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24.霧の世界と少年少女6




 深い霧の中に浮かぶ影と向かい合いながら、エルダーは返事を待っていた。

 その影がしゃべるのかとか、そもそもエルダーの言葉を理解しているのかとか、そういう疑問はまったくわかなかった。ただ、確証のない自信だけがあって、エルダーは当然のように答えが返されると思っている。

 一瞬だけ揺れた影は今は微動だにせず、まるで静かにエルダーを見据えているようだった。

 やがて――。


「ここは夢の中よ」


 霧の向こうから響いたのは、息を飲むほどに美しい声だった。

 楽師の吹く木笛のように澄んだ、それでいてしっとりと重みのある声。エルダーはちょっと目を見開いて、それから柔和に微笑んだ。


「なら、早く起きなくちゃいけないね」


 結論はいたってシンプルだ。何故って、帰らないといけないから。

 セージを待たせているし、旅だってろくに始まっていない。それに何より、笑顔の少年と約束をしたから。

 夢なんか見ている場合ではないのだ。


「でも、どうしたらいいんだろう?」

「あの森を抜けるの。私についてきて」

「森? 案内してくれるの?」


 答えの代わりなのか、影がゆらりと動いた。

 エルダーは「ありがとう」と言いながらそれについていく。


 美しい声を持つ影を頼りに乾いた大地を歩いた。エルダーには行き着く先があるのかどうかすらわからなかったけれど、影は迷うことなくどこかを目指しているようだった。


 四方を囲む霧は途切れることなく続いている。しばらく進むと、影がぴたりと止まった。


「着いたわ。この森に、見覚えがあるんじゃないかしら」


 目の前にあったのは、薄い霧に覆われた森の入口だった。影の言う通り、エルダーはその森を知っている。


「ここは……セルリーの」


 そう。影が案内してくれた場所は、セルリーの暮らしていた森にそっくりだった。茂っている植物も、人が出入りしやすいように整えられた道も。


「どうしてこんなところに……」

「君がここに忘れてきたものがあるからよ」

「ここに?」


 エルダーの立っているところはピャーチのまわりに広がっていたような草原ではない。乾き切って、雑草すら生えないようなからからの大地だ。

 それでも一寸先にあるのは確かにあの豊かな森だった。まるで別の布を縫い付けたように、そこだけが空間から浮いている。


「忘れものなんて、僕したかな」


 首をひねった。

 トゥヴォーからいきなり飛ばされてきたエルダーは、私物らしい私物を持っていない。リコリスからもらったものはとんがり帽子に収納したけれど、ほとんど着の身着のままで困ったこともないから、忘れるほどのもの自体手元に置いていないはずなのだけれども。


 何を探せばいいかもわからないのに、しかもそれをこんな森の中から見つけろなんて、まあまあな無茶を言う。それでもエルダーは一歩踏み出して、霧の広がる森に分け入った。

 がさがさと草を鳴らしながら歩くエルダーの後ろを影が音もなくついてくる。


「どこにあるんだろう、忘れものって」

「君の記憶に強く残っている場所にあると思うわ」

「記憶に残っている場所か……」


 セルリーの小屋か、それとも。


「あら、心当たりがあるのね。じゃあそこに行きましょう」


 影をいざない、エルダーは行く。




 もしこれが夢でなかったのならどんなに面白かったことか。

 セージの土産話には見劣りするかもしれないけれど、こんなに不思議な体験はそうできないと思う。人を惑わせる深い霧、美しい声の影、燃え尽きたはずの森。忘れてきたものを探すエルダー。

 まるで物語の中の出来事みたいでわくわくする。


 そんなことを考えていると、ふと、セージの話を思い出した。


 自分がおかしなところに立っていると感じたとき、まず疑うべきは魔力の干渉だ。

 普通では考えられないような不思議な地形や、異様な性質を持った空間には魔力が働いていることがある。精霊や妖精が暮らしやすいように力を加えていたり、魔物モンスターが縄張りを守るためにそうしているなど、理由は様々だ。前者はサンクチュアリ、後者はダンジョンとか呼ばれたりしているけれど、とにかくこの世界には見えない力がたくさんあって、そういったものがバランスを保つことで成り立っているらしい。

 一度通った道が形を変える大迷宮やどんな傷も癒やす泉、時の流れが止まった渓谷など、色々な場所を教えてくれたセージ。どんなところであれ、そうなっている理由があるはずだと口にした彼は楽しそうに笑っていた気がする。


