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第6話 志摩の女王~真珠の宝剣伝説殺人事件~

作者: 目賀見勝利

志摩の神珠の続編です。

       《大和太郎事件簿第6話/志摩の女王》

       〜真珠の宝剣伝説殺人事件〜

   

※注;本篇は『志摩の神珠』の続編です。

        先に志摩の神珠を読むことを推奨いたします。(著者)



 志摩の女王1;プロローグ

 

 イエスは言った。『南の国の女王は裁きの時、今の時代の人々と共に立ちあがり、彼らを罪に定めるであろう。なぜならば、この女王はソロモンの知恵を聞くために地の果てからはるばる来たからである。見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。』(新約聖書 ルカによる福音書11章31節)

 

埼玉県東松山市の大和探偵事務所、2008年9月27日(土)午後4時30分頃


 大和太郎が事務所内のソファに寝そべって、ボンヤリしている。

FMラジオからチューリップが歌う『虹とスニーカーの頃』が聞こえている。


♪ わがままは (おおっ!) 男の罪  

♪ それを許さないのは    女の罪 

♪ 若かった  (おおっ!) 何もかもが

♪ あのスニーカーは もう捨てたかい?・・・・・・・♪♪♪


そして、電話のベルが鳴った。

太郎は事務机のところへ行き、電話の受話器を取った。


「はい。大和探偵事務所でございます。」

「三重県志摩大王崎の橘幸平です。」

「ああ、お久しぶりです。」と太郎は答えながら真珠の宝剣の事を思い出していた。

「御無沙汰しております。突然ですが、ちょっとお願いが有ります。」

「何でしょう?」

「私の知り合いが殺人事件の重要参考人として警察に出頭して取り調べを受けています。まだ、容疑者としての逮捕には至っていませんが、弁護士さんはついています。事件が事件ですので大和さんのお力を御借りできればと思い、電話しました。もちろん、費用はお支払いたします。」

「他ならぬ橘さんのご要請ですから、喜んで協力させていただきます。 ところで、場所はどちらですか?」

「三重県の松阪市です。こちらまで、ご足労願えますか?」

「判りました。明日の午後には松阪市に到着いたします。待ち合わせ場所はどちらにいたしましょうか?」

「松阪市の斎宮さいくう歴史博物館内の喫茶室にいたしましょう。近鉄山田線の斎宮駅から徒歩で15分くらいの距離です。」

「到着時刻は列車の時刻表で確認してから、後ほどご連絡いたします。この携帯電話の番号でよろしいですね。」と、太郎は電話器の液晶画面に表示されている相手電話番号を確認しながら言った。

「事件の概要を聞かせてもらえますか?」と太郎が訊いた。

「詳細は明日お話いたしますが、知人の南部高行なんぶたかゆきと云う人物が、本人所有の日本刀で建築会社社長の足利健夫氏を刺殺したと云うのが警察の見解です。私には真偽は判りませんが、南部さんの人柄からして殺人を犯すとは思えません。弁護士さんの話では、南部さんは容疑を否定しているそうです。大和さんに新犯人を見つけて南部さんの無実を証明していただきたいのです。」

「殺人現場はその斎宮歴史博物館の近くですか?」と太郎が訊いた。

「ええ、そうです。斎宮歴史博物館近くの斎宮跡地公園内です。」と橘幸平が答えた。


斎宮さいくう制度とは

 伊勢神宮にいます天照大御神の御霊みたまに仕えるための未婚の皇室女性を京都朝廷内から伊勢にある斎宮寮(役所)に斎王さいおうとして派遣した制度。天皇が代替りする毎に新しい斎王が派遣された。当初は天皇の娘(皇女)や天皇家以外の皇族の娘(女王)を派遣していた。制度が定められた670頃(天武天皇)から皇室女性が占いで選択されるようになった。制度は南北朝時代(後醍醐天皇)までの660年間続いた。斎宮寮のあった場所は今の斎宮跡歴史ロマン広場周辺である。

制度確定以前の最初は、11代垂仁すいにん天皇の娘である倭姫が天照大御神の託宣で奈良から大御神の永住地を求めて天照大御神の御霊(神鏡)を輿に乗せて近畿・中京地方を放浪し、二見浦に上陸し、伊勢の地に安住するとの託宣を受けたのが始まりである。

倭姫自身は現在の松阪市ではなく、志摩半島の磯部にある伊雑宮いざわのみやに安住した。


著者の想像であるが、斎王は天照大御神の託宣(神託)を口述するための巫女の役割を果たしたと考えられる。神託は鎮魂帰神法(神の霊が巫女に神懸りする行法)を用いて真夜中の暗闇の中で行われたと思われる。天の岩戸開きの神業の如く、神功皇后の神託口述、宇佐八幡での託宣なども同様に真夜中の暗闇の中で行われたと思われる。鎮魂帰神法では、神懸りした神が本物かどうかを審神さにわするため、霊と対話する能力と知識がある人物が必要である。一般的には修行と勉学を積んだ霊能者が霊視することにより審査するのが確実であろう。



 志摩の女王2;

松阪市内のエステティックサロン「シバの女王」社長室、2008年9月27日午後11時頃


 軽いめまいと耳鳴りを感じながら、田川順子はパソコン画面の売上表を見ていた。

「リーマンショック以来客足が急激に落ちて来ている。今までは、中小企業の社長夫人や重役夫人を狙った戦略が効果を上げていたから業績はよかったのに。中小企業の倒産で顧客の来店回数が減って、売り上げが落ちている。なんとか新しい戦略を打ち出さないと、このままだと、わが社も倒産することになるわね。どうしたらいいのかしら?」

焦燥感からくるストレスと多忙の為か、田川順子はこのところ、軽いめまいと耳鳴りにたびたび襲われていた。

「耳鼻咽喉科のお医者さまからもらった薬には筋肉増強剤のステロイドが含まれているから飲めないわね。マラソン大会のドーピング検査で陽性が出れば出場停止になってしまうわ。」と思いながら、田川順子はめまいと耳鳴りに耐えていた。


中京地域の中小企業社長夫人を狙った地域戦略店「シバの女王」と男性エステティック戦略全国チェーン店「ソロモンの宮殿」がヒットして、今年の7月までは順調に営業成績を伸ばしていた。しかし、リーマンショックによる世界的金融経済の破綻で中小企業倒産が増加しつつあり、エステ顧客の減少が目立ち始めていた。先見性のある田川順子は早くも新しい事業展開のアイデアを考え始めていた。


「『シバの女王』はお肌の脱毛とアロマ戦術を継続しながら薬膳料理のパーティ会場を連携させましょう。顧客ターゲットは社長夫人から30歳前半のOLに変更だわね。『ソロモンの宮殿』はメタボ対策の機械『テクトロン』のラインアップ充実と和風会石料理の連携を推進できる体制強化がポイントね。顧客ターゲット層は30歳代後半になるかな?広告宣伝費用も必要ね。銀行からの融資を引き出す算段をしなくちゃ。また、南部さんに甘えちゃおうかな・・・。明日のゴルフが楽しみだわ、うふふ・・。」

このとき、田川順子は南部高行が殺人事件に巻き込まれていることを、まだ知らなかった。



※シバの女王

 紀元前940年ころ、アラビア半島南部に乳香などの貿易で栄えたシバ王国があったとされる。現在のイエメン共和国やオマーン国のある所である。このころ、イスラエル王国のソロモン王は知恵に富んだ国王で、貿易などを通じてイスラエル王国を繁栄させ、みごとな神殿と宮殿を建てていた。シバ王国の女王は、ソロモンの知恵を確認するため、イスラエル王国のエルサレムにいるソロモン王を訪問し、二人は結ばれる。この時に生まれた子が初代エチオピア国王になったとされている。そのため、欧米ではシバ王国はアフリカにあったと考えている人が多くいるらしい。また、エルサレムを訪問する時、沼に掛った橋の木を見た女王は、将来この木がキリストのはりつけにされる十字架となることを予見し、足で踏むことをやめ礼拝した。それを聞いたソロモン王はその木を地中深くに埋めたが、時代を経てその地の上に池が作られ、キリスト受難の時にその木が水面に浮かび上がって来て、十字架が作られる。これが聖十字架伝説である。キリストが磔にされた十字架は聖十字架と呼ばれている。後年、キリスト教を認めた古代ローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナが紀元326年9月14日にエルサレム近郊で聖十字架を発見する。正教会系のキリスト教国では9月14日を『十字架挙栄祭』と呼んで、木組の十字架を立てる祝典が毎年おこなわれている。


また、7〜11世紀ころのヨーロッパでもてはやされた伝説がある。ソロモンの宮殿に案内されたシバの女王はガラスの床があまりにピカピカであるため水が張られていると思い、衣のすそをたくし上げて通ろうとした。その時、ソロモンや宮殿の人々に足のすね毛が深いのを見られてしまう。シバの女王が毛深いのを見たソロモンは消石灰とヒ素を含む水薬で女王の肌の脱毛を行ったらしい。すべすべした肌と乳香の甘い香りに惑わされたソロモン王と女王は愛しあいエチオピア王が誕生したと云う訳である。エステサロンの脱毛サービスの起源はシバの女王にあり?



 志摩の女王3;

斎宮博物館内の喫茶室、2008年9月28日 (日)午後14時頃


 大和太郎と橘幸平とMS銀行顧問弁護士の阿部氏の三人が紅茶を飲みながら話している。

阿部弁護士は、刑事訴訟の弁護経験のあるとの事からMS銀行東京本社から派遣されてきた人物である。南部高行が警察で事情聴取を受ける際には同席し、理不尽な聴取が行われないようにするのが阿部弁護士の役目であった。

「南部さんはMS銀行の松阪支店長です。MS銀行は財閥系の銀行で、江戸時代は呉服商MS屋としてこの松阪で発祥した財閥です。ですから、MS銀行の将来を担う幹部候補の人材が松阪支店長を務める慣例があります。南部さんの人柄は明るく、裏表のない性格です。殺人を犯すとは思えません。家系もしっかりしています。江戸時代は東北地方の南部藩内で南部鉄瓶なんぶてつびんなどを扱う商いをしていた近江商人の家柄の人です。明治時代になって平民も名字を許された時に南部姓を名乗ることになったようです。商家は南部藩御用達であったため、藩主の南部氏とも懇意であったらしいです。藩主である南部氏のご先祖は、南北朝時代には南朝派である北畠顕家きたばたけあきいえの重臣でもありました。例の真珠の宝剣について調べている時に南部さんと知り合いになりました。南部藩城主口伝の宝剣に関するお話なども聞かせていただき、大変お世話になっている方です。殺人に使われた日本刀は自宅の応接間に飾られていた物のようで、ご先祖が南部藩主から賜わった代物のようです。妖刀『村正むらまさ』と呼ばれる刀だそうです。なんでも、刀鍛冶かたなかじの村正が鍛えた刀は、徳川家康の祖父と父を殺し、そして、息子信康の切腹における介錯刀でもあったと云います。家康自身も村正銘の槍の刃で指を斬られたことのある刀物のため、妖刀と呼ばれるようになったのだそうです。殺人事件が発生した日の夜中に南部さんの自宅から盗まれ、その日の早朝に斎宮跡地公園で殺されている被害者の横に転がっているのが発見されました。血糊が付いた南部高行氏所有の刀剣が転がっている横で被害者はうつ伏せになって倒れていたようです。刀剣のさやはまだ発見されていません。被害者は左胸を後ろからひと刺しされ、心臓が破裂していたとの事です。」と橘幸平が言った。

「南部さんと被害者である足利健夫さんとの関係は?」と大和太郎が訊いた。

「伊勢志摩観光カントリーと云うゴルフクラブの会員同士で、それなりの付き合いはあったようです。足利さんは中京地域では中堅の建築会社社長です。足利さんはMS銀行から事業資金の融資を受けていたようです。」

「金銭トラブルでもあったのでしょうか?」

「それは判りません。警察も銀行も何も話していません。」

「南部さんの話では、足利氏の建築会社は建築不況の影響で業績は思わしくなかったようです。足利氏との個人的トラブルはないが、建築会社から融資金の返済期限の延長を求められていたようです。」と阿部弁護士が付け加えた。

「お話の内容から、足利氏周辺の調査が必要です。何かの意図があって南部氏所有の刀が凶器として利用された疑いもありますので、南部氏周辺も調査いたします。できれば、南部氏から直接お話を聞きたいのですが、面談時間を取れますか?」と太郎が訊いた。

「今日の夕方、食事をしながら南部さんと話す時間を準備してあります。昼間はゴルフの接待で不在です。」と橘幸平が言った。

「犯人に到達できますかね、大和さん?」と阿部弁護士が訊いた。

「殺害状況から、犯人は力の強い男性ではないかと想像できます。足利氏が立った状態で後方から日本刀で心臓を一刺しできる人物となると、それほど多くの人間はいないでしょう。足利氏の身長がどのくらいかにもよりますが、刀の扱いも難しいですしね。肋骨に守られた心臓まで、刀を一刺しできる人物が南部氏と足利氏の周辺にいるかどうかですね。足利氏が屋外の地面にうつ伏せ状態でいるとは考えにくいですからね。撲打して気絶させ倒した後で刀を突き刺したとなれば話は別ですが。そして、殺人の動機は何か?殺害現場がこの斎宮跡地でなければならなかったかどうかも今後の調査の観点になります。何故、刀の鞘が殺害現場で発見されていないのかも疑問点の一つですね。凶器の刀を残しているのですから、鞘を隠す必要があったのかどうか?後で、殺害現場を見ておきます。現場は斎宮跡宮165次発掘調査区域でしたね。」と太郎が再確認した。

「ところで、橘さんの霊能力で犯人を見ることはできないのですか?」と太郎が言った。

「私の霊能力は目の前のある霊的存在に反応するだけです。犯人を透視する能力はありません。」と橘幸平が答えた。



 志摩の女王4;

松阪駅近くのホテル「サンタウン」内レストラン、2008年9月28日 (日)午後18時頃


南部高行、田川順子と大和太郎、橘幸平の四人がテーブルを囲みながら、フランス料理を食べている。

田川順子は、接待ゴルフ中に南部高行から足利健夫が高行の刀で殺されたことを聞き、心配になって高行に着いてきていた。足利健夫は男性エステ『ソロモンの宮殿』のVIP会員であったので顔見知りであった。私立探偵と南部氏が会って話をすることを聞き、自分も役に立つのではないかと思い、南部高行について来ていた。万一、南部高行が警察に逮捕され有罪になると、エステサロンへの融資話にも暗雲が立ち込めると思い、『何とかしなくては』と思っているようでもある。


「警察での取り調べは厳しいですか?」と太郎がワインを飲みながらに訊いた。

「いえ、刑事さんは丁寧に訊いてきますから、大丈夫です。」と高行が答えた。

「警察はどういった事を訊いてきましたか?」

「建築会社の業績が悪いのを刑事さんは知っているようでした。『建築会社への融資金の貸しはがしを行っているのではないか』と訊いてきました。別にそのような事は行っていないのですが、再三、そのことを訊かれました。私が、足利氏を殺して、足利氏が加入している三億円の生命保険金から融資金の回収をしようとしているのではないかと疑っているようでした。そこを何度も訊かれました。」

「なるほど、警察の狙いはそこですか。刀の件では何か訊かれましたか?」

「私は剣道三段ですから、刀の扱いは堪能であると見られています。刑事さんは、ご自分たちも剣道をするはずですから、真剣と竹刀の扱いは全く別物であるのを知っているはずです。それでも、刀の扱い能力は充分あるとお考えのようでした。確かに、その通りですが・・・・。」

「警察の立場になって考えれば、犯人に最も近い人物は南部さんであると考えるのは当然でしょう。アリバイはないのですね。」

「はい。刑事さんの話では、足利さんの死亡推定時刻は9月12日(金)の午後10時から翌朝の午前3時とのことでした。当日は接待でお酒を飲んでいましたから、帰宅したのは午後9時を過ぎていました。シャワーを浴びて、午後11時にはベッドに入りましたからアリバイの証人はいません。私は、東京からの単身赴任で、銀行の支店長用の社宅に住んでいます。一戸健の平屋ですが、洋室の応接間、台所、リビング、寝室、和室×2の6部屋あります。庭への出入りはベランダ出口から行います。凶器に使われた村正は応接間に飾ってありました。時々手入れをしたり、庭先で素振りをしたりしていましたがね。」

「南部さんが刀で人の背後から心臓を刺すとすれば、刀をどのように扱いますか?」

「先ず、相手の背中の面に直角に足を広げて立ちますね。そして、私は右利きですから相手の左手方向に顔は向いていますね。刀は正眼に構える場合の握りで持ちます。そして、その握りのまま、腕を曲げて、刀を握っている両手はのどの高さに構えます。」と身振り、手ぶりを交えながら、南部高行が言った。

「その場合、刀の刃の傾きは刃の稜線を上にして45度くらいになりますかね?」と太郎が訊いた。

「そのくらいですね。」と南部が答えた。

「被害者の足利健夫さんの身長は?」

「1メーター75センチくらいでしたかね。」と南部が答えた。

「失礼ですが、南部さんの身長は?」

「1メーター70センチです。」

「そうすると、被害者の心臓を一突きしたとすれば、刀傷の差し込み角度は水平か、やや下向きですかね?」

「そう成りますかね。」と南部が言った。

刀傷かたなきずについて警察は何かいっていましたか?」

「いえ、何も聞いていません。しかし、私の身長と喉までの高さをメジャーで測られました。」

「そうですか。ところで、殺害現場を見てきましたが、夜中には人通りはないと思われますし、街灯もなかったですから、暗がりの中で足利氏の背後から音を殺して近づくには無理があります。足利氏は知り合いと話をしていて、なんらかの理由で相手に背中を向けた。そのタイミングを狙って刀で刺殺した、と云ったところでしょうか?」と太郎が推理した。

「どのような話をしていたのでしょうかね?」

「それが、斎宮跡地と云う殺害現場と関係があるかどうかですね。また、妖刀村正と関係があるかどうかですね。この場所での話合いに刀を持参して足利氏に怪しまれない理由は何であったかですね。とところで、懐中電灯などの灯火類は殺害現場には残っていなかったのでしたね?」

