26.霧の世界と少年少女8
「おっかしいなあ。オレガノさん、どこ行ったんだろ?」
家の中を一通り歩き回ったディルは、探し人を見つけられないままアンゼリカの元に向かっていた。広いわけでも複雑なわけでもない一軒家なのに、どこかで入れ違いにでもなったのだろうか。そんなことを考えながら進んだ先、開けっ放しのままだった扉に気が付いて足を早める。
部屋を覗き込んで目に入ったのは、鮮やかな紫色の長髪。
「オレガノさん! ここにいたんですね」
ぱっと振り向いたオレガノは、ディルの姿を認めると少しだけ肩の力を抜いたようだった。「……あ。う、うん……」
そんな反応をされるとは露ほども考えていなかったので、ディルのほうがびっくりしてしまう。
後ろから急に話し掛けて驚かせてしまったのかもしれない。今度はそうならないようにと注意する。
「えっと、アンゼリカをみてほしいんです。お願いできますか?」
静かにうなずいたオレガノは、いつもの無愛想な顔付きで部屋の中に踏み出した。
*
というわけで、ツノオオカミに襲われて負ったアンゼリカの傷は、すべてきれいになくなったそうだ。
大部屋のテーブルに着いてオレガノの報告を待っていたディルは、それを聞いてほっとした。同じように座っていたエルダーと様子を見てくれたオレガノに礼を言って席を立ち、夕食の準備をしていたマジョラムを背にアンゼリカの部屋へ向かう。
ベッドから出て身支度をしていたアンゼリカは、頭のリボンを整えるのに苦戦しているようだった。助言しながらしばらく眺めていたけれど、結局手を貸して直してやった。
具合を確かめるようにその場で飛び回る彼女を見て、ディルは安堵の息をつく。元気な姿を目にしてようやく実感を持てた。
「おかしなところはない?」
「ええ」
「エルダーに言ってよかった」
「ディルが頼んでくれたの?」
「まあ……そうなるのかな。アンゼリカも、あとでちゃんとお礼を言うんだぞ」
本当のところは断れなかった、のほうがしっくりくるけれど。明確な理由はないものの、あのときのエルダーにはそうすることが必要だと思ったから。
アンゼリカを連れて部屋を出ると、大部屋のテーブルには贅沢な夕食が並んでいた。
丸いパンが二つとオムレツのような卵料理が一切れ、肉と野菜の煮込まれたシチューが一皿に、果物まである。しかも、四人分だ。
これまでに用意してもらっていた食事はパンとスープの二品であることが多く、どちらかというと質素だった。それでもスープの具材は日替わりで、こんな枯れた大地でもきちんと食べられるものがあること自体ディルにとっては驚きだったのに、ここまでの料理が出てくるとは。
華やかなテーブルにはエルダーとオレガノの二人が着いていた。ディルから見て左奥にエルダー、右前にオレガノだ。キッチンの位置を考えると右奥はマジョラムが使うだろうから、ディルはエルダーのとなり、左前の椅子に座った。アンゼリカはディルの椅子の肘置きに腰掛ける。
「すごいご馳走ですね」
慣れた手つきでハーブティーを淹れていたマジョラムに声を掛けると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「今日のお料理は、快気祝いを兼ねた私たちの歓迎の気持ちなの。遠慮なく食べてね」
その笑顔と、腕によりをかけて作ってくれたであろう晩餐の意味合いに、ディルの心は温かいものでいっぱいになる。
うれしかった。エルダーが目を覚ましたことも、アンゼリカの怪我が治ったことも、オレガノのそっけない親切も、マジョラムの優しい心遣いも。ディルはうれしかった。
飲み物を配り終えたマジョラムがゆっくり席に着くと、笑顔のまま唐突にぽん、と手を叩いた。
「さて! みんな揃ったところで、改めまして。初めまして、エルダーくん」
「こちらこそ初めまして、ええと……マジョラム?」
いきなり始まったやり取りに、感極まっていたディルは面食らった。思わず気が抜けてしまうようなそのずれに、しかしてエルダーはついていけるらしい。簡単な顔合わせしかしていないものの、にこにこと受け答えしている。
「それから、この子がオレガノよ。私の妹なの、よろしくね」
「へえ。初めまして」
変わらない表情で挨拶をするエルダーと、同じような言葉を返すオレガノ。彼はくだんの仏頂面を前にしても動じなかった。
