江渡秋臣という男
私立十干高校に通う二年生の男子生徒。
多くの人間にとって、江渡秋臣という存在のパーソナリティはその一言で済んでしまうだろう。
誰も江渡のことを知らない。
趣味が何なのか。得意科目が何なのか。どんな音楽を聴くのか。
特技は?出身は?家族構成は?
単なる同級生から、その先の関係性に進めるための情報を誰も持たない。
江渡もまたそうした情報を開示しないし、相手から聞き出そうともしなかった。
誰もが江渡に無関心で、江渡もまた他者に対する興味が薄い。
故に彼はクラスでいつも一人で過ごしている。
「江渡おはよ~」
かといってイジメられているわけでもなければ、孤立しているわけでもなかった。
前の席の男子は江渡と目が合えばこうして挨拶をしてくれる。
それに対して江渡もまた
「ああ、おはよう」
と返す。
別段仲の良さを感じるようなやり取りではないが、少なくとも江渡を敬遠するような雰囲気はそこにはない。
江渡もまた目の前の男子に対して特に思うことはなかった。
挨拶をされたから挨拶を返す。人として当然のやり取りがあっただけ。そこに好感も嫌悪も何もない。
無味無臭の同級生。それがクラスメイトにとっての江渡秋臣である。
授業中、江渡は真面目にノートを取っている。
しかし板書を写しているわけではない。
教師が黒板に書き出している内容は、予習済みのノートにすでにある。
江渡が書き加えるのは、自分の理解と教師の説明に差があった部分だけだ。
授業は新しく教わる時間というより、前日に学んだ内容を照合する時間だった。
英語の授業では最初に英単語の小テストが行われた。
問題が記された一枚のプリントが、順々に前から送られてくる。
「ほい」
「ああ」
プリントを受け取り、江渡はすぐに一問目へ目を落とす。
前の席の男子も、もう江渡を見ていない。
江渡は筆箱からシャープペンシルを取り出した。
使うシャーペンはいつも同じ製図用のもの。筆箱には同じものが三本入っている。細長いガイドパイプのおかげで書いている文字が先端に隠れない。低重心でブレにくく、金属グリップは手汗でも滑らない。
普通のシャープペンでも当然字は書ける。
ただ、一日中書き続ける江渡にとって、その「わずかに見えない」「わずかに滑る」が鬱陶しいのだ。
江渡の一日はほとんどが書くことに費やされている。
ノートに記すのは勉強のことだけではない。
例えば今朝のホームルーム。
担任の丸山姫乃が連絡事項を伝えた。
「明後日、東棟二階渡り廊下で、天窓のブラインドの取り替えがある。昼休みいっぱいまで渡り廊下は使えなくなるからな」
周囲から「めんど」「その時間使わんな」と声が上がる。そもそも聞いていない生徒もいた。
江渡はというと、書いていた。
『4/10東棟2F渡廊下昼休み×
ブラインド交換
食堂→図書室:北1F経由+約2分』
取るに足らないことである。
忘れていたところで、当日通行止めを見てから迂回すればいい。
実際、江渡も大真面目にこの程度のことに対策を講じたいわけではない。
ただ、彼は頭に浮かんだことを文字してしまうだけだ。
そうして文字にすると問題が見える。
問題が視覚化されると自然と解決策も頭に浮かぶ。
頭に浮かんだならそれもまた書く。
そういう癖であった。
休み時間になっても江渡のやることはほとんど変わらない。
書き込むノートの種類が変わるだけである。
シャーペンを動かす手は休み時間でもそのまま。
偏執的なメモ魔である江渡だが、彼でなくても予習復習のために休み時間も机に向かっている生徒は何人かいる。加えてクラス最後列窓側という席配置もあって一日中書きものをしていても特に目立つことはない。
むしろ人の目を引くのは、教室の真ん中で朗らかに笑っている女子グループの方だろう。
「メルル、今日放課後どうする?」
「んー、今日はまだ決めてないかも。ていうか駅前のクレープ屋、今日まで限定のやつあるんだよね?」
