27.霧の世界と少年少女9
ごろんと寝返りを打ったら見事にベッドから転げ落ちた。
体に巻き付いたブランケットと格闘しながら起き上がったディルは、となりのベッドが空になっていることにぽかんとする。
「……あれ? エルダーは……?」
いつもそこにあるはずの姿が見当たらないことに戸惑い、一拍置いてから、自分が寝ぼけていることに気が付いた。
エルダーは目を覚ましたのだ。今となってはあっという間だったように感じる、六日間を越えて。
「……元気ってことで、いいのか?」
ブランケットをベッドの上に戻して立ち上がり、窓のカーテンを少しだけ開く。そこから見えた外の景色は今日も濃霧に覆われて真っ白で、もはや見慣れつつあるその光景に、ディルはそっと出立の予定を見送った。
エルダーの意識が戻ってアンゼリカの怪我も治ったから、残る問題はこの霧だけだ。いつになるかわからない、しかし、いつやってきてもおかしくないその日を思うと、待ち遠しさとともに焦燥感を覚えた。
簡単に身支度を整えて部屋を出る。
暖かな大部屋にはアンゼリカとマジョラムの二人がいた。
「おはよう、ディル。よく眠っていたわね」
「うん。おはよう、アンゼリカ」
ふわりと飛んできたアンゼリカのリボンがよれていたので直してやると、彼女が見慣れない服を着ていることにはたとした。
「その服……」
ケープだ。
背中から生えた羽に掛からないようデザインされた、シンプルな作りの白いケープ。
「マジョラムがくれたの。なかなかの着心地よ」
ディルのつぶやきを拾ったアンゼリカがその場でくるりと回ってみせる。先日編んでいたものが完成したのだろう、マジョラムには本当に頭が上がらない。
「……よかったな! あったかそうだし、よく似合ってるよ」
素直な感想を述べると、アンゼリカは一層うれしそうにしていた。
そんな彼女に連れられてテーブルに着いたディルの前に、根菜のスープとパンが並べられる。
ハーブティーを淹れてくれたマジョラムは普段通りに微笑みながら正面の椅子に座った。
「ありがとうございます、マジョラムさん」
「うふふ、いいのよ。ディルくんって本当に礼儀正しいのね」
用意してもらった食事をとりながら、どうすればいいんだろう、とディルは思う。目の前にいる美しくて優しいこの人に、どれだけのものを返せばいいのだろうと。
グルンに招待することは除いて、そんな先の話ではなくて、もっとすぐにできること。彼女に喜んでもらえることが何なのかわからないまま出立の日を迎えるのは、違う気がしたから。
そんなことを考えていたところで、マジョラムと目が合った。それまでアンゼリカとケープの着具合について話していた彼女は、祖国の緑を思わせる瞳でディルをとらえると。
「アンゼリカちゃんの怪我、治ってよかったわねえ。魔法って本当にすごいのね」
――不意打ちのような一言で、ディルの心をぢくりと刺した。
となりの椅子の肘置きに腰掛けていたアンゼリカが「そう?」と興味なさそうに返す。
しかし、おっとりとしたその言葉が、紛れもない彼女の声が、まるで自分を責めているように聞こえて。そんなふうに考える人だなんて思ってもいないのに、それに比べて自分は何もできないと言われているようで、ディルは無意識のうちにうつむいた。
「そんなの、ディルだってすごいわよ!」
取って付けたようなアンゼリカの慰めは空虚だった。やめてくれ、と叫びたくなるほどに。
彼女がどれほど善良な気持ちから発言したとしても、その中身が大言壮語にも満たない嘘っぱちでは、ディルが恥ずかしくなるだけだ。
けれど。
「そうね。ディルくんも、もちろんすごいわ」
返ってきたのは、思いがけない同意だった。
「だって君は、ツノオオカミの群れからエルダーくんを守ったんでしょう? それはとても勇敢なことだもの」
視線を上げた先でマジョラムの瞳が優しく細められるのを見て、ディルはさっきとは違う感情で言葉が出なくなる。
「オレガノから聞いているわ。ね、自信を持って?」
「いえ……、オレ、そんな」
「あの子が助けたときも、アンゼリカちゃんとエルダーくんのことを気に掛けていたんでしょう?」
「それは……当たり前じゃないですか。あんな場所に置いていけるわけ……」
穏やかに微笑むマジョラムには何もかも見透かされている気がして、ディルは半べそをかいたような顔のまま押し黙った。
「ディルくんはそれを誇っていいのよ。私はそれを、尊いものだと思うわ」
そうやって春風のようにディルの心をなでたマジョラムは、ちょっとだけ寂しそうに笑った。温かな言葉と裏腹なその表情にはっとしたとき、彼女の笑みはいつも通りのものに変わっていたけれど。
