16.魔法使いと森に囚われた男
潮風に吹かれて、エルダーは考える。
引いては返す波が白い飛沫となって砕けて海に帰るのを見て、エルダーは考える。
*
「バジリコが話を付けてくれてね。キャラバンの出発に合わせて、僕たちも町を出ることにしたんだ」
セルリーの用意してくれる湯はいつもまろやかで優しく、温かい味がする。エルダーは微笑みながら、近況報告を続けた。
ディルとステビアが仲直りしてから数日経ったころ、キャラバンはやってきた。早速事情を説明すると、バジリコのつてと合わせてエルダーの魔法の腕が買われ、話は驚くほどスムーズにまとまった。ピャーチで商売をするために何日か留まったあと次の町に向かう予定で、エルダーたちはそれに同行する形となる。
ディルは体調が回復するまで休んでおり、今日からようやく調子が戻ってきたのだとか。動けなかった分を取り戻すようにリコリスの手伝いをしたり町を見て回るつもりらしい。
何があったのかはわからないけれど、前向きに頑張ろうとしているディルの姿を見てエルダーは安心した。これでやっと旅に出ることができるからだ。
「ディルとはうまくやってんのか?」
「うまく、って?」
「仲良くしてんのかって意味だ」
向かいに座っているセルリーが不思議なことを聞いてきた。
うまくやるとか仲良くするとか、エルダーにはいまいちぴんとこないけれど、ディルのことを心配しているのかもしれない。放っておくと勝手に倒れるものだから。
そう見当を付けて、とりあえず曖昧に微笑む。
「ディルなら大丈夫だよ? アンゼリカかステビアがいつもそばにいるから」
ここ数日のディル周辺の様子を思い浮かべて安全を伝えると、セルリーが変な顔をした。でも、これが事実なのだからそれ以外に言うことはない。
部屋でおとなしくしているディルのとなりにはアンゼリカが、部屋から出て何事かしているディルの近くにはステビアが常にいた覚えがある。あまり気を配っていたわけではないものの、赤い髪の横でちらつく金色か灰色は嫌でもよく見掛けたから。
しかし――そんなことはさておき、だ。
「ねえ、セルリー。今日は天気がいいね」
「あ? あ、ああ、そうだな……」
放心していたようなセルリーの意識がふと帰ってくる。
エルダーはにっこり笑った。
*
森はセルリーが進むべき道を示すように木漏れ日であふれ、あとをついて回るエルダーも暖かな光に包まれた。そこにあるすべてがセルリーを歓迎し、祝福しているみたいにきらきらと華やぐ。
背の低い木になった赤い実を手渡されて口に運ぶと目を見開いた。シャクシャクと軽やかな食感、甘さと酸っぱさの程よいバランス、みずみずしさ。今まで食べたどの果物よりも美味しい。
セルリーはその実を漬けて自家製の果実酒を作っているらしく、リコリスの店で出すために近頃は本腰を入れて味の調整をしているのだと、うれしそうな顔。
それからまたしばらく行くと一気に視界が開けて、ふわりと甘い風が吹いた。
「わあ……!」
エルダーは思わず声を上げた。
まるで翡翠のような輝きを湛えた、美しく澄んだ泉。水底は空を映した色で淡く光り、その場所そのものが宝石のよう。
周囲に群生しているのはセルリーがリコリスに贈った白い花々。
「どうだ、俺の自慢の場所は」
森の中を案内してくれないかな?
