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BL

水中メガネ

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 大人と子どもの境目というのは、どのあたりだろう。わからないけれど、ちょうど今がその境目なんじゃないだろうか。赤いゼッケンを着けてサッカーボールを蹴る、寿登の姿を教室の窓から目で追いながら思う。

「秋国も、もう帰るでしょ?」

 日直で一緒に教室に残っていた朝井さんに声をかけられる。

「ああ、うん」

 俺は朝井さんの制服のスカートからスラリと伸びた形の良い脚を見ながら曖昧に頷き、「寿登を待って帰る」と、つい反射的に返してしまう。

「ひさと? ひさとって誰?」

 朝井さんは必死に思い出すように空を睨み目を細めた。

「あ、ごめん。真鍋」

 俺は言い直す。

「真鍋寿登」

「ああ、真鍋か。ごめんごめん。男子の下の名前って、まだよく覚えてなくて」

 朝井さんは申し訳なさそうに言って、肩まで伸ばした髪の毛の先を指でいじる。多くの女子は、きっと真っ先に寿登の名前を覚えるだろう。それに、今はもう六月の半ばだ。入学してから結構経つし、俺と朝井さんが一緒に日直をするのも、もう三度目になる。そろそろクラスメイトの名前を覚えてくる頃だ。入学したばかりの学力診断テストで学年トップレベルの成績をたたき出したくせに、朝井さんはこういうところが抜けている。クラスのみんなに慕われている朝井さんだけれど、実は他人にあまり興味がないのかもしれない。他人の目を気にしてばかりの俺は、朝井さんのその姿勢を少し羨ましいと思う。

「秋国って、真鍋と仲いいの? なんか意外」

 朝井さんは言う。

「うん。まあ、昔、家が近くて。保育園の時からずっと一緒だったから」

 俺は頷く。

「へえ、そうなんだ。幼馴染みなんだね」

 朝井さんは納得したように頷いた。

「意外っていうのは?」

 さっきの朝井さんの言葉を、わかっているのに蒸し返してしまう。何気ない感じを装って尋ねると、

「こんなこと言ったらあれなんだけど、ええと、変なこと言うけど気を悪くしないでね」

 朝井さんはそう前置きをして、言った。

「真鍋と秋国って、感じが違うっていうか、なんか趣味とか合わなそうだから、仲いいっていうのがピンとこなくて」

「種類が違うもんね」

 俺は即座に頷く。

「……種類? ああ、そっか。そういうのに近いのか。いや、でも違う、違う。絶対違うって。ごめんね。ヒトに種類なんてないのに」

 朝井さんはむきになったように言う。俺は笑って首を振り、窓の外に視線を戻した。

 朝井さんは強く否定したが、ヒトにも種類というものは、存在する。この教室という狭い空間の中でも、みんな種類別にグループを作っているじゃないか。

 どこのグループにも属していないのに、友だちがいっぱいいる朝井さん。それなのに、ひとりでいることを恐れない朝井さん。明るくてかわいくて親切で、誰からも好かれている朝井さん。友だちがいないがために仕方なくひとりでいる俺とは違う。朝井さんはかっこいい。そんな彼女には種類の違いと言っても実感がわかないのかもしれない。

 寿登と俺は、明らかに種類が違う。カブトムシとミミズくらい全く違う。寿登はヒエラルキーの頂点で、俺は間違いなく底辺だ。

「じゃあ、日誌はわたしが出しておくから。秋国は、メダカのごはんと水のチェックお願いね」

 そう言い残して、朝井さんはスクールバッグを掴むと教室から出て行った。そして、すぐにパタパタと上履きを鳴らしながら引き返してきて、「わたし、秋国の下の名前は覚えてるからね」と言った。

「なおゆき。秋国直之。ちゃんと覚えてるからね」

 俺の表情筋は自然と緩む。もう三度も一緒に日直をやっているのだ。名前なんて嫌でも覚えてしまって当然なのに、朝井さんは妙に律儀だ。俺は、こういう朝井さんがきらいじゃない。

「俺も、朝井さんの下の名前、ちゃんと覚えてるよ。ひふみちゃん、でしょ」

「うん」

 朝井さんは満面の笑みを浮かべる。朝井さんは笑っていても笑っていなくても、とてもかわいい。

「一二三って書いて、ひふみって読むんだよ」

 そう言って、朝井さんは今度こそ教室を出て行った。

 俺は、教室の後ろ、メダカの水槽を覗き込む。エサをパラパラと落としてやると、すいすいと寄ってくる。メダカは素直だ。メダカになりたい。

 水温を見て、水が汚れていないかをチェックしながら、俺は思い出していた。

 小学生の頃、夏になるとよく寿登と川で遊んだ。流れに逆らって泳いだり、メダカを追いかけたりした。海水パンツに水中メガネ。そんな無防備な格好でも平気だった。なにも考えず、なにも憂えず、俺と寿登は、ただ友だちだった。違いなんて、なにもないように思えていたのに。

