9.夜と昼と一人ぼっち
全然わからない。あの少年が何を考えているのか、どうしてあそこまで平然としていられるのか、ディルにはまったくわからなかった。どう見たって同い年くらいのエルダーの言うことが、本当に、心の底から、わからない。
こんな状況下で一人にこにこして、大丈夫なんて言い出して、これ以上面倒は掛けられないなんて言って。それから、なんだって? あとのことは自分でどうにかする? そんなことできるわけないじゃないか。
全然、わからない。わからない!
ディルはベッドの上に座って膝を抱えながら、顔を俯せていた。
あのあと、エルダーがとんでも発言をして飄々と笑ったあと、とにかくキャラバンが来るまでまだ時間はあるからじっくり考えましょうとリコリスに提案され、三人はリコリスとステビアの家の空き部屋に泊まることになった。彼女らの自宅は表の料理店と隣接した後ろ側にあり、セルリーが住むことや来客を意識した造りになっていたので、部屋が余っていたのである。二階建てのそう大きくない家だが、少年たちが泊まるには十分な広さだった。
ディルとアンゼリカは同室ということで、二階のセルリーの部屋になる予定だった場所を借りている。エルダーは一階の客間を貸されているはずである。
セルリーの部屋はがらんとして見えた。掃除はきちんとされているようで埃などはなかったものの、クローゼットと机と椅子と空の本棚、そしてベッドがあるだけの、寂しい部屋。そんな印象を受けた。
そこでディルは部屋の角にあるベッドの上に縮こまっている。アンゼリカは窓辺に寄り、カーテンの向こうで夜空を眺めていた。
ディルは両手のひらが痛いからと、目に涙を浮かべた。夕飯を食べさせてもらったあと、リコリスに包帯を巻き直してもらったので、巻き方が最初よりきつくなっているのかもしれない。
ズボンで涙を拭った。鼻をすする。
エルダーは魔法使いだから、あんなふうに平気でいられるのかもしれない。魔法使いは特別な存在だと聞いたことがあるし、そういう自負があるからあんなに堂々と言い切れたのかもしれない。
ディルだって思ってはいたのだ。わかっていたのだ。セルリーがどれだけ親切だったか、アンゼリカに聞いた。町まで確実に連れて行ってくれて、そのあとのこともバジリコやリコリスに頼んでくれていて、頼ってもいいというような雰囲気で迎えられて――でも、そこまで面倒を見てもらうことは、できないと。
あの魔法陣を踏んだのは自分だから、本当は自力でなんとかしたかったのだ。だから、森の中では精一杯虚勢を張って、平気だと言い聞かせた。自分を助けようとして飛び込んできたエルダーにも悪いと思った。だから、やったこともない火起こしだって諦めなかった。それは彼が悪い魔法使いかどうか判断しかねていたからというのもあったけれど、それでもそうするべきだと思ったから。
それなのに、それなのに!
「うっ、うう……っ」
押し殺したかった泣き声がこぼれ落ちる。
どれだけアンゼリカに励まされても、それでも、できないものはできないのだ。魔法も使えない。とんでもなく遠い場所にやってきて、ただ、無力を噛みしめるだけ。自分は英雄になんかなれなくて、今までの冒険はやっぱりごっこ遊びで、まぶしい物語は目にしみるから、今は見ることだってできない。
本当はエルダーと同じように自信を持ってうなずきたかった。自分は大丈夫です、ここから先はどうにかしますと、本当はディルが言いたかったのに。言えなかった。怖くて言えなかった。手を差し伸べてくれるセルリーやバジリコやリコリスに、すがっていたかったから。
そんな自分に嫌気が差す。
ディルはついにわっと泣き出した。
「どうしたの、ディル!」
それに気が付いたアンゼリカが大急ぎで飛んでくる。
そっとディルの頭をなでるその小さな手に、最後の砦さえ崩されてしまいそうだった。
「大丈夫よ、ディル。あたしが付いているわ。ねえ、泣かないで?」
泣きたくて泣いているわけではないのに、アンゼリカは優しい声でそんなことを言う。
もう嫌だった。こんな知らない土地に頼りもなく一人きりだなんて。
もう嫌だった。同い年くらいの少年にこれほどまでの差を見せつけられるなんて。
もう嫌だった。自分が助けた小さな天使の前で折れてしまいそうになるなんて。
もう嫌だった。こんなことを考える自分を知りたくなんてなかった。
もう嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。戻れるならあの日に戻りたい。アンゼリカに背中を押されてエルダーの家に行ってしまった、あの日に。そうしたら今度は間違えないのに。近付きすらしないのに!
