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15.涙と笑顔と帰るべき場所




 バジリコが部屋から出て行って、しばらく経った。外が騒がしい。

 どうやらステビアが帰ってきたようだ。リコリスとともに部屋に入ってきた彼女は罰の悪そうな顔をしており、上半身を起こしたディルのいるベッドのそばまでくると、手を後ろに回してもじもじし始めた。ディルの近くに控えていたアンゼリカがそんなステビアを軽く睨み付けていたので止めさせる。

 雪国の獣のようなステビア。しかし、強気そうに見える彼女は実際にはそこまで強くない。謝らなくちゃ。謝るんだ。ディルは口を開いた。


「ごめんなさい!」


 それを聞いて「えっ!?」と驚いたのはリコリスだった。しかしそれ以上は何も言わず、ちらとステビアを見ただけ。

 ステビアはディルの謝罪にうっすら口を開けて、何か言おうとしているようだった。視線を彷徨わせて、どうやらとなりに立つリコリスを気にしているらしい。リコリスがいると話しにくいことだろうかと思ったディルはリコリスを見上げて、


「少し出ましょう。二人のほうが話しやすそうだから」

「えっ、アンゼリカちゃん?」


 ふわりと舞い上がったアンゼリカに言いたいことを代弁されていた。

 彼女は白い翼を淡く輝かせながらリコリスの元まで行くと、その肩にそっと触れる。

 アンゼリカの頭でリボンが揺れた。振り向いた彼女の穏やかな瞳に射貫かれたディルは、不思議な力がふつふつと湧いてくるのを感じる。アンゼリカが応援してくれている――。


「ディルもそう思うわよね?」


 力強くうなずいた。



 *



 少し渋っていたリコリスを連れてアンゼリカが出て行くと、部屋はまさに静まり返った。

 ステビアはせっかく開いていた口を閉じてしまっているから、ディルの言葉に対する答えはまだ返ってこない。もう一度謝ったほうがいいのかとも思ったけれど、それは少し違う気がした。ディルはベッドの上でどうするべきか考える。言葉以外の方法でステビアに悪かったという気持ちを示すにはどうしたらいいだろう。

 そうだ。

 気が付いたディルはステビアに向き直ると、ぺこっと頭を下げた。


「なっ……」


 と、小さな声が聞こえる。


「なんで、あんたが謝るのよ……!」


 狼狽えたような声。ディルはそのままの姿勢で、逆にどうしてそんなことを聞くのかと思った。

 ディルはステビアにひどいことを言って傷付けたはずだ。だから彼女は最低と吐き捨てて走り去った。それなら謝られて当然というか、ステビアはそういう態度でいてもいいだろうに。少なくともそんな言葉が返ってくるはずがない。

 何か変だ。ディルはそっと顔を上げた。


「え゛っ」


 実に奇妙な声が出た。

 目の前にいたステビアが、その鈍色の瞳に涙をいっぱい溜めて、ディルを睨んでいたからである。


 泣いているのか怒っているのかわからない。


 一瞬迷ったディルは、そのあとすぐに、ステビアのその表情を「許さない」の意味として取った。謝ったって許さない、あんたになんか謝られたくない。そんなふうな意味に。

 ちょっと泣きたくなった。しかしせめてもう一度、気持ちだけは伝えたいと思った。


「……本当にごめん。ひどいこと言って」


 ステビアをじっと見つめると、彼女は泣き出しそうな顔のまま、「なんで……」と繰り返す。

 それから一つ言わなければならないことに気が付いて、ディルは続けた。


「セルリーさんは帰ってくるよ。絶対」


 これだけは言っておかないと、謝る意味がない。


「……あたし、お父さんの話なんかしてない」

 ステビアはそう言って目元を拭った。


「でも、お父さん言ってた。帰ろう帰ろうって思っていれば、きっといつか帰れるって」

 それからぺこりと頭を下げる。さっきディルがステビアにやったのと同じように、深く。


「あたし、あなたを困らせるつもりはなかったの。ごめんなさい」


 今度はディルが「なんで?」と思う番だった。あのときのステビアは正しいことをディルに言っただけだ。それをうまく受け取ることができずに、いっぱいいっぱいだからと言い訳をしてはねのけたのはディルのほうである。ステビアは謝るようなことをしただろうか。

 そういえば置き去りにされたことは確かに困ることではあったけれども、ステビアにそんなことをさせたのはどう考えても自分で……とぐるぐる考えながら、ディルはステビアのつむじを見つめる。


「あなただってわからなかったのよね。帰りたいのにどうすればいいのかわからなくて、一生懸命だったのよね。帰れなくてもいいなんて、やけになってただけよね?」


 つむじが震える。


「あたし、自分のことしか考えてなかったの。ディルやエルダーにはちゃんと家に帰ってほしいと思った。あなたたちの気持ちはわからないけど、あなたたちの帰りを待っている人の気持ちはわかるから……その人たちはずっと、あなたたちが帰るのを待ってると思うから。諦めてほしくなかった」


 ぽたぽたと、涙が床に落ちる。


「ディルにも頑張ってほしかったの。お父さんはディルのこと、きっと不安がってるって言ってたけど……でも、投げやりになんかなってほしくなかった。どれだけつらくっても、待ってるあたしたちもつらいから、一生懸命になってほしかった――あたし、わがまま言ったわ。ごめんなさい」


 ステビアの声は徐々に細くなる。けれど、それはディルの耳にしっかり届いた。


 ステビアの言葉すべてが、視界を狭めていた障害物を取り除くような力を持っていた。

 これまで、自分の抱える重たい心のことばかり考えてきた。どうしてこんなことになってしまったのだろうと。あの日、エルダーの家になんか行かなければよかったと。どうすればいいのかわからなくて、膨れていく気持ちに押し潰されそうになって……けれど、エルダーは平気そうだったから、気がおかしくなりそうだったのだ。こんなことで動じる自分がちっぽけに思えて、恥ずかしくて、誰にも触れてほしくなかった。

 しかし、ステビアは言った。「待ってるあたしたちもつらい」と、思いもよらないことを。

 ディルはそんなこと一度だって考えたことはない。まさか屋敷にいる誰かがディルのことを心配し、ディルと同じように苦しい気持ちでいるかもしれないなんて、これっぽっちも。


 そのときディルは、他の誰でもない、まだ幼い少女のあどけない笑顔を思い出していた。

 ディルによくなついていた、薄茶色の髪の、かわいい小さな女の子――。


 どうして今まで忘れていたんだろう。嫌なことばかりが溢れて溢れて、振り返ればいたはずの存在に気付くことができなかった。あの子はいつも、ディルの後ろにくっついていたというのに。

 今ごろはディルがいなくて、ずっと屋敷中探しているかもしれない。あんな屋敷の中を、たった一人で。


「……うん。わかった」


 ディルは気が付くと、そんなふうに答えていた。

 父親や母親は知らないけれど、あの小さな少女は間違いなく、自分の帰りを待っている。


「オレ、絶対家に帰るよ。諦めない。頑張る」


 ステビアが涙に濡れた顔を上げた。

 ディルは忘れていた笑顔を、ようやっと浮かべることができた。


「……そう。よかった……」

「うん。だからさ、セルリーさんもきっと、帰ってくるよ」

「……うん!」


 ディルとステビアの二人はうなずくと、朗らかに笑い合った。


 これから先に待っているのはまぶしいような英雄の冒険譚ではない。

 少年がたった一つの場所に帰る、その道のりだ。

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