 中学に上がった頃から、俺は寿登と自分の違いを意識するようになった。その頃から俺の視力は急激に落ち始め、分厚いレンズの眼鏡をかけるようになった。寿登はサッカー部に入部し、すぐにその頭角を現した。もともと顔の造作が華やかに整っていた寿登は、一気に人気者になってしまった。俺は、そんな寿登と仲がいいということが少し自慢ではあったのだけれど、同時に、寿登の隣にいるのがしんどくなってきてもいた。ヒエラルキーの頂点にいる寿登と、底辺にいる自分。寿登を慕うやつらは、俺のことを邪魔くさいと思っているようだった。自分ではなにもできないくせに、人気者の寿登の恩恵にあずかっているセコいやつ。それが周囲から見た俺だった。俺は自然と寿登から離れ、ひとりでいることが多くなった。ちょうどその頃、学区内ではあったが、マイホームを購入した真鍋家が引っ越してしまい、家まで離ればなれになってしまった。そのまま、なにを示し合わせたわけでもなく、ただただ偶然に、この春、俺たちは同じ高校へと進学したのだ。

 俺は、寿登との距離を未だに測りかねている。もしも、俺の顔がもっと整っていたなら。もっとスポーツか勉強ができたなら。せめて視力が良かったら。こんな眼鏡をかけていなかったら。なにを気にすることもなく、すんなりと寿登の友だちでいられたのだろうか。

 眼鏡を外してみる。メダカの水槽がぼんやりとかすんだ。

「あ、ナオ。なにやってんの?」

 ぼんやりしていると、寿登の声がした。もうそんなに時間が経っていたのか。俺は慌てて眼鏡をかけ直す。

「メダカの水槽のチェック。日直だから」

 俺は言い、寿登から少し視線をそらす。戻ってきたサッカー部員や他の運動部員たちが着替え始め、教室は汗のにおいが充満する。

「寿登、今日ムラサキ寄ってかね?」

「おー、行く行く」

 寿登は友だちとスポーツ用品店に寄って帰るらしい。俺はそれを確認すると、自分の鞄を持って教室を出る。

「また明日な、ナオ」

 屈託のない寿登の声に、俺は、また明日、と笑って手を振った。

「おまえ、なんで秋国と仲いいの?」

 たった今閉めたばかりの教室の扉の向こうからそんな声が漏れ聞こえ、俺は足早にそこを去る。

 どうして、未だに期待してしまうのだろう。「おれ、今日ナオと帰るから」寿登がそう言ってくれるのを、どこかで期待している自分がいる。不自然ではないように、日直で遅くなる時だけ、メダカの水槽の前で寿登を待ち伏せしてしまうのだ。自分でも馬鹿だと思う。海パンに水中メガネだけのショボい初期装備で、川で泳いでいたあの頃とは確実に違っているのに。身体の大きさも、見た目も、能力も、俺たちの関係も、なにもかもが変わってしまった。

 寿登には、友だちがたくさんいる。俺がいなくても、寿登は楽しそうだ。

 離れてみてから気付いたのだ。俺には、寿登しかいなかった。


「どうして泣いてるの?」

 駅のホームで電車を待っていると、ふいに声をかけられた。

「朝井さん」

 声のほうに顔を向けると、朝井さんが真顔で俺を見ていた。

「泣いてないよ」

 俺は言う。実際、泣いてなんかいなかった。

「でも、泣いてるように見える」

 朝井さんは言った。

「そうかな」

 俺は答える。

「朝井さん、先に帰ったんじゃなかったっけ」

「本屋さんに寄ってたら遅くなっちゃった」

 朝井さんは言って、半袖の二の腕の左を右手でこすった。夕方になると、まだ少し寒い。

 朝井さんとは、途中まで同じ電車だ。朝の通学時によく一緒になるので、お互いそれがわかっている。

「友だちがいなくて、寂しいだけだよ」

 俺は正直に言う。

「だけど、泣くほどのことでもない」

 寿登のことを考える。寿登しか友だちがいなかったから、こういうことになるのだ。もっと寿登以外にも仲のいい友だちを作っておけば良かった。そう思ったけれど、よく考えたら、俺は友だちを作る術を知らない。友だちって、どうやって作るんだっけ。ぼんやりと朝井さんを見る。

