十一話
汚濁と嘲笑。
七年前、祖国を失った私がこの国に逃げ込んできた時に抱いたのは、そんな印象だった。
夢にも見た白く輝くような大都会。多くの人が笑い、幸せを育む私の知らない理想郷のような世界。
母の言葉を信じていた私は、盲目的にこの国はそうなのだと、ここまで来れたら幸せになれると心の底から思っていた。
けれど、事実は違う。
この国は、難民にとって、皮肉と侮蔑の温床でしかなかった。
配給は国民にのみ与えられ、他国民にはその日の飢えを凌ぐためには二束三文で体を売るか、物を盗むか。そんな先の見えない絶望の二択のみを与える。
『そうか、ようやく辿り着いたこの国にも平穏なんてものは存在しないのだ。──魔女がこの世に存在する限り』
と。
齢十二にして、私は悟った。
ああ。このまま、何を為すこともなく、父と母の無念を晴らすこともできず、ただ路傍の雑草の如く枯れていくのだと。
しかし、運命はどうやらそうでもなかったらしい。
『……お嬢ちゃん。難民の子か?」
美しい街の醜悪な路地裏に、その人は訪れたのだ。
雨に濡れた軍服。街から漏れ出した光に照らされた
憲章はあまりにも眩しく、私には見えた。
『大丈夫か? ……なんて、俺が聞くのもお門違いか。ごめんな、俺達が不甲斐ないばっかりに」
その青年は、他の人とは違う目をしていた。
『貴方は、だれ?』
私はその目が酷く気になった。
青く、猛々しく、どこか不遜なその目が。
『名前? そんなの、どうだっていいだろ? ほれ、パンがある。沢山な。食べるんだ』
差し出されたのは、バケットに山積みになったパンと水。これを買うのに、幾らかかるのか分からないほど、幼くも愚かでもなかった。
『なんで? なんで、くれるの?』
『大人が子どもに飯を食わせてやるのは、当たり前のことなんだ。この国の奴らは皆、忘れちまってるみたいだけどな』
そう言って、彼は笑った。見ているこちらが苦しくなるくらい痛々しく、苦しそうに。
『でも、私……貴方に何も払えない』
『……っ。いらねぇよ。ガキの小遣い巻き上げるようなクズには、俺はならねぇ』
そう言って、降りしきる薄い雨の中、抱きしめてくれた彼の腕を、その背中の大きさを、逞しさを、美しさを。
──私は決して、忘れない。
***
ラッパの音が鳴る。いつもと同じテンポ、曲。
しかし、ここ三週間は少し違う。
「ミラさんっ! アリシアさんっ! 朝でしてよ!」
「……知ってるわよ」
雑音だ。酷く不快で、不規則な雑音が混じっている。聞いているだけで、騒がしい少女の声だ。
「んー……おぉ。今日も早起きだね、ソフィア」
いつも通り、アリシアはぱっと目を覚ますと、ベッドの上で胡座をかきながら、体を伸ばしていた。
「ええっ! わたくしは頑張らなくてはいけないのですもの!」
「うんうん。元気でいいねぇ」
「……はあ」
喧しくなったものだ。朝くらいは静かにすればいいものを。
ミラが一人、ため息を漏らすと同時に、部屋の中のスピーカーから割れた音が響く。
『候補生諸君に告ぐ。本日は、軍部のお偉い方が視察に来る。朝食を済ませ次第、演習用グラウンドに集まれ』
教官の声だった。同時に、きゅっとミラの心に摘まれるような感覚が走る
──もしかすると、あの人が来るかも知れない。
「ミラさん? どうかいたしまして?」
多分、顔に出ていたのだろう。ソフィアはそんな風に声を掛けてくる。
「……なんでもないわよ。私は先に行ってるから」
もしも、もしものことだが、彼がここに来るのであれば、こうしてはいられない。
ミラは小さなポーチを持ち、手洗い場へと向かったのだった。
***
「……どうすれば、仲良くなれるのでしょうか」
ああ。今朝も上手く話せなかった。
ソフィアは食堂の一角で溜息をつく。何度か声をかけようとしていたのだが、結局、ミラはそそくさと朝食を済ませて食堂を出て行ってしまった。