「ええ、弁護士さんの話ではそうです。」と橘幸平が言った。

「懐中電灯と刀の鞘ですか。ふーむ。」と太郎が考え込んだ。

「ところで、刀を盗んだ犯人の新入経路は何処かわかっていますか?」と太郎が南部氏に訊いた。

「接待で帰宅した夜は応接間に入っていませんので、いつ盗まれたのかは判りません。前日の夜には、応接間に刀があるのを確認しています。各部屋の窓には格子が付いていますから盗賊の侵入はありませんでした。庭先のベランダへの出入り口は翌朝鍵が内側より掛っているのを確認しました。」

「玄関入口のドアーの鍵は開いていたのでしょうか?」

「朝には鍵が掛っていましたが、前夜帰宅した時はどうであったか?少し酔っていましたので、鍵を開けて中に入ったのかどうか記憶にありませんでした。不覚です。昼間に盗まれた可能性もあります。」

「御自宅には監視カメラは設置されていないのですか?」と太郎が訊いた。

「ええ、ありません。庭先のベランダへの出口から侵入した形跡はありませんでした。」

「今までのお話から、盗賊は合鍵を持っていた可能性もあるわけですね。」

「ええ、その可能性はあります。朝は確かに玄関ドアーの鍵を掛けて出て行きました。毎朝、車で迎えに来る銀行の運転手もそれは確認しています。」

「ドアーの鍵は新しく入居される毎に新品に取りかえているのですか?」

「玄関は新品に取り換えていますが、勝手口はそのままです。」

「勝手口は外からキーで鍵が開けられるのですか?」

「ええ。しかし、通常はチェーンを掛けていますから、キーだけでは中に入れません。内側からチェーンを外さなければなりません。」

「玄関の鍵はシリンダー錠ですか?」

「ええ、そうです。」

「盗賊は合鍵ではなく、ピッキングかサムターン回しで侵入した可能性もありますかね。ふーむ。ピッキングやサムターン回しの技術と道具を持っている人間ですかね、侵入者は。ところで、刀の鞘が発見されていませんが、何か心当たりはありますか?」と太郎が訊いた。

「いえ、特にありません。指紋でもついているので、他のどこかで処分したのではないでしょうか?」

「その可能性もありますが、盗みだす意志があったのですから、犯人は、手袋くらいは準備していたはずです。何か引っかかるのですがね。ところで、村正の製作年代は判っていますか?」と太郎が訊いた。

「ええ、刀身に彫られている銘が文禄2年ですから、戦国時代の1593年の作です。先祖からの言い伝えですが、江戸時代末期に当時の藩主であった南部公から下賜された時、この刀の謂われを聞いたそうです。南部家は南北朝時代には北畠顕家の重臣として陸奥国に随行し、北畠家に協力しています。南朝側が足利尊氏あしかがたかうじに敗れ、北畠家が没落したころには、この地域の豪族としての地位を築いていました。戦国時代に入り、豊臣秀吉の小田原城攻めに参戦し、南部7郡(岩手、青森地域)の本領安堵を受けます。このころ、伊勢松坂城主であったとする武家が北畠時代の武家の仲介で南部家を訪問し、伊達政宗への紹介を願い出てきました。その時に贈答品として持参したのが刀剣村正と真珠が埋め込まれた古代刀であったようです。古代刀はほどなく盗難にあい、江戸末期の藩主である南部公にはどのような代物であったかは判らなくなっていました。ただ、先祖から口伝として話が残っていたらしいのです。」と高行が説明した。

「私の推理では、その伊勢松坂城主と云うのは、伊達藩玉山金山代の松坂徳右エ門定久の父親である松坂小太郎定盛です。しかし、松坂小太郎定盛が戦に敗れたとされる1593年の松坂城主は服部采女正はっとりうねめのしょう一忠です。織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った頃は服部小平太と呼ばれていた人物です。采女うねめと云うのはめかけあるいは側室の系統を意味しますが、采女正と云うのは官位で、宮中の女官を管理する部署長をいいます。同姓から判断すると服部半蔵と服部一忠が親戚であった可能性もあります。それから、松坂小太郎定盛なる人物が松坂城主になったという記録はありません。」と橘幸平が言った。

「どういう事ですか?」と太郎が訊いた。

「これからの話は私の推理ですが、私の修験道の師が『真珠の宝剣』を天眼通力してその経歴を霊視した内容と歴史的事実を組み合わせ考えました。まず、歴史的事実では服部一忠は1593年には関白豊臣秀次の重臣に指名され京都伏見に上っています。そして1595年の秀次謀反(秀吉の陰謀)に連座したとして、上杉景勝に預けられ切腹を命じられています。実際には、義の人である上杉景勝は無実の服部一忠を逃がしていると思われます。そして、服部一忠は織田信長の家来時代の知り合いである徳川家康に助けを求めた可能性があります。当時、家康は秀吉に対抗できる唯一の武将でしたからね。そして、秀吉死亡後の天下取りを狙う家康は伊達政宗を取り込む作戦の一員として、服部一忠とその息子を利用することを思いつき、南部藩を介して伊達藩に松坂城主の子としてもぐりこませます。これが、松坂小太郎定盛とその息子である松坂徳右エ門定久です。そして、遠縁にあたる服部半蔵と組ませて、陸前玉山に東照結界構築の計画を推進させます。霊能者である半蔵は真珠の埋め込まれた古代刀、すなわち『真珠の宝剣』を南部藩から盗み出し、松坂小太郎定盛と息子の徳右エ門、すなわち服部一忠とその息子の協力を受け、陸前高田の氷上山で結界構築の神業を行います。そして、この神業を知った伊達政宗は『神には勝てぬ』と言って、徳川家康の天下取りに協力することを決心します。」と橘幸平が自分の推理を披露した。

「真珠の宝剣が結界構築に役立つことを服部半蔵は知っていたのでしょうか?」と太郎が訊いた

「それを知っていたのは服部一忠でしょう。一忠が松坂城主になる前は尾張の津島地域の領主をしています。そして、この地にはスサノオを祀る牛頭天王社、すなわち津島神社があり、『八広矛やひろほこ』が神剣として古代に祀られていたことを知っていました。何故に服部一忠がそれを知ったかですが、津島神社の摂社に弥五郎殿社と云うのがあります。1346年(平安時代)に堀田正泰と云う神社を守る社家の人がこの弥五郎殿社を創建しました。祭神は大己貴命おおなむちのみこと武内宿禰たけうちのすくねです。堀田家と云うのは武内宿禰の子孫です。ある時、堀田正泰の夢枕に先祖である武内宿禰が現れて『三韓遠征から帰国した神功皇后が真珠の宝剣と水晶玉を津島神社に奉納し、八広矛の霊験をその矛に封印し、水晶玉には新羅しらぎの神、すなわち新羅神しんらこうを封印した』ことを伝えます。神功皇后の時代には津島神社とは呼ばないで、スサノオのほこらとでも呼ばれていたことでしょう。そして、この真珠の宝剣には弥五郎と呼ぶ五つの真珠と弥五助と呼ぶ五つの真珠、合計10個の真珠が埋め込まれたことと、その矛が持つ霊験を伝えます。しかし、平安時代にはそのような宝剣や宝剣伝説は神社には存在していませんでした。そこで、宝剣の代わりとして弥五郎殿社を建て、真珠の宝剣の代わりとして真守造まさもりつくり銘の刀剣一振りを納め、宝剣が作られた出雲地方の神である大己貴命と武内宿禰を祀りました。真守まさもりは『しんじゅ』と発音できるので、一文字七頭真守作の刀剣を奉納することにしたとの言い伝えです。神功皇后が真珠の宝剣を奉納した後、第21代天皇の雄略が志摩に攻め入ります。この時、雄略天皇は津島神社の真珠の宝剣と水晶玉を守り神として持ち出して戦い、勝利します。じつは、雄略に滅ぼされた豪族と云うのは、私の先祖である橘一族でした。当時、雄略天皇はワカタケル大王と呼ばれていました。志摩半島の大王崎の大王とはワカタケル、すなわち雄略天皇のことです。この戦闘で活躍した雄略天皇の側近が死んだ時に志摩の大王崎にある古墳に真珠の宝剣は副葬品として埋葬さました。

当時は、津島神社のある地域は津積つつみの志摩と呼ばれていました。雄略天皇は神のご加護に感謝し、征服地を志摩と命名しました。この伝説は弥五郎講を営む人々の中の一部の人の間で口伝されてきた話です。真偽が不明なので口伝になっていたようです。服部一忠は津島地域の領主時代にこの話を知ったのでしょう。南北朝時代、北畠顕家きたばたけあきいえが大王崎地域を支配していた時代に古墳から真珠の宝剣を発見します。戦国時代、九鬼水軍と織田信長軍が伊勢志摩を攻略した時、信長の家臣である服部一忠も参戦し、真珠の宝剣の存在を知り、それを譲り受けます。宝剣を持っていたのは波切郷の九鬼弥五助浄隆でした。そして、服部一忠から南部藩にこの宝剣が一度だけ渡ることになります。服部半蔵と服部一忠の最初の考えでは妖刀村正のみを南部藩への手土産と考えていたようです。当時の藩主南部信直は藩内から出る砂鉄や鉄鉱石を用いて鉄器や刀の製作を考えていたのを服部半蔵配下の忍者たちの情報から知っていたようです。しかし、南部信直藩主は松坂小太郎定盛に会って、この人物は服部一忠であると見抜きます。当時、南部藩では北畠顕家の子孫を藩内に住まわせていたので、真珠の宝剣が九鬼家に奪われ、その九鬼一族と手を結んでいた織田信長の家臣である服部一忠の手に宝剣が渡った情報を聞き知っていたのでしょう。そして、1593年ころの松坂城主に松坂何某なる人物がいない事も知っていた。南部一族は北畠顕家の家臣時代には伊勢志摩地方を管理していたので、松阪地域の情報は知り合いから得ていたと思われます。そして、真珠の宝剣を献上してもらえれば服部一忠を伊達政宗に紹介すると持ちかけます。背後に徳川家康と服部半蔵の東照結界構築計画がある事には気づいていなかったようですがね。私の修験道の師の霊視では、真珠の宝剣と妖刀村正が南部藩に献上された時、服部半蔵の呪術で宝剣の霊気を分け授けられたもう一本の村正が南部藩内に持ち込まれ、石祠の中に収められたようです。服部半蔵が何を考えて石祠を創り、その中に2本目の村正を納めたのかは判りませんが。その地は陸前高田を含む霊ライン上の地域だったようです。私の想像では宮古市の月山か十二神山ではないかと思っています。この村正がその後どうなったかは霊視できなかったようです。ちなみに、『八広矛やひろほこ』と云うのは天御中主あめのみなかぬし命が地上の混とんとしていた時代に大海を掻きまわして陸地を創造するのに使った矛とされています。牛頭天王であるスサノオは天照大御神から海原を治める命を受けて地上に降臨した神であり、八広矛とは霊的なもので物質としての剣では存在しません。地上の海を治めるべく地上に降臨したスサノオが携えていた剣は十拳剣とつかのつるぎですが、十拳剣に宿る霊力は八広矛のものと考えられます。呪術師の世界ではよしを剣にたとえる場合があります。津島神社の神葦みよし神事のよしは八広矛をイメージしています。

ところで、田代真珠の社長である田代幸造さんは知り合いの紹介で松阪市内の骨董商から真珠の宝剣を購入しました。その骨董商の話では、元の所有者は徳川家旗本であったらしいのです。この話の真偽は不明ですが、刀剣類の骨董商仲間では密かに語り継がれているらしいのです。江戸城を無血開城する以前、西郷隆盛が率いる官軍が静岡の駿府城に攻め入る前に、駿府城下に住む徳川家の旗本が家宝であった真珠の宝剣を売りに出し、金銭に替え、戦いの資金にしたようです。徳川慶喜の命により、実際には戦闘は行われませんでしたがね。私の推理では、この旗本は服部采女正一忠の子孫であったのではないかと考えています。陸前高田の氷神山で服部半蔵と真珠の宝剣で東照結界構築の神業を終えた松坂小太郎定盛こと服部一忠は徳川家康の家臣となり、駿府城下に住みます。そして、駿府城下に尾張の牛頭天王社(津島神社)を勧請し、神社を創建します。それが、現在の静岡市駿河区津島町にある津島神社です。当時は天王社と呼んでいたようですが、この神社に真珠の宝剣をひそかに祀ったのではないでしょうか。本来、南部藩に戻すべきであったのでしょうが、盗んだのが徳川家康配下の服部半蔵と判るのは不都合であると考えたのでしょう。また、本来は津島神社に祀られるべき八広矛でもあったので、神社を創建したのではないかと考えられます。そして、真珠の宝剣は服部家の子孫に守られてきたのではないかと、私は推察しています。服部家の子孫は服部一忠が戦国時代に松坂城主であった時からの付き合いがある呉服商に真珠の宝剣を売り渡したようです。服部家とはもともと機織布はたおりぬのを司る神服織機殿かんはとりはたどの神社と繋がりがあったと考えられます。ある意味で遠い親戚にお金を融通してもらったことになるでしょう。」幸平が自分の研究推理した宝剣の由来を説明した。

津島つしまは九州と韓国の間にある対馬つしまに関係があるのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「スサノオは剣に関係しますし、天照大御神から海原を納めよと命じられていますから、やはり海人族とは関係するのではないでしょうか。しかし、私の調べた範囲では、対馬にはスサノオを祀る神社はありませんでした。スサノオが最初に降臨した地は韓国とされています。そこから出雲に渡り、日本に根づいて行きました。韓国の鉄鉱地である浦項、出雲、尾張津島、静岡がほぼ同一直線上に乗っていますが、対馬ははずれています。ただ、対馬の海神神社には新羅仏の像が国宝として存在しています。神功皇后は三韓遠征の勝利を感謝して八流の旗をこの神社に奉納しています。八重垣、八雲、八岐大蛇やまたのおろちなど、やーのつく場合はスサノオが関係していると考えるのが妥当でしょう。」と幸平が言った。

「水晶玉には新羅神しんらこうを封印したと云うことでしたが、その水晶玉はもしかして、『志摩の真珠』と云うことでしょうか?」と太郎が幸平に訊いた。

「たぶんそうでしょう。私の修験の師の霊視でも水晶玉が宝剣と一緒に登場しています。ところで、第17代仲哀天皇のきさきである神功皇后は三韓遠征で新羅国を平定し帰朝しましたが、その時、新羅国の技術者や知恵者、霊能者シャーマンを連れ帰ったのではないでしょうか。島津義弘が豊臣秀吉時代の朝鮮出兵から帰った時に鉱山技師を連れ帰ったと同じようにね。大阪の住吉大社近くには古代に新羅江しんらこうと呼ばれた岬がありました。そこには新羅から来た人々が住んでおり、神仏習合時代の住吉大社の中宮寺は新羅寺しんらじと呼ばれていました。新羅寺は明治時代の廃仏風潮のために取り壊されましたがね。新羅神しんらこうは海原を治めるスサノオのことであると云う人もいます。昨年、大和探偵と氷上山や亀戸香取神社で行った神業の時、私の目には龍神が見えていました。あの時、陸前高田の氷上山で用いた呪文の一部は『高田王子の行い』と云う法文です。高知県の物部村に呪詛すそを用いて病気などを直す『いざなぎ流』陰陽師の集団がいます。呪詛すそ文言もんごんには祭文と法文があります。祭文は神を褒める言葉ですが、法文は神に何かを行なわせる文言です。このいざなぎ流に『高田王子の行い』と云う式神を使うための呪文があります。式神と云うのは霊的な存在ですが、物質を動かすことができる霊的存在のことです。7世紀の役行者や陰陽師の阿倍清明が鬼の姿をした式神を使ったとされています。陸前高田にある氷神山で行った神業で登場した龍神も式神ですが、もう少し違った式神です。この法文はどちらかと云えば、自然を動かせる神を招く召喚術と云った方がいいでしょうか。龍神とは神から使わされた霊的存在、天神です。あの時は『高田王子の行い』と『さわら式』と云う法文を使って水神を龍神に変えて、天神としました。大和探偵もご存じのように、先日襲来した台風13号はシンラコウ、すなわち海人族が祀る新羅神しんらこうと命名されました。13と云う数字は『高田王子の行い』での式神の行いが効果を維持する数字です。その期間は13日である場合、13カ月である場合、13年である場合、のいずれかです。」

「なるほど、だから台風13号は13日間で消滅したのですね。いざなぎ流の呪祖すそですか・・・。」と太郎が感心するように言った。

「実は、いざなぎ流には他にもいろいろな法文があります。『五人五郎の王子』と云うのがありますが、弥五郎、弥五助に通じるのではないかと考えています。この法文を唱えると何が起こるのかは知りませんが・・・。それが、宝剣の鎬筋しのぎすじの左右にはめ込まれた5個づつ、合計10個の自然真珠の意味ではないかと思うのですが?」と幸平が含みを持たせながら言った。

「と言いますと?」

「陰陽道の五行説です。木火土金水の相生五行と木土水火金の相克五行が弥五郎と弥五助を表わしているのではないかと思っています。」

「それは?」

「真珠の宝剣はもっと違った現象を起こせるのではないかと思っています。それが何かわかりませんが。」と橘幸平が言った。

「神功皇后が愛知県の津島神社に納めた八広矛やひろほこの霊気を帯びた真珠の宝剣が、スサノオが八俣大蛇やまたのおろちを斬った十拳剣とつかのつるぎを意味するとするならば、宝剣にある10個の自然真珠は10個のこぶしを意味していると考えることもできますね。」と太郎が言った。

「10のこぶしとは?」と幸平が訊いた。

「『拳』は長さの単位で、人間が手を握った時にできるこぶしの大きさから10センチくらいの長さとされています。十拳ですから、100センチの長さを意味します。しかし、拳を石のつぶてと考えると、人間に対する戒め、罰を表わしているのではないかと思うのですが?キリストがはりつけにされる時、十字架を背負って歩かされているキリストに対して民衆は石を投げたとされています。昔の磔の刑と云うのは、多くの民が罪人に石を投げて殺したのではないでしょうか。ですから、はりつけと云う文字は石篇いしへんの漢字で出来ています。」と太郎が言った。