 たとえば、朝井さんとは友だちになれるだろうか。クラスでいちばん話すのは、よくよく考えたら寿登ではなく朝井さんなのだ。朝井さんは、ひとりでいる俺に、なにかと話しかけてくれる。気を遣っているとかそういう感じではなくて、自然とそうしている感じがして、俺は朝井さんのことをすごいと思う。なかなかできることではない。俺は朝井さんみたいな人になりたい。憧れていると言ってもいいかもしれない。

 朝井さんは真顔で俺をじっと見ている。そして、いきなり両手で俺の左手を包んだ。俺は驚いて朝井さんを見る。

「寂しいなら、わたしが一緒にいてあげる」

 朝井さんは言った。ふざけた調子ではなくて、朝井さんは心からそう言っているみたいだった。

「一緒に学校行って、一緒に帰ろう。教室移動も一緒にしよう。トイレは一緒には行けないけど、お昼は一緒に食べようよ」

 朝井さんは真剣に言う。

「ね、秋国。秋国がもし良ければ、そうしよう」

 俺は戸惑っていた。女の子にこんなことを言われたのは初めてだし、女の子にこんなふうに手を握られたのも初めてだ。俺の心臓は、狂ったみたいにばくばくと鳴っている。朝井さんの手は、すごくやわらかい。かあっと、顔に血が上る。顔も耳も真っ赤になったのが、自分でわかった。急に体温が上がったからか、眼鏡が微かに曇る。俺は言葉が出なかった。なんと答えたらいいのか、わからなかった。朝井さんの両手に包み込まれた俺の左手は、汗ばんで固まっている。朝井さんは俺の手を離そうとしない。やっと出たのは、「朝井さんは、嫌じゃないの?」という上擦った声だった。

「全然、嫌じゃないよ。わたしは秋国と一緒にいる」

 朝井さんは言った。もしかしてこれはドッキリとか罰ゲームとか、そういう類のものなのではないかと一瞬思ったけれど、朝井さんはそういうことをするタイプではない。いくら俺がヒエラルキーの底辺でも、朝井さんは馬鹿にしたり見下したりせず、いつも平等に接してくれる。

 俺はぐるぐると考えた結果、

「一緒にいてくれるとうれしい。友だちになってくれると、うれしい」

 そう返事をした。渡りに船、というのが俺の正直な気持ちだった。朝井さんはいつもの満面の笑みを浮かべる。

 ホームに電車のアナウンスが入る。俺たちの乗る電車だ。

 朝井さんは、俺の左手から自分の左手だけを離した。結果、俺は朝井さんと手を繋いでいるような状態だ。そのままの状態で、俺たちはホームに滑り込んできた電車に乗り込む。

 朝井さんの手は、やわらかくてあたたかい。俺の心臓は、ばくばくと鳴りっぱなしだ。


   * * *


「おはよう、秋国」

 朝の通学の電車、後から乗ってきた朝井さんが俺の横に並んだ。昨日の宣言どおり、朝井さんは俺と一緒にいてくれるらしい。

「おはよう」

 ほぼ満員なので、朝井さんの肩が俺の二の腕にぴったりとくっついている。そういう接触が全く気にならないのか、朝井さんは、「化学のプリントできた?」と、健全な話題を振ってくる。

「一応やったけど、塩水の濃度のとこがわかんなかった」

 穴埋めなどの教科書を見てわかるところは埋められるが、応用となると全く歯が立たない。俺は、真面目なのに頭が悪いという、教師がいちばん持て余す性質をしている。

「じゃあ、ホームルームの前に教えてあげる。写させてあげるわけじゃないよ。教えるだけだからね」

 朝井さんはにこにこと言う。

「ありがとう。助かる」

 俺も笑って頷く。電車が揺れて、朝井さんはつり革だけでは踏ん張りきれなくなったらしい。俺の腕に自分の腕を遠慮がちに絡ませた。

「ごめん、秋国。ちょっと持たせてね。こけそう」

 朝井さんは言った。

「うん」

 頷いたものの、俺は困っていた。朝井さんの胸が、俺の腕に当たるのだ。たふたふとしたやわらかい感触、ただそこに身体中の全神経が集中してしまう。朝井さんがなにかしゃべっているのだけど、全く頭に入ってこない。俺の頭の中は、たふたふのおっぱいで埋め尽くされていた。