涙腺が壊れてしまったかのように、赤い髪の少年は滂沱の涙を流した。
小さな天使の少女はずっと、彼に寄り添って声を掛けていた。
*
泣き疲れて眠ってしまった彼の赤い髪をなでながら、アンゼリカは考える。
彼は天使である自分が見込んだ勇気ある少年だ。こうして落ち込んでしまうのはきっと、天使としての自分の力量が足りていないからに違いない、と。
そうでないのなら、こんなふうに泣いたりなんかするはずないのだ。
*
脇腹がくすぐったい。ふにゃふにゃしたものが横の腹をゆっさゆっさと揺すっているような、未知の感覚だ。
ディルは唸りながら目を開けた。窓から差し込む光がまぶしい。
手でひさしを作りながら、ぼんやりとした視界の中に天使の少女の姿を探す。ぽかぽかした日向のにおいは出会ったときから片時も離れたことがなかったから。
「なに、アンゼリカ……」
「なに、じゃないわよ! 何時だと思ってるの、この寝坊助!」
「えっ!?」
返ってきた声が予想外のものだったので、ディルの意識は一気に覚醒した。
がばっと起き上がる。
ディルの眠っていたベッドの脇にいたのは、リコリスの娘、昨日ハニーミルクを運んできてくれた少女ステビアだった。
「えっ、なっ、あれっ!? なんで!?」
「なんでって、もうお昼よ? なかなか起きてこないから起こしにきたの! だらしないわねえ」
「昼!?」
驚きっぱなしのディルを見下ろして、むっとしている。両手を腰に当てて胸を反らしたポーズもなんだか高圧的だった。
「そうよ、昼よ。お昼。こんな時間まで眠っていられるなんて、あなた怠け者ねえ」
「ええっ!? なんだよそれ、一体どういう……」
「ああ、もう、さっきからうるさいっ! さっさと起きて顔洗ってきなさいよね! 裏口で待ってるから!」
「えっ、おい、ちょっと!?」
びしっと人差し指を突き付けたステビアは、そう言うとすぐさま出ていってしまった。
ばたんと乱暴に閉じられた扉。ディルは目をぱちくりしながらステビアの言葉をゆっくり噛み砕いていた。
完全に寝過ごしたらしいことはわかった。家の外から町の喧騒が聞こえてくる。こんなふうにして朝を迎えたのは初めてで、ディルはちょっと戸惑った。そういえば体が痛い。ベッドが固かったのだろうか、思えば昨日もそうだった。昨日も、これまでとは違う目覚めで一日が始まったのだ。しかしそれは不快とかそういう感じではなくて、新鮮で。
ディルははっとした。
昨日まで感じていた漠然とした不安が少し和らいでいる。
アンゼリカは部屋にいない。どこに行ったのだろうと思いながらベッドから下りて軽く身支度を整えると、彼は部屋を出た。
ステビアは随分一方的だったなと思いつつ階段を下りたところで、大きな紙袋を抱えたリコリスに遭遇する。
「あら、ディル、おそよう。よく眠れた?」
お早くないからおそようなのだろう。気が付いたディルはちょっと恥ずかしくなってしまう。
「えっと……はい。寝過ぎました、すみません」
「いいのよ。セルリーのところじゃろくに眠れなかったでしょう?」
「そんなことは」
にこにこ笑うリコリスに、ディルはそれ以上何か言うのをやめた。
なんだか、うれしそうに見えたから。
「あ、そうだわ。悪いんだけど、顔を洗ったらステビアの手伝いをしてくれないかしら」
紙袋を抱え直しながら、リコリスは笑う。ディルがびっくりして目をしばたいていると、続けて言った。
「ごめんなさいね、ご飯はステビアととってちょうだい。他のみんなは夕方まで帰ってこないだろうから、ディルもそれまで町とか見ておいでなさいな。おつかいついでになっちゃうけど」
「いえ……」
リコリスも随分一方的だ……え?
ディルはうなずきかけて、はたと気が付く。
「あの。アンゼリカとエルダーは、どこに」
そう。リコリスは言った。「他のみんなは夕方まで帰ってこない」と、確かに。
それは一体、どういう意味なのだろうか。
「あら、ステビアから聞いてない?」
リコリスがちょっと困った顔をする。ディルはその意味をぐるりと考えて、きっぱり言った。
「なんでもありません。じゃあ、オレ、手伝いに行ってきます!」
会釈をして、早足で水場に向かう。後ろからリコリスの「気を付けてねえ」という声が聞こえた。
なにがなんだかよくわからないけれど、出し抜かれた気がした。水場に辿り着いてばっしゃばっしゃと顔を洗い、ついでにぺしぺし顔を叩く。ぽたぽたこぼれる水が涙のように思えて、ディルは顔を横に振った。
エルダーはともかく、アンゼリカもいないなんて、どういうことだ。
そばにタオルらしきものが見当たらなかったので、袖で軽く顔を拭う。ステビアは確か裏口に来いと言っていた……。
もういいや。
ディルは投げやりな気持ちで歩き出す。
アンゼリカだけは、ずっとそばにいてくれると思ったのに。そりゃあ、べったりされて、少し鬱陶しいと感じたこともあったけど、アンゼリカだったから嫌じゃなかったのに。昨日泣いたから? アンゼリカにまで愛想をつかされた?
もういい。もういいよ。そういうの、疲れたんだ。
不安とは少し違う感情を抱きながら、ディルは裏口に辿り着いた。