20.霧の世界と少年少女2
深い霧の中をエルダーは歩く。どのくらいそうしているのかもはや見当もつかないけれど、どこまでいっても先は見えず、固い地面が続くばかりだ。右も左も不明確で、世界の形が曖昧になってしまったような気すらしてくる。
乾いて、割れて、生き物の気配なんかこれっぽっちもない。人はもちろんのこと、動物も植物も何にもいなくて、どうしようもなく冷たい場所。
確かに進んでいるはずなのに、どこかに辿り着いたっていいはずなのに、どこにも行き場がないような……妙な停滞感。
エルダーはふと気配を感じて後ろを振り返った。
ひたすらに広がる濃霧。
その向こうに、誰かがいた。
「……セージ?」
ぼんやりと浮かび上がった影は、何も答えない。
「……えー、っと」
どうやら違ったようだ。
ちょっと考え込んでからそちらに体を向けると、影が少しだけ揺れた。
エルダーはゆったりと首をかしげる。
「ねえ、君。君はここがどこか知っているのかな?」
*
痛みを覚悟して目をつむりかけたディルの前で、真っ赤な鮮血が舞った。
生ぬるい液体が、ディルの顔や服に飛び散る。
「――アンゼリカ!!」
ツノオオカミの牙がアンゼリカの肩深くに突き刺さっていた。どうして。なんで。ディルには何が起こっているのかわからなかった。
苦痛に歪んだ表情でエルダーの杖を振るい、ツノオオカミを横殴りにして追い払ったアンゼリカがぼとりと地面に落ちる。杖もからんと音を立てて転がった。
「アンゼリカ、」
真っ赤な天使の少女に触れることが躊躇われて、ディルが何もできないでいると。
「あなたたち、死にたいの!? こんなところで何をしているの!!」
どこからともなく何本もの矢が放たれ、少し離れたところにいたツノオオカミの群れに降り注いだ。ぶれる視界の中でディルが見たのは、鮮烈な紫。
それが長い髪の毛だと気付くのにしばらく時間が掛かり、はっとしたときには腕を取られてもつれる足で駆け出していた。
「ま、待って、アンゼリカとエルダーが、」
置いていけないと抵抗しようとしたディルは、直後、首の後ろを強く打たれて意識を失った。
*
がばっと起き上がると掛けられていたブランケットが床に落ちた。
全身にかいた冷や汗が気持ち悪くて仕方ない。夢と現実の区別がつかないような心地で、整わない息のまま周囲の様子を確認する。
ディルがいたのは年季の入った木目の壁が印象的な一室だった。何がやってくるかわからないような濃い霧はなく、となりにあったベッドには当然のようにエルダーが眠っている。近くの壁には立て掛けられた杖があり、ベッドの間に置かれた木製のサイドテーブルには赤いマフラーととんがり帽子が乗っていた。
ディル自身もベッドに横たわっていたようで、ひとまず息をつくとブランケットを拾い上げる。ベッドの足元にはバックパックがあった。
あのとき。
絶体絶命の状況でひらりと現れたのは、一人の少女だった。
ディルの腕を引いたのも紫色の長い髪をした少女一人だったはずなのに、彼女はエルダーと荷物まで回収してくれたのだろうか。じゃあ、アンゼリカは?
真っ赤に染まって浮力を失い、まるでただの物になってしまったように落下した天使の少女。それまでディルのそばで生きた温かさを持っていた彼女は、今どこに。あれこそが夢?
考えがまとまらないままなんとなく視線を下げると、ディルは自分が見覚えのない服を着ていることに気が付いた。
灰褐色のガウンのような衣服だ。襟も袖もサイズが合っておらず、全体的にぶかぶかしている。
どうしてこんなものを着ているんだろう。それも、知らない間に。
疑問に思ったと同時に、思い当たった。
血だ。顔に、服に、びちゃりと付いた気持ちの悪い温度。
夢なんかじゃない。
「アンゼリカ……!」
突き動かされるようにベッドから降りると、目に付いた扉へ前のめりに向かった。
取っ手に手をかけようとしたところで、ひとりでにノブが回る。
「あら?」
「……っ?」
開いた扉に、数歩よろけて後ずさった。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫?」
ぼんやりと顔を上げて驚いた。そこにいたのが見たこともないほど美しい女だったからだ。
腰まである若草色の髪はゆるく波打ち、深い森を映したような緑の瞳は長いまつげに引き立てられて輝いて見える。肌は健康的な白さで、緑を基調としたドレスがよく似合っていた。穏やかな雰囲気のその女は今、手に濡れた布を持ってディルに心配そうな顔を向けている。
彼女が誰かということよりも、その容姿に目を奪われて動けずにいると、そっと微笑まれた。
「天使の女の子なら、別の部屋で休ませているから。安心して?」
「そうだ、アンゼリカ! アンゼリカは!?」
「あら、女の子の部屋にいきなり行くなんて失礼よ?」
「えっ」
有無を言わさぬ笑顔に押されてベッドまで戻ると、女はうふふと笑いながら手に持った布でディルの顔を拭いた。生地は想像していたより柔らかかったけれど、急なことに思わずうめく。
布を離した女はおっとりとディルを見下ろして、不意にぽんと手を打った。
「そうだわ、君に返すものがあるのよ。はい、これ」
「あ……!?」
そう言って差し出されたのはステビアにもらった魔法石のペンダントと、銀の鎖に繋がれた蓋付きの懐中時計だった。浮き彫りがされており、植物と羽根がモチーフの精緻な模様が描かれている。
どきりとした。どうしてそんなところに。
ほとんど反射的に、ひったくるように受け取ると、女は少しだけ目を見開いた。
銀の懐中時計はいつも服の中に下げているので、誰かに見られるなんて考えもしなかったのだ。しかし、慌てていたからといって、今の非礼が許されるわけではないだろう。混乱しながら謝ろうと思っていると、女はにっこり笑った。
「そうね、自己紹介がまだだったわよね?」
「え?」
どこかずれたことを言われて唖然とする。
「私はマジョラムというの。妹のオレガノが、君たちをここに連れてきたのよ」
暖炉の薪がぱちぱち爆ぜる音を聞きながら、ディルはマジョラムの話を頭の中で反芻していた。
ディルが今いるのはあの部屋の扉を開けた先の大部屋だった。そこにあった四人掛けのテーブルに案内されて、マジョラムと二人、先ほどまで話していたのだ。
彼女はディルの質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。
まずは現状だ。
恩人の素性をもう一度確認すると、ディルたちを助けてくれた少女はマジョラムの妹で、名前をオレガノというらしい。
三人を連れ帰った彼女はアンゼリカの傷をみて命に別状はないと判断し、すぐさま手当てに取り掛かってくれたそうだ。それを聞いたディルはひとまず安堵してオレガノに感謝の気持ちを抱いた。
居場所を尋ねると、アンゼリカの介抱をするために彼女の元にいるとのことだったので、見つけたら一番に礼を言おうと決める。
次に、現在地。
ここはメニーヒュマ大陸の北西にあるサーラルという国で、その中でもテグという町の外れにあたる場所らしい。周囲は切り立った崖や固い岩肌の山などに囲まれており、霧は頻繁に出るのだそうだ。ツノオオカミという獰猛な獣が生息しているので、霧の濃い日に出歩く住民は特に少なく、偶然見つけられてよかったとマジョラムはのんびり笑った。
オレガノがツノオオカミを狩って生計を立てている狩人だと聞いたときは妙に納得した。ディルが見ても鮮やかなあの身のこなしは、素人にできるものではない。
それからもう少し話すと、三人がここに運ばれてから丸一日ほど時間が経っていることを知って驚いた。ちなみにエルダーはさっぱり目を覚ましていないらしい。
とにかく、ピャーチで踏んだ魔法陣が三人をここに飛ばしたことは間違いなさそうだ。一度ならず二度までも……眉間にしわが寄る。
情報を整理していたディルの前に、陶器のティーカップが置かれた。マジョラムだ。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
大部屋の奥に備え付けられたキッチンで湯を沸かしていると思ったら、飲み物を用意してくれていたらしい。
透き通った薄黄色のこの飲み物は恐らくハーブティーだろう。立ち昇る湯気と爽やかな香りに、ディルは少しだけほっとした。
同じものを手に正面の席に着いたマジョラムが、ゆったりとした動作でハーブティーを飲む。その所作に見惚れていると目が合ってしまい、ディルも慌ててティーカップを傾けた。
ほのかでまろやかな酸味、じわりと広がった温かさに息をつく。
「おいしい……」
「でしょう? うふふ、よかったわ」
やわらかく微笑まれてどきっとしてしまう。
美しい女はみんなつんとしているものだと思っていたから、そんなふうに笑われるとどうにも落ち着かない気持ちになるのだ。
みんな一様にディルのことを遠巻きに見て、何かを品定めするような無遠慮な目をしていたから。
しかし、マジョラムは違う。アンゼリカが言うような「悪い感じ」がしない、そんなふうに思った。
「それで、ディルくんたちはどうしたの? その様子だと、この町の子じゃなさそうだけど」
「えっと、その……実は――」
ディルはそれから自分たちのことを話した。グルンで魔法陣を踏んでしまったこと、ピャーチで過ごしたこと、それからまた魔法陣でここにやってきたこと。
「それは忙しないわねえ」
マジョラムは眉を下げて笑った。驚いたふうでもないし、彼女に言われるとそこまで深刻な状況に思えなくなるのはなぜだろう。
「マジョラムさんもオレガノさんも親切な人ですごく助かりました。そうじゃなかったら、オレたち今頃」
「あら。ディルくん、だめよ。悪いことは口にしないほうがいいわ」
「え?」
そっと伸びてきたマジョラムの手は、真っ白な長手袋に覆われていたけれど。
人差し指でふわりと唇を押されれば、黙り込む以外の選択肢がなくなってしまう。
「声に出した言葉にはね、力が宿るの。良い言葉を口にすれば良いことが、悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる」
ディルから指を離すとたおやかに微笑んだ。
「私はそう、信じているの」
マジョラムの美しい声が言うと本当のような気がしてくる。ディルは慎重にうなずいた。
「だから、ディルくんも素敵な言葉をたくさん使ってね。幸せに、なってね」