「秋国、どうしたの? 体調悪い?」

 ぼうっとしている俺を心配したのか、朝井さんが俺の顔を見上げて尋ねる。

「ううん。ごめん、大丈夫」

 俺は首を振る。その時、視界の端にサッカー部の友だちと一緒にいる寿登の姿があった。寿登は、なぜか真顔でこちらを見ていた。今日は朝練がなかったんだな、と確認するように俺は思い、朝井さんに視線を戻す。

 今日の朝井さんは、普段下ろしている肩までの髪の毛をポニーテールに結っていた。似合っていて、とてもかわいい。少しみとれていると、

「ね、秋国。今度、一緒に買い物に行こうよ。眼鏡を見てみよう」

 朝井さんが言った。

「眼鏡?」

「うん。秋国の今の眼鏡、なんかちょっと高校生っぽくないもん。もうちょっとおしゃれな感じの見てみよう。レンズも薄く作れるかもしれないよ」

「詳しいね、朝井さん」

 頭がいいのは知っていたけれど、こういうことまで知っているというのは意外だった。

「今はコンタクトだけど、わたしも中学の時まで眼鏡だったんだよ。今度、写真見せたげる。秋国、絶対笑うから」

 朝井さんは言う。

「本当? 見たい」

 中学生の朝井さんも、きっとかわいいだろう。頷きながら俺は、今の会話って普通に友だちっぽかったな、と感動していた。

 朝井さんの胸は相変わらず俺の腕に当たっているけれど、もうあまり気にはならなかった。朝井さんが気にしていないのだから、俺が気にするのは良くない。きっと。


 朝井さんに教わりながら化学のプリントをなんとか終わらせ、朝井さんと一緒に教室移動をし、朝井さんと机をくっつけてお弁当を食べる。俺にとっては、誰かと一緒に学校での一日を過ごすということ自体がものすごく久しぶりだった。そのせいか、今日一日、戸惑ってばかりいたように思う。しかし、そのおかげで俺は朝井さんと一緒にいる間だけは、寿登の存在を気にせず過ごすことができた。これは、きっと喜ばしいことだ。いつまでも、寿登に執着していたって、なにもいいことはない。

 少しだけ気になったのは、目立つ朝井さんといることで、俺の存在までもがクラス内で浮き彫りになってしまったことだ。俺と朝井さんのことで、ひそひそと勝手な憶測が飛び交っている空気を感じてしまう。その大半が、「あいつら、付き合い始めたの?」というようなものだった。

「なんか、ごめん」

 俺なんかとあることないこと噂されて申し訳ないと思い、休憩時間にこそっと謝ると、

「そんなの、いいよ。別に気にしない」

 朝井さんはあっけらかんと言った。

「普通にしてたら、みんなだってすぐに飽きて気にしなくなるよ。だから、秋国も今は嫌かもしれないけど、気にしないで」

「そうか」

 そういうものかもしれない、と俺は頷く。俺と朝井さんが一緒にいることが当たり前になってしまえば、誰も珍しがってあれこれ言ったりしなくなるだろう。

「あ、俺は別に嫌じゃないから」

 先程の朝井さんの言葉が引っかかり、慌ててそう付け加えると、「男前だねえ、秋国は」と、朝井さんは笑った。そんなこと、初めて言われた。


「帰ろう、秋国」

 帰りのショートホームルームが終わると、朝井さんが俺の席までやってきて言った。

「うん。ごめん、ちょっと待って」

 俺はもたもたと準備をする。

「便覧、忘れないように持って帰らないと。現代文のプリント出てたでしょう」

 朝井さんが言うので、

「あ、本当だ。忘れるところだった」

 俺は置いて帰ろうとしていた国語の便覧を慌ててバッグに突っ込む。

「なーんかさあ、朝井って、ナオの母ちゃんみたいだな」

 ふいに、そんな言葉が聞こえた。聞きなれた声。いつも、ついつい耳が拾ってしまう声。誰の声かはわかっていた。そもそも、俺のことを「ナオ」なんて愛称で呼ぶ人物は一人しかいない。声のしたほうに目をやると、やっぱり寿登だった。寿登は、どこか強張ったような笑みを浮かべてこちらを見ている。かまってもらえてうれしいはずなのに、先程の寿登の言葉はなんとなくちくちくしているように思えて、素直によろこぶことができない。