「そうだねー、ミラは結構とっつきにくいからねー」
アリシアは今日も今日とて、山盛りの朝食をもしゃもしゃと食べている。……よくもまあ、これだけ食べて、走れるものだ。
「アリシアさんは、幼馴染なのでしょう? 何か仲良くなる方法のようなもの、知りませんの?」
「んー、私とミラはそもそも……ぷはぁー、十年近くの付き合いだもん。今となってはどうやって仲良くなったのかも分からないんだよねー」
マグカップの中の牛乳を飲み干して、アリシアは言った。口元には白い輪っかが出来ている。
「それに、今日は特に神経質な日だからさ? あんまり刺激しない方がいいよ?」
「ん? それはなぜですの?」
「ふふふ、聞いたい? 聞きたいかなぁ? ソフィア君」
妙に楽しそうにアリシアは勿体ぶる。
「聞きたいですわ、アリシア殿」
「ならば、教えてしんぜよう。……今日、軍の偉い人たちが来るって放送があったでしょ?」
「そうですわね」
「実はね、ミラはその中の一人に──恋しているのです」
ぽかーん。ソフィアは間抜けにも口を大きく開いたまま、スプーンを指から滑らせた。
「だから、さっき髪型とか整えに行ってたし、教官にバレないくらいの化粧もするつもりなんだよ」
「え、ええ……ええっ!?」
あ、あの真面目で勤勉でストイックなミラが化粧だと? ソフィアは驚きのあまり、立ち上がった。
「そ、それは……どんな……殿方ですの?」
「ふふふっ。それを言っちゃあ、面白くないでしょ? それに、ミラにお近づきになりたいのなら、それくらい見て、分かるようにならないと」
「なるほどっ! 確かにそうですわねっ!」
よし、そうと決まれば頑張ろう。ソフィアは何故だか、奮起していた。
「よし、ご飯も食べたし、行こっか」
ソフィアとアリシアはグラウンドへと向かったのだった。
「──総員っ! 傾注っ!」
教官の声が響く。グラウンドの中心には一台の軍用車両が止まっていた。
そして、その後部座席のドアが開き、降りてきたのは。
「──お前らが、新兵どもか」
鋭い目をした軍服の男。
ラント・ジゼル。その人だった。
「ら、ラント様ぁ!?」
ソフィアが素っ頓狂な声を上げる。すると、周囲に緊張が走る。
「……さ、流石に」「ああ。ジゼル大佐は礼儀作法にすごく厳しいと聞いた」
ソフィア自身も言ってから、はっとした。幾ら知り合いであるとは言え、公衆の面前で訓練生が大佐相手に今の態度は、まずい。と。
「……」
無言のまま、ラントの視線がソフィアへと向く。
「あー、やっちゃったね。ソフィア。これはお尻ペンペンでは済まないかも」
「お尻を……ぺんぺんされますの!?」
ずしりずしりと、ゆっくりラントは近づいてくる。
そして。
「お嬢っ! 元気そうでなによりっ! いやぁ、馴染めなかったらどうしようかとちょっと心配してたぜ」
「ほ、ほっ……ええ、その節は大変お世話になりましたわ」
ラントは何も気にしていないようで、お咎めはないらしい。
「……ミラとアリシア。お前らも元気そうだな。良かった」
意外なことに、ラントはどうやら二人のことも知っているようだった。
「大佐も元気そうで何よりです」
アリシアはぴしりと指先を額に当てて、敬礼した。
対して、ミラはと言うと。
「……お、おーい? ミラ? 大丈夫か?」
「…………」
放心状態。顔を真っ赤にして、ミラは硬直していた。
「お前、また無理な訓練とかしてないだろうな?」
「ひゃ、ひゃい! し、してません!」
ようやく話せたと思ったらめちゃくちゃ噛んでいる。
「熱とか、あるんじゃないだろうな?」
ラントはやはり様子がおかしいと感じたようで、ミラの額に手を当てて確認する。
「っっっっ!!!???」
「お、おい!? ミ、ミラ!?」
ついには、ミラは泡を吹いて倒れてしまったのだった。