菊池先輩
最近。
慎太郎は仕事を辞めようか悩んでいる。
高校卒業と同時に今の会社に勤め始め、それからまだ二年足らずだが、会社の経営実態が社長の親族でほぼ占められていることがわかり、このまま勤め続けても自分が思っているような将来はないと思われたのである。
しかしこれからの生活のこと、次の仕事のことを考えると、慎太郎はいろいろ思い悩んでしまい、なかなか辞める決断ができないでいた。
そんなある日。
慎太郎は街中で、会社の元同僚の菊池先輩と一年ぶりに出会った。
この菊池先輩は昨年の三月、六十歳の定年で会社を退職していたのだが、今はどこにも勤めておらず、毎日のんびり家で過ごしているという。
現役のころ、菊池先輩は何かと面倒見がよく、優しい頼りがいのある人だった。慎太郎が仕事に失敗してくじけそうになったときなど、菊池先輩に何度も励まされて救われたものである。
――この菊池先輩なら……。
慎太郎は菊池先輩に今の悩みを打ち明けて、今後のことについて相談をしてみようと思った。今回のことでも助けてくれそうな気がしたのである。
「実は……」
慎太郎は今の自分の気持ちを正直に話した。
それに菊池先輩はイヤな顔ひとつせず、それどころか何度もうなずいて聞いてくれた。
「それで会社、このままやっていける自信がなくなって、だったら辞めてしまおうかと考えるようになったんです」
「その気持ちはよくわかるよ。入社したてのころは誰もが思いどおりにいかなくて、何かあれば辞めたいと思うものなんだよ。実は私もそうだったからね」
「菊池先輩もですか?」
「ああ、辞めようかと何度も悩んだもんさ。でも私はね、そのたびに歯を食いしばって耐え抜いたんだ」
「で、最後まで今の会社に……」
「まあ、我慢が実ったんだな。結局そのあと、定年まで勤めようと思える日が来たんだから」
菊池先輩は高校を卒業してから定年まで、いくつもの苦難を乗り越え、今の会社に勤め続けたという。
「定年までまだ四十年も。そんなに長いこと、ボクにはとても無理です」
「そんなことはないよ。そのうち君も、きっとそう思えるときが来るはずだ。私のようにね」
菊池先輩がにっこりと笑顔を見せる。
慎太郎は励まされる思いがして、現役のころの菊池先輩の笑顔を思い出した。
「そういえば菊池先輩、会社ではいつもにこにこしていましたね」
「そうだったかな」
菊池先輩が照れたように笑う。
「はい、職場ではいつも笑顔でした」
「では笑顔でいるのがよかったのかな」
「たぶんそうなんでしょうね」
慎太郎は菊池先輩の笑顔に元気をもらい、今回は会社を辞めずにもうひと踏ん張りして、がんばってみようという気持ちになっていた。
別れ際。
菊池先輩が言葉をかみしめるように言う。
「そのうち君も気持ちが吹っ切れて、やっぱり辞めなくてよかった、今の会社に勤め続けてよかった、そう思える日が必ず来るはずだ」
結婚して家族を養ってこれたこと、退職後の安定した今の生活、それらはひとえに会社を辞めずに、がんばって勤め続けたからなんだと話す。
やはり相談してよかった。
慎太郎は心からそう思った。
そして菊池先輩のように定年まで勤めようと思える日。気持ちが吹っ切れる日が、近いうち自分にもやってくるように思えてきた。
「それで菊池先輩。菊池先輩も会社でいろいろあったようですが、何年ぐらいして気持ちが吹っ切れたんですか?」
「そうだなあ……」
昔を思い出すように、菊池先輩が遠くに視線をはわせる。
「そう、あれは定年の一年前だったかな。あと一年で辞められると思ったら、なんだか嬉しくなってね。急に元気が出てきたんだよ」
菊池先輩の定年一年前。
それは慎太郎が入社した頃である。
なら菊池先輩が慎太郎と同じ悩みから解放されたのは定年一年前のことになる。
翌日。
慎太郎は会社に辞表届を提出した。