「なに言ってんの、真鍋」

 朝井さんが呆れたように笑い、少しピリッとしていた空気が和らいだ。俺は、ほっと息を吐く。

「お待たせ。帰ろう、朝井さん」

 そう言うと、「うん」と朝井さんはうなずいて、にっこりと笑った。

「また明日な、ナオ」

 寿登が言った。

「うん。また明日」

 俺はいつもそうするように、寿登に笑って手を振った。だけど、その時の寿登は全然笑っていなかった。いつもは笑って手を振ってくれるのに。どうしたんだろう。疑問を胸に抱きつつ、俺は朝井さんと教室を出る。

「なんか、様子が変だったね、真鍋」

 朝井さんが言った。

「そう、かな」

 答えながら、やっぱり朝井さんもそう感じたのか、と思う。

「わたしのことが気に入らないのかも」

「どうして?」

 朝井さんの言った意味が理解できず、聞き返す。

「幼なじみを、横からかっさらったから」

「かっさらった」

 その言葉の響きが面白くて、俺は笑った。

「寿登は、俺以外にも友だちがたくさんいるし、別にそういうの気にしてないと思うんだけど」

 俺の言葉に、朝井さんは答えなかった。でもすぐに、「まあ、いいか」と独り言のように呟き、「秋国、時間ある? よかったら本屋さん寄って帰ろうよ」と、笑顔を見せた。

「うん」

 俺は即答する。友だちと寄り道をするなんて初めてのことかもしれない。

 新刊が出てる、とか、これおもしろいんだよ、とか逐一話しかけてくれる朝井さんにくっついて本屋をぐるっと一周し、朝井さんが薦めてくれた小説で、いいなと思った文庫本を一冊購入する。

 本屋に寄ったあとは、マックで現代文のプリントを一緒にやった。

「秋国、本をよく読むの?」

「いや、たまにラノベ読むくらい。なんで?」

「現代文、結構自力でできてるし、読むことが苦じゃないんだなあと思って。あ、ほら漢字なんて完璧じゃん。すごいよ」

 そうかな、と俺はプリントに目を落とす。そんなふうにほめてくれる人は今までいなかった。

「もっと本を読んでみようかな」

 調子に乗って言うと、

「それがいいよ」

 朝井さんは満面の笑みを浮かべた。

「読みやすくておもしろいの、何冊か貸してあげる。明日持って行くね」

「ありがとう」


 今日は、とても楽しい一日だった。こんなに楽しかったのはいつ以来だろう。少しくすぐったいような、むずむずするような甘やかな心地で駅のホーム、俺は朝井さんの隣に立ち電車を待つ。やはり、夕刻はまだ少し肌寒い。さっき買ったばかりの文庫本のあらすじを朝井さんと読みながら、どういうストーリーが好き? などと言い合っていたら、賑やかな集団がホームにぞろぞろとやって来た。サッカー部だ。見慣れた揃いのウィンドブレーカーに、学校名入りのエナメルバッグでそうだとわかる。

「あ、真鍋がいるよ」

 寿登に気付いた朝井さんが教えてくれる。実は真っ先に気付いていた。気付かないふりをしていようと思ったのだけど、そうもいかなくなってしまった。

「寿登も今帰り?」

 目が合った瞬間に、何気なく発した一言だった。しかし、寿登は答えなかった。聞こえなかったのかとも思ったけれど、目はばっちりと合っていたし、周囲のやつらも、「おい、何か言ってるけど」と寿登を突いている。無視されたのだ、と思った。こんなふうに無視されるなんて初めてだ。どうして? が頭の中をぐるぐると渦巻き埋め尽くす。今まで、俺が話しかけると、寿登は必ず答えてくれた。寿登から話しかけてくれることだって時々はあったのに。

「秋国、気にしない」

 ショックで固まってしまった俺に朝井さんが言った。そして、俺の手から文庫本をするっと抜き取ると、ファスナーが開いたままだった俺のスクールバッグの中に捻じ込んでファスナーを閉じ、そして、空いた俺の手をやわらかい手でしっかりと握った。

「大丈夫だよ」

 俺だけに聞こえるくらいの声量で朝井さんは言う。

「大丈夫じゃない、苦しいよ」

 反射的に出た言葉は、自分でもわかるくらいに震えてしまっていた。

「大丈夫。今だけだから。時間が経てば、忘れられるから」

 朝井さんは言う。そうかな、と思う。そうかもしれない、とも思う。でも、今、俺はとても苦しい。

「おまえらデートだったんか?」

 同じクラスのサッカー部のやつ、確か桐谷とかいうやつがそう話しかけてきた。俺はなんと答えていいのかわからず、ただ曖昧に笑って見せた。

「いいなあ、もう。オレも彼女欲しいよう」

 桐谷が言い、周囲から笑い声が上がった。寿登は下を向いていた。どんな表情をしているのか、わからなかった。

「明日、学校来るでしょ?」

 電車を降りる時になって、今まで黙って手を握ってくれていた朝井さんが言った。心配してくれているのだ。

「行くよ」

 俺は頷いて手を振った。


 帰宅してからは本格的にうじうじと思い悩み、うじうじしながら風呂に入り、うじうじしながら浅い眠りに落ちた。いろんな夢をぐるぐると見たようだけれど、はっきりとは覚えていない。それでも、目覚めてみると、頭の中は幾分かすっきりとしていた。