「十の戒めと罰ですか?」と幸平が言った。


その時、二人の話を聞いていた田川順子が口を開いた。

「真珠の宝剣と云うのは田代真珠のシンボルの事ですか?」

「ええ、そうです。」と幸平が答えた。

「あれって、十字架を連想させません?」

「十字架ですか?」

「ええ、そうです。はじめて田代真珠のパンフレットで宝剣の写真を見た時、なんとなくそう感じたものですから。」と順子が言った。

「十字架ね・・・。」と太郎が呟いた。


「先ほどの橘さんの話にあったもう一本の村正の件ですが・・・・。」と南部高行が小声で言った。

「何かご存じですか?」と橘幸平が訊いた。

「いえ。私が所有している村正が盗まれて、警察に盗難届を出しに行った時、松阪警察署の刑事さんに応接室へ呼ばれ、最初の事情聴取を受けました。まだ、阿部弁護士は関係していない時です。その時、『村正の製作年が文禄2年・1593年か?』と訊かれました。そうです、と答えると刑事さんは驚いたような顔をして、さらにアリバイを聞いてきました。私の刀が盗まれる以前の9月5日(金)夜のアリバイでした。その日はMS銀行静岡支店主催の東海地区支店長会議の日で静岡にいました。3か月毎に地区支店長会議が持ちまわりで開催されます。その夜は名古屋の栄支店長である菊田さんと静岡駅前支店長の笹川さんと私の3人は居酒屋で酒を飲んでいました。ですから、アリバイは完璧でした。『静岡にいました。』と言うと、刑事さんは更に驚いた表情をされました。警察で事情聴取を受けた翌日に笹川さんから『知り合いの刑事が来て、私のアリバイを確認して帰った。』旨の電話連絡がありました。以前、駅前支店で銀行強盗未遂事件があった時の担当刑事さんが来たそうです。その時、笹川さんが刑事さんから聞いた話では、静岡市内で9月5日の夜に殺人事件があり、村正銘の刀が凶器であったそうです。そして、その村正の製作年が、私の所有していたものと同じ1593年だったそうです。」と南部高行が言った。

「最初の事情聴取の時、お茶が出てきましたか?」と太郎が訊いた。

「ええ。日本茶をもらいました。」

「指紋を取られましたね、警察に。静岡の事件では有力な指紋が現場から出ているのかな?ところで、静岡での殺人現場のことは何か聞かれましたか?」と太郎が言った。

「いえ、場所までは訊きませんでした。凶器はもう一本の村正でしょうかね?」

「どうでしょう。しかし、いずれにしても、静岡に行って事情を調べてみます。」と太郎が言った。

「ところで、田川さん。足利健夫氏は男性エステ『ソロモンの宮殿』のVIP会員でしたね。」

「ええ、そうです。」

「最近の足利氏のエステ利用日などは判りますか?」

「ええ、会社のパソコンに会員様のご利用記録が入っています。」

「エステのお店には監視カメラは設置されていますか?」

「ええ、お店の出入り口に一台あります。」

「明日、足利氏の最近の利用記録と監視カメラの録画映像を見せていただけますか?」

「ええ、よろしいですわ。午前10時に開店ですから、開店前の午前9時ころお店にいらしてください。」



 志摩の女王5;

松阪市内のエステティックサロン「シバの女王」社長室、2008年9月29日午前9時頃

 

  社長机には17インチのパソコン用液晶モニターが2台おかれている。

田川順子が操作するパソコンのモニター画面の監視カメラ録画映像を見ながら大和太郎が訊いた。

「足利健夫氏の横に居る人は誰ですか?」

「足利建設の高野専務さんですわ。経理部長を兼務されています。この日は夕方6時にこられて、7時にはお二人ご一緒に帰られていますね。」と映像画面とは別の画面に映し出されている顧客利用データを見ながら、順子が言った。

「高野専務もVIP会員ですか?」

「いいえ、ビジターさんです。社長のお供で時々来られますわ。会社の事で密談がある時に来られます。この日も何か密談があったのでしょう。」

「なるほど、9月8日(月)午後6時ですか。お二人の話の内容を聞くことができる、エステティシャンの方は居られますか?」

「密談される場合は、マッサージルームではなく、個室のトレイニングルームに入られますので話を聞ける人間は居りません。」

「そうですか。」

「この後、9月12日(金)にも、お二人は来店されています。同じく、午後6時から1時間に亘りトレイニングルームをご利用頂いています。この日、高野専務さんは午後6時30分には帰られています。足利社長は7時から7時30分までマッサージルームをご利用されています。」

「その日の午後6時と6時30分ころの監視カメラ映像を見せてください。」と太郎が言った。

画面の映像を見たあと、太郎が呟いた。

「午後6時ころ、二人は別々に来店している。そして、社長が持って来たアタッシュケースを専務が持って帰っているな。ケースの中味は何だったのだろう?」

「あら、ケースの中味は現金ですわ。あるいは、空っぽか。どちらかです。」と順子が言った。

「どうして判るのですか?」

「足利社長が仕事で根回しする時は必ず現金を持ち歩かれます。下受け作業を安価で発注するには現金契約が1番らしいのです。私にはよく判りませんが。松阪市では有名な話ですわ。あのケースには4ケタの暗証キーと某警備会社の追跡用の発信機が内臓されており、ケースの側面には大きな文字で足利建設と書かれています。万一、盗んでも、キーの暗証番号を知らないと、すぐに発見されてしまいます。だから、安全だそうです。」と順子が言った。

「そして、この9月12日(金)の深夜に足利社長は殺された訳か・・・・。殺人の動機は何か?お金の問題?個人的な恨み?女性問題?」と太郎は思った。

「足利社長にはお妾さんがいらっしゃいます。時々、エステ『シバの女王』にご来店いただいております。」

「ああ、そうか。この社長室のある建物が『シバの女王』でしたね。この映像の監視カメラがある『ソロモンの宮殿』は何処にあるのですか?」

「ここから100メートル北に行ったところに3階建ての建物があります。そこです。監視カメラの映像はインターネット経由で警備会社のサーバーに録画されます。そのサーバーにアクセスして、記録映像を取り出したのが、この机にあるモニター画面の映像です。」

「100メートル離れていますか。そのお妾さんの名前や住所は判りますか?」

「ええ。女性エステの会員さんですから、判ります。お待ちください。」と言いながら、順子はパソコンのキーボードを操作した。

「こちらです。山形君子様34歳ですね。住所は伊勢市ですね。これは、個人情報守秘義務違反になりますのでメモは取らないで下さいね。そして、私から聞いたこともお忘れ下さい。」とパソコン画面を指差しながら順子が太郎に言った。

「このことは警察には話されましたか?」

「いえ、わが社にはまだ警察は調査に来ておりません。」

「そうですか。まだですか・・・?松坂警察署は何をしているのだろう?被害者の足取りを追いかけていないのだろうか?」と太郎が呟いた。

「足利社長がエステの会員であることはご本人と高野専務さん以外はご存じないようですよ。社長秘書の方にも教えていないと、以前、足利社長が申されていましたから。」と順子が言った。

「と云うことは、高野専務が警察に話さない限り、警察はこのサロンに聞き込みに来ない訳ですね。」と太郎が言った。

「しかし、高野専務も社長が殺されているのだから、刑事から事情くらいは聴かれているだろうに、エステ会員の件は黙っていたのだろうか?」と思いながら太郎はエステサロンを辞した。



 志摩の女王6;

毎朝新聞静岡支社、社会部応接間  2008年9月30日午前11時頃


「東京本社の鮫島姫子からいろいろと話は伺っています。探偵の大和太郎さんですね。」と太郎が差し出した名刺を見ながら、事件記社の竹中良一が言った。

「鮫島さんには以前、神武東征伝説殺人事件でお世話になりました。今回は、静岡市内で発生した刀剣村正による殺人事件のことを知りたいのですが、お教えいただけますでしょうか?」

「かまいませんが、先に、大和さんと事件の関係をご説明いただけますか?」

「先日、9月12日、あるいは、13日の深夜に同様の事件が三重県松阪市内の斎宮跡地で発生しました。」

「村正による殺人事件でも?」

「その通りです。別の村正で足利健夫という建設会社社長が刺殺されました。」

「なるほど、同一犯人ではないかと?殺害状況もこちらの事件と似ているのではないかと?」

「まあ、そんなところですが、私の依頼人が参考人にされています。その人の所有していた村正が盗まれ、それが凶器でしたから。依頼人の無実を証明する為に真犯人を見つけ出すのが私の役目です。」


「なるほど、事情は何となく判りました。しかし、犯人を見つけるとは、これまた大変な要求ですね。松阪の事件については、静岡県警からの関連発表はありません。今日、はじめて知りました。まず、こちらの事件のことをお話しましょう。警察発表では9月5日(金)の午後10時から9月6日(土)の午前2時ころの間に殺害されたようです。現場は静岡市駿河区津島の津島神社横にある駐車場です。凶器の村正の銘には文禄2年作と彫られていたようです。すなわち1593年に製作された刀であるとの事です。遺体には、背後から心臓を一刺しされた傷痕があるのみでした。出血多量が致命傷でした。被害者は日本銀行協会の下部団体である日本金融保証連盟に勤務していた笠井為治59歳です。我社の調査では、何かの不祥事で10年前に懲戒免職になっています。不祥事の時に離婚して現在独身で、津島神社近くのマンションに住んでいたようです。不祥事の内容については東京本社の鮫島姫子女史が調査中です。最近は生命保険会社の保険外交員をしていたようです。契約成積は優秀だったようです。犯人の動機など、現在は何もわかっていない状況です。県警の刑事は突破口がないとぼやいていましたがね。松阪の事件から何か判りそうですかね?へたをすれば、迷宮入りになるのではないかと記者仲間では噂しています。まだ、初動段階ですが、相当の難事件の予感がします。」

「凶器村正の所有者は判っていないのですか?」

「ええ。警察への登録はないようです。日本刀剣協会にも記録に記載されていない刀だそうです。」

「殺害現場には刀のさやは残されていたのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「ええ。なかったようです。刀身のみだったようです。松阪の事件も同じですか?」

「ええ、同じく、さやの行方は不明です。」

「鞘に何か重大な秘密が隠されているのでしょうかね?」

「松阪の事件での村正の所有者は、鞘に何かあったという記憶はないそうです。むしろ、津島神社が引っ掛かりますね。」

「津島神社ですか?」

「ええ。松阪の事件に使われた刀剣の村正は戦国時代の武将である服部一忠と云う人物が所有していた刀です。そして、もう一本の村正も持っていたのではないかとされています。」

「殺人に使われた2本の村正の戦国時代の所有者が同じ人物かも知れないと云う事ですね。しかし、村正と津島神社はどのように関係するのですか?」


太郎は橘幸平から聴いた2本の村正と服部一忠の関係を竹中記者に話した。


「昨年、静岡の地方版で静岡の歴史特集を文芸部で連載記事にしました。その時、津島神社の記事をかいた人間がいますので、ちょっと呼んで話を聴きましょう。殺人事件の参考になるかもしれませんからね。記事の内容が良かったので静岡では評判になりました。」といって、竹中良一が応接室を出て行った。

しばらくして、資料を手にした女性と竹中記者が戻ってきた。

「お待たせいたしました。山内敬子と申します。」と言いながら名刺を太郎に渡した。

太郎も自分の名刺を山内女史に渡した。


「駿河区津島町にある津島神社の歴史と云うことですが、別名を天王社と謂います。牛頭天王社と呼ぶ場合もあります。津島町の津島神社は江戸時代初期の創健ではないかと謂われています。現在の津島町は江戸時代には中原村の一部でした。確かな文献を見つけることが出来なかったので、ご近所の老人から昔から伝えられている話を聞き取り調査しました。江戸時代は駿府城下に住む旗本家が管理していたようです。明治時代になって政府の管轄になったようです。江戸時代初期は駿府藩領で旗本の三浦家が管理していたようですが、三浦氏が江戸詰め旗本に移動した後は旗本である石谷氏の所領になったようです。実は、安倍川河口にある駿河区広野にも牛頭天王社がありました。明治時代に八坂神社に改名されましたが。祭神は津島神社と同じスサノオの命です。広野町にある八坂神社の方が津島町にある津島神社より古いようです。今川義元時代の広野領主は三浦氏であったようです。尾張名古屋の津島神社を広野の地に勧請したのは今川義元の時代ではなかったかと謂われています。尾張の桑名港との海路を通じて商業発展をねがい、神社が創健されたようです。現在は三重県に属しますが、尾張の桑名は刀剣村正が製作される土地でもありましたから、今川義元は刀剣の運搬にも利用したのではないでしょうか?義元が1560年に桶狭間で織田信長勢に殺され、一時期は北条氏政の支配領となりますが、信長の台頭時代は徳川家康の領地となります。今川義元時代の三浦氏と徳川家康時代の三浦氏は人物家系が違うのではないかと思われます。義元の死後、織田信長が甲斐武田家を滅ぼしますが、この時、駿河に攻め入った家康軍によって三浦氏は殺されています。(織田)信長公記の家康軍功の記述よりますと、信長と家康の連合軍が天正9年(1581年)に甲斐武田軍の支配する遠州高天神城を包囲攻撃した時、武田軍駿河先方衆の一員である三浦雅楽助が死んでいることになっています。ところが、1820年ころに書かれた『駿河記』の巻七によりますと、広野町にある大徳寺には慶長13年(1608年)に死んだ三浦雅楽助みうらうたのすけと云う人物の墓があります。そして、1607年7月駿府城に入った晩年の家康が度々、この三浦雅楽助の居宅を訪問していたらしいのです。この人物の子孫は毎年旧暦の9月17日に、徳川家康の廟所である久能山東照宮に参拝し柿の実を献上していたらしいのです。献上された柿は家康がこの地に直接手植えた『こしぶ』と称された柿の木にったものらしいのです。そして、三浦雅楽助の子孫は後年、江戸詰め旗本になったと噂されています。三浦雅楽助の家系図は見つかっていないようです。駿河記に登場する三浦雅楽助はいったい誰なのでしょう?以上が、駿河区にある津島神社にまつわる話です。」と山内敬子が説明した。


「江戸時代初期の家康の駿府藩領時代に、服部一忠なる人物が尾張津島神社を現在の津島町に勧請したのではないかと云う人がいます。そして、その津島神社、当時は天王社と呼んだのでしょうが、そこに真珠の宝剣を祀ったと考えられています。たぶん、家康が裏で動いた可能性もありますが。服部一忠と三浦雅楽助が同一人物の可能性もありますね。」と太郎が橘幸平から聞いた推理を交えながら山内女史に話した。

「真珠の宝剣ですか?あの、田代真珠のシンボルである?」と山内女史が訊いた。


宝剣の由緒を太郎が山内女史と竹中記者に説明した。


「その話を記事にしてもいいでしょうか?」と女史が言った。

「記事の可否については、私にはなんとも申し上げられませんが、田代真珠の社長さんと橘幸平氏を紹介してもかまいせんよ。」と太郎が言った。

「ぜひ、お願いします。」と山内女史が言った。

「これから、私も大和探偵の捜査活動に協力いたします。調査したいことがあれば、遠慮なくお電話ください。」と竹中記者が特ダネを意識しながら言った。

「それは助かります。東京と松阪と静岡を行ったり来たりするのは大変ですからね。」と太郎が言った。


その時、応接室のドアーが開いて竹中記者の上司が入ってきた。

「立浪と申します。竹中の上司で事件課の課長をしております。」と言いながら名刺を太郎に渡した。

「大和太郎と申します。この度はご協力いただき感謝いたしております。今後もよろしくおねがいいたします。」と、太郎は言いながら名刺を立浪課長に差し出した。

「いましがた、東京の鮫島から今回の妖刀村正殺人事件に関する調査報告のメールが入りました。被害者の笠井為治が日本銀行協会の下部団体である日本金融保証連盟を10年前に懲戒免職になった理由ですが、M資金に関する問題だったようです。」

「M資金ですか?」

「M資金の件はご存じですか、大和探偵。」

「以前、企業幹部を騙す融資詐欺事件として週間誌で読んだ記憶がありますが、詳細については、よく知りません。」

「M資金の基は明治時代の日本海海戦で沈んだロシア・バルチック艦隊の巡洋艦ナヒモフ号に積まれていた金塊とプラチナ塊と謂われています。日本帝国参謀本部は太平洋戦争に突入するための軍資金として、対馬海峡に沈んでいたナヒモフ号から秘密裏に金塊とプラチナ塊を引き上げ、日本銀行の地下金庫に隠しました。この事を知っていたのは参謀本部でもごく一部の人間だけだったようです。一部の金塊は満州国設立資金や陸軍特務機関の活動資金に利用されたとの噂です。太平洋戦争の日本敗戦が濃厚になった時、軍部はこの金塊1200本とプラチナ塊300本を東京湾の越中島付近に沈めて隠しました。しかし、戦後、漁民からの通報でGHQ(占領軍総指令本部)がこれらを引き上げ、戦後復興のための資金にするとして、GHQ経済科学局のマーカット少佐の管理下に置かれました。M資金のMはマッカートの頭文字と謂われています。しかし、占領下で暗躍する米国秘密情報機関の人間がこの資金の一部を活動資金にするとして横領しました。そしてGHQが無くなった後も秘密機関は私的な団体として日本に残り、経済戦争のもと日本企業に融資するとして詐欺的活動を含め情報収集活動を続け、各国の情報機関に情報を有償で流しているとされています。この秘密機関がM資金詐欺の実態ではないかとされています。」と立波課長が説明した。

「対馬海峡に沈んだナヒモフ号ですか。ふーん。」と太郎が呟いた。

「そのM資金詐欺に絡んで国債還付金発行証明書なる偽公文書を作成し、詐欺に協力した疑いで警察の取り調べを受けたのが村正で刺殺された笠井為治氏です。日本金融保証連盟の信用問題もあるので証拠不十分として起訴はされませんでしたが、連盟内では秘密裏に懲戒免職にしたところをみると、有罪であった可能性があります。結局、詐欺師たちは逃走しました。詐欺師は巧妙に変装しており警察も追跡ができず、結局事件は7年後に時効となってしまいました。」

「騙された企業の名前は判っていますか?」と太郎が訊いた。

「中堅の総合商社である八坂産業ですね。公表はされていませんが、融資金額200億円の保証金として2億円を騙しとられたと謂われています。当時、海上自衛隊の防衛艦購入に関する活動を行っていて、会社としてはいろいろと資金が必要だったようです。」と立浪課長が言った。

