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紅雨-架橋戦記-  作者: 法月 杏
一章
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七十九話・忍び入るべき宴の夜[2]



 宴会場の賑わいなどとは全くの無縁だという顔で、その部屋は静けさを纏っていた。


「失礼致します、お食事をお持ちしました」


 恐る恐る声を発して静寂を破ると、窓のある方から「そこに置いといて」と聞き慣れた声がした。

 下げていた頭を上げ、声の主を見るといつもの装束ではない着物で髪も下ろした見慣れない姿の里冉が、そこにいた。

 どくん、と心臓が跳ねる。本当に、いた。いなかったらどうしようと思っていたのに、意外にもすんなり、会えてしまった。


 そこ、と言われたであろう机の側に寄り、里冉の分の夕飯をそっと置く。その間ずっと視線を感じていたので顔を上げると、案の定、目が合った。


 数秒、じっと見つめられる。気付いて、るのか……? それとも見慣れない使用人を観察しているだけ……?


「君は……」

「お初にお目にかかります、里冉様」


 なんとなく鈴だと名乗れなくて、俺だと言ってしまいたくなって、そこで切ってしまった。

 里冉は「ああ、例の新入り……」とだけ言って、黙り込む。最初は聞き慣れた声だと思ったが、よく聞くとあまり聞いたことのない、温度のない声だった。こんなに鋭かったっけ、こいつの声。


「ねえ君、名前は?」


 どきりとする。

 今度こそは。そう思ってさっきは名乗れなかった鈴の名を、そっと口にした。


「そう、鈴……」


 さっきより少し柔らかくなった声。

 そういえば何か思い出すきっかけになれば、と思って里冉の女装時の名前と被せたんだっけ。


「……ね、こっちおいでよ」

「……! は、はい」


 想像していなかった言葉に面食らう。これ、もしかして記憶……あるんじゃねえの? 俺だってわかって……

 いや、余計な期待は捨てよう。ちゃんと直接確かめるためにきたんだろうが、俺。


「えっと……」


 なんで呼ばれたんだろう。という困惑をつい顔に出しながら、静かに里冉のそばへと寄り、正座する。するともう少し、と言わんばかりに手招きしてくる里冉。大人しくその指示に従っていると、いつの間にか触れられる距離まで近づいていた。

 と思った瞬間、頬に手が触れる。すらりと長い指。当たり前だが里冉の手だ。その感触に思わず泣きそうになるが、ぐっと堪えた。


「綺麗な目してるね、俺好みだ」

「へぁ」


 間抜けな声が出る。今こいつなんて言った。


「当主様にはもう会った?」

「はい」

「あの方も君みたいな真っ赤な瞳でさ」


 愛しそうに、そう言う。鈴の向こう側に十様を見ているのがわかって、途端に確信する。


 やっぱり、樹が言っていた通りだ。


「……当主様に似ているから、好みだと……?」


 思わず口をついて出る。やばい、今度こそ泣きそうだ。


 俺は里冉に会うためだけにここまで来たのに、当の里冉は俺なんか見えちゃいない。

 わかってた、けど、どっかでちょっと期待してたんだ。アイツのことだから忘れたふりして、ちゃっかり覚えてるんじゃないかって。


 そんなに簡単に消せるような記憶じゃないって。


「あぁ、いや……気を害した? 女の子に今のは確かに無神経だったね、ごめん」

「いえ……」


 泣きそうになったのがわかったのか、慌てて謝る里冉。やべ、今の鈴、はたから見ると完全に傷つきやすくてすぐ泣く女だ。


「俺、今この部屋を離れられなくて、暇してるんだよね」

「そう……なんですか」

「それに……理由もないのに穴が空いたみたいに、寂しくて堪らないんだ」


 今度は里冉が悲しげに微笑む。

 理由なら、まさに今、ここにあるのに。言いたいけど、言えなくて、何も言葉が出なくなる。


「……ねえ、鈴」


 里冉はそう言って鈴の手を取り、自身の口元に持っていく。指先に触れるように口付け、その綺麗すぎる微笑みを鈴に向けた。


「今夜だけ……どう?」


 その甘い声で〝鈴が口説かれている〟という現状を急速に理解し、俺は反射的に手を引いた。

 普通の女中なら、こんなことされたら完全に落ちるだろう。でも俺には、逆効果でしかなくて。


「……うん、まあ、そうだよね、ごめん」


 わかってた、とその声色が物語っていた。


「本当に、覚えてないのか」


 わざと地声で、呟く。

 もうバレてもいいと、むしろバラしてしまいたいと、そう思ってしまった。でも当の里冉はその顔にはてなを浮かべていて、まあ、だろうな。と今度は俺が「わかってた」と思う番だった。


「もしや里冉様はいつも使用人にこのようなことを……?」

「今のは本当に気の迷いだから、忘れて、お願い」


 うるせえ。最低男。


「……畏まりました」


 一生忘れられっかよ、こんなの。




   * * *




 初めて会うはずなのにどうしてか気になってしまった女中を帰した後、里冉は夕飯に手もつけずに窓の外をただ、眺めていた。


 食欲なんてなかった。

 この部屋に来てから、食事は胃をただ満たすだけの作業と化した。それだけでなく、今の里冉は大抵のことが極めてどうでもよかった。

 だから、最近突然雇われたらしい女中なんかに興味が向いたことに里冉自身、驚いていた。


「俺……ここで何してるんだろう……」


 何か大事なことを忘れている気がする。少し前まで元気だったことはわかるのに、自身が何をなくしてしまったのか、全く思い出せない。

 そう物思いに耽る里冉が泣きそうな表情を浮かべていると、部屋にまた人の気配が増えた。


「十様……!」


 帰って来た主の姿を見るなり、里冉は嬉しそうに駆け寄る。その姿を愛おしそうに見つめ、十は「ただいま」とその長い栗色の髪を撫でた。


「宴会はどうでしたか」

「相変わらずじゃ」


 十が宴会好きだというのは、法雨の人間なら誰でも知っていることだ。もちろん、里冉も。

 だが今は、その宴会よりも自分が優先されている。そんな優越感が里冉の穴をほんの少し、埋めた気がした。


 大抵のことがどうでもいい今の里冉には、十の愛情が全てだった。


 そしてそれは、十も同じだった。


「……何処にも行くな、里冉」


 膝枕をした愛しい人に向かって、十はそう囁く。

 優しく頭を撫でられ、満足げな里冉はふふ、と笑う。


「貴方のお傍以外の何処に、俺の居場所があると?」


 甘く艶やかな空気が二人の間に流れ始めた、その時。


 ────ヒュッ


 突然、暗器が飛んでくる。

 里冉がその着物に隠し持っていたらしい苦無で容易くそれを弾き、畳に転がした。


 先程までとは打って変わった雰囲気の里冉が戦闘態勢に入る一方で、何一つ動じない十。

 里冉は何処からか美しい紫の鞘の忍刀を取り出して、構える。すると暗闇から、二人を囲む形で静かな殺気を放った忍び達が姿を見せた。


 全員同じ狐面をつけた、五人の忍び。体格はバラバラで、子供もいるように思えた。


 普通の忍びなら、この人数を一人で相手するなど不可能だろう。

 しかし里冉は、普通の忍びではなかった。


「やれ」


 十の声を合図に、里冉がその刀を抜いた。


 一斉に襲いかかる忍び達をひらりと躱し、次々と斬り伏せていく。その蝶が舞うように美しく戦う里冉の姿を、十はしたり顔で眺めていた。

 投器、吹き矢、刃、そのどれもが十には届かない。里冉がその傍にいる限り、彼が主を想う限り。


 部屋が血で汚れるのを避けたらしい。わざと殺さないように鞘や柄を使いながら器用に忍び達を迎撃した里冉。彼は致命傷を負う前に、と忍びらしい賢明な判断で退いて行った忍び達が残した毒煙を吐き出す装置を外へと放り投げ、十を振り返る。


「……ご無事ですか」

「見ての通り」


 口の端を上げて笑う十に、安心した里冉は微笑んだ。


「中の人間しか知らぬ宴の夜に奇襲とは」


 確かに忍び入るべき夜の八つの内にあげられる程に、宴会の夜は忍びにとっては好条件だ。

 しかし今回の宴会は、傘下を含めた法雨の関係者、つまり中の人間しか知らない。


「内部の者が謀った、と」


 里冉の言葉に、十はニヤリと笑った。


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