 寿登に無視されたからといって、今までの生活が変わるかといったらそうでもないのだ。これまでだって、俺が寿登に話しかけることなんて、日直の時くらいだったのだし、寿登が俺に話しかけてくれることだって滅多になかった。それに、話しかけなければ無視されることだってない。ならば、こちらから話しかけなければいいのだ。そう理屈をこねてみたけれど、無視されたことは未だに悲しかったし、もう寿登に話しかけることにすら、俺は恐怖を感じてしまっていた。いつまでも寿登に執着していたって、なにもいいことはない。頭ではわかっているのに、感情がついていかない。


   * * *


「おはよう、秋国」

 電車に乗ってきた朝井さんが、するすると上手に人の間をすり抜けて、俺の隣に立つ。

「おはよう」

 挨拶を返すと、

「本、持ってきたよ」

 朝井さんがバッグをぽんと軽く叩いて言った。

「ありがとう。楽しみだ」

 言いながら、俺は無意識に電車内を見渡してしまう。今日は寿登の姿はないようだ。いつものように朝練なのだろう。

「気にしてるね?」

 朝井さんは呆れたように笑った。見透かされているようで恥ずかしい。同時に、そこまで見透かされているのならもう何も隠すことはない、というような安心感もあった。

「気になるんだ」

 俺は素直な気持ちを口にした。

「わかるけどさ」

 朝井さんが呟くようにそう言った後は、ふたりして黙って窓の外を眺めていた。


「これは推理小説ね。それで、こっちがサイエンスフィクションてほどでもないけど、少し不思議な話」

 教室で、朝井さんが持ってきた文庫本を机に並べて説明してくれる。俺は文庫本を手に取り、裏のあらすじを読んでいた。

「おもしろそうだね。表紙もきれい」

 そう言った瞬間に、朝練を終えた運動部員たちが教室に入ってきた。思わず、顔を上げて寿登の姿を探してしまう。もう癖になってしまっているのだ。友だちとふざけ合っている寿登と目が合ったけれど、すぐに自分からそらしてしまった。俺は文庫本を大事にバッグにしまう。

「途中でおもしろくないなあ、合わないなあ、と思ったら、読むのやめちゃってもいいんだよ」

 朝井さんが言った。

「でも、せっかく貸してくれたのに」

 俺は戸惑いながら答える。

「趣味の読書って娯楽だからね。自分に合わないのに、無理して読むことはないんだから」

「え、うん、そうか」

  朝井さんは意外とドライな考え方をするな、と思った。朝井さんの言うこともわかるけれど、やっぱり、朝井さんが読んだ本を俺も最後まで読んで、ふたりで感想を言い合ったりしたい。

「でもね、無理して読んでたら、ラストのあたりでめちゃくちゃおもしろくなることもあるよ」

「えー、それって、やっぱり最後まで読まなきゃわかんないじゃん」

「最後まで読んだ人だけへのご褒美かもね」

 朝井さんがそんなことを言うので、

「なにそれ」

 俺は一瞬、寿登のことを忘れて自然と笑っていた。その瞬間、ホームルームのチャイムが鳴った。席に戻る朝井さんに手を振って、チャイムの音を聞きながら、ああそうか、と思う。こんなふうに寿登とは関係ないところで呼吸をしながら、少しずつ、俺は苦しいことや悲しいことを忘れていくのだろう。そう、妙に納得したような気持ちになる。


「最近、プリントやノート、ちゃんとやって出してるらしいじゃないか」

 ホームルームが終わって、担任が教室を出て行く時についでのように俺に声をかけた。

「丸本先生も原田先生も、秋国が最近やる気になってるってほめてたぞ」

「え」

「この調子でがんばれよ」

 担任は俺の左肩をぽん、と、やわらかく叩き教室を出て行った。

 実は、先生という職業の人にほめられるのも初めてだった。俺は真面目そうで問題を起こさない生徒だが、かといってよくできる生徒でもないので、ほめようも叱りようもないのだ。もともと、用事がないかぎりあまり構ってもらえる生徒ではないという自覚があったので、担任に声をかけられてものすごく驚いた。そして、ほんのりとうれしかった。