「八坂産業ですか。経済部の話では、現在、八坂産業は自衛隊の次期防衛戦闘機FX購入で活発に仲介活動しているらしいですね。」と竹中記者が言った。

「その八坂産業の当時の融資関係の担当者の名前とか、その後の会社での処遇とかは判っていますか?」と太郎が訊いた。

「的場史朗という経理部長が責任を取って退職しています。出身地は岩手県下閉伊郡山田町船越となっていますね。確か、JR岩手船越駅が最寄り駅だったと思います。当時の弊社の新聞記事では、事件後に消息が不明となり自殺説も取り沙汰されたようですが、死体などは発見されなかったようです。当時は各社の記者が岩手船越まで追っかけをやったのを私も記憶しています。結局、行方不明のままで、的場氏のご家族も心配して捜索願いを出されていました。警察はもちろん事件捜査の当該証人ですから必死に探したようですがね。結局、誘拐されたのか、自分で身を隠したのか、消息不明のまま迷宮入りになりましたがね。そして、的場氏のことも忘れ去られました。」と立浪課長が言った。

「的場史朗さんの実家の住所は正確に判りますか?」

「当時の担当記者を知っていますから、後ほど電話で訊いてみます。」

「お願いいたします。」


  話がひと段落したところで、文芸部の山内女史が口を開いた。

「現在、文芸部では日本海海戦の特集記事を計画しています。NHTテレビで放送している小説ドラマ『海の上の雲』のメインテーマが日本海海戦で活躍する四国の松山出身である参謀・秋山真之あきやまさねゆきをめぐる青春群像です。このドラマのブームにあやかりたいと云うのが、弊社文芸部の思惑です。明日から3泊4日で長崎県の対馬に取材にいってきます。今回の殺人事件に関連したM資金の基であるナヒモフ号の金塊についても取材できればと思っています。現地で調べて来てほしいことが何かありますか?」

「昭和55年ころ、船舶振興会のS氏がナヒモフ号から金塊を引き上げる活動をしたことがあった。その時見つかったのはプラチナ塊一本であったらしい。もともと金塊がナヒモフ号には積まれていなかったのではないかな。昭和55年の金塊引き上げに関係した人間が対馬に居れば、話を聞いてきてほしい。」と立浪課長が言った。

「金塊とプラチナ塊については実在したようです。昭和8年ころ、明治38年5月の日本海海戦で対馬沖に沈んだナヒモフ号から金塊を引き上げるための資金募集をした人物が居り、当時は新聞紙上を賑わしたようです。この時、霊能者である出口鬼三郎と云う大本教の教祖が幽体離脱をして海の底に眠るナヒモフ号へ実地見聞に行ったようです。そして、金塊とプラチナ塊が沢山積まれているのを確認してきたようです。また、ナヒモフ号と共に沈んで死亡したロシア水兵たちの亡霊がこの金塊を護っており、変に引き上げて私利に走るようでは様々な犯罪や悲劇が起こると鬼三郎は警告しています。この話は、鬼三郎の述べた事を記録した『三鏡』と云う本に載っています。ちなみに、ナヒモフ号を沈没させたのは駆逐艦『村雨』、『白雲』、『霞』などから近接距離で発射された5本の魚雷だそうです。」と山内女史が事前調査した内容を話した。


「日本海海戦ですか。『本日天気晴朗なれど、浪高し』ですね。当時は風が強く吹いていたのでしょうね。それにZ旗の掲揚けいようですか。ゼットと云う文字を見るといつも思うのですが、頭をもたげた『リバイアサン』と呼ばれる龍が波を蹴立てながら海面を進んでいく形に似ているなと。面白そうな記事になりそうですね。取材から戻って来たら話を聞かせてください。」と太郎が楽しそうに言った。



 志摩の女王7;

岩手県山田町船越半島  2008年10月 2日(木) 午後11時30分頃


耳鳴りがするのは、仕事のストレスが原因だから休暇をとってのんびり旅行でもするのが良いと医者から言われた田川順子はJR山田線の岩手船越駅前でバスから降りた。前日は盛岡駅前のビジネスホテルに泊まり、電車の本数が少ないので朝食後の早い時間の高速バスに乗り、ようやく岩手船越に到着したのであった。

そして、駅前に迎えに来ていた海水浴客用民宿の送迎マイクロバスに乗り込んだ。海水浴シーズンは終わっているので、他に客はいないようである。

「御客さん、よう来なさった。自然を満喫して帰ってくださいまし。お荷物は宅急便で昨日到着しておりますからご安心ください。今日は平日ですから釣りのお客さんもいませんので、のんびりお風呂にも入れますよ。」と宿の亭主がバスを運転しながら言った。


田川順子は、4日分の着替えなどの荷物は事前に準備して三重県松阪市から宅急便で送っていた。

「明日は霞露かろヶ岳に登りたいのですが、山道は険しいですか?」と順子が訊いた。

「500メートルくらいの低い山ですが、坂は急です。岩場もありますが、それほど難しい山ではありません。案内の道標も出ていますから、安心して登れますよ。」と亭主が言った。

「そうですか、ありがとうございます。」と順子が答えた。


20年前の学生時代の夏休み、順子は北海道でのハーフマラソンに出るため東京からフェリーに乗ったことがあった。

その時、フェリーが三陸海岸沖を通過している時に霞露ヶ岳が見えた。

「あの時、霞露ヶ岳の山頂に十字架が立っているような気がしたけれど、山頂はどうなっているのかしら?先日、田代真珠のシンボルである真珠の宝剣の話を聞いてから、気になってしまったわ?私ってどうして、十字架のイメージばかり感じてしまうのかしら?自分ながら、いやな性格だわね。」と思いながら順子はマイクロバスの窓から外を眺めていた。

「山頂にある霞露ヶ岳神社の奥宮はどのようになっていますの?」と順子がマイクロバスを運転している宿の亭主に訊いた。

「頂上には大きな岩がありましてね、それがご神体です。奥宮には鳥居があります。もうすぐ霞露ヶ岳神社の里宮の近くを通りますが、寄ってみますか、お客さん?」と亭主が訊いた。

「いえ、里宮はお宿から近いのでしたわね。」

「ええ、民宿から10分くらい歩いたところにあります。」

「それでは、後で散歩がてら寄りますから、先にお宿に行きましょう。」と順子が言った。



 志摩の女王8;

船越半島 霞露ヶ岳山頂  2008年10月 3日(金) 午前11時頃


「ここが、奥宮ね。しかし、十字架のイメージが湧いてこないわね。どうしたのかしら?学生時代にフェリーから見ていた時に感じたのは錯覚だったのかしら?ご神体からも十字架のイメージを感じないわね。ふーん。しかし、霊的な雰囲気はあるわね。橘幸平さんだったら何が見えるのかしら?修験者なら、ここで何かお祈りか呪文を唱えるのでしょうね。とりあえず、霞露ヶ岳の神様にご挨拶しておきましょう。」とあれこれ思いながら、山頂周辺を散策していると小さな苔生こけむした石祠が倒れているのを発見した。

倒れているのを起こそうとして小さな石祠に触れた時、順子は体の中を弱い電気が走るような感覚に襲われた。

「あれ、十字架を感じるわね。なにかしら?この石祠が十字架だったのかしら?何か文字が彫られていたみたいね。ほこらの神様の名前かしら?風雨で文字が朽ちて読みにくいわね。うーん?社・・・雨・・・村・・・、かな?よくわからないわね。」と思いながら、石祠をまっすぐに起こして、立てた。そして、両手を合わせた。

「でも、なんとなく、ここの岩場周辺だけ掘り返した様な雰囲気があるわね。大小の石が無造作に転がっているわね。何かが埋まっていたのかしら?へんなの・・・。まあいいか。十字架イメージの原因が判ったのだから。まあ、私の感覚は正常だったと云う事が確認できたのは収獲だったわね、うん。」とぶつぶつと一人言を言いながら、この地を訪れたことに順子は満足していた。



 志摩の女王9;

 岩手県山田町船越 JR岩手船越駅前 2008年10月 3日(金) 午後2時前


東京発8時28分の東北新幹線に乗り、盛岡でJR山田線に乗り継ぎ、宮古を経由して岩手船越に着いた大和太郎は電車から降りて駅前に居たタクシーに乗り込んだ。

「大浦へ行ってください。」

「はい、かしこまりました。だんな、釣りで来られたんですか、釣り竿はお持ちではないようですが?大浦のどこへ行かれますか?」と運転手が訊いた。

「大浦簡易郵便局の近くに的場と云う人の家があるのですが、知っていますか、運転手さん?」

「ああ、的場さんのお屋敷ですね。」

「御存じですか?」

「的場家と云うのは、江戸時代から続いた商家でね、山田湾や近海で捕れた魚介類を宮古や仙台に運んで大きくなった家です。近江商人の血を引く家系だと聞いていますがね。魚介類だけではなく、薩摩や大坂や江戸、仙台から種々の品物を船で運んできては、宮古や盛岡の町などで売りさばいていたようです。ですから、分家は全国にあるようですよ。明治、大正、昭和と続いて来た名家でした。地元では的場御殿と呼ばれていました。戦後は、交通網の発達で船の優位性がなくなり、衰退してしまいましたがね。しかし、今でも、小さな貿易会社を仙台市内に持っていて、ご親戚の方は年に2回はお墓参りで帰ってこられていますね。今、的場御殿に住んでいるのは、爺さんと婆さんだけですよ。先祖のお墓を守っておられますよ。」

「10年くらい前のM資金詐欺事件のことは知っていますか?」と太郎が訊いた。

「ああ、新聞記者が大勢押しかけてきましたね。東京の商社に勤めていた坊ちゃまが詐欺に騙されたとかで大騒ぎでしたよ。確か、行方不明で、現在も死んでいるのか、生きているのか判らないままと聞いていますよ。もう、10年になりますかね、早いものですね。」


的場家の前を過ぎて、簡易郵便局のところで太郎はタクシーを降りた。



 志摩の女王10;

 岩手県山田町船越 大浦 2008年10月 3日(金) 午後2時30頃



海岸から一筋内陸に入った道を的場御殿に向かって歩いていると、見たことのある女性が、自分の方に向かってくるが見えた。

「やあ、田川さんではありませんか?」と太郎が声をかけた。

「あら、いやだ。大和探偵さん。どうして、ここにいらっしゃるのかしら?」と順子が言った。

「あっはははは。奇遇ですね。田川さんはハイキングですか?」とリュックサックを背負った順子を見ながら太郎が言った。

「ええ。休暇で、ちょっと。」

「休暇ですか、いいですね。羨ましい。」

「でも、探偵さんって、仕事がない時は休暇みたいなものでしょ?」

「あっははは。その通りです。羨ましいというのは間違いですかね。ところで、山登りでも?」

「ええ、昔からの疑問を解決するために霞露かろヶ岳に登ってきました。」

「昔からの疑問とは?」

「十字架のことです。」

「はあ、お得意の十字架ですか? で、その疑問とは?」

「霞露ヶ岳に十字架があるのではと思って確認してきました。」

「山の上に立つ十字架ですか。キリスト教の十字架挙栄祭みたいですね。ゴルゴダの丘の上に立つ十字架ですか?」

「あら、挙栄祭のことをご存じですの、大和探偵さん。」

「まっ、一応はね。神学部を卒業していますから。」

「あら、そんな風には見えませんわね、失礼いたしました。ところで、探偵さんは、また、何のご用でこちらへ来られたのですか?」

「例の妖刀村正殺人事件の関連調査です。犯人を見つけるのが依頼主の要望ですから、松阪市だけでは捜査が終わりませんので。」

「あら、大変ですわね。では、私はこれで失礼いたしますわ。ご免あそばせ。」

「ああっ。田川さんはどちらにお泊まりですか?」

「この先の民宿『立神たてがみ』ですわ。探偵さんは?」

「いえ、まだ宿は決まっていません。そこは空いていますかね?」

「今夜から釣り客が大勢こられるようですよ。でも部屋は沢山あるようですから、宿のご亭主に訊いてみたらいかがですか?」

「そうします。ではまた。」と言って太郎は順子と分かれた。



 志摩の女王11;

 船越大浦  的場家  2008年10月 3日(金) 午後2時40分頃


道を白壁沿いに少し歩くと、大きな構えの木門に到達した。

大きな木門の横にあるくぐり戸が開いていたので、太郎は中に入った。

木門から少し歩くと母屋がある。その右手には先祖代々の墓所が設けられている。

その墓石の手入れをしていた老女に太郎は声をかけた。

「御免ください。」

「はあ、どちらさまで?」と老女は振り返って太郎を見た。

「大和太郎と申します。私立探偵をやっております。」と言いながら、名刺を差し出した。

「探偵さんですか。私どもに何かご用事ですか?」

「はい、的場史朗さんのことで、お話をお聞きしたいのですが?」

「史朗のことで?あの子は元気にしておりますか?」と老女は心配そうに言った。

「いえ、史朗さんの消息を知っている者ではありません。ある事件に関連して的場史朗さんの名前が出てきました。その事件と10年前の詐欺事件が関係あるのかどうかを知る為にこの地へ参りました。」

「はあ、埼玉県東松山市ですか。わざわざ、ごくろう様です。立話もなんですから、家に入りましょう。さあ、こちらへどうぞ。」と言いながら、老女は母屋に向かって歩きはじめた。


太郎は応接間に通された。

和風の応接間から枯山水の庭が窓越しにみえる。しばらくして、老夫婦がお茶と和菓子を持って現れた。

「史朗が元気でいてくれればのう。2億円くらいの弁償金なら内から出せたのじゃが、お金の問題じゃなかった。詐欺に騙されたことがいかんかったようじゃ。会社には居ずらいことがあったのじゃろう。それにしても、行方不明になるとは・・・。どうして居るのかのう。3年前、詐欺事件は迷宮入りになったと警察から連絡がありました。」と老人が言った。

「10年前の詐欺事件に関連した笠井為治氏が静岡で殺害されました。村正と云う日本刀で心臓を一刺しされ、出血多量で死亡したようです。日本刀のことで何か心当たりはありませんか?」と単刀直入に太郎は質問した。

「村正ですか。」とびっくりしたように老夫婦は顔を見合わせた。

「何かご存じですか?」

「詐欺事件の直後でした。会社から休暇が出たので、史朗は家にもどってきてのんびりしていました。事件はまだ表ざたになっておらず、私たちも事件のことはその時はまだ知りませんでした。新聞記者がたくさん押し掛けてきて騒々しくなったのはその一か月くらい後のことでした。会社を退職したのは更に後のことです。まだ、この村も騒々しくなく、今と同じように平穏な生活をしていました。その頃、史朗が蔵にあるご先祖の遺品類を調べていて、ある日誌を見つけました。その日誌には、霞露ヶ岳山頂に秘密の何かが埋められている旨の文章を見つけました。史朗は私たちにもそのような事を先祖から聴いているかどうかとたづねてきました。私たちは何も知りませんでしたが、史朗は霞露ヶ岳奥宮の近くを掘って、石棺の中から一振りの日本刀を見つけました。漆塗りの箱の中に金糸で編まれた刀袋に入った日本刀でした。握りを分解すると村正の銘が彫られていたのを覚えています。いつ頃埋められたのかは判りませんが刀には錆はなく見事なものでした。いえ、我が家にも先祖代々引き継いできた日本刀が3本ありますから、史朗は刀の取り扱い方はよく判っていました。」

「その村正は今、何処にありますか?」と太郎が訊いた。

「この村に新聞記者が現れ出した時、釣り竿の袋に隠し持って、村正と一緒に史朗は東京へ戻って行きました。今はどうなっているのか判りません。史朗がその笠井とか云う人を殺してしまったのかのう?」

「いえ、まだ犯人は誰なのか、凶器となった村正が霞露ヶ岳のものかどうかも不明です。史朗さんが姿を表わせばいいのですが・・・。」

「探偵さん、史朗を見つけてください。費用はいくらでも出しますから、お願いします。生きているのやら、死んでいるのやら、このままでは、私たち夫婦は死んでも死に切れません。」と老女が言った。

「あっ、いや。今、この殺人事件の犯人を見つける仕事で手がいっぱいです。しかし、もう少し、史朗さんの居場所を追及する必要がありますので、所在が判るようであればご連絡いたします。」

「そうですか、今回の事件が解決すれば、史朗のことを探していただけますか?」と老人が言った。

「ええ、その時、史朗さんの所在が不明であれば、ご依頼を受けましょう。ところで、史朗さんの写っている写真がありますか?あれば、お借りしたいのですが。」

「史朗が10年前の休暇で一か月くらいこの家に戻って来ていた時、パソコンとデジカメを買ったのがあります。その時、確か写真を取りました。デジカメで撮った姿がパソコンですぐに見ることが出来たのを思い出します。その写真が史朗のパソコンに入っていると思いますが、私はパソコンの操作ができません。探偵さんはどうですか?」と老人が言った。

「できます。そのパソコンを見せていただけますか?」

「ええ、どうぞこちらへ。」と言いながら老夫婦は太郎を別の部屋へ案内した。


史朗の部屋に入った大和太郎はパソコンの電源を入れた。

「デスクトップ画面に写真のファイルがありますね。これをこの様にマウスのカーソルをあわせて、このように右側ボタンをクリックすると、ほら、この様に写真のデータが表示されます。このデータにカーソルを合わせてまた、マウスの右ボタンをクリックすると写真が映し出されます。」とパソコン操作を老夫婦に説明しながら、太郎も写真を見た。

老夫婦と男性の3人が、枯山水の庭を背景にして写っている写真がパソコンモニターに映し出されている。

「これが、史朗です。」と老女は言いながら、老夫婦の横に立っている男性を指差した。

「この写真を撮った方は何方ですか?」と太郎が訊いた。

「今日は来ていませんが、爺やの河瀬さんです。ここから500メートルくらい離れた所に住んでいます。普段は漁師をしていますが、時々、我が家の面倒を見るために来てもらっています。昔から、河瀬家にはお世話になっています。私の父の時代、すなわち私の若い頃には、河瀬さんのお父さんに家のことに関してはお世話してもらっていました。先祖からの言い伝えでは河瀬家と我家の関係は江戸時代からずうーっと同じだったようです。」