「さて。実は私、新作に挑戦しているの。続きを編んでもいいかしら?」
「えっ? あっ、はい! もちろんです」
テーブルの上に棒針と毛糸を取り出したマジョラムに呑まれて、ディルは反射的にうなずいた。
会話の糸口と機会を失ったディルは別の話題を探そうとして、そういえばと気が付く。
「さっきからエルダーの姿が見えないんですけど、地下室で何か手伝ってるとかですか?」
ああ、という顔をしたマジョラムより先に、アンゼリカが口を開いた。
「出て行ったわよ。オレガノについて」
「……えっ?」
ディルはしばらく、その言葉の意味を理解することができなかった。
*
霧の中をずんずん進んでいくオレガノのあとを追うエルダーは、道中あらゆる物にぶつかり、坂道でつまずいたりしていた。
いわく。貯蔵していた食料が尽きかけているらしい。
主食や副菜は足りているものの、主菜の肉が予定より早く消費されてしまったために、調達が必要になったそうだ。
ディルの話によればここにやってきたのが六日前で、その間中ずっと霧が掛かっていたようだから、まあ無理のないことだと思う。むしろよくそれだけもったものだ。
晴天の日の景色が見えているかのようなオレガノの足取りになんとかついていくと、ぼんやり浮かんできたのは一軒の石造りの小屋だった。川の流れる音が小さく聞こえてきたので、近くにそういったものがあるのかもしれない。
どこからともなく鍵を取り出したオレガノが、閂のかかっている扉を開けた。
「へーえ……」
小屋の中は仕切りがない一間だけの造りだった。
左手の壁に掛けられていたのは変わった形の道具類で、右奥のほうに積まれていたのは乾燥した獣の毛皮やツノなどだ。ツノオオカミとかいう獣のものだろうかと物珍しさに目を白黒させていると、オレガノが扉を閉めた。
おや?とエルダーは首をかしげる。
振り向いたオレガノの瞳は静かだった。
「……あなた、どうしてついてきたの?」
エルダーをまっすぐ見据えるオレガノの声は厳しい。
「どうして、って……」
そもそもの経緯を説明するとだ。
今朝方。すさまじい眠気に抗ってどうにか目を覚ましたエルダーは、地下室から出てきたオレガノとばったり遭遇した。備蓄の確認をしていたらしい彼女がそのまま食料を確保してくると言うので、単純に、興味八割で同行を願い出たのである。
霧があるからって家の中に閉じ込もっていてもつまらないし、そんな滅多にない機会、みすみす見逃すわけにはいかなかったからだ。
オレガノの反対を強引に押し切ると、マジョラムの用意した昼食をバスケットに詰め、二人で家をあとにしたのだった。
「……面白そうだったからだよ?」
そんなことより、ツノオオカミの狩りが見たくてついてきたというのに、こんな場所に立ち寄った理由のほうがエルダーは知りたかった。見たところ肉などは保存されていないから、狩りの道具でも取りにきたのだろうかと考えていると。
「……あなたはここで待っていて」
「え?」
ため息をついたオレガノの意味不明な言葉に、エルダーは思わず苦笑する。
「どうしてそんなことを言うの?」
「危険な目に遭わせられないからだよ」
「僕は魔法使いだよ? 大丈夫だよ」
昨日から気怠いような気もするけれど、それくらい些細なことだ。「何なら見せようか?」
まだるっこしくてついそんなことを口にすると、オレガノがかすかに顔をしかめた。
「……とんだ自信だね」
ともすれば皮肉にも聞こえるその刺々しい言葉を、しかしてエルダーは気にしない。
自信だなんて、いよいよもって何を言っているのかわからなかったからだ。
ただ、少しばかり肩をすくめて、杖を持つ手を変えた。
「君は、魚が泳ぐことを自信と言ったりするの?」
それは意趣返しでも何でもなかった。単なる斜に構えたような態度に、オレガノの表情が険しさを増す。そんなことは構いもせずに、エルダーは続けた。
「言わないでしょう?」
「それは……そういうことじゃなくて」
「同じだよ。狩人が狩りをすることも、魔法使いが魔法を使うことも。同じだよ」
オレガノが何か言おうとしているのも無視する。
「扉に閂をかけられたって、僕はついていくからね」
ぬけぬけと言い放ったエルダーに、何かをこらえていた様子のオレガノがはあ、と二度目のため息をついた。
扉を塞ぐように立っていた位置から半歩横にずれると、肩の力を抜く。
「……何のためかわからないけど、そんなことされるくらいなら目の届く範囲に置いておいたほうがまし」
引き下がったオレガノに、エルダーはにっこり笑いかけた。