 朝井さんと一緒に過ごすようになって、俺は宿題を投げ出さずにちゃんと最後までやるようになり、その日の授業の復習もするようになった。予習はまだあまりやっていないが、学校帰りに朝井さんと一緒にやることもある。ただそれだけのことなのだけど、今まで感じていた妙な焦りとか劣等感みたいなものが幾分か軽減したように思う。もちろん、きれいさっぱりなくなったわけではない。だけど、きちんとやるべきことをやっているという実感がわくせいなのか、それとも、朝井さんという友だちができたせいなのか、俺は以前よりも毎日が楽しいと感じられるようになった。


   * * *


 朝井さんに借りた本を読み終わったのは、それから二週間後のことだった。推理小説も少し不思議なのも、どちらもおもしろかった。帰りの電車の中で、「どちらかというと推理小説のほうが好きだな」と言うと、朝井さんは、今度は推理小説だけを数冊貸してくれた。先日買った本も読み終わり、朝井さんに感想を伝える。どういうふうに言えば、自分の感じたことを朝井さんに伝えられるか、考えながら言葉をこねくり回す。

「この主人公がなんでこんなことするのかわからなくてさ、ずっとイライラしながら読んでて、でもなんでか読むのやめられないんだ。イライラモヤモヤしながら、こいつ次は何やらかすんだよって、すごく続きが気になって。最後まで読んだら、うわ、そういうことだったのかって。やられた、騙されたって思うんだけど、でもなんだろう、頭の中がすごく気持ちよくなってるんだ」

「そう、それ! わかる! わたしもそうだった!」

 そんなふうに、朝井さんが力強く答えてくれる度に、俺はうれしくなる。

「秋国が言った、頭の中が気持ちよくなるあの感じってね、カタルシスっていうんだよ」

 朝井さんは俺に言葉を教えてくれる。

「秋国は、自分の知ってる言葉を駆使して相手に伝えるのがうまいよね」

 ふと、朝井さんがそんなことを言った。

「え、でも、みんなそうやって話してるんじゃないの?」

 自分の知らない言葉なんて、そもそも遣いようがない。

「まあ、そうなんだけどさ。秋国の話し方は、伝えたい! 伝われ! っていう思いも一緒に、こっちに伝わってくるような感じなんだよね」

「そうかな」

 確かに、伝えようと思って話してはいるけれど、そんなふうにあからさまにばれてしまっているというのも少し恥ずかしい。だけど、

「秋国のそういうところ、すごくいいと思う」

 朝井さんがそう言ったので、俺の心は一気にご機嫌になる。

 電車の中や教室で本の感想を言いあったり、一緒にお弁当を食べたり、放課後に寄り道をしたり、朝井さんといると、とても楽しくて、嫌なことを忘れられる。それを朝井さんに感謝を込めて伝えると、

「本を読んでたらね、その世界にいる間は何もかも忘れていられるでしょう」

 朝井さんはそんなことを言った。

「うん。それ、すごく思う」

 同意しながら、朝井さんにも忘れたい何かがあるのだろうか、と、ふと思った。

「わたしは、秋国の本になれたんだね」

 どこか安心したように笑った朝井さんは、不思議なことを言った。どういう意味? と尋ねたけれど、朝井さんは答えてはくれなかった。


   * * *


 七月に入ってすぐの日曜日、電車の中で朝井さんと待ち合わせて眼鏡を買いに行くことになった。

「おはよう、秋国」

「おはよう、朝井さん」

 いつものように声をかけられ、いつものように返すと、今日が日曜日だという気がしなくなる。ただ、朝井さんがいつもの制服ではなく私服姿なので、それがとても新鮮だった。洋服の流行りとか、そういうことはよくわからないけれど、テレビのタレントが着ているような服なので、きっと流行の服なのだろうと思う。

