に着いたエルダーは三人を覗き込み、ついでに開かれたままだった扉の向こうの様子を窺った。


「マジョラムさんがいなくなっちゃったんです!」


 その言葉の通り。

 扉から見渡せる大部屋の中には、確かに誰もいなかった。

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