22.霧の世界と少年少女4
翌日になってもエルダーは目を覚まさなかった。
アンゼリカの調子も良いわけではないし、濃い霧は今日もどこまでも広がっており、とてもではないが動ける状態ではない。ディルは困り果てながら、不格好にアンゼリカの介抱をしていた。
血を落としてもらったリボンを渡したところ早速髪に結ぼうとしたので、頭の包帯が取れてからにしようとひとまず止める。その代わり、金色の腕輪にリボンを巻き付けて軽く結んでやった。
「やっぱりまた違うところに飛ばされたのね」
マジョラムが用意してくれた昼食を二人で食べながら、窓の外に目を向ける。立ち込めた霧がどうしたって不安な気持ちを煽るし、自分の居場所を誤魔化されているようで気味が悪かった。
それに、今にもあの獣が飛び出してきそうで落ち着かない。
「ここの人たち、悪い感じはしなかったから信じてもいいと思う、けど……」
恩人を疑うのはいかがなものか。万全の状態でないアンゼリカはいつにも増して警戒心が強かった。
ディルはアンゼリカの小さな手を取り、軽く握る。
「エルダーはまだ起きないの?」
「うん……ずっと眠ってる」
「そう……」
霧の向こうでも見透かそうというのか、アンゼリカは睨むように目を細めた。
「心配ないって。アンゼリカはゆっくり休んで、早くよくならないと」
頑張って笑ってみたものの、アンゼリカの表情は晴れない。そんな彼女の前から食べ終わった食器を片付けて盆に乗せた。
自分の分と合わせて水場に運ぶと、そこには洗い物をするオレガノの姿があった。リコリスに教えてもらって皿洗いはできるようになっていたので、手伝うことにする。
ディルが水で汚れを落としたものを、オレガノが布で拭いていく。
「ありがとうございます。見ず知らずのオレたちに、何から何まで」
「気にしないで。好きでやってることだから」
オレガノはディルより年上に見えるけれど、数歳の差だろう。エルダーにしろオレガノにしろ、一人でもしっかりしているところを見ると、自分が恥ずかしくなる。とにかく懸命に作業していると、水の跳ねる音だけがやけに響いた。
「あの……でも、すごいですね。オレだったら、こんなことできない……」
「別にすごくない。言ってるでしょ? 好きでやってることだって。できるとかできないとかじゃないんだよ」
何か話さなければと思って口を開いたディルに、オレガノはどこかいらいらしたようにぴしゃりと言い放った。びっくりして固まる。
オレガノが語気を荒くした理由がわからなくて彼女を横目で窺うと、目が合った。ああ、最近こんな顔をされたばかりだ。あれは確か、鈍色の瞳だった。
「お世辞なら二度と言わないで。本心なら、あの男の子のことも気に掛けてあげるべきなんじゃないの?」
吐き捨てたオレガノがそれから口を開くことはなかった。
気まずい中でそそくさと手伝いを終わらせたディルは、オレガノが近くにいないことを確認してからエルダーの元へ向かった。控えめにノックしたものの、返事は当然のようにない。扉を開く。
確かに、ディルは昨日からずっとアンゼリカにつきっきりだった。食事をするのはもちろん彼女のとなりだし、容態が急変するかもわからないからと昨晩は横で眠り、起きてからもずっとそばにいて、焼ける世話がないかあれこれ探していた。薬草を塗ったり包帯を替えたり、そういった用事でオレガノが来たとき以外は閉じこもっていると言ってもいいくらいに彼女から離れなかった。
エルダーのことなんて、頭になかった。
ベッドに近寄ると、エルダーはやっぱり静かに眠ったままだった。無防備に寝息を立てる姿はあどけなく、まるで幼い子供のように見える。となりのベッドに腰掛けても特にやることはなく、ディルはそわそわと視線を彷徨わせた。
オレガノに指摘されたとき。ディルは内心思ったのだ。
エルダーなんて一人でも大丈夫なのに、と。
それを確かめるためにここにきたのかもしれない。エルダーは気になんか掛けなくても平気だと。風みたいに掴めなくて、いつでも余裕ぶっていたから、ディルが手を貸すことなど何もないと思っていた。
魔法使いだし、大変な火事だってあっという間に解決できるくらい、なんでもできるし。
放っておいたって。
ここにやってくる前の光景を思い出す。
灰色の空と、消える気配のない炎。愕然とするリコリスに、歪んだ表情のバジリコ。戸惑い、言葉を失ったステビア。
あれだけ親切にしてもらったのに、ディルは何もできなかった。声を掛けることも、何も。ディルにはできなかった。
そんな中でエルダーはたった一つの希望みたいだった。杖を構えて空に巨大な雨雲を生み出した彼は、奇跡を起こした英雄のように――ディルが焦がれてやまない存在にほど近い姿で、そこに立っていた。
しかし、今はどうだろう。眠り続けるだけで起きる気配なんかこれっぽっちもない。顔色は悪くないし、外傷があるわけではないけれど。本当に、大丈夫と言える?
その首を絞めていたのは何だった? その先を握っていたのは?
「オレのせいじゃ、ないよな……」
途端に怖くなって立ち上がり、エルダーの頬を引っ張る。温かな肌が柔らかく伸びただけでエルダーはやはり反応しない。
「起きろよ……なあ、エルダー、起きてよ」
震える声は届かない。それでもディルは逃げ出そうとする足にしっかり力を入れて、声を掛け続ける。
「いっぱい寝ただろ。そろそろいいだろ。楽しみにしてたじゃんか……」
ディルは薄々勘付いていた。
エルダーは、魔法使いであることを抜きにすれば、グルンに暮らしていたただの少年なのだ。同じように家に帰ろうとしている存在だということ、その本質に気付かなければ、これ以上比べなくて済むから。
エルダーはさ、たぶん、一人でなんでもできると思ってんだよ。
そうじゃない。一人で生きていけるやつなんて、どこにもいないんだよ。
バジリコの声が蘇る。彼の言葉は、エルダーがディルと何ら変わりない一人の少年であることを伝えようとしているものだった。
全員で助け合っていけと言ったバジリコは、こうなることがわかっていたのだろうか。
また、泣きたくなった。
でも、泣かなかった。
「エルダーってば!」
叫ぶように名前を呼んでも、その髪と同じミルクティー色のまつげが震えることはなかった。
*
ほぼ同刻。
アンゼリカの休んでいる部屋の掃除にやってきたマジョラムは、当の彼女に睨まれていた。
「この霧は、何?」
あら、と微笑む。
「このあたりではよく出るの。今回は少し長いけれど――」
「何日め?」
「そうねえ。オレガノは十日めくらいから数えるのをやめたって」
「何日めか、って聞いてるの」
詰問するような口調にも、マジョラムは動じない。アンゼリカは焦っているように見えた。
「四十五日めよ」
ぽつりとこぼしたマジョラムの表情は先ほどと変わらず穏やかだ。それを聞いて目を見開いたのはアンゼリカである。
刃物のように鋭かった視線が緩み、痛みを耐えるように下唇を噛む。やがてマジョラムの顔を覗き込むと、翼の光を明滅させた。
「あなたは、それでいいの?」
問われたマジョラムが浮かべたのは、無表情じみた笑顔。
「ディルくんは、アンゼリカちゃんのことをとても心配していたわね」
「ディルは優しいから」
「違うわ。君が彼のせいでケガをしたからよ」
穏やかで、優しくて、温かい。マジョラムの持つ雰囲気はそのままに、言葉だけが鋭利だった。
「それと同じよ」