1.魔法使いと少年と天使の少女
三人仲良く地面に倒れ込んだ。
エルダーの不意打ちにも似た体当たりによって突き飛ばされた赤い髪の少年は、見事に頭から激突したらしく、反射的に取った前受身の姿勢のまま低く唸っていた。その上に直立姿勢のエルダーがのしかかっている形だ。
そして何故か、そんな少年の胸の下あたりでは天使の少女が潰されていた。
「いってえー……あっ! おい、アンゼリカ、大丈夫か!?」
右腕だけで体重を支えて、開けた左手で天使の少女を逃がす少年。そのあとでエルダーの下から這い出た。
天使の少女は呆けているようだった。しばらく宙空を見つめていたかと思ったら、はっとして白い羽をぱたぱた動かし、調子を確かめる。問題がないことがわかると、光の粒をまきながら少年のまわりをぐるぐる飛んだ。心配そうな顔をして、彼に外傷がないかどうかを調べているようだった。
うつぶせのまましばらく動けなかったエルダーは、なんだかもう泣きたい気分でいっぱいだった。セージに会えると思って朝からうきうきしていたのに、変な二人組には捕まるし、妙なものは踏むし、何が起こったのかだってわからないし。まったくもって散々だ。
それでも、散々な中で一つだけ、いいことがあった。
エルダーを拘束していた細い紐が、緩んでいたのだ。
エルダーはもちろん急いで紐から抜け出した。二人はまだそれに気が付いていない。今がチャンスだ。
このまま逃げ出してしまおうと思って辺りを見回したエルダーは、そこでおや?とばかりに首をひねった。
……ここは、どこだろう?
エルダーご自慢の一軒家は町の外れの森の近くに立っていたはずだ。扉を開けた先には草原が広がっており、丘の向こうに地続きの小さな町が見えたはず。
目をこする。
視界いっぱいの緑だ。
エルダーの目の前には、草原なんてなかった。丘も町もなかった。
あったのは、深い緑だけ。
エルダーが立っていたのは、見たこともない植物が茂った森の中だったのだ。
「よかった、目立ったけがはないみたい」
「アンゼリカは? さっき思いっきり潰しちゃったけど」
「あたしはこの通り、ぴんぴんしてるわよ!」
どこの森だか知らないけれど、とにかく家に帰らなければ。あんまりセージを待たせちゃいけない。
エルダーは少し考え込む。
どうやって帰ろう。
「っと、あれ? あいつは?」
「あ! あそこよ、逃げようとしてるわ! ディル!」
「う、うん」
「うわあ」
マイペースなエルダーは、瞬く間に捕らえ直されていた。
*
「よくもこんなどこだかわからない場所に運んでくれたわね!」
例の紐でぐるぐる巻きにされたエルダーは、まったく覚えのない森の中、しっとりとした地面に座らされて、苦笑いしていた。
「どこだかわからないのは僕も同じなんだけどなあ……」
エルダーを捕まえ直したあとで周囲の様子がおかしいことに気付いた天使の少女は、当然のようにエルダーを責めた。魔法使いを捕まえに行ったら魔法陣を踏んだのだ、それを仕組んだのがエルダーだと疑うのも無理はない。無理はないのだけれども、現実はそうではないから難しかった。
「変なこと言わないで。あの魔法陣を描いたのはあなたなんでしょう!」
「えっと。それが違うから、僕も困っているんだけど……」
「ふん、下手な嘘をつくのね。ねえ、ディル?」
空を飛ぶ小さな天使に見下ろされながら、エルダーはひたすら帰る方法を探していた。まずはこの二人から受けている誤解をどうにかするところから始めないといけないかもしれない。紐に巻かれた状態では満足に動くこともできないし、そもそもこのままでは見知った土地に帰れたとしても役場に直行されかねない。
そんなふうにして悩むエルダーをじっと見つめていた赤い髪の少年は、天使の少女に話を振られて口ごもった。
「どうしたの、ディル。もしかして体の調子でも悪いの?」
「いや、そういうのじゃなくて……アンゼリカ、覚えてる? この人、オレが魔法陣を踏みそうになったとき、『危ない』って言って助けようとしてたよな」
「それは……」
言い聞かせるようにゆっくり話す少年と、それに戸惑う天使の少女。エルダーはぱちぱち目をしばたいて、そんな二人のやり取りを眺めていた。
そういえばあのとき、あまりにも寒々しい魔力を感じたから、とっさに動いてしまっていたのだったか。何か叫んだ記憶はあったけれども、それが「危ない」という言葉だったとは知らなかった。
少年はあのときのエルダーの行動に何か覚えるものがあったのかもしれない。光明だ。
「それにさ、アンゼリカの言う通りにこの人が魔法陣を描いたとすると、おかしいんだよ。仕掛けた本人まで巻き込まれてるなんて、間抜けにもほどがあるだろ?」
少年の語りには説得力があった。見上げていたエルダーが目を見張る。
確かに魔法使いのエルダーなら、たとえば自分で設置したような魔法陣に自ら飛び込むようなばかな真似はしないだろう。何せ彼は魔法のスペシャリストなのだから。
「だから、この人、嘘はついてないと思う」
少年の青い瞳が天使の少女の空色の瞳を覗き込む。小さな彼女のまとっていた光が見るからに明滅した。
意外なところから出された助け船に、エルダーはほっと息をつく。
「……ディルがそこまで言うのなら、わかったわ。魔法陣はこいつの仕業ではないと、あなたの言うことを信じましょう」
天使の少女は澄ました顔でそっぽを向くと、そのまま少年の後ろへ下がった。
その代わりに一歩出てきた赤い髪の少年は、エルダーの前でしゃがみ込むと、エルダーを観察し始めた。分厚い服の上からぺたぺたと体を触ってくる。ちょっとくすぐったい。
「あのう……」
「武器とか持ってないよな?」
「まさか。そんな物騒なものは持ち歩いていないよ」
「そっか」
うなずくと、エルダーを拘束していた細い紐の力がふっと弱まった。
「えっ」
体を縛っていた紐は、エルダーの両手首のほうに集まり、そこから手のひらを包むように巻かれていく。
これは、魔法使いの弱点をきちんと知っている人間のやることだ。
少年は紐をぐっと引っ張って、それが解けないかどうかを見ていた。エルダーからすると、その紐の具合は痛みに繋がるものではなかったので、少しだけ安心した。
少年はよし、と満足そうな顔をすると、すぐさま立ち上がる。
「とにかくこの森から出よう。ここがどこか、確かめるんだ」
天使の少女を振り返り、少年は強くそう言った。
*
結果から言うと、彼らはまた三人仲良く迷子になった。