表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

イブに

作者: 笛吹葉月
掲載日:2011/12/19

「アポトーシス」

 先輩が出し抜けにそんなことを言ったので、わたしは顕微鏡を覗いていた目を、わたしから二席空けて座っている彼の方へ向けた。

 焦点が合ってくると、見慣れた光景が見えてくる。何の変哲もない、ありふれた大学院の研究室。仕切りのついた個人デスクはほとんどが空席で、そのくせどこも散らかったまま。そして論文の代わりに漫画本なぞを持ち込み、試験管の代わりにコーヒー入りのカップを手にする先輩がひとり。研究室は漫画喫茶と同値ではないというのに。これでこのひょろいメガネ男が学部主席で入学したというのだから、世の中いろいろと不公平だと思う。


 まったくいつも通りだ。明日、地球が滅ぶことを除けば。


 どうしてこうなってしまったのか誰にもわからない。核戦争が起きたとか危険なウイルスが蔓延したとかではないが、ありきたりといえばありきたりな、どこかの星が明日地球とぶつかるというのが原因。

 ニュースで聞く限りでは、もちろん多くの国が一致団結して色々と試したらしいが、隕石などという生温いものではないその星は、軌道修正も迎え撃つことも不可能だったそうだ。――まるで神様の意志でもはたらいているかのように。

 気付いた時には手遅れ。人体に影響を及ぼすことを危惧した細胞でさえ、自分で滅びる道を選ぶという。地球温暖化がどうの海面上昇が云々(うんぬん)と騒がれていた頃が懐かしい。生物学が専門のわたしは天文学には詳しくないが、宇宙にとって、地球という惑星は負担になり過ぎた。だから自殺(アポトーシス)と先輩も表現したのだろう。それは地球のか、それとも人間のか。


 本当にどうしようもない事態を目の前にすると、人間は不思議といつもと同じことをしたくなるようで。運命の日が近づくにつれ、世界規模の混乱は次第に沈静化していった。ナントカ教の信者も狂ったような祈りをするのは止めたようだし、政治家もヒステリックな議論を打ち切ったし、見飽きた特別番組はもはや動画投稿サイトでネタとして扱われ、サラリーマンは定時出勤の定時帰宅。

 多分に漏れずうちの研究室でも、明日には何の意味もなくなるのに、いつものように実験が行われていた。とはいえうちは割とゆるいから、毎朝時間通りに顔を見せるのは、わたしと先輩くらいで。

 カーテンの閉められた窓の方を見る。夜遅くまで残っているのも、わたしと先輩くらいだ。


 話してわかる相手なら命乞いもできたろうが、生命と比喩されていても、文字通り相手は聞く耳を持たない。地球さん地球さん、なんて、奇異の視線を集めるだけ。まあ実際にやらなくとも、表現に用いるのは個人の自由だけれど。

「僕たちが、星のこえを聴かなかったからだね」

「相変わらずロマンチストですね」

 どこがだよ、と内心で自分に突っ込みながら適当に返しておく。もうすぐ世界が滅亡するこの状況の、どこにロマンを感じたらいいのだ。そして先輩は文系に進むべきだったんじゃないだろうかと、時々思う。

「ロマンチックといえば、今日はイブだね」

「え」

「クリスマスイブ」

 ところが先輩はわたしの適当な返球を、拾った。

 似合わない。クリスマスイブなんて甘いイベント、気にしているとは微塵も思わなかった。世界滅亡イブとか言い出したら、それはそれでどきりとしただろうが。

「何かこう、青春っぽいこと、したかったなぁ。理系は男子ばかりだから、全然なかったよ」

 そう言って肩を竦める。先輩って本当によくわからない。

 ただ、そんな先輩にお世話になってきたのは事実で。彼が過去形を使ったことが少しだけ切なくて、「今クリスマスの話なんかしてどうするんですか」、それでわたしは冗談に笑う振りをしながら。

「でもわたしは先輩のこと好きですよ」

 すると先輩は「もう何度も聞いたよ」と苦笑いした。これも事実だ。何度も言った。


 別に特別な感情ではなくても、わたしは好意は素直に伝えたいと思っている。素敵だなと思った部分があれば、言葉で表現する。好きと言われて嫌な気分になる人は、そうそう居ないと思うから。

 ……というのはきっと理由の半分でしかなくて、たぶんわたしは、好意でバリケードを張っているのだ。好いてくれる相手を無下に扱うことなんて、大概の人間にはできないと知っている。

 人間は少なからず打算的に生きていると考えるのは、開き直りなのかもしれない。見返りを求める自分に、嫌気がさすこともたまにある。しかし自分の気持ちに正直であったという部分は、自信を持って誇ることができる。好きだと言って実った種は、残念ながら……だけれど。

「君って、なかなかの変わり者だよね」

「そうですか?」

 あなたに言われたらお仕舞いかも、と思わなくはない。

「けどまあ、嬉しかったよ。研究報告会の度に労いのメールくれたりさ、誕生日にわざわざプレゼントもらったりさ」

 思わず息を詰めた。わたしはやっぱり、優しい言葉をかけてもらうことが好きなんだろう。

 恋だなんだという話に興味がないと言えば嘘になるが、心から他人を好きになるというのが一体どういうことなのか、よく疑問に思ってきたのも本当。

「……ありがとね」

 その瞬間。わたしはそれまでで一番強く、世界が滅びて欲しくないと願った。あまりにも規模が大きすぎる危機へ初めて抱いた、些細だけれど具体的な抵抗感。

 「あーあ」、先輩は、天井を仰いで笑う。

「メリークリスマス、明日の宇宙」

 そうか、少し語弊があった。地球がなくなっても世界は終わらない。まるで腫瘍のような、不穏な分子を取り除いた宇宙では、また新しい物語が始められるのかもしれない。でも、わたし達がそれを見ることはきっとない。


 もう今日は、可愛い微生物が蠢くのを観察するのはやめようかな。だってレンズを覗くことができなくなってしまった。

 わたしは白衣の袖で目を拭って立ち上がり、戸棚から、茶渋の付いたマグカップを取り出した。たまにはいつもと違ったことでもしてみようか。向こうでわたしを見てくすくす笑っている、あの人の真似をして。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 拝読いたしました。 はじめまして相楽山椒です。 逆お気に入りから辿って訪問いたしました。 シンプルな切り口にシンプルな感情。 最後の段落で主人公と同じく涙腺が緩みました。 地球の阻止不能…
[一言] 拝読致しました。 僕はこういうお話は好きです。 高校時代、文系ながら生物を選択していたのですが、よく考えたものです。 「生物と世界は思いの外似通っているんだなぁ」 とか、作中にも出てきた「A…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