「私服かわいいね。朝井さんに似合ってる」

 心の底からそう言うと、

「秋国はさあ」

 朝井さんが少し真面目な感じに口を開いた。

「そういう、女の子が喜びそうなこととか自然な感じで口に出せるし、本の感想もわかりやすく聞かせてくれるし、コミュ力は低くないはずなんだけどね」

「こみゅりょく?」

「コミュニケーション能力」

「え、そうかな。俺にそんな能力あるかな」

 驚いて確認してしまう。「あるよ」と朝井さんは軽く言ったけれど、自分は人と話すのは苦手なほうだと思っていた。なので、どうして朝井さんがそう思ったのかを考えてみる。

「それは朝井さんがちゃんと俺のもたもたした話を遮ったりせずに聞いてくれるからだと思う。他の人にだったら、朝井さんに話すように話せるかどうかわからないよ」

 結論を口に出すと、

「真鍋にも、自分の考えてること、うまく話せない?」

 急に朝井さんが寿登の名前を出したので軽く動揺してしまう。

「なんで、そこに寿登が出てくるんだよ」

「だって、わたしの他に秋国が話すのって真鍋くらいだもん」

 聞いてみると、朝井さんの返答はもっともで、俺は動揺してしまったことが恥ずかしくなる。

「いや、寿登には……」

 言葉に詰まる。今まで、俺は寿登に自分の気持ちをはっきりと言葉にしたことがあっただろうか。そのことに気付き、次の言葉が出なくなる。自分がどう思っているが、どうしたいのか、寿登にどうしてほしかったのか、そういうことを俺は何も伝えようとしていなかった。伝える努力を怠っているくせに、相手にばかり自分の気持ちを察してほしいだなんて、なんて都合のいいことを考えていたのだろう。

 黙ってしまった俺に、

「ありがとう、秋国」

 朝井さんがささやくように言った。そして、

「服のこともわたしのことも、褒めてくれてうれしい」

 少しはにかんだように笑って見せてくれた。

「うん」

 頷きながら思う。朝井さんが俺にするみたいに、俺が朝井さんにするみたいに、寿登にも俺の中のいろいろを伝えることができるだろうか。それは少し、いや、かなり、勇気のいることかもしれない。


「秋国、次これかけてみて」

 ショッピングモールの中の眼鏡ショップ、朝井さんが眼鏡を選んで、どんどん手渡してくる。俺は朝井さんに言われるままに次から次へと眼鏡を装着する。

「度が入ってないから、ほとんど見えないよ。似合ってるかどうか全然わからない」

 鏡で自分の姿を確認しながら文句を言うと、

「大丈夫、わたしが見てるから」

 朝井さんが力強く言った。そんなふうに言われると、朝井さんに任せていれば本当に何もかも大丈夫なような気がするから不思議だ。

 このメガネショップは安いものなら五千円くらいから作ることができるらしい。客層も学生っぽい人たちが多い。

 散々眼鏡をかけさせられて、

「これだ! これに決めた!」

 朝井さんがそう言い切った眼鏡を買うことに決めた。

「眼鏡だけ見ると、今風でかっこいいけど」

 なんとなく、似合う自信がなくてそうこぼす。朝井さんは、「大丈夫。ちゃんと秋国込みでかっこいいよ」と本当なのかどうか微妙なことを言った。

 視力を測ってもらい、レンズを選ぶ。でき上がりは一時間後らしいので、その間、ショッピングモール内のフードコートで昼食をとることにした。

「そうだ、秋国。写真見る?」

 各々食べ終わり、一息ついたところで朝井さんが言った。

「わたしの中学の時の写真」

 そういえば前にそんなことを話したな、などと思いながら、うん見たい、と頷く。

「朝井さんも眼鏡かけてたんだよね」

「うん」

 朝井さんはバッグから手帳を出し、それに挿んであった写真を、向かいの俺の方に差し出した。

 え、と、こぼれ落ちそうになった声を飲み込む。写真に写っていたのは、現在の朝井さんとは違い、どこか影のあるふくよかな感じの女の子だったのだ。

「びっくりしたでしょ」

 朝井さんが言った。

「中学の頃のわたしはね、いつもひとりでいたんだ。デブでブスで暗くて、ダサい眼鏡かけてて、友だちも全然いなくて、毎日がちっとも楽しくなかった」

 その内容とは真逆に、軽やかに紡がれる言葉に、俺はどう答えたらいいのかわからない。

「でもね、嫌になっちゃってさ。ひとりでいるのが寂しくなっちゃって、だからがんばったんだ。がんばって痩せて、コンタクトも買って、鏡の前で笑顔の練習とかしてね、がんばってクラスの子たちに話しかけて。それで、中三の終わりには、もう今みたいなわたしになってた」

 俺は黙って頷いた。自分の頭の中が整理できていない。こんな状態で、朝井さんに伝えられる言葉なんて何もない。だから、今は朝井さんの話を遮らすに、黙って聞こうと思った。

「わたしは、秋国にあの頃の自分を重ねてたんだよ。あの日、駅のホームにひとりで立ってた秋国が、中学の教室にいたわたしと同じに見えたから。だから、声をかけたんだ。目の前にