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25.霧の世界と少年少女7




 夢から覚めたことを自覚するのは、夢を見ていることを自覚するのと同じくらい難しい。

 真っ暗なまどろみを取り払うような声に呼ばれてぼうっと目を開いたエルダーは、飾り気のない木造りの天井を眺めながら、先ほどまで見ていた夢の続きを探そうとした。

 美しい声を持つ影が最後に言っていたことは、何だっただろうか。とても長い冒険をしていたような気がするけれど、記憶は隅のほうから欠けていく。

 誰かを……救ってほしい、と言っていた。そのときはその「誰か」がわかっていたはずなのに、今は思い当たる相手がいない。

 まぶたを閉じればまた、会えるだろうか。


「エルダー!」


 呼び止められた。

 声のしたほうを向くと、今にも泣き出しそうな顔をしたディルがいた。窓から差し込むぼんやりとした橙の光……それを反射してきらきら輝く赤い髪がきれいで、ちょっとだけ見惚れる。


「よかった、やっと起きた! ずっと眠ってたんだぞ!」


 ふわふわした心地のまま上半身を起こした。ベッドの上に横たわっていたらしい。

 散り散りになりそうな夢をどうにか抱いたまま、エルダーはゆっくりまばたきをする。なんとなく、あの世界で見つけたものを忘れてはいけないような気がしたから。


 ディルの後ろには天井と同じような造りの部屋が広がっていた。ベッドが二つと、間にサイドテーブルが一つ。その上には丁寧に畳まれた赤いマフラーと、とんがり帽子が重ねて置かれていた。

 セルリーの小屋に戻ってきたのかと勘違いしかけて、すぐに思い直す。ここは全然知らない部屋だ。

 リコリスとステビアの家で借りていたところとも違う場所。


「エルダー?」


 窓のほうに視線を向けようとすると、ディルにもう一度名前を呼ばれた。


「……どっか、調子、悪い?」


 その表情はどこかで見たことがある気がした。バジリコだ。

 ピャーチの広場でディルが倒れているのを発見した後、同じような表情でエルダーの様子を窺ってきたバジリコ。それとそっくりだった。

 エルダーは自分の体調を探ってみる。いつもの寝起きと違って眠気が残っているし、体は重く、少しだけ怠いかもしれない。

 しかし、それをディルに言ったところで何か変わるのだろうか。


「ううん、大丈夫だよ。おはよう、ディル」


 だから、エルダーは笑った。それを見たディルが眉をひそめつつ笑うという器用な表情で「ああ、おはよう……」と返す。

 しかしそれから気が付いたように立ち上がり、「そうだ、おなか減ってるだろ? 何かもらってくるよ」と部屋を出ていった。


 扉の閉まるパタンという音だけが残されて、エルダーは改めて窓のほうに目をやった。


 ガラスのはめ込まれた窓には半開きのカーテンが掛かっている。

 窓の向こうに広がっていたのは幻想的な薄橙の霧で、朝日か夕日か、散乱した光とそのもやはエルダーのいる場所を不明確にさせた。


 いくら眺めていても、影が浮かんでくるようなことはなかった。



 *



 ここに来て六日め。声掛けのかいあってか、エルダーがようやく目を覚ましてくれた。ちょっとぼんやりしている様子だったけれど、意思の疎通もできたし、大きな前進だ。

 エルダーが起きたことを伝えると、マジョラムは心得たように微笑んで、マグカップにスープを注いでくれた。「熱いから気を付けてね」という言葉を話半分に聞いたせいで痛い目に遭いつつ、湯気を立てるマグカップを手に急いで部屋に戻る。


 エルダーは窓の外を眺めていた。ディルが声を掛けてスープを渡すと、寝ぼけ眼で受け取って少しずつ飲み始めたのでほっとする。

 セルリーの森で意識を取り戻したとき、アンゼリカに差し出されたパンとスープの有り難みをディルはよく知っていた。だから、エルダーにもまず何か食べさせようと思ったのだ。

 となりのベッドに腰掛けて一息つく。


「……アンゼリカはどうしたの? それに、ここはどこ? 何があったの?」


 スープを飲み終わったエルダーが先ほどよりしっかりした口調でディルに尋ねた。安堵の気持ちが大きくてそちらにまで気が回っていなかったことにはたとする。


「そっか、色々話さないといけないよな」


 居住まいを正したディルはこれまでの経緯について簡単に説明し始めた。

 ピャーチで踏んだ魔法陣にディルとアンゼリカが巻き込まれて場所を移動したこと。ここはテグという町の外れで、ツノオオカミという獰猛な獣に襲われていた三人をこの家に住むオレガノが救ってくれたこと。アンゼリカは怪我をして動けず、エルダーは六日の間ぐっすり眠り込んでいたこと。

 適当なところで相槌を打っていたエルダーが「なるほどね……」と話を区切った。


「ごめんね。君に迷惑を掛けたみたいで」


 困ったように微笑まれてびっくりする。


「そんなことないって! ずっと助けてもらってるのは、オレのほうだし……」

「そう?」

「エルダーが起きてくれて本当によかったよ。あとはアンゼリカが元気になって、霧が晴れたら出発しないとな」

「うん、そうだね……」


 意気込むディルに一度うなずいたエルダーは、それから口を開いて、逡巡したように見えた。

 なんだろう、と思っていると。


「……それ、僕が治してあげようか?」

「えっ」


 予想外の提案に、ディルは目をしばたく。

 治すと言って当てはまるものなんて、アンゼリカのあの大怪我のことくらいだ。しかし、いくらエルダーとはいえ、そんなことができるのだろうか。


 魔法に関するディルの知識はある程度のものなので、それによって何ができるのかとか、専門的な仕組みについては知らないことが多い。それでも、怪我をしたときの処置で魔法を使われた覚えはないし、この世の中には医学や薬学というものが存在しているのも事実だ。魔法で怪我を治せるなら、そういったものは必要なくなってしまう。それが答えではないのだろうか。