何歳おいくつくらいですか、その方は?」

「史朗と同じ歳ですから、今45歳ですかね。私たちよりも若いですが、昔から、河瀬家の当主に対しては爺やと呼ぶ習慣ですので。河瀬武文と云う人です。」と老人が言った。

「10年前は35歳ですね。」と太郎が呟いた。

「爺やが何か?」と老女が太郎に訊いた。

「いえ、もしかしたら、史朗さんの居場所を知っているのでは、と思いましてね。」

「ええっ、爺やが?そういえば、爺やと史朗は子供のころから一緒に遊んで仲よくしていましたわね。釣りなども一日中ふたりで楽しんでいました。爺やなら知っているかも・・・・。でも、知っていれば私たちに教えてくれるはずですわ。」と老夫婦が顔を見合わせた。

「いえ、これは私の直感に過ぎません。事実はどうか判りませんが、ちょっと聞いてみたいですね、その河瀬さんに。私たち探偵の調査では、種々(いろいろ)な可能性を想定して調査対象を設定し、それにアプローチしていきます。河瀬さんの場合の可能性は、史朗さんの居場所を知っているが、なんらかの理由で、史朗さんの居場所を両親にも知らせる訳にはいかない、と云う仮定で質問していき真実に迫ります。」と言いながら、太郎は別の写真データをクリックした。

「この刀剣は?」と太郎が驚いた声を出した。

「史朗が霞露ヶ岳で見つけたものです。こんな写真も撮っていたのかね、史朗は。全く知りませんでした。」と老人が言った。


刀剣村正の写真は全部で10枚あった。

漆塗と思われるさやには徳川の家紋である三葉葵みつばあおいが描かれているが、質素なものである。神社に奉納される刀剣の鞘の様に派手な飾りものは付いていない。

しかし、目立たない様に5個の小さな水晶玉が鞘の左右に等間隔で埋めこまれている。

刀剣に彫られている銘は『文禄二年 村正』であった。

太郎はポケットからUSBメモリーを取り出し、写真データをコピー保存した。

そして、パソコンに繋がっているプリンターを使って写真をプリントアウトしたが、インクが古く溶剤が蒸発しているためにかすれた画像になっていた。



 志摩の女王12;

 船越大浦  民宿 「立神」  2008年10月 3日(金) 午後7時頃


民宿の食堂で田川順子と大和太郎が新鮮な魚貝類の生き造り料理を食べながら話をしている。

まだ、釣り客は宿に到着していない模様で食堂にいるのは、二人だけであった。


「部屋が一つだけ空いていました。助かりました。」と太郎が言った。

「運のいい探偵さんね、あなたは。」と順子が言った。

「ところで、霞露ヶ岳の山頂はどんなところでしたか?」と太郎が訊いた。

「村雨社と書かれた小さな石祠がありましたわ。それが十字架と関係しているようですわ。」

「石祠が十字架ですか?」

「いえ、十字架そのものではなく、十字架と同じ意味を持つ何かと云うことかしら。」

「意味がよく判りませんが?」

「20年前フェリーに乗っている時、三陸沖から見える霞露ヶ岳の山頂に十字架のイメージを感じました。そのイメージと同じ感覚が石祠を触った時に感じました。ただそれだけですわ。」

「なるほど、村雨社の意味が何かですね。何だろう?」

「石祠の周りは過去に掘り返されたようになっていましたわ、私の想像ですが。」

「掘り返されていたのですね。そうですか。」と太郎は言いながら、的場史朗が村正を見つけた話を思い出していた。

「何かご存じですの?」と順子が訊いた。

「静岡での殺人事件に使われた刀剣村正です。その村正が村雨社の下に埋められていたかも知れません。」

「罰を与えるのための刀ですか?」

「ええ、処刑するための道具としての十字架と刀剣が同じイメージ、あるいは霊気を発散している、と云うことでしょうか?」

「でも、何故に村正が霞露ヶ岳に埋められていたのですか?」

「判りません。何故でしょうね。」と太郎が言った。

「静岡で殺された方と云うのは何か悪い事でもなさったのかしら?」

「判りません。働いていた金融機関を免職になっていますから、何かあったのでしょうね。」

「えっ、金融機関って、MS銀行の方でしたの?」

「いえ、日本金融保証連盟にいた人でした。」

「あらまあ、それは大変。」と順子が言った。


何が大変なのかなと思いながら太郎は生牡蠣を口に運んだ。

しばらく食事してから、田川順子が口を開いた。


「そうそう、刀剣で思い出しましたが、足利建設の高野専務さんも刀剣を集めているようでしたわ。殺された足利社長がそのような事をおっしゃっていた事がありましたわ。」

「高野専務が刀剣の蒐集しゅうしゅうをしていた?これはこれは、大変な事になりますかね。」

「何が大変なのですか?」と順子が訊いた。

「いえ、まだ推理段階ですので不用意な事は喋れません。悪しからず。ところで、先ほど日本金融保証連盟の名前を出した時、田川さんは『それは大変。』と言いましたが、その大変とはどういう意味ですか?」

「いえ、まだ想像段階ですので、私も不用意な事は申し上げられませんわ。」

一瞬、二人の間になんとなく白けた雰囲気が漂った。

「そうですか。まいったな・・・。田川さんは気の強い女性だな。」と頭を掻きながら、太郎は思った。

「ところで、松坂警察からはエステサロンに足利氏殺害の件での聞き込み調査はありましたか?」と太郎が訊いた。

「いえ、まだありませんわ。この旅行に出る前に、万一、警察からの調査があれば携帯に電話くれるように事務員に命じておきましたが、まだ連絡がないところをみれば、警察は来ていないのでしょう。」と順子が答えた。

「そうですか、まだ来ていないのですか。早急に、松阪署を訪問してみた方が良さそうですね。」



 志摩の女王13;

 毎朝新聞静岡支社  社会部応接室  2008年10月 6日(月) 午前11時頃


大和太郎、立浪事件課課長、竹中事件記者、文芸部の山内女史、文芸部課長の鹿島研吾氏の5人が打合わせをしている。

「大和探偵から対馬にいる山内へ電話で調査のための訪問依頼があった人物、河瀬澄雄かわせすみおについて、山内から報告してもらいます。」と立浪課長が言った。

「対馬市美津島町大船越に住む河瀬澄雄氏宅を訪問し的場史朗氏の件を確認してきました。10年前、岩手船越の親戚である河瀬武文氏の紹介状を持った的場史朗氏が来たそうです。河瀬氏が近くにある空き家を借りる手配をし、南部武史と云う偽名で生活されたようです。河瀬氏の知り合いと云うことで、漁船の手伝いなどの仕事をしていたようです。しかし、一年後に考えることがあると言って、大船越を去ったそうです。その後の消息については、一度だけ、2か月後に絵葉書が来たようです。あとは、音沙汰なしだったようです。絵葉書はすでに捨ててしまって有りませんでしたが、河瀬氏の話では、一年間世話になったお礼が書かれてあり、感謝の印として日光で購入した置物を送ったことが記されていたようです。絵葉書の写真は日光東照宮陽明門であったそうです。住所は書かれていなかったそうです。」

「置物とは、どのような?」と太郎が訊いた。

「河瀬氏宅の床の間に飾られていた刀剣の置物の写真を撮ってきました。これです。」と言いながら山内女史は、10枚の写真をファイルから取り出してテーブルの上に広げた。


置物の写真の内容は次のようなものである。

50センチくらいの長さがある独鈷剣どっこのつるぎの表と裏に龍の絵が浮き彫りされている。独鈷剣の握り部は六角形で各面に凡字が一文字づつ浮き彫りにされており、その握り下部が台座に埋め込まれるようして剣は垂直に立てられている。一方の龍は上向き、他方の龍は下向きに浮き彫りされている。二匹の龍の表情も異なっている。台座には日光山輪王寺と彫刻の文字が入っている。独鈷剣の横には、金メッキが施された一振りの疑似日本刀が刀立かたなたてに立てられている。疑似日本刀は鞘と刀と刀立かたなたてで構成されているが、鞘には三葉葵みつばあおいの徳川家紋が浮き彫りされている。


「南部武史と名乗っていた的場史朗氏の生活はどのようなものだったのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「漁船に乗っていない時は対馬にある神社を巡っていたようです。あとは、釣りをしているかのどちらかだったようです。」と山内女史が説明した。

「神社めぐりと釣りですか。」と太郎が呟いた。

「ええ、特に、上対馬峰町木坂伊豆山にある海神かいじん神社には何度も行っていたそうです。」

「海神神社ですか。」

「海神神社の主祭神は豊玉姫と云う海人族の神様です。神功皇后が三韓遠征で勝利したあと、この神社に感謝のお参りした時、八流の旗を奉納したので一時期は八幡宮やはたのみやとも呼ばれていました。国宝に8世紀の作とされる銅製の新羅仏や銅矛などがあります。ちなみに、息気長帯比売命おきながたらしひめ神功じんぐう、その子である誉田別命ほんだわけ応仁おうじんのおくり名がつけられたのは8世紀になってからです。たぶん、藤原不比等の時代でしょう。」と鹿島課長が付け加えた。


※おくり名とは天皇などが死んだ後に霊廟などにつけられる時の名前である。

 たとえば神武天皇は生きていた時は、カムヤマトイワレヒコと名乗っていたが、墓所は神武稜と呼ばれている。


「対馬にはスサノオを祀る神社はないのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「スサノオを祭神とする神社を見たことはないですね。しかし、この海神神社の新羅仏がスサノオと考える人もいます。と云うのは、スサノオは朝鮮半島に降臨したあと出雲に渡りますが、神功皇后が日本に連れてきた新羅人が祀る新羅神しんらこうは海原を治めるために降臨したスサノオである考えられます。八流の旗は神功皇后を助けた神々を表象しており、この中にスサノオが居ると考える人がいます。」

「なるほど、神功皇后が新羅から連れて来たスサノオですか。名古屋にある津島神社に牛頭天王、すなわちスサノオが祀られたのは神功皇后が新羅から帰ってきて、スサノオの託宣を受けたためとされています。海神神社にスサノオが隠れている訳ですかね。」と太郎は橘幸平から聞いた話を思い出しながら言った。


「しかし、的場史朗は生きているのでしょうかね?」と竹内記者が言った。

「たぶん、生きているでしょう。今回の調査によれば、明らかに自分から身を隠しています。両親に行く先を知らせず、幼友達の河瀬武文にも口止めしてまで身を隠したのですから。対馬に住んで一年後には、誰にも行き先を告げずに再び姿を隠しました。もう、史朗氏の居場所を知る関係者は居ません。計画的に姿を消していますからね。何でしょうかね、理由は・・・・。1年間の対馬生活の意味は何だったのでしょう。姿を消すだけなら、すぐにでも行方を隠せたはずです。そして、日光へは何の為に行ったかですね。10年前の詐欺事件を担当された記者の方に話を聞きたいのですが、まだ、新聞社に勤めて居られますか?」と太郎が訊いた。

「ええ、東京本社で社会部の部長をしています。連絡を取りましょうか?何が知りたいのですか?」と鹿島課長が訊いた。

「当時、的場史朗の経歴を追いかけたかどうかです。ご両親の話では、商船大学卒業後は10年くらい造船会社に勤めて営業をしていたそうです。その後、八坂産業に転職しています。その経歴の内容について調査したかどうかを知りたいのですが。」

「ちょっと電話してみましょう。」と言いながら、鹿島課長は脇机にある電話を取り上げた。


「向山と申します。大和探偵のおうわさは姫子から聞いております。よろしくどうぞ。的場史朗の経歴の詳細ですね。」と電話の向こうで向山部長が話はじめた。

「東洋商船大学を卒業した後、水原重工に入社し11年間営業をしています。特に、自衛隊の担当営業が長かったようです。その経験が買われて八坂産業に転職できたようです。」

「ヘッドハンティングされたのですか?」と太郎が訊いた。

「いえ、ちがいます。自ら売り込んで採用されたようです。何か、重要な情報を持っていたのではないでしょうか。採用時の待遇が部長補佐でしたからね。当時、まだ34歳で営業部長補佐ですからね。中堅の商社とは云え、大変な出世ですよ。そして、一年後の35歳で自衛隊担当部長ですからね。」と向山が電話口で話している。

「当時、自衛隊では次期海上防衛艦の購入の検討が行われていたそうですが?」と太郎が訊いた。

「自衛隊内部では数年前から検討をはじめていたようですが、表面化したのは、的場史朗が担当部長になってからです。的場史朗は八坂産業に採用される以前からこの情報を知っていて、自分を売り込んだと考えられますね。」と向山が言った。

「なるほど、そう云うことでしょうかね。」

「それから、水原重工時代には自衛隊の女性隊員と恋仲になっている。この女性は事故死したと謂うことであったが、事故の詳細は発表されていない。」

「それは、的場史朗氏が八坂産業に転職する何年くらい前ですか?」

「1年半くらい前だったようです。」

「1年半ですか、ふーむ。事故死した女性の出身地は何処か判りますか?」

「同期入隊の女性の話では日光の近くと云うことであったが、詳細は聴きませんでした。恋仲情報もその女性から聞いた話です。」

「日光の近くですか?その同期の女性はまだ自衛隊に居るのでしょうかね?」

「居ますよ。次期防衛戦闘機FX購入の検討委員に名前を連ねていますよ。先日、当社うちの経済記者からFX情報を聴いたとき、その女性の顔写真を見て、十年前の迷宮入り事件を思い出しましたよ。現在は東京市ヶ谷にある自衛隊統合幕僚監部のプロジェクト室にその女性は居るようです。名前は松宮美鈴で、一等空佐です。それで、今回の静岡と松阪の妖刀村正連続殺人事件でしょ。いやー、興味津々ですな、これは。一体全体、関連があるのか、ないのか。本社から静岡支社に応援を出す算段をしているところです。」と向山部長が興奮気味に言った。

「この人は何と何がどのように関連していると想像しているのだろう?」と太郎は疑問に思った。

「経済部の記者を通じて松宮女史にお会いになりますか?」と向山部長が訊いた。

「ええ、是非おねがいします。」と太郎が答えた。



 志摩の女王14;

 MS銀行松坂支店  応接室  2008年10月 6日(月) 午後7時頃


「先ほど松阪警察署に行って、阿部弁護士の代理として事件に関する話を聞いてきました。足利建設の高野専務が行方不明だそうです。足利社長が殺された9月12日(金)夜のあとの9月15日(月)から会社には出社していないようです。ご家族の話では9月13日(土)、名古屋の百貨店へ日本刀の展示会を見るため行ったまま戻って来なかったようです。南部さんは高野専務はご存じでしたか?」

「ええ。何度かお会いしています。足利社長との融資話の時に何度か同席されていましたから。私が最後にお見かけしたのは、確か、9月の初めころでしたね。私の自宅で足利社長と高野専務の三人で今後の融資話をした時ですかね。」とMS銀行支店長の南部高行が言った。

「それは、9月の何日か覚えておられますか?」と太郎が訊いた。

「9月5日(金)が東海地区の支店長会議で静岡に行きました。その前日の9月4日の夜8時ころですかね。居酒屋で食事をしている時、偶然にお二人とお会いしました。それで、以前から話を進めておりました融資金について話がしたいとの要望が出まして、居酒屋で話はできませんから、私の自宅に来ていただきました。応接間で、かれこれ1時間くらい話をしましたかね。午後の9時30分ころに帰られました。」

「その時、応接間には村正は飾ってありましたか?」

「ええ。高野専務さんが手にもって、刀身を鞘から抜かれて、二、三度軽く素振りをされていました。刀身の波紋を見ながら、『村正ですか、これが。』と言われたのが印象に残っています。」

「刀を握られたのですね。素手で。」と太郎が確認した。

「ええ、そうです。」

「刀の握り部分には指紋は残りませんかね?」

「ええ、滑り止めの紐が巻かれていますから、指紋は確認できないでしょう。鞘には指紋が残るでしょうが。漆塗うるしぬりつやがありましたから。ああ、あの刀の鞘を持っていると何となく心が安らぐんですよ。あの感触は刀を握った時の感じと正反体なんです。刀身を握るとピリッとした緊張感が走りますが、鞘を握っている時はほんとに穏やかな気持になります。仕事で疲れて帰って来た時には時々村正を手に取ったものです。あの鞘は殺人犯が持ち去ったのでしょうかね?」

「どのような形状の鞘なのですか?」

「普通の刀剣と同じような鞘ですが、左右に小さな水晶玉が5個づつ、等間隔に埋め込まれていました。あとは飾りものは何もありませんでした。神社などに奉納されるような華美な装飾はありません。」

「5個づつの水晶玉ですか、ふーむ。」と太郎は呟きながら、真珠の宝剣を思い出していた。


「ところで、田川順子さんのことでが、日本金融保証連盟との関係はあるのでしょうか?十年前の詐欺事件に関する日本金融保証連盟の名前を聞いた途端に『あら、大変』と言われたので、なんとなく気になるのですが。」

「そうですか。田川さんは現在、エステサロンの拡張を考えているようです。そのための資金調達を検討されています。MS銀行から融資を引き出すために、日本金融保証連盟に対して全国にある田川さん所有のエステサロンの査定を依頼されています。その査定結果によってMS銀行からの融資金額が決まります。彼女のことですから、他の銀行にも融資依頼をしていると思いますがね。あるいは、私設ファンドなどの個人投資家から出資金を集める法人に出資依頼をしている可能性もありますね。この場合は、日本金融保証連盟が私設ファンドの査定も行い、被融資人である田川さんにファンドの査定内容を報告します。例えば、出資者がどのような人物たちで、その金額はいくらか等、ファンドの集金能力を査定します。もちろん、ファンドに対してはエステサロンの経営状態や資産、将来性などを報告します。銀行は固定資産などを担保にとって融資しますが、私設ファンドの場合は有価証券など押えることが多いです。たとえば、日本金融保証連盟の査定員とファンドの人間が協力しあって虚偽の査定報告をし、エステサロン側から有価証券の事前供託を受け、その証券を換金した私設ファンド側の人間が姿を消す詐欺行為などの危険性もあります。田川さんはこれを心配して、『あら、大変』と言った可能性がありますね。彼女は直感力が優れていますから、何か怪しい点に気づいたのではないでしょうか。」と南部高行が言った。