 歩いているとセルリーの小屋が見えてきた。一人で辿り着けるか若干あやしい気持ちがあったけれど、なんとかなるものらしい。

 小屋の前にはテーブルがあった。何も乗っていない皿が七人分並べられ、食器まで置いてある。

 これから送別会でも開かれそうな雰囲気だ。


「ここは?」

「前に僕がお世話になった小屋だよ。とても優しい人が暮らしていたんだ」

「その人はいないみたいね」

「うん。今ごろ町に移り住んでいるんじゃないかな? この森はもうない場所だから」

「どういうこと?」

「ちょっとした火事があってね――」


 と、エルダーが口にした途端。


「えっ」


 何の前触れもなく、周囲にごうっと火柱が現れた。


「うわあ」


 燃え盛る茂みから近くの木々に火は移り、小屋もめらめらと炎を上げ始めた。あっという間に広がった熱と煙にエルダーは思わずむせ込む。

 濃い霧は晴れる気配がないというのに、何が起こっているのかわからなかった。とりあえず雨でも降らせようと杖を握ったものの、何故かいつものように魔法が使えない。


「あれ? ど、どうしよう……」

「ここから逃げるしかないでしょう?」

「逃げるって、どこに」


 ものの一瞬で炎に囲まれてしまった今、退路などないはずだ。

 口元を押さえ、涙目になりながらあたりを見回す。


「あ……」


 あった。一か所だけ、そこだけ炎が避けるように、ぽっかりと空いたところが。


「あそこね。見える?」


 目を凝らすと、その空間の真ん中でたゆたう薄緑色の光を見つけた。

 おぼつかない足取りで歩き出したエルダーの後ろで、音を立てて小屋が崩れた。




「っぷはあ!」


 気が付くと泉から顔を出したところだった。煙を吸い込んで意識が朦朧としていたとはいえ、服を着たまま水浴びなんかした覚えはない。

 あまり深くなくてよかった。ざばざばと水をかき分けて這い出ると、その場にぐったり座り込む。


「大変な目に遭った……」


 夢と聞いていたのに苦しさは本物みたいだった。


 一息ついたところで周囲の状況を確認する。霧は掛かっているものの、薄ぼんやりとした景色は知っている場所のようだった。

 あの泉だ。エルダーがいたのは、セルリーご自慢のきらきら輝く翡翠の泉だった。


 しかし、あのとき目にしたものとは様相が異なっている。火の手は回っていないのに、あたりの草木や花は枯れ果てて、泉に湛えられていた水も随分少なく見えた。


「お願い、セルリー。死なないで……」

「え?」


 聞こえたかすかな声に振り向いた。あの美しいものとは別の、風に揺れる鈴のようにか弱い声。

 しかし、エルダーの前には波打つ泉があるだけだ。人の姿はない。


「誰?」

「ごめんなさい……。あなたはあんなに帰りたがっていたのに……」

「どこにいるの?」


 小さな光がふわりと舞い上がる。エルダーは視線を落とした。


「私はどうなったって構わないから、罰だって受けるから……だから。誰か、どうか彼を助けて……!」


 そこには、ともすれば見落としてしまいそうなほど弱々しい光の粒があった。薄緑色のそれは、炎の中で逃げ道を示してくれていたものとよく似ていて。

 エルダーが手を伸ばすと、幻みたいにふつりと消えた。


 瞬間、泉の中心が爆発した。


 明らかに不自然なその現象の正体を、エルダーは知っている。だって今ごろ、ピャーチに舞い戻ってきたエルダーが、火の手の上がる森を見上げているだろうから。

 セルリーのために施した最後の仕上げだ。エルダー自身が魔法で起こした火事ことだから、よくわかっている。


 降り出した大雨に、視界が霞んだ。


「……」


 エルダーは首をかしげた。煙を吸ったわけでもないのに、どうしてか息が苦しい。胸のあたりが鉛みたいに重くて仕方ない。

 知らず知らずのうちに、胸元をぎゅっと握った。


 降りしきる雨でこの森の火事は食い止められるだろう。あの光の声が願ったようにセルリーは助かって、彼は森から離れ、焦がれ続けた妻子との暮らしを手に入れるはずだ。すべてが望んだ通りになる。

 それなのに、セルリーは笑ってこの状況を喜ぶべきなのに、そんな顔をしてはくれなかった。エルダーは彼に、最高の恩返しをしたはずなのに。


「どうして……」


 方法が間違っているとセルリーは言った。

 自然は長い年月を掛けて元に戻ると聞いたことがある。それならやっぱり、これしか方法はなかったはずだ。元凶を弱らせる以外に、彼をこの森から解放する手立てはなかった。それなのに。

 胸の奥が、火傷でもしたように痛い。


「君が忘れてきたものはこれね」


 無残な姿に変わり果てた泉をずぶ濡れになって眺めていると、美しい声が響いた。


「僕にはよくわからないよ。これって、何?」

「それは私が教えることではないのよ」

「どうして? このあたりが痛くて、気持ちが悪くて仕方ないんだ。教えてよ」

「言い方が悪かったわね。それは私が教えられることではないの」

「どういうこと……?」


 強くなる雨足に、視界が塗りつぶされていく。


「見つけるのよ」

「見つける?」

「そう。君はきっとこの先、その答えに出会うわ」

「セルリーも同じことを言っていたよ。でも、僕は知りたいんだ。今すぐに」


 セージは何でも教えてくれたのに、とエルダーは不服そうな顔をした。だって、そうすればきっと、このもやもやしたものもなくなるかもしれないから。


「それなら、手掛かりをあげましょうか」

「手掛かり?」

「私のわがままも入ってくるから、お願いと言ったほうがわかりやすいかもしれないけど……ここは持ちつ持たれつね」


 いつの間にか森は消えており、エルダーは周囲に何もない霧の世界に立っていた。

 大地は固く、目の前にはぼんやりと浮かぶ影が一つ。


「あの子を、救ってほしいの」


 どこか遠くで、エルダーの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 最近、約束をした声だ。


「そうすれば、少しだけわかるようになるかもしれないわ」



 幕が降りるように、何もかもが暗転した。

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