 エルダーは魔法でなんでもできるだろうけど、それは魔法でできることに限られているはずだ。

 でも、もしかしたら。ピャーチの大火事を鎮めた彼なら。


「治、せるのか?」

「多分ね」


 こともなげに返されて、ディルは呆然とする。なんだか信じられないような気持ちで一旦視線を外すと、少し考え込んだ。

 治せるものならもちろん治してほしいけれど……エルダーは先ほど目を覚ましたばかりで、どう考えたって本調子ではないはずだ。その提案に乗るということは、無茶をさせることになるのではないか?

 そんなふうに悩みながら再び様子を窺って、ディルははっとした。


 薄紫色の瞳の奥が揺れている。

 まるで、迷子の子供みたいに。


「お、お願い、します!」


 ディルはとっさに立ち上がって頭を下げていた。

 え、と呆気に取られたような声。


「アンゼリカのこと、治してください」


 顔を上げると、唖然としていた様子のエルダーが、ふわりと笑った。



 *



 半分だけ開いたカーテンの向こうには、まるでそれが当たり前みたいな顔をして濃霧が広がっている。

 ベッドの上のアンゼリカはうまく動かない体に不満を抱きながら息をついた。


 ここにやってきて六日めの夕方。

 オレガノやマジョラムが悪い人間でないことはわかっていたものの、こんなところに長居すべきではないということもアンゼリカは重々理解していた。


 霧が晴れる日を待ってから出発する、それはもちろん一つの手だろう。この家はディルにとって危険な場所ではないし、あの獣たちに囲まれる心配もないから。

 しかし、それでは前に進めないのだ。止まっていてはディルを導くことなんかできない。そんなことは許されなかった。

 それに、気になることは他にもある。後手にばかり回っていたら、いつか必ず取り返しの付かないことが起こるだろう。


 これからのことを頭の中で整理していると、トントンと控えめに扉が叩かれた。この気配はディルだ。それと、もう一人。

 本当は自ら扉を開きたかったものの、オレガノに見つかったらまたディルが責められてしまう。ここはおとなしく返事をするだけにとどめた。


「気分はどう?」


 予想通り顔を出したディルの後ろから、ちっとも中身の感じられない声が聞こえた。

 悪意はないけれど、善意もない。アンゼリカにとって、魔法使いの少年はそういう存在だった。


「やっと起きたのね」

「うん。おはよう」

「あなた本当に今まで眠っていたの?」

「え? うん。そうだよ?」


 笑顔で首をかしげる姿は初めて会ったときから変わらない。悪い感じはしないものの、いまいち感情の読めない面持ちだ。

 エルダーが悪い魔法使いでないことは納得しているし、その件に関して今さら蒸し返すつもりもないけれど。疑わしい事柄を確認せずに容認できるほど、アンゼリカは彼のことを信用しているわけではなかった。


「ああ、わかった。アンゼリカは僕に言いたいことがあるんだね」


 そんなふうに考えていたところでにっこり微笑まれて、言葉に詰まる。


「とりあえず、話は後にしよう。まずはそこでじっとしていてね」


 エルダーがゆっくり杖を持ち上げて、目の前でくるりと円を描いた。面食らっているうちに罰点が描き足される――どう見ても魔法を使う気だ! どんな!?


「!」


 膨大な量の魔力が渦巻いたと思ったら、それまで肩にあった違和感が消え失せた。


「どう!? うまくいった!?」

「そのはずだよ」


 あくびをこぼすエルダーの後ろから、それまでじっとしていたディルが喜色をにじませた表情でそわそわと近寄ってくる。


「アンゼリカ、肩の傷は? どうなってる?」

「どういう、こと?」

「治ってると思うよ?」


 待ち切れない様子を隠しもせずに、しかし丁寧な手付きで肩の包帯を少しだけ外すディル。すぐさま愛らしく破顔した。


「よかった! もう痛くない? そうだ、オレガノさんにもみてもらおう!」

「ええと、少し待って、ディル?」

「ありがとう、エルダー! オレちょっと行ってくる!」

「ディル!?」


 扉を開け放って部屋を後にしたディルと、取り残されたような気持ちのアンゼリカ。変わらず微笑んでいるエルダー。


「よかったね」

「……」


 ここまでくればさすがにわかる。

 エルダーが自慢の魔法でもって肩の傷を治したのだ。


「それで、何の話だっけ?」


 この状況でそんなことを言う。アンゼリカはたじろいだ。

 横目で窓の外を窺うと、霧は晴れることなく立ち込めていた。ええいと思って口を開いた、次の瞬間。


 部屋に現れたぞっとするような悪感情に、二の句を失った。



「あなた、魔法使いだったの?」



 侮蔑に嫌悪、羞恥や憤慨、失望と悔恨。

 そんな棘だらけの声が、笑顔のエルダーを突き刺していた。

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