「詐欺の可能性ですか。その日本金融保証連盟と云うのは何処にありますか?」

「たぶん、名古屋市内のさかえと云うまちにある日本金融保証連盟名古屋支部に査定依頼をされていると思いますよ。本部は東京で、大都市にしか支部はありませんから。」

「名古屋ですか。」と太郎は呟いた。



 志摩の女王15;

 東京市ヶ谷の自衛隊本部庁舎  広報応接室  10月 13日(月) 午前11時頃


女性自衛官の紹介記事を書くと云う前提で毎朝新聞社会部経済課の辻井記者に同行して大和太郎は自衛隊本部に来ていた。太郎は社会部外部顧問の肩書を用いていた。

航空自衛隊での活動や出身地、出身校などを辻井記者が質問したあと、太郎が質問した。

「松宮空佐の同期にも女性自衛官がいらっしゃったと聞いていますが?」と太郎が切り出した。

「ええ。私と同期入隊した女性が一名だけ居ました。高原澄江さんと謂いました。しかし、12年くらい前ですかね。ある事故で死亡されましたわ。」

「それは自衛隊内での事故ですか?」

「詳しいことは知りません。彼女は海上自衛隊の情報通信部で任務についていたと聴いています。通信工事の任務を遂行中に上方からの落下物が頭にあったって頭蓋骨骨折を伴う脳挫傷が死因だときいています。船上であったのか陸上であったのかは知りませんが任務自体は危険なものではなったようです。」と松宮が自衛隊を弁護するように言った。

「高原さんの出身地はご存じですか?」

「栃木県日光市の鬼怒川温泉ですわ。2回くらい彼女の実家で泊まりました。実家は龍王峡で旅館を経営されていました。現在はどうなっているのかは知りません。」

「高原さんの葬式には出席されましたか?」

「ええ。自衛隊葬を行う前、実家の近くのお寺での葬儀で参列者受付係りをいたしましたわ。」

「その時、お知り合いの誰かにお会いになりましたか?」

「ええ、高原さんの恋人であった的場史朗と云う方が焼香に来られていましたね。あとは、当時の統合幕僚議長が来られていました。現在では、統合幕僚議長職は無くなり統合幕僚長職になっています。」


取材を終え、広報部応接室を出て廊下を歩いている時、太郎は強い視線を感じた。

「これは、名古屋の日本金融保証連盟支部からの帰りがけに感じたのと同じ視線だな。」と思いながら、後ろを振り返ってみた。

7人くらいの男性自衛官が行き来しているが、誰の視線なのかは判断が付かない。

年配の者、若年の者が制服であるいている。

「どうかされましたか?」と松宮が訊いた。

「いえ、大丈夫です。ちょっと廊下の風景を記憶しておきたかったので振り返って見ました。」と太郎が返事した。

「気のせいか?まっ、いいか。」と思いながら太郎は辻井記者と出口へ向かった。

松宮一等空佐と広報官に見送られて自衛隊の門を出てJR総武線市ヶ谷駅に向かって歩いている時にも太郎は強い視線を感じて振り返った。

「別に怪しそうな人物はいないな。気のせいかな?」と数人の通行人の様子を太郎は見ながら思った。



 志摩の女王16;

 東松山駅前の大和探偵事務所    10月 14日(火) 午前10時頃


太郎が日光鬼怒川温泉竜王峡にある高原澄江の実家と日光を訪問する計画を練っている時であった。

事務机の電話が鳴り、太郎は受話器を取った。


「はい、大和探偵事務所です。」と太郎が言った。

「アメリカ中央情報局CIAの者ですが、ぜひ依頼したい事があります。明日、アメリカ大使館まで来ていただけないでしょうか。」と日本語で相手がしゃべった。

日本人のCIA要員かと太郎は思った。

「現在、難事件の調査のため、申し訳ありませんが、他の調査依頼はお断りしています。引き受けても、十分な調査活動はできませんので、ご迷惑をかけるだけになりますから。」と太郎が言った。

「その難事件はいつごろ解決出来そうなのですか?」と相手が訊いた。

「そうですね、3か月以上先にはなりますかね。3か月後には、事件を解決できるか、出来ないかが判明するでしょう。私の手に負えない可能性も十分あります。」

「3か月待たなくてはいけませんか?」

「ええ。申し訳ありませんが・・・。」

「事件の内容によっては、私どもがその事件解決に向けて協力いたしますから、その事件と併行して我々の依頼を受けていただけませんか?その事件の内容を簡単に説明ねがえますか?」と相手が切り込んできた。

「10年前に日本金融保証連盟が関係した詐欺事件がありました。その時の関係者が村正と云う刀剣で刺殺されました。その事件に関係するかのように、もう一人の人物が、同じ手口で殺害されました。後者の方の犯人を見つけ出すのが私の仕事です。たぶん、CIAに協力していただくような内容ではないと思います。申し訳ありませんが、今回は依頼をお受けできません。次回の依頼をお待ちしております。納得していただけましたか?」と太郎が言った。

「そうですか。また、電話します。」と言って相手は電話を切った。



 志摩の女王17;コンタクト(接触)

 東武東上線池袋駅ホームに停車中の電車内   10月 14日(火) 午後4時半ころ


北辰会館での空手稽古を終え、弁慶寿司での食事も終えた太郎は、東松山の事務所に帰るべく、急行森林公園行きの電車に乗り、出発を待っていた。

まだ、夕方のラッシュアワーには少し間があり、また、電車は到着したばかりなので車内は比較的空いている。

太郎の左隣に座った男性が小さな声でひとりごとを言っていると太郎は思った。

「そのまま前をむいたまま、そして、黙ったまま、私の話を聞いてください。判ったら右手を前に突き出してください。」とその男は同じ事を二度繰り返して言った。

はっとした太郎は、右手を前に突き出した。

「明日、市ヶ谷の自衛隊本部に統合幕僚長を訪ねてきてください。午前10時に竹下統合幕僚長がお待ちしています。OKならば、もう一度右手を前に突き出してください。」


太郎は座ったまま、右手を前に突き出した。

その後も二人は会話をしなかった。

その男は次の停車駅である成増なります駅で急行電車を降りて行った。



 志摩の女王18;真相1

 東京市ヶ谷の自衛隊本部内 統合幕僚長室   10月 15日(水) 午後4時半ころ


「アメリカCIAから大和探偵を妖刀村正殺人事件から開放してほしいとの依頼がありました。別に、自衛隊があなたを束縛している訳ではないのですが、事件の真相をある程度までは知っていますんでね。それと、一部には関係している点もありますから。自衛隊とCIAとの接点はその一部に関して情報交換をしていると云うことです。それと、あなたが動きまわることで、我々の活動に支障をきたす可能性もありますから、あなたには殺人事件を調査する事から手を引いていただきたい、と云うのが私の本音でもあります。あなたの口が堅いことは各所から確認しました。」と竹下統合幕僚長が言った。

「村正殺人事件の犯人を知っていると云うことですか?」

「その通りです。あなたの納得を得るためには、ちょっと重要な秘密も話さなければならないので、外を歩きながらお話いたします。この部屋では万一盗聴されていることも考慮しなければなりませんので。」

「幕僚長室でも盗聴の心配があるのですか?」と太郎が訊いた。

「ええ。毎朝、担当の人間が盗聴マイクなどの存在の有無をチェックしますが、どのような機器が隠されているか知れませんので、用心に越したことはありませんのでね。では、建物外の庭へ行きましょうか。」と言いながら、竹下は太郎のために廊下へ通じるドアーを開けた。


「最初にはっきりさせておきますが、松阪での殺人事件と静岡での殺人事件は無関係です。」と自衛隊の敷地内にある庭を歩きながら竹下が言った。

「えっ、無関係!」と太郎が驚いた。

「それについて、これから説明します。保険外交員をしている笠井為治を静岡で殺したのは某国秘密結社のヒットマンです。この秘密結社はテロリストとの関係が噂されていますが、確かな証拠はありません。自衛隊の特別防諜部隊ではこの秘密結社の日本国内活動拠点を7年前から盗聴監視しています。実は、笠井為治は12年前の日本金融保証連盟時代からこの秘密結社に協力していました。この笠井を監視していたのが日本金融保証連盟に派遣社員として潜入していた高原澄江でした。笠井は秘密結社にある弱点を握られていました。よくある使い込みです。しかし、笠井が監視しされていることに気づいた秘密結社は高原澄江を殺しました。一見、事故死を装っていましたが、後の調査で殺害された事を知りました。それを聞き込んだのは的場史朗です。水原重工の造船営業マンとして自衛隊に出入りしていた的場は高原と結婚を約束していたようです。高原もあと3か月後には徐隊することになっていた矢先に殺されました。当時の統合幕僚議長から死体現場の状況を聞いた的場は事故現場に花束を供えに行き、現場を見て事故死に疑問を持ったようです。上からものが落下してきて頭部に当たったとしても、高原が倒れていた位置が不自然だったと考えた様です。そこで、高原の任務の内容を統合幕僚議長に訊きただした的場は、高原が潜入調査をしていたことを知ります。当時、的場史朗は海上防衛艦の売り込み営業で統合幕僚議長には技術説明などを通じて面識はあったようです。そして、的場に諜報員としての資質があることを見抜いた統合幕僚議長は、的場に諜報員にならないかと勧めます。高原澄江の復讐を考えた的場は諜報員になり、1年間の特別訓練を終えてから八坂産業に再就職し10年前に笠井為治と接触し、詐欺行為をされているのを知りながら、笠井為治にだまされた振りをしました。某国秘密結社の下部組織である企業が八坂産業をターゲットに資金調達と自衛隊情報の入手を目論んでいることは高原澄江の活動で判っていました。ああ、言い忘れていましたが統合幕僚議長職は2006年に廃止され、新しく制定された統合幕僚長職が役務を引き継いでいます。的場史朗に関する話は私の前任統合幕僚長から引き継ぎましたが、諜報員としての資質は100%持っている人物だそうです。国の繁栄ために自身を犠牲にできる考え方と揺るぎない信念の持ち主、断片的な情報から全体像を的確に推測する優れたインテリジェンス能力、そして相手の心理を的確に読み取る能力、それが的場史朗です。その資質は本人が努力して身に付けたと云うよりも先天的に持って生まれたものと云うのが、的場史朗を諜報員として採用した当時の統合幕僚議長の意見だったそうです。的場史朗は自衛隊員ではありません。民間の情報提供会社と調査活動を契約依頼していると云う形体で的場は活動しています。ですから、的場は歴代の統合幕僚長が個人的に契約した人物です。統合幕僚長以外の人間は的場の存在を知りません。そうでないと、彼の命を危険にさらすことになりますから。現在、的場はテロリスト情報を収集するため某国に潜入していますので、笠井為治殺害の件には無関係です。笠井為治は8年前から二重スパイとして、秘密結社の情報を我々に提供していました。それを知った秘密結社に殺されました。通常の殺害なら秘密裏に死体を処理しますが、笠井が二重スパイであったので他の結社員に対する示しと、笠井のバックにいる我々に自分たちが笠井を処分したことを知らしめるために、わざと死体を路上に放置したのです。笠井自身、我々が自衛隊であることは知りませんから、秘密結社も自衛隊が笠井のバックにいるのかどうかは知らないようです。松阪の足利社長殺しの犯人は専務の高野正信です。現在、この秘密結社が高野氏を拉致して監禁しています。松阪での殺人事件の殺害方法が静岡での事件に似ていたため、自分たちの放ったヒットマンが同じ方法で殺害したのではないかと思ったようですが、ヒットマンは無関係と知り、自分たちに対する外部機関の当て付けではないかと思ったようです。秘密結社の下部組織である企業がエステサロン『シバの女王』に出資し、その後の乗っ取りを画策しています。『シバの女王』は日本国内の企業内情報を収集するには最適の施設ですから。乗っ取り計画を成功させるため、『シバの女王』の監視調査をしており、その中に、足利建設の社長や高野専務の動きを知っていたようです。この二人がちょっと不審な動きしていたようで、注目はしていたようです。そこで、高野専務が社長を殺したのではないかと判断したようです。高野専務の自供から、個人的な恨みでの殺人と判明したようです。現在、某国にある秘密結社本部に高野専務を釈放するか、殺してしまうかの判断を求めているようです。たぶん、高野専務自身は誰に拉致されたのかは知らないでしょう。後ろから殴られて失神し、目隠しされたままですから、自分の居る場所がどこであるかも知らないようです。ですから、近日中に釈放されるでしょう。彼らも無益な殺生は好みませんからね。そして、高野専務は警察に自首するでしょう。もう、自分が犯人であることをどこの人間とも判らない者に話してしまったのですから、恐怖心が芽生えて、自首せずには居れなくなるでしょう。しかし、あなたが日本金融保証連盟の名古屋支部に現れ、『シバの女王』の融資会社のことを聞きたい言った時に、潜入捜査員は非常に驚き、すぐに私に連絡してきました。私は秘密結社との関係があるのか、また秘密結社が警戒するのではないかと心配して、すぐに尾行させました。私立探偵であることが判って半分安堵しました。しかし、あなたの動きを止めないと秘密結社が動きを変えてしまう心配もでてきました。どうするかと思案していた時にCIAから依頼がきて、真相を話すことを決心しました。そこで、本日ここに来て頂いた訳です。」

「的場史朗氏が1年間対馬の大船越で生活していましたが、その理由はなんですか?」と太郎が訊いた。

「表面上は八坂産業が詐欺にあったと謂う形で詐欺事件は終りましたが、的場史朗は笠井為治と付き合うことで秘密結社の日本アジトの一つを突き止めることが出来ました。そして、盗聴装置をそのアジトに設置出来ました。そこから、他の場所にあるアジトも数か所判明し、そこにも盗聴装置を設置し我々自衛隊の目的は達成された訳です。本日お話しした秘密結社に関係する内容は盗聴によって得られたものです。ところで、八坂産業にとっては次期海上防衛艦を受注することで詐欺における損失金は補てんされた形になりました。その後、笠井を二重スパイにすることもできました。的場史朗は秘密結社壊滅のために次の任務に就く必要がありました。八坂産業を退職したあと、1年間対馬に身を隠したのは、秘密結社から的場自身が正体を見破られて監視されているかどうかを確認するためでした。監視されていないことが判ったので的場史朗は次の任務地へ向かいました。」

「的場氏のご両親に、的場史朗氏の無事を知らせてもよろしいですか?」と太郎が訊いた。

「できれば、黙っていて欲しいですね。現在、的場は偽名で活動しています。もし、的場に親類や家族がいることが敵に知られると、家族などが人質にされて、二重スパイの要請や、情報提供協力を強いられてしまいます。それは諜報員にとっては致命的なことです。人質と云っても実際に拉致監禁する訳ではありません。自分たちに協力しなければ、家族を殺すと脅してきます。家族は何も知らずに普段の生活を続けているだけです。我々や警察が家族の安全を確保するといっても、完璧なものでないことは諜報員自身がよく知っています。的場が生きていることを知ったご両親が身近な人々に息子の無事を話すことから、敵に的場史朗に関する情報を知られてしまう可能性がありますから。」

「そうですか。非情ですね、秘密諜報員と云うのは・・・・。ところで、静岡での殺人に使われた村正の件ですが、秘密結社のヒットマンはどこで手に入れたのでしょうか?あの村正は的場史朗氏の所持品であったはずですが?」と太郎が言った。

「あれは、9年前、的場史朗が某国に旅立つ前に統合幕僚議長に預けて行った村正です。笠井為治は刀剣に目がなく、笠井を二重スパイに誘い込む時の説得材料になると的場は考えて、統合幕僚議長に進言してから海外に行ったようです。的場の言っていたように、村正を進呈すると言ったら、笠井は喜んで二重スパイになることを了承したようです。そして、ヒットマンは笠井が持っていた村正を盗み出し、それを使って笠井自身を殺したと云ったところでしょう。」と竹下統合幕僚長が言った。

「殺害現場に残されていたのは村正の刀身だけでさやが無かったのですが、行方をご存じですか?」と太郎が訊いた。

「いえ、知りません。盗聴の範囲内では鞘の話はありませんでしたね。」

「そうですか・・・。」ひとつ疑問が残ってしまったな、と太郎は思った。

「ところで、秘密結社とはビッグストーンクラブのことですか?」

「いえ、違います。」

「名前は?」

「名前はちょっと申し上げられません。秘密結社はテロリストに支援金を出している可能性がありますが確証はありませんので、変なことは申し上げられません。この件は継続監視項目です。すでに、あなたの動きは秘密結社からマークされているかも知れません。日本金融保証連盟名古屋支部で『シバの女王』への出資企業のことを聞きに現れたのを知ってしまっているかもしえませんからね。未だ、盗聴内容にあなたの名前は出て来ていませんがね。いずれにしても、暗殺要員を持っている集団ですので、変な動きは控えてください。あなたの安全のためでもありますが、あなたが、秘密結社に関係して活動することは我々にとっても情報収集活動の迷惑になりますので。」

「判りました。真実が判明し、松阪での殺人犯も判りましたので、この事件からは手を引くことにします。ありがとうございました。」と太郎は礼を言いながら、毎朝新聞社への謝り方を思案し始めた。



 志摩の女王19;真相2

 松阪駅近くのホテル「サンタウン」内レストラン 10月 18日(土) 午後6時半


南部高行、田川順子、橘幸平、阿倍弁護士、大和太郎の5人がフランス料理の食事をしている。

「高野専務が自首し、私の無実が証明され、事件は落着しました。皆さんのご助力に感謝いたします。ありがとうございました。」と南部高行が挨拶して、高行主催の食事会がスタートした。


「高野専務の自供内容をご存じですか?」と太郎が安倍弁護士に質問した。

「担当刑事から話を聞いて来ました。殺人の動機は足利社長のワンマンな言動に不満を持っていたことです。社長自身の間違いを高野専務の責任に転嫁することが度々あったようです。それと、高野専務は足利社長の妾である山形君子とも懇意にしているのを足利社長から非難されたようです。山形君子から足利社長に関する質問を受け、それに答えるために話をしたぐらいで、肉体関係などはなかったようです。南部さん宅の応接間で村正を手に取った時に社長への不満が爆発したそうです。自分でも不思議に思ったようですが、足利健夫を殺すと云う思いが沸々と湧いてきたようです。そして、南部さんが仕事で留守にしている時に村正を盗み出し、その日の夜、山形君子が急きょ社長に相談があると高野専務を訪ねてきたと云う嘘で社長を自宅近くの斎宮跡地公園に呼び出したようです。そして、社長が『君子はどこに居る?』と言いながら、当たりを見まわして居る時に背後から村正で刺殺したようです。」と阿部弁護士が説明した。

「刀の鞘の話はありましたか?」

「刀の鞘は自宅に持ち帰ったようです。自分の指紋が付いている事もあったようですが、鞘を持った時に安らぎ感があるので、手放せなかったと高野専務が言っていたようです。」

「やすらぎ感ですか?」と太郎が呟いた。

「ああ、それは私も感じましたね。安堵感と云うか、やすらぎ感と云うか、なんとなく落ち着くのですよ、あの鞘を持っていると。」と南部高行が言った。

「鞘からアルファ波が出ているのかしら?」と田川順子が言った。

「人が安らいでいる時に脳から出ていると云うアルファ波ですか?」と太郎が言った。

「そうです。私のエステサロンでは、お客様の脳波を測定しながらマッサージサービスを行います。それは、お客様が安らぎを感じているかを確認しながら、適正な力でお客様の筋肉を揉みほぐすことができるからです。シバの女王のマッサージが最高と評判される所以ですわ。」

「脳波と同じ周波数の電磁波が鞘から出ている訳ですか?」と太郎が言った。

「確か、鞘の両側には5個づつの小さな水晶玉が等間隔に埋め込まれていましたね。空間を走っている霊気が鞘を通過する時にアルファ波と同じ波長のみが通過でき、他の波長の霊気を吸収してしまうからではないでしょうか?」とレントゲン技師で霊能者でもある橘幸平が言った。

「なるほど、そう謂うことですか。脳波と同じ波長ですか。音響の世界でもF分の1ゆらぎと云う理論があります。ある周波数Fの音波があるとしますと、そのF分の1の位相分で音波が変調されると人間にとって心地良い音になります。鞘を通過する霊気が揺らいでいるのかも知れませんね。」と太郎はS電気での営業時代に勉強した内容を話した。

「F分の1ゆらぎの音楽ですか。面白そうですね、エステでも検討してみようかしら。」と田川順子が目を輝かせた。

「一般にヒーリング音楽はF分の1ゆらぎがあるとされています。バックグラウンドでヒーリング音楽を流す施設は多いですね。いま、このレストランに流れているバックグラウンドミュージック(背景音楽)もそうですね。」と太郎が言った。



 志摩の女王20;真相3

1607年(慶長12年9月17日旧暦)、駿河国広野にある三浦雅楽助の家宅にある庭にて


徳川秀忠に将軍職を譲り、1607年7月駿府城に入った家康は近従者から神福しんぷくと呼ばれていた。

三浦宅の庭には、2か月前に駿府に来て最初の三浦宅訪問の際、手土産がわりと云って家康が植木屋に移植させた柿樹があった。そして、それ以来、家康は数度となく三浦宅を訪問していた。


家康と服部一忠の出会いは古い。織田信長が1560年桶狭間の戦いで今川義元を打ちとった時、義元に一番槍を付けたのが服部小平太一忠であった。義元を守る手練てだれに足を斬られ、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利新助であったが、家康は一番槍の小平太を高く評価していた。その後、家康は今川家の人質から解放され、織田信長と和睦を結んだ時、一番槍の服部小平太に礼を言ったのが二人の初めての出会いであった。その後、小平太は織田信長の家臣として桑名近くの尾張津島村の領主をし、秀吉時代は伊勢松坂城主を勤め、その後豊臣秀次の近従として山城国伏見に入る。

服部小平太一忠は生年不祥、1595年に豊臣秀次の謀反事件に連座したとされ、越後の上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられ没したとされる。しかし、義の人である上杉景勝と家老で愛の人である直江兼続が切腹したことにして、秀吉によって無実の罪を着せられた服部一忠を解放したと云ううわさもある。豊臣秀吉と石田三成は上杉が服部一忠を逃がすであろうと予想していた。そして、それを望んでいた。そこには、秀吉の狙いがあった。徳川家康の江戸から西国への動きを封じるため、上杉に越後から会津に移ってもらい、背後から江戸の徳川を攻める体制を整えたかったのである。しかし、上杉が移封を容易にOKするとは考えにくい。そこで一計を案じ、上杉に貸しを創る作戦に出たのが、服部小平太一忠を上杉に預け、切腹命令に背いて小平太を逃がさせる事であった。

秀吉配下の忍者に上杉に預けた小平太を見張らせ、上杉が逃がした証拠を掴み、上杉の会津への移封を迫った。上杉景勝は会津へ行くことを承認せざるを得なかったのである。表向きは、春日山で小平太が切腹したことを秀吉と三成は認めた。しかし、このことが逆に豊臣政権を倒すことになるとは、秀吉も三成も予想できなかったのである。

1598年(慶長3年8月)、上杉の移封(慶長3年正月〜3月)を見届けた秀吉は豊臣家の将来を安堵して他界した。


橘幸平の推理では越後から逃れた小平太は信長時代からの知り合いである家康に救いを求めた。そして、小平太は家康からの密命を帯び、豊臣秀吉から玉山金山の管理を任された伊達政宗の元に現れる。すなわち、後の1598年に玉山金山下代となる松坂徳右エ門の父である松坂小太郎定盛(伊勢松坂城主と称している)として1596年ころ陸前高田に姿を現わし、気仙山(現・氷上山)で服部半蔵と共に真珠の宝剣を用いた東照結界構築の神業を行うのである。


神業の手伝いを終えた小平太は家康と半蔵の計らいで、氷上神社、塩釜神社、富士山本宮浅間神社、静岡浅間神社を結ぶ影向線上にある駿河国広野の牛頭天王社(現・八坂神社)近くに、三浦雅楽助みうらうたのすけと称して居を構え、晩年を過ごしていた。

服部小平太が1560年桶狭間の戦いの時、20歳くらいであったと仮定すれば1540年ころの生まれで1607年では67歳である。

徳川家康が1542年生まれ、1616年(74歳)没であるから、小平太と家康は同年代に近かったであろう。だから、よく話が合ったと思われる。それで、家康は度々、広野に住む雅楽助のところに遊びに来ていたのであろう。昔話にふけるのは老人の楽しみである。


雅楽助うたのすけの名前には慣れましたかの、小平太どの?」と家康が訊いた。

「越後での切腹事件以来、名前を変えるのには慣れておりまする。この名前には、辛い思い出がありまする故、忘れられませぬ。」と小平太が言った。

「どのような思い出でござるかの?」

「神福さまの援軍として武田軍の遠州高天神城を包囲攻撃した時のことでござる。10カ月の籠城で半数の人間が餓死し、残りの武士が討って出てきた時でござる。武田軍駿河先方衆である三浦雅楽助殿と出会い、試合をいたしました。空腹と疲労で雅楽助殿の足元はふら付いており、勝負の行方は初めから決まっており申した。互いに姓名を名乗り合った時、雅楽助殿は死ぬ為に城から出てきたのだなと直感いたしました。さすれば、痛みを伴わないように一撃で葬って差しあげるのが武士の情けと思い申した。雅楽助殿が斬り掛って来た刀を払い、素早く背後に回ってよろいの隙間から雅楽助殿の心の臓を一刺ひとさしいたしました。『うっ!』と呻いた雅楽助殿は振り返りもせず一言『かたじけなく存ずる』と申されて呼吐切れ、倒れましてござった。その時、雅楽助殿の無念を想うと、切なさと虚しさが混ざり合った思いがこみ上げて来て、涙が止まりませなんだ。その後、戦う意欲を失った拙者せっしゃは、近くにあった石に座っていくさの状況を見ており申した。その後も数人の武田方の武士が拙者の前に現れ申したが、戦う意志のない拙者を見て取ると、ふら付きながら拙者の前から去っていき申した。あのような無残な戦はあの時の後にも先にも在り申さなんだ。悲しい思い出でござる。」と小平太が言った。

「確かに、あのいくさは無残でござった。いくさの後、わしも城内を検分いたしたが、痛ましい光景ばかりが目に付き申した。武田勝頼殿が援軍を差し向けなかったばかりにのう・・・・。信長公も援軍を中止された勝頼殿には大変ご立腹であったわ。そして、その後の武田軍の志気の低下は目を覆うばかりでござったな。味方の武者を助けず、自分たちだけが生き残ったと云う後ろめたさが武田軍内に広まったようでござった。その後、武田の武将たちの中には死に場所を求める様に戦った者もござったな。その後の合戦などは孫氏兵法に謂う『勝ちて後、戦う』を地で行く有様で、楽勝でござった。死ぬ為に、信長軍の鉄砲隊に突撃してくる有り様でござったからのう。これも、無残と云えば無残でござった。決戦の時と場所を誤った武田勝頼殿はヤソ教(キリスト教)で云うところの十字架を背負われた訳じゃ。罪は深こうござるかな?天の時、地の利、人の和を欠いては戦に勝てませぬ。信玄公の武田軍団は人の和が他国より秀出ていましたからのう。これを欠いては、勝頼殿に勝ち目はござらぬて。」と家康が言った。


「拙者の墓は越後に在りまする故、この地、広野郷ひろのむらの大徳寺に三浦雅楽助の墓を造らせ申した。拙者がその墓に入るつもりでござる。」


「左様でござるか。しかし、この柿は甘いのう、小平太どの。」と家康が言った。

「いや、神福様は御目が高い。こんなに甘い柿の実がるとは思いませんでしたわ。『こしぶ』と命名されたので、てっきり渋柿しぶがきかと思っていましたがのう。わっはっはっは。」と雅楽助が笑った。

わしは『こぶし(拳)』と呼ぶつもりであったが、慌てん坊の大久保彦左が勘違いしおってな、こんな呼び名になってしもうたわ、わっはっはっは。」と家康も笑った。

「それは初耳ですな。して、如何なる顛末てんまつで?」

わしの駿府入城祝いに大勢の若侍を引き連れて来て、『殿、若侍たちに戦場いくさばの心得をお教えください。』と彦左が申しおった。そこで、戦場の戒めについて、話をしてやった。臆病風に吹かれた時は、こぶしを握って自分の頭をぶん殴れと話してやった。そのとき、拳大の大きさに成長する柿の実のことが頭に浮かんでな、この庭に植樹した柿の木のことを思い出した。それで、わしは戒めを忘れぬために広野の地に柿の木を植えた。お前たち若侍も柿の実をたべる時はわしの話した戦場の戒めの事を思い出せ、と言ってやった。そしたら、彦左が『殿との、その柿樹の渾名あだなは何と申します?』と訊くから、『こぶし』じゃ、と答えてやったのじゃが、慌て者の彦左めは『なるほど、渋柿の渋さを思い出すことにより、甘える心を引き締め訳ですな。それで、小さな渋柿、こしぶ(小渋)ですか。これは良い名でござりますな。』とぬかしおった。若侍の面前で彦左に恥を掻かせる訳にもいかぬので、渾名は『こしぶ』となってしもうたわ。あやつは他人の話を少しも聴いておらぬわ。わっはっはっは。」

「彦左殿らしいですな・・・。あっはっはっは。」


「戒めと云えば、例の真珠の宝剣はどのように為されたのか、小平太どの?」と家康が訊いた。

「この近くにある牛頭天王社に祀ってありまする。あとでお参りいたしましょうか、神福様?」

「左様か、それは宜しいな。本来あるべきところに返ったと云う訳じゃな。うん、うん、お参りいたしましょう。しかし、徳川家は2度も小平太どのに助けられましたな。お礼を申し上げる。」

「2度でござるか? 私めには合点がてんいきませぬが、何故に?」

「最初は桶狭間で、義元どのの首を挙げられた。これで、松平家すなわち、今の徳川家は人質から逃れることが出来、自立に向かいました。そなたが義元殿の護衛である手練れの武士を引き着けたお蔭で毛利新助殿は義元殿の首を挙げることが出来た。そなたが居なければ、毛利新助殿は義元殿を討てたかどうかは判りませぬ。2度目は、そなたが持っていた真珠の宝剣による結界神業でござる。半蔵配下の下忍げにんをわざと伊達政宗の居る岩出山城下で捕われるように仕向け、結界神業を行った旨をその下忍に白状させ、伊達政宗に圧力を加えました。あれで、政宗は徳川と手を結ぶ決心をしおった訳でござる。政宗曰く『神には勝てぬ』とな。そこで、慶長4年正月(1599年)政宗の娘・五朗八姫と我が子・忠輝の婚因を成立させた。おかげで、慶長5年の関が原のいくさの時、政宗の侵略を恐れた上杉を会津でくぎづけに出来ました。人望ある上杉が関が原に来ておれば、(小早川)秀秋は徳川方に寝返っておらず、西軍の(毛利)輝元はもっと積極的な攻撃をしていたであろう。明らかに、東軍の負け戦になっておったでござろう。しからば、徳川家は小平太どのに足を向けて眠れませぬ。」

「なるほど、しかし、この小平太めも神福様に救って頂いたおかげでこの様に楽しい余生を送っておりまする。御礼申し上げまする。しかし、半蔵どのは如何いたしておりましょうや?」と雅楽助が訊いた。

「半蔵は、結界神業の成功を報告に来た2か月後に徳川家を離れ申した。あっ、いや、ここだけの話ですが、死んだことにいたしました。話の始まりは陸前高田の気仙山での結界神業を行う前の慶長元年11月(1596年)のことじゃった。突然、半蔵がわしの所に来て『いとまを頂きたい。』と申しましてな。」

「また、何故に?」

「半蔵配下の下忍が情報収集活動の途中で多数殺されており申した。半蔵はそれ悔んでおりましての。使命とは云え、みすみす死に追いやった責任を痛感しておったようです。わしの命令であったので、責任はこの家康にある。半蔵の責任ではないと申したのじゃが、聞く耳を持っておらなんだわ。暇をもらって何となす、と訊いたら『この大八洲おおやしま、すなわち日本国土に結界を張る神業をいたしまする。かつて、崇神・垂仁天皇の御世、豊すき入姫と倭姫が天照大御神の安住地を伊勢に求めて移動した際、伊勢神宮を中心にして29の霊地点を互いに結ぶ50個の三角結界を蜘蛛の巣の様に張り巡らしました。この50個の結界三角形群を五十鈴いすずと謂いまする。そして、この五十鈴に囲まれた領域を畿内と申します。畿内には悪神が入ってこぬように結界を張ったようでございまする。私は日本国全土に同じような結界を張り、日本国の安泰を願うのが、死んでいった下忍の供養になると信じておりまする。下野しもつけ国の霊験ある日光山を中心にして10本の結界線を日本国土に張りまする。日光山は大八州おおやしまの心の臓でござる。』と言いおった。心の臓から出た血は体を巡ってまた心の臓に戻ってくる。同じように、日光山を出た霊気は大八州の各地にある霊域から地中に入り日光山に戻ってくるらしいのじゃ。霊気の輪が出来て居るらしい。半蔵は情報収集活動に役立てる為に大八州の絵図(地図)を作っておった。その絵図の形から大八州おおやしまは人の形に作られておると半蔵は考えておったようじゃ。蝦夷(北海道)の地があたま、八州(本州)の陸奥国から摂津大坂までが胴体、紀伊、大和、伊勢、志摩がある紀伊半島が左脚、播磨はりまから長門ながとまでが右脚、土佐、伊予などの四国が左足、薩摩などの九国(九州)が右足に当たるらしいのじゃ。それから淡路島は股間にぶら下がっておる男体おとこ一物いちもつ、琵琶湖が女体の腹にある子を宿すお宮であるらしい。淡路島には自凝おのころ島神社と云うのがあるそうじゃ。オノコロとは、男子露おのころと書いて、男の子種の事じゃそうな。浪速の海(大坂湾)に流れ込む淀川が自凝おのころ島神社から出発した子種の通り道じゃとか。琵琶湖に浮かぶ卵形の竹生島ちくぶしまが子種の到達するべき目的地じゃ。竹生ちくぶとは血躯生ちくぶと書いて肉体を生み出すと云う意味じゃそうな。生まれた肉体に魂をくくり付ける役目は自凝おのころ島神社の祭神である菊理姫くくりひめの大神様が行うそうじゃ。子宝が授かりたい夫婦は淡路島のおのころ島神社と琵琶湖に浮かぶ弁天様を祀る竹生島神社に参拝するのが良いとか云ううわさちまたにはあるそうじゃ。陸奥むつにある恐山は咽喉仏のどぼとけに当たるので亡霊の声が聞こえるのじゃそうな。


自凝おのころ島神社の主祭神は大八州を生んだ男神イザナギと女神イザナミの夫婦神じゃが、イザナミは火の神を産んだ時に死んで黄泉の国に行ってしまったのじゃ。父神であるイザナギは恋しいイザナミに会いに黄泉の国へ行くが、姿を見ないで欲しいと言われたのに、穢れたイザナミの姿を見てしまい逃げ出す。怒ったイザナミはイザナギを許すまじと思い、黄泉津比良坂よもつひらさかまで追いかける。見るなと言われて見た我儘な男神、それを許さないと宣言した女神。ならば、その対策をすると言った男神。夫婦喧嘩は神代の昔からあるのじゃな・・・・。