「あ、イチゴの?」
「そうそう!あれ絶対おいしいじゃん!」
「じゃあ行く?」
「行きたーい!……けどアタシ昨日も寄り道したんだよね。お母さんに『学校行ってるのか食べ歩きしてるのか分からない』って言われたばっか」
「じゃあ今日も行けば?」
「なんで!?反省を促してよ!」
その中心にいるのが、メルルと呼ばれた女子生徒。
小鳥遊愛瑠は、二年次から十干高校へ転校してきた。
転校初日からよく喋る女子だった。
珍しい自分の名前を早々にネタにして、自己紹介だけでクラスを笑わせた。一か月も経たないうちに周囲から「メルル」と呼ばれ、今ではこうして友人に囲まれている。容姿も整っており、何かと人目を引く女子だった。
江渡も手を止め、ちらりとそちらを見る。
彼の場合は騒がしさに集中を乱され、反射的に視線が向いただけだ。
すぐにノートへ戻る。
集中。
そうすれば周囲の声は、ただの環境音になる。
にぎやかさを増す休み時間であっても、江渡は一人、静寂の中で文字を書き続けた。
昼休みは食堂で昼食をとる。
メニューは決まってたぬきそば。それに赤紫蘇のふりかけがかかったおにぎり二つにお茶である。たぬきそばがきつねうどんになる時もある。それ以外には週に一度程度の頻度でカレーライスを注文する。江渡が十干高校に入学してからこれ以外のものを注文したことはなかった。
周囲は友人同士で机を囲み、会話を楽しみながら食事をしている生徒が多い。にぎやかさの中で一人の江渡の静寂はなお一層強まる。
しかし何一つ気にならない。話せばそれだけ食事の時間が長引く。注文するメニューをほぼ固定しているのも選ぶ時間をかけたくないからだ。食事は腹が満ちればそれで済む。
そこへ必要以上の時間を使う理由はない。
お茶を飲み干して、江渡は食堂を出た。
今日も昼食中、言葉を発する必要はなかった。
食後は図書室で本を読みながら、必要なことをノートに書き写して過ごす。そうして昼休みが終われば、普段通り午後の授業を受ける。特別なことは何も起こらない。
教師が話し、江渡は書く。
授業が終われば、次の科目のノートを開く。
勉強以外で書き留めることがあれば、ナンバーだけが振られたノートを取り出す。
休み時間になれば、教室のあちこちで会話が始まる。
小鳥遊たちのグループからも何度か笑い声が上がった。
声は届いている。内容は頭に入らない。
音は聞こえていても、意味までは認識しない。集中下の静寂。
江渡はただ文字を書き連ねる。
途中、シャーペンの芯が詰まった。
ペン先を外して直したりはしない。すぐに二本目を取り出し、そのまま筆記を続ける。
芯の詰まった一本目は向きを逆にして筆箱へ戻した。解消するのは自室に戻ってからでいい。書く手を止めないための二本目、三本目だった。
頭に浮かんだものを文字として出力し続ける。
江渡の手は、ほとんどそのために使われている。
昔はもっと違うことに使っていた。
江渡の手は奏でていたし、構えていた。
だが今はどちらもしない。
カリカリと芯が紙を擦る。
江渡の手は、文字を書き続ける。
放課後。
終礼が終わった瞬間、教室の空気は一気に崩れる。
部活動に向かう者。友人と連れ立って帰る者。まだ席に残って話を続ける者。
行き先は様々だが、学校という抑圧から解放されて賑々しくなることは共通していた。
そんな放課後の騒がしさの中、江渡は手早く帰り支度を済ませる。
ノートと筆箱を鞄にしまい、あとは教室を出るだけ。
帰り際も誰にも声をかけられず、江渡もまた誰にも声をかけない。
今日、江渡が発した言葉は「ああ」と「おはよう」だけだった。
それだけで何の問題もなく、このクラスでの一日は終わる。
誰とも積極的に関わらず、文字を書き、本を読む一日。
今日に限ったことではない。
高校へ入学してから、ずっとこうである。
江渡の高校生活は、ほとんど一人で完結していた。
放課後までは、だが。