そんなエルダーの頼みを快く聞いてくれたセルリーは、いつもの怖い顔で笑った。エルダーもよかった、とにこにこしながらサンドイッチの詰まったバスケットを見せ、二人は出掛けることにしたのだけれど。
行く先々で胸でも張るように咲き誇る花や食べ頃の実がなった木、生き生きと茂る植物を眺めて、エルダーは感嘆のため息をこぼした。鳥は楽しげにさえずり、差し込む光は優しく穏やかで、流れる川の水は清く、空気も恐ろしいほど澄んでいる。
セルリーの森はきっと、人を惑わせる。
「うん。とっても素敵なところだね」
はにかむセルリーに笑いかけるエルダー。泉のほとりに並んで腰掛けると、さあ昼ご飯とばかりにバスケットを広げた。
卵や野菜、肉などが挟まれたサンドイッチは食べやすいように一口サイズで作られている。大柄なセルリーがつまむと、小さくしすぎた気がした。
「おお、こりゃすごい。リコリスに作ってもらったのか?」
エルダーは首を横に振った。「僕だよ?」
「お前が!?」
大袈裟に驚かれた。店の切り盛りや家事で忙しいリコリスにそんな時間があるわけないではないか。
「魔法使いで、メシも作れるなんて。エルダーはすごいなあ。えらいなあ」
「ふふ、そうかなあ」
セルリーに褒められて頭を撫でられると、今までに感じたことのない心地になる。身体の真ん中がくすぐったいような、不思議な感覚だ。
当たり前のことをしているだけなのにと思ったけれども、そういえばディルは魔法も料理もできなかったなと気が付いた。今日、セルリーの元を訪れる直前に見掛けたディルは包丁で指を切っていた。
それから二人でのんびり話しながらサンドイッチを食べ、泉の水で一服した。穏やかな日差しを浴びて眠くなったのか、セルリーが大あくびをする。
横になるよう促すとやがて静かに眠り始めたので、バスケットを片付け、さてと立ち上がった。白い花たちがそよぐ。
セルリーがいつも用意してくれる湯と、この泉の水の舌触りはよく似ていた。この男は泉まで水を汲みにきているか、もしくは泉から流れる水を川などで手に入れているのだろう。
ぼんやりとセルリーのことを思う。美しい森に囚われた、優しくて無骨な男。家族と引き離されて、かわいそうなセルリー。
泉のまわりをぐるりと一周し、覗き込み、水面に映る自分の顔を眺めた。ミルクティー色の髪、とんがった形の帽子、赤いマフラー。そして、薄紫色の瞳。
すべてがゆらゆらと揺れて歪む。
杖を握りしめ、泉に手をつけて目をつむった。
「……やっぱり、ここにいるんだね」
ひとりごち、まぶたを開けた。泉は風に震えながら、日の光を反射してぎらぎら光っていた。
微笑みながら手を引き抜くと、急に日が陰る。肌寒さを感じたところで、
「……エルダー?」
セルリーが目を覚ました。
一瞬で雰囲気の変わった森に困惑しながら起き上がり、ぶるりと体を震わせる。エルダーはにこにこしたままセルリーに近寄ると、すっと片手を差し出した。
「ちょっと寒くなってきちゃったね。そろそろ帰ろうか?」
「あ、ああ……」
触れた指先は冷たかった。
*
小屋に辿り着くとちょうど日が傾き始めた頃だったので、エルダーはプリヴェートに戻ることにした。セルリーご自慢の場所を見せてもらったことに礼を言いながら身支度を整え、扉を開ける。
強い風に帽子が飛ばされないように押さえると、外が薄暗いことにはたとした。夕日の残光は一瞬で闇に飲まれてしまったらしい。
月は細く、闇を照らすにはどうも心もとないといった様子だ。
「ちゃんと送ってってやるからな」
セルリーの申し出を断る理由はない。エルダーはうなずいた。
ランタンを片手に迷いなく森の中を進むセルリーのとなりで、エルダーは物思う。
セージは言った。森の妖精に囚われた人間はその意志に関係なくその森に縛られる、と。
じゃあ、その方法は? エルダーは、そんなことを思う。セルリーを森に捕まえておくための方法って、どんなもの?
森の出口で振り返り、エルダーはセルリーに微笑みかけた。
「今日は本当にありがとう」
「なんだよ、改まって。大したことはしてねえじゃねえか」
照れ笑いするセルリーを見ていると、頭を撫でられたときとは違う感覚が身体の真ん中に広がった。吸った息が鉛にでもなったかのような……耐え難い、不快感。
それを一刻も早く取り去りたくて、衝動的に口を開いた。
「でもね、だめだよ。あの泉の水は、飲んじゃだめだ」
吐くようにそう言うと、踵を返した。