半蔵は俗に鬼半蔵と渾名あだなされており申した。鬼半蔵の鬼は霊能者を意味してな、わしは鬼半蔵から霊界の話を聞いていくさまつりごとに役立てていた。そこで、半蔵が居なくなると霊界の話が聴けなくなる。したがって、世の安泰に対する策が考えられぬからと言って半蔵を引き留めようとしたのじゃが、霊能がある霊厳れいがんお尚(1554年〜1641年)を紹介いたしますると申して、下総国からそ奴を連れてきおった。『これから全国行脚をいたしますが、私の顔を知っている者に出会ったら困るので、半蔵は死んだことにして頂きたい。つきましては、半蔵門近くの某寺で葬式を行います。殿とのにも参列していただき、世間に半蔵めは死んだと知らしめて頂きとうございます。』と鬼半蔵が言いおった。それで仕方なく、半蔵門近くの寺に墓石を建てて、半蔵は死んだこととした。この時、暇を許すかわりに半蔵にある交換条件を出した。その条件とは伊達政宗の徳川家への協力を取り付けることである。そこで半蔵が考えだした策が、小平太どのが所持しておった真珠の宝剣を利用した陸前高田の気仙山に於ける神業じゃ。東照結界を構築したことを政宗に知らしめ、徳川を敵にしても無駄であると悟らせる策略であった。半蔵が徳川家を去って全国行脚に出かける時、次は日光二荒山、出雲須佐神社、対馬八幡本宮(現・海神神社)を結ぶ霊線、すなはち影向線に結界を構築するつもりじゃと申しておった。半蔵が言うには、二荒山ふたらさん二荒にこうとは二神にこうのことであるらしい。そして、この二神は中禅寺湖に潜んでいる龍神らしい。戦場ヶ原に現れた大蛇や勝道上人が二荒山を開山すると時、神橋となった二匹の赤蛇と青蛇は地上では大蛇の姿であるが、天空を舞う時には龍神となるらしい。また、二荒ふたら風多羅ふたらの意で、天気の良い日に風をたくさん起こすことで透明なあみを作り、悪神を風の網に包み込んでしまう龍神らしいのじゃ。羅と云うのは大きな網や編んだ布を表す言葉じゃ。また、良い天気の神でもあるから日光でもあるのじゃそうな。鬼半蔵には龍神として見えるが、わしには天空を漂う雲にしか見えぬらしい。この二柱の龍神に半蔵が10本の影向線上に構築する結界をまもらせると申しておったがのう、どうなったことやら。鬼半蔵め、今頃は仙人にでも成っておるやもしれぬて。わっはっはっは。」


1542年生まれの鬼半蔵は本能寺の変の時、家康の伊賀越えに同行した2代目半蔵である。初代半蔵は三河国支配時代に松平家(その後の徳川家)に仕えた。家康の駿府院政時代には3代目半蔵が忍者を取り仕切る伊賀組同心支配になっていた。


「左様でござったか。全く、知りませなんだ。」

「そういえば、半蔵が真珠の宝剣について申しておった事がありまする。真珠の宝剣にはスサノオが出雲で大蛇退治をした時に使った十挙剣とつかのつるぎの分霊が宿っている。その分霊とは悪を戒める役目、悪を懲らしめる役目をするとの事でありましたな。」と家康が言った。

「なるほど、戒めの剣、らしめの剣でござるか。二つの役目ですか、ふーむ。そういえば、南部の殿様に差し上げた刀剣村正の他に、もう一本村正がございましたな。半蔵どのに依頼されて差し上げた、私が松坂城主時代に三代目村正に作らせた二振りの村正のもう一本でござるが、あれはどのように使われましたかな?半蔵どのに問うても、『それは、申し上げられぬ。』の一点張りでござったがのう。」

「あっはっはっは。鬼半蔵め、話しておらぬのか。もう関ヶ原の戦は終り、目的おもいは達成しましたからお話いたしましょうかな、雅楽助どの、いや、小平太どのに。これは、半蔵が考えおったことでござる。陸前の気仙山から更に北に行った南部藩領の船越半島に霞露岳かろがたけと云う小さな山がござる。気仙山で神業を行う同じ時刻に霞露岳山頂に二本目の村正を半蔵配下の下忍頭げにんがしらが逆さに立てておりましての。この広野村にある牛頭天王社から駿府城横にある浅間社、富士本宮浅間社、富士山、日光二荒山、塩竈神社、気仙山、霞露岳を結ぶ影向線ようごうせん上の霊気を通して神珠の宝剣に封じ込めた呪文の意志、すなわち東照結界構築の意識を村正にも分霊したようである。半蔵が言うには、神珠の宝剣の片方の5個の真珠を通して矛先端から外に向かって霊気が出ていき、もう一方の5個の真珠には矛先端に入ってきた霊気が通過しているとのことであった。そして、その霊気は宝剣の握り部端の素環で逆戻りして再び、矛先端から外へ出て行っているらしいのじゃ。たぶん、宝剣から出て行った霊気がどこかの遠方で逆回転して、再び宝剣に戻ってきているのだろう。そして、再び矛先から出て行っていると考えられる、霊気の輪とか半蔵が申しておりましたな。半蔵には牛頭天王の霊気を帯びた輪が10個の真珠の周りに光輝いているのが見えるらしいのじゃ。そうさな、霊気が循環している天王の輪で『輪王の霊気』とか申しておったな、鬼半蔵が。そこで、半蔵が『五人五郎の王子』とか云う秘伝術を二本の村正に施しおりました。宝剣の先端から出る霊線上に一本の村正、宝剣に入ってくる霊線上にもう一本の村正を置く。そして呪文を唱えおった。そうすると、二本の村正は双子の刀剣になる。いや、妖刀となる、と云ったほうがよろしいかな。」

「双子とは?」

「5個の真珠が二列ありまする。すなわち二五ふたごでござる。」

「はあ・・・?」

「あっはっはっは。申し訳ござらぬ、冗談でござる。」

「神福様もお人が悪い。して、双子の妖刀村正とは?」

「一方の陽剣・村正を持つ武士があることを想うと、もう一方の陰剣・村正を持つ武士が同じ想いを持つことになる。半蔵め、恐ろしいことを考えおるわ。万一、伊達政宗が徳川に味方せぬ場合には、わしが村正を握って、政宗を討つことを想うと、もう一振りの村正を持つ南部藩主にも同じ想いが湧き上がる。そして、徳川が南部藩に対し伊達藩侵攻を援後する申し出を行えば、伊達政宗はどうなるかな?政宗の居る城下で捕らえられた下忍が白状しており、これが判っていた政宗は、『神には勝てぬ』と言って徳川の味方についた訳じゃ。うおっほっほ。政宗め、わしへの意趣返しに、刀剣村正は徳川家代代のあるじを殺しておるなどと、妖刀村正の有らぬうわさを世間に流しおったわ。あっはっはっは。」と家康が笑った。

「なるほど、双子のように似ている想いと云うわけですな。しかし、村正でなければいけなかったのでござるかな?それと、不用意にその刀を持った時に変な思いを持っていれば、その思いが、南部の殿様に伝わってしまうと不都合が起こる場合もありまするな。」

「半蔵が言うには、伊勢桑名の村正の刀を打つ鍛冶場には、桑名に隣接する尾張津島村の牛頭天王社からスサノオ神を勧請した神棚が祀られている。真珠の宝剣にもスサノオの霊気が宿っているから、スサノオの分霊が宿った村正でないと呪文が利かぬらしい。それと、不都合が起こらないように、鞘にちょっとした細工が施してありましてな。鞘に小さな水晶玉を10粒埋め込んでありまする。この水晶粒にはある種の呪文が掛けてあり、手で鞘を持っている限り気持が安らぐようになっている。刀身を鞘から抜いたとしても、気持ちが安らかであれば、南部殿がもう一方の村正を手に持っていても、安らかな気持ちが伝わるだけでありまする。」

「なるほど、それで合点がいき申した。ところで今も、その一方の村正はお持ちですかな、神福さま?」

「関が原の戦のあと、ある場所に埋め申した。あのような妖刀が世の中にあるのはやはり危険ですからな。」

「ある場所とは?」

「他言無用にお願いいたしまする。お耳を拝借。」

「これでよろしいかな。」と言いながら、雅楽助が家康の口元に耳を近付けた。

「ヒソヒソヒソ(霞露岳の山頂の岩場に穴を造り、そこに村正を置き、上から石を被せて、埋め申した。そして、その岩場に小さな石祠を建て、村雨むらさめ社と名付けお祀りいたしました。もちろん、村正は金糸で織った刀袋に包んであり、さらに湿気しっけを防ぐ漆塗うるしぬりの木箱に入れ、さらにその木箱を金鍍金きんめっきを塗布した南部鉄の箱に入れて、さらにそれを刀剣用に作らせた石棺の中に入れて埋めてありまするので、いざとなれば、取り出して利用できるように施してござるがのう。)」と家康が小平太に耳うちした。

「村雨社でござるか」。と雅楽助が小声で言った。

「結界神業のとき霞露岳にいた下忍頭の話では、天気が良く、日の光が射して居るのに雷鳴がとどろき、小雨が降ってきたそうじゃ。また、山田湾の海面からは綿玉わただまのような白い雲が天空に向かってふわふわと立ち昇って往ったようじゃ。その下忍頭はその地に近江商人と称して留まり、南部藩内の情報収集を行い、江戸にいる三代目の服部半蔵に随時報告に来ておったな。鬼半蔵はそ奴をたいそう信頼しておった。鬼半蔵がいなくなった後、わしがその下忍頭に対し直々に命令を出して村正を霞露岳に埋めさせた。もちろん他言無用と命じてな。報告で江戸に来た時、石棺は重くて山の上まで運ぶのに難渋なんじゅうしたとか言っておったな。苦労を掛けてしもうたわ。」

「村正に小雨ですか。それで、村雨むらさめ社ですか。なるほど。」


「しかし、この柿は甘もうござるな。石田三成めは『柿はたんの毒』とかぬかして、食べなんだようじゃが、あれは間違いじゃ。『柿は痰を溶かす薬じゃ。』わしは柿のこの甘さが大好きじゃ。彦左ではないが、渋くないので、この世での戒めには為りませぬかのー。あの世にってから食べまするかな。」と家康が言った。

「しからば、わが子息に申し伝えておきましょう。神福様の死後も今日と同じ9月17日には、ご霊廟にこの柿を10個供えよと。あっはっはっは。」と雅楽助が笑った。

「10個のこぶし柿ですな。スサノオ命を祀る牛頭天王社は『十拳剣とつかのつるぎ』が宝物、わしが眠る霊廟は 『十拳柿とつかのかき』が宝物ですかな。これは、あの世へ行くのが待ちどおしいことでござる。わっはっはっは。」と家康も笑った。


「そういえば、左甚五郎とか申す若い彫り物師が武蔵国にある秩父神社の社殿に龍や虎などの見事な彫り物を造ったとのことでござります。神福様は寅歳、寅の刻生まれでござるから霊廟のご門には甚五郎に虎を彫らせては如何ですかな。」

「武田軍団の焼打ちで無残な姿になっておった秩父神社の社殿をわしが寄進して再建させたのじゃ。狩野派の絵師が下絵を描いて、左甚五郎がそれを社殿の壁に彫りおったのじゃ。わしは北辰のフクロウの彫り物が気に入っておるがのう。フクロウは知恵の神様である祭神 『八意思兼神やごころおもいかねのかみ』の卷族じゃ。」

「それは知りませなんだ。ご無礼いたしました。」

「秩父神社の虎は子育ての虎と申して、父虎と母虎と3匹の子虎が彫られておりまする。母虎は豹柄ひょうがらの毛皮に描かれておるがのう。これは訳ありじゃて・・・狩野派め・・・ふふふふふ。秩父神社の神域は『ははそもり』と呼ばれており、母素ははそと書いて母親に必要な要素を授けてくれる神域じゃて。この森には乳銀杏ちちいちょうの樹が生えており、枝の付け根に牛の乳首のような形をしたものが出来る銀杏の樹が生えているそうじゃ。それで、子供を産んでもちちが出ない母親が神社に子育てのための乳を出してほしいと参拝に来るらしいのじゃ。半蔵が言っておったが、乳母として武家に潜入する女忍者くのいち銀杏いちょうの葉7枚を煎じて飲むそうじゃ。そうすると、乳が出るようになるらしい。」と家康が言った。


「ところで、秩父神社の大神様が虎なら、わしは猫くらいじゃ。猫が眠る霊廟じゃな。あっはっはっは。」

「さすれば、眠り猫を彫らせるのがよろしゅうござるかな?」

「うん。それがよろしかろう。わが子息の秀忠に申し伝えることにいたしましょう。わしの廟門には、左甚五郎に眠り描を彫らせよと。うおっほっほ。これは、これは、あの世への手土産がまたひとつ増えもうした。」と家康が笑った。


翌年の慶長13年3月28日に三浦雅楽助は死去し、近くにある大徳寺に葬られた。

雅楽助の死後、徳川家康は駿府城に近い中原の地に天王社を創建し、そこに真珠の宝剣を移し、祀らせ、三浦雅楽助の子孫に管理させたとのうわさである。

そして、家康自身、天気の良い日は散歩の途中でこの神社に参拝したと云う。

種々(いろいろ)な事を経験した家康は、1616年74歳で死去した。


家康の遺言により遺体は久能山に葬られ、翌年、日光東照社(後に東照宮)に改葬された。

家康の遺言とは「久能山に遺体を葬り、一周忌が過ぎたら、大八州おおやしま(日本国)の鎮守となるために霊場日光山にわしを勧請せよ。」と云うことであった。何故に日光なのか不明である。日光山輪王寺とは?何故に天海僧上は『輪王寺』の称号の下賜を朝廷に要求したのであろうか?津島市にある牛頭天王を祀る津島神社近くを流れる日光川との関係は?


その後、三代将軍徳川家光は日光東照宮を現在の様式に大造営し、神君家康公は東照大権現の称号を朝廷から賜った。



 志摩の女王21;エピローグ

伊勢市朝熊岳山頂、2008年10月24日 (土) 夕方の午後4時頃


南部高行と田川順子のふたりは、朝熊山の麓にあるゴルフ場からの帰りに朝熊神社に立ち寄り、社業発展のご祈祷を受けた。その時、神主から『今日は天候からして富士山が見えそうです。』と言われ、伊勢志摩スカイラインの展望台に立ち寄っていた。


「高行さんは斎宮記念女子学生マラソン大会の事を覚えているかしら?」と田川順子が訊いた。

「ああ、K大学の学生時代の話だね。君が初代優勝者になって、『志摩の女王』誕生と新聞のスポーツ欄に書かれたことがあったね。松阪市の斎宮歴史博物館をスタートして志摩半島の伊雑宮いざわのみやをゴールとする全国女学生マラソン大会だね。現在もMS銀行後援で毎年行われているよ。優勝者にMS銀行杯と記念品を渡す役目はMS銀行松坂支店長である僕の役目だから、何か因縁があるのかな、斎宮記念マラソン大会とは。」

「あの時、高行さんが『これを履いて走ると優勝できるよ。』と言って、私にくださったスニーカーは今も優勝トロフィと一緒に私の部屋に飾ってあるわ。」

「あっははっは。君は『こんなシューズじゃ走れないわよ。ランニングシューズじゃないもの、スニーカーは。』って言ったのを覚えているよ。」

「あんな重たいスニーカーで走ったら足が持たないわよ。でも、あれって、本気で言ったのかしら?」

「もちろん冗談だよ。原宿の表参道にある靴屋のショーウィンドウに飾ってあったのを偶然みつけ、なんとなく君に似合いそうだったから買ったんだよ。まだ、持っていたのか、・・・・そうか。」と高行が考え深そうに言った。

「このスニーカーを御守り代わりにしていると優勝できるかも知れないと、あの時感じたのが現実になったわ。それで、大切にしている訳。あなたに未練がある訳ではないわ。」

「あっはっはっはー。今の僕は、君にとって単なる金弦かねづると云う訳かな?」

「また、そんな言い方をする。昔と少しも変っていないわね、高行さんは。お友達、大切な。うふふふ。」と順子が笑った。

「その笑い方も昔と少しも変っていないな、うん。」

と言いながら、二人は東京にあるK大学時代の恋人同士であった頃の話を思い出して笑い合った。


「あら、富士山の手前に見える神島から虹が上空に向かって垂直に立っているわ。」と順子が叫んだ。

「夏に富士山が見えるのも珍しいが、虹が天空に向かって垂直に架かると云うのはもっと珍しいね。うーん。何か目出度いことでもあったかな、この伊勢志摩に。」と南部高行が言った。


※著者注記:虹と云うのは円弧状になった七色の光の帯を云うが、神島上空に現れた虹は短い柱状の七色の帯であった。これは、一般には彩雲さいうんと呼ばれている。


「でも、この虹、十字架みたいだわね?そう思わない、高行さん。」

「十字架?どうして?」

「いえ、なんとなくそう感じるの。私、昔から直感が鋭いのよ。あのスニーカーの時もそうだったけれど。」

「そうだね。確かに、君は直感に優れているね。それが、事業の成功にも反映しているね。我々MS銀行が君の事業に融資する大きな理由も、君の直感力と先見性を見込んでいるからだよ。しかし、僕とはじめて出会った時、その直感力で、二人の別れを感じなかったのかい?」と高行が順子に訊いた。

「初対面の時感じたのは、『この人とは長いお付き合いになる。』と云う直感だったわ。それが結婚することと思いこんだのは私の若さだったようね。現在のような付き合いになるとは思わなかったわ。」

「別れを言いだしたのは君だったけれど、僕のどこが気に入らなかったのかな?」

我儘わがままなところかしら?」

「わがまま?」

「そう。今回の松阪への単身赴任は奥様も合意なさったの?」

「いや、自分の判断で決めたよ。MS銀行の規定で、松坂支店長は最長で3年間の勤務と決まっているので、子供の学校の事もあるし、と思い単身赴任に決めたのだ。土曜、日曜には東京に戻ったりしているし、平日でも本社の会議出席でたびたび東京に戻っているから大丈夫と思っているよ。」

「それが、我儘なのよね。奥様やお子様も同じ考えかしら?今回の妖刀村正ようとうむらまさの盗難事件もご家族が家に居れば起きなかったかも知れないわね。そして、その刀による殺人事件も。」

「なるほど、そういう事になるのかな?わがままね。ふーん。」と高行は考え込んだ。

「それが、あなたの罪なところかしら?そうすると、私の罪はあなたを振ったことかしらね?うふふふ・・・。」


その頃、伊勢湾に浮かぶ神島のシラヤ崎海岸で橘幸平と田代幸造は一つの実験を行っていた。

幸平は真珠の宝剣の握りの端部にある素環穴に、志摩の真珠と命名した水晶玉を挟み込んだ。

水晶玉と素環の直径が一致するのは以前から知っていた二人であるが、今度の殺人事件を通じて判ったことがあった。

「これから、呪文を唱えますから、水晶玉と宝剣を富士山に向けてしっかり持っていてください。幸造さん。」と幸平が言った。


呪文を唱え、3分くらいたったであろうか、二人の眼前に広がる伊勢湾上空にアダムスキー型の空飛ぶ円盤(UFO)が現れた。


          真珠の宝剣伝説殺人事件 《完》

          

          2010年12時19分脱稿

          目賀見 勝利


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