そうして始まった夕食はどれも作り手の優しさが感じられるようなものばかりだった。素材の味を活かす薄味は、じんわり体に広がる美味しさだ。シチューの中の肉はとろとろになるまで煮込まれており、ちょっとだけ癖はあったものの、かつてないほどの絶品だった。ディルはすべての料理をあっという間にたいらげた。
となりのエルダーも食欲はきちんとあるらしく、のんびりと食事を続けている。自らすすんで物が食べられるうちは心配ないものだと、ピャーチで世話になった医者が言っていたのを思い出した。
「ところで、ディルくんたちは遠い国から来たのよね。どんな場所なの?」
ハーブティーのカップを両手で包んだマジョラムが、三人の顔を順に眺めながらおっとり尋ねた。そう言われてみれば、自分の国の話なんてあまりしていなかったことに気が付く。
エルダーはシチューにパンを浸してかじっており、アンゼリカも同じようにもぐもぐと何か食べていたので、ディルは少し考え込んだ。他でもない彼女に興味を持ってもらえたのだから、その期待に応えたかった。
「オレたちがいたのは、グラス大陸にあるグルンという国で……」
思い付いたことから話し始めると、マジョラムは丁寧に相槌を打ってくれた。
テグのように乾いた大地ではなく、緑が豊かで森がたくさんあること。気候も比較的安定しており、食物はどれも美味しく育ってくれること。それからピャーチのような幻想的な風景とは異なるけれど、整然と並んだ町並みが美しいこと。点在する町はおおかた壁に囲まれているので、ツノオオカミのような魔物が襲ってくる心配はあまりないこと……。
色とりどりの花が咲きこぼれる屋敷と無邪気に笑っていた女の子のことが脳裏をよぎったところで、マジョラムが「うふふ」と楽しそうに笑った。
いつの間にか落ちかけていた視線を上げたディルは、そこにあった笑顔にどうしても落ち着かない気持ちになってしまうから、いろんなものを取り繕うように照れ笑いを浮かべた。
「話を聞いていると、実際に行ってみたくなるわね。ねえ、オレガノ?」
「え? う、うん。そうだね」
きゃっきゃとはしゃぐマジョラムが何だか愛らしくて、その言葉の通り彼女がグルンの花園に佇んでいるところを想像したディルは――ぱっとひらめいた。「それなら招待しますよ!」
思わず口にした提案に、マジョラムとオレガノが虚をつかれたように目を見開く。「え?」
「マジョラムさんも、オレガノさんも! グルンに帰ったら……そうだ、お世話になった人たちみんな呼んで、お礼のパーティを開きます!」
セルリーやリコリス、ステビアにバジリコ、マジョラムとオレガノが一堂に会し、小さいながらも立派なパーティに参加している場面を思い描いてディルは胸を弾ませた。
ホストはもちろん自分だ。幼いあの子も呼んで、みんなを紹介してあげよう。秘密のパーティだ。
「いい考えだよな! な、アンゼリカ!」
天使の少女に同意を求めると、彼女はちょうど食事を終えたところで、ディルを見上げると妙な顔をした。怒っているような、困っているような、よくわからない表情だ。「え、ええ、そうね」
歯切れの悪さに目をしばたく。「アンゼリカ?」
どうしたのか聞こうと思ったら、優しい声が返ってきた。「素敵な考えね」
斜め前の席でマジョラムが微笑んでいる。ディルは「ぜひ来てくださいね!」と誇らしげに笑った。
*
夕食後。先に休むと言って自室に戻ったオレガノを除いた四人で、片付けを済ませたテーブルの上に世界地図を広げた。
リコリスからもらったお役立ちセットの中の一つだ。大きな紙にざっくりとした四つの大陸と、おおまかな国の位置がしるされたものである。
地図を覗き込んだディルはすぐさま左上のほうにグルンを見つけて、次にサーラルを探した。
「どこだ?」
「メニーヒュマ大陸がこれよね。ピャーチはここで」
「確か北西の方なんだよな。えーと……」
「テグはここよ」
アンゼリカと二人でマジョラムが指差してくれたところを見ると、純粋な距離の話で、ピャーチにいたときよりグルンに近付いていることがわかった。サーラルは海に隣接した国らしいので、メニーヒュマ大陸からグラス大陸に移動することができれば大きな前進だろう。
「海を渡るならイェーディーンまで出て、そこから船に乗るのが一番早いと思うわ」
マジョラムの言葉に顔を上げるディルとエルダー。
「イェーディーンって、世界五大都市の、ですか?」
「ええ。貿易が盛んで、いろんな人がいて、物がたくさんあって……ここね」
