ふなばしアンダーグラウンド・グルメ
船橋駅の喧騒を抜けた、夜のひっそりとした路地裏。会社帰りの疲れたサラリーマン、田中一郎は、見慣れない小さな看板に目を留めた。「裏グルメ・きまぐれ堂」。怪しげだが、空腹には抗えない。勇気を出して暖簾をくぐると、店内は薄暗く、カウンターには恰幅の良い、顔に大きな傷のある店主が一人。
「いらっしゃい。今日は何にする?」
店主の低い声に、田中は少し緊張しながら「おすすめはありますか?」と尋ねた。
「おすすめねぇ…今日は特別に、『記憶をちょっぴり置いていく餃子』があるよ」
「記憶を…置いていく?」田中は思わず聞き返した。
店主はニヤリと笑い、「まあ、食べればわかるさ。ただし、食べた後に何かしら、ほんのちょっとしたことを忘れるんだ。大事なことじゃないから安心してくれ」と言った。
好奇心に負けた田中は、その奇妙な餃子を注文した。出てきた餃子は、見た目は普通の焼き餃子だが、一口食べると口の中に広がる複雑な旨味は、今まで味わったことのないものだった。あっという間に平らげ、満足した田中は店を後にした。
翌朝、田中はいつものように目覚めたが、何か違和感があった。会社に着き、自分のデスクに座ろうとした時、彼は自分が何の部署で、どんな仕事をしていたのか、全く思い出せないことに気づいたのだ。
「あれ…?ここはどこだ?私は…誰?」
周囲の同僚たちは、田中を訝しげに見ている。「田中さん、どうしたんですか?いつもの席ですよ」
パニックになりかけた田中だったが、ふと昨夜の餃子のことを思い出した。「記憶をちょっぴり置いていく餃子…まさか!」
その日から、田中は自分の部署や仕事内容を思い出すための、奇妙な冒険を始めることになる。同僚に過去の自分について聞き込みをしたり、デスクに残された書類を読み解いたり。まるで自分が主人公のミステリー小説の中に迷い込んだようだった。
数日後、田中は同僚との会話の中で、自分が「顧客満足度向上プロジェクト」のリーダーだったことを知った。そして、そのプロジェクトに関する重要な書類が、昨夜立ち寄った「裏グルメ・きまぐれ堂」に忘れてきた可能性に気づいたのだ。
再び店を訪れた田中は、店主に事情を説明した。店主は顎を撫でながら、「ああ、そういえば昨日、慌てて帰ったお客さんがいたな。これかい?」と、一枚のファイルを取り出した。
ファイルを受け取った瞬間、田中の中に、プロジェクトに関する記憶が鮮明に戻ってきた。同時に、自分がなぜこの店に来たのか、餃子を注文した時の会話、そして店を出るまでの記憶が、すっぽりと抜け落ちていることに気づいた。
「なるほど…本当にちょっぴり置いていくんですね」田中は苦笑いした。
店主は再びニヤリと笑い、「まあな。でも、おかげで君は、普段見過ごしていた自分の仕事の大切さに気づいただろう?たまには、ちょっとしたことを忘れるのも悪くないもんさ」と言った。
田中は、自分の席に戻り、同僚たちに謝罪し、再びプロジェクトに取り組み始めた。失われた数日間の記憶は戻らないが、彼は以前よりも少しだけ、自分の仕事に誇りを持つことができた気がした。
その夜、田中は再び「裏グルメ・きまぐれ堂」の暖簾をくぐった。
「こんばんは、店主さん。今日は何を忘れさせてくれるんですか?」
店主は笑って答えた。「さあ、それはきまぐれだ。でも、きっと君にとって、少しだけ面白い経験になるだろうよ」
ふなばしの夜は、今日もまた、少しだけ不思議な物語を紡いでいる。
いつもは異世界転生系を書くのですが、こういうのもいいですよね