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紅雨-架橋戦記-  作者: 法月 杏
一章
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五十話・春待つ桜


 甲賀。その一角、里を見下ろすように大きな桜の木が佇む高台。


 忍びは、そこにいた。


 甲賀で暮らす忍び。

 彼の本当の居場所は、伊賀にあった。


 あったはずだった。


 少し前、久々に呼び出しがあり伊賀に向かうと、待っていたのは彼が心酔する主……ではなく、その部下の忍びだった。

 聞けば、主の代わりに彼の首輪を外すことを命じられた、と。


 目の前が真っ暗になった彼は、気が付けば部下の忍びの亡骸の上に座っていた。


 首輪のない自身の首が酷く恨めしく思えて、爪が血で赤くなる程に掻き毟った。


 失ったのはたかが首輪一つ。

 しかし彼にとって、心酔する主との繋がりは、居場所は、それ一つ。


 主に貰ったその首輪が、彼の全てだった───────




 あの日、甲賀に居続ける理由も、伊賀者として生きる理由も、全てが無くなった。

 唯一残ったのは、主に貰った名前だけだった。

 いや、名前も消え失せたのかもしれない。どの道、主に呼んでもらえないのならば意味が無い。


 そんな彼が彷徨う内に無意識で辿り着いたのが、この場所だった。


 丁度一年ほど前。

 彼が甲賀で共に過ごす内によく一緒に居るようになった男と、この木の下に居た。

 自分の名前が嫌いだと話す泣き虫な男は、彼の珍しく少し本音を混ぜた言葉に、涙を流しながら笑っていた。

 桜色を映した涙を流す男の姿に、柄にもなく美しいと思ったことを、やけにはっきりと覚えている。


 何日ここでこうしているのだろうか。

 桜が咲くのが先か、息絶えるのが先か。


 彼は死んだように桜の下に倒れて、徐々に近付いてくる死の気配をただ感じていた。

 何も口にせず、指先ひとつ動かさず、このまま桜の根と一体化するのではないかと思う程に、しかしそれもいいかと思いながら、ただただ、そこに居た。




 何も無くなったはずの彼。

 皮肉にもその脳裏に浮かぶのは主の記憶ではなく、甲賀での思い出。


 どれもこれも、この桜のせいだ。

 自身と重なって見えるのが悪いのだ。

 自分で言った言葉が、それを聞いたあの男の表情が、どうしても焼き付いて離れないのだ。


 そんなことを考えながら、彼は霞む目で咲かない桜を睨みつけた。


『〝春〟なんて綺麗な字は、俺には似合わない』


『何言ってんの』


『な、お前こそ何して……』


『〝俺〟がこんなに似合う奴、世界中探しても───────』




 気が付けば、微かに動く唇で男の名前を呼んでいた。


 まともに声にはならなかった。


 それでも何度も呼んでるうちに、少しずつ、声に出して呼べた。ような気がした。


 〝俺〟の似合う、アイツにしか似合わないその名前。


 呼び続けた。


 呼んでるうちに、会いたいと思った。


 最期に、全てを失った後残った、唯一の感情だった。


 あの声で、名前を呼んで欲しいと思った。


 でもこれまで散々偽って、騙して、奪って、傷付けて、泣かせて生きてきた。

 そんな彼に、春は微笑まないだろう。

 最期の願いすら、報われるべきでないとすら思えた。




 それでも願っていた。


 春を待っていた。




 彼がタフだと自負していた体も、人である限りは衰弱していく。

 霞む視界では、咲かない桜では、見上げていても仕方なかった。


 気付けば体は着実に死に近づいているのに、心は段々と、とっくの昔に殺した筈の感情が息を吹き返して痛んでいた。


 命を捧げて仕えた主に、なんの前触れもなく呆気なく捨てられたこと。


 会いたいと願う男に、会えないこと。


 このまま男の声が聞けないまま、死ぬこと。


 全てが痛くて、苦しくて、こんなことなら春なんて待たずに自分の手でさっさととどめを刺していればよかったと後悔した。


 しかしもうそんな力はどこにも残っておらず、ただ待つしか無かった。




 気を失うように眠った。


 このまま死ぬのだと何度も思った。


 それでも意識はまだ途切れず、目覚めを繰り返した。





 何度目かに目が覚めたとき、ふと、気付く。


 春の匂いがしたことに。


『……』


 待ち望んでいた声が、名前を呼んだような気すらした。




 ゆっくりと、瞼を持ち上げた。


 ほとんど見えない視界。

 それでも映ったのは淡い淡い桜色と、青白磁の空、それから───────




「……櫻夜」




 桜色の涙を零す、春だった。

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