7.警察を辞めると言ったな。それは無法ではなく、保安官(シェリフ)だ。
私たちが西部劇で見る「保安官」は、法治国家の清廉な公務員というよりは、「実力によって地域の秩序を維持し、その対価として利権を握る」という、極めて氏族的な、あるいは任侠的なキャラクターとして描かれます。
アメリカの保安官がなぜ「ヤクザの親分」的なのか、その理由をこれまでの「OSと統治」の文脈で整理すると、アメリカという国の根源的な性質が見えてきます。
1. 「法」が届かないフロンティアでの「力の委託」
西部開拓時代、ワシントン(連邦政府)の「法のOS」は、広大な未開拓地までは物理的に届いていませんでした。
自警団の延長: 法による統治がない場所では、人々は自分たちで武装して身を守るしかありません。保安官は、政府が派遣したエリートではなく、その地域の有力者や「一番喧嘩が強い者」が選ばれ、バッジを渡された存在でした。
暴力の独占権: 地域の秩序を守るために「暴力」を行使する権限を、コミュニティがその「親分」に委託したのです。これは、国家が成立する前の「氏族社会」におけるハーンの誕生プロセスと全く同じです。
2. 収益モデルとしての「正義」
西部劇の保安官はボランティアではありません。彼らは明確な「利権」を持っていました。
手数料ビジネス: 当時の保安官の収入の多くは、税金の徴収代行や、裁判の執行、犯罪者の逮捕による賞金などの「歩合制」でした。つまり、治安を維持すればするほど、あるいは特定の利権を保護すればするほど、彼らの懐が潤う仕組みです。
ヤクザ的「ショバ代」: 酒場や博打場の秩序を守る代わりに、そこから上がりを得る、あるいは特定の牧場主と結託してライバルを追い出す。これは「正義」という名のソフトウェアを被せた「実力による利権管理」であり、まさに質問者様が仰るヤクザの親分的構造です。
3. 「法の支配」ではなく「個人の支配」
西洋的な自由主義の建前は「法の支配」ですが、西部の現場では「誰がバッジを付けているか」という属人性がすべてでした。
ハーンとしての保安官: 彼が「これは犯罪だ」と言えば犯罪になり、彼が「これは正当防衛だ」と言えば無罪になる。法の解釈権をその「親分」が独占していたのです。
アメリカ的バイプレーヤーの原点: 現在のアメリカが、国際法に縛られず「ベネズエラ大統領を直接捕まえに行く」といった行動をとる時、彼らの中に眠っているのは、この「法など待っていられない。俺がルールだ」という西部の保安官OSです。
4. 結論:なぜ「ヤクザの親分」に見えるのか
それは、彼らが「法」という理論を振りかざしながら、実際には「力と利害」という氏族的な論理でコミュニティを回していたからです。
歴史の皮肉: アメリカは「法の支配」を世界に広めた国だと言われますが、その正体は、この「ヤクザの親分(保安官)」がバッジという免罪符を持って暴力を振るい、その結果として秩序が保たれたという「力の成功体験」に支えられています。
現代のアメリカが「世界の警察を辞める」と言っているのは、「ショバ代(他国からのリターン)も払わない奴らのために、わざわざ危ないバッジを付けてやる義理はない」という、極めて親分的な損得勘定に基づいているのです。