そう言ってマジョラムが指し示したのは、テグからしばらく西に進んだところにある、まさに海沿いの街だった。
港湾都市イェーディーン。別名「巡りの都」と呼ばれるその街は、世界で最も大きな交易都市である。
誰にでも広かれた港には多種多様な物や情報、技術、人が集まり、天井知らずの成長を続けている先進的な街だ。その恩恵で学問に関しても発展しており、著名な研究機関がいくつかあるなど、生きていれば一度は必ず耳にするような有名な場所だった。
「ここからどのくらいで行けるんですか?」
「そうねえ。一旦テグまで出て、馬車で三日くらいかしらね」
マジョラムの返答に、半分そわそわしていたディルは固まった。
「そんな路銀はないわね」
アンゼリカが口にした通り、馬車を借りられるような持ち合わせはないからだ。
そもそも、そんな費用すらないのに、船賃なんてどこからひねり出せばいいのだろう。大陸間を行き来するような大型船に三人も乗ろうと思ったら、とてつもない金額が必要になることは容易に想像できた。
昨晩から今まで怒涛のトントン拍子だったので、そんな当たり前のことを失念してしまっていたのだ。
「ねえ。そういえばあなた、魔法陣は使えないの?」
「え?」
なんとか持ち直そうとしているディルをよそに、アンゼリカに見据えられたエルダーがきょとんとする。
その手はディルもありだと思った。
ここにやってきたときと同じように魔法陣で帰ることができるなら、それが一番手っ取り早い方法だからだ。エルダーは魔法使いだし、魔法陣は魔法の一種だろうから、そう考えるのは自然なことだろう。
しかし、ディルはただ、それは難しいんじゃないかなとも思っていた。だって、もしそうすることができたなら、エルダーは今頃――。
「あれは無理だよ。よくわからないから」
あっけらかんとした態度のエルダーに、アンゼリカの機嫌がみるみる悪くなる。どうしてそんな言い方をするのかと頭を抱えたくなったけれど、とにかく間に入ることにした。
「なあ、アンゼリカ。エルダーがもし魔法陣を使えるなら、ピャーチに飛ばされた時点でそうしてたはずだろ?」
「それは……、そうかもしれないけど……」
「別に意地悪言ってるわけじゃないって。な?」
とりなすように笑ってエルダーに視線を送ると、困惑気味の首肯が一つ返ってきた。
セルリーの小屋で魔法道具を目にしたときも同じようなことを言っていたから、そういうものなのだろう。
期待が外れてむっとしているアンゼリカの手をなだめるように軽く握ってやった。
「イェーディーンまでは歩いていって、そこから船に乗ろう」
「……そうね」
よし、と手を離す。問題は山積みかもしれないけれど、前に進まなければ新しいものだって見えてこないはずだ。
しかし、そのタイミングで、それまで静かに成り行きを見守っていたマジョラムが「それなんだけどね」と控えめに口を開いた。
「馬車なら知り合いにあてがあるから、事情を話せば協力してくれると思うの」
「えっ……」
急な申し出に驚いてそちらを見ると、彼女は愉快そうに微笑んでいた。悪戯っぽい表情に見惚れかけたディルは、大慌てで首を横に振る。
「でも、そんな、そこまでしてもらうわけには。ただでさえ何も返せてないのに……」
「あら?」
笑顔のマジョラムが人差し指を伸ばした。あっと思ったときにはその指先で唇を封じられて、ディルの思考は白飛びする。
「困っている人がいたら助けるのは当然のことだもの。私もオレガノも、そう思っているわ」
「だ、けど……」
「それに、ディルくんたちのおかげで賑やかだし、家族が増えたみたいでうれしいもの。ご飯も美味しそうに食べてくれて、張り合いがあって楽しいくらいよ?」
その言葉だけが焼き付くようで、ディルが何も言えないまま呼吸を止めていると、マジョラムの指はそっと離れた。
「わかった?」
「……はい」
どこまでも優しいマジョラムに、ディルは救われてばかりだ。
出会ってから数日、彼女が否定的なことを口にしているところなんて見たことがない。力の宿った素敵な言葉とはそういうものを指すのかもしれないなと、ぼんやり考えた。
「じゃあ、決まりね。きっとじきに、霧も晴れるわ」
受け取った厚意にどう報いればいいのか、ディルにはまだわからないけれど。
目の前に広げられた世界地図にしるされたグルンを見下ろして、できることからと、深く息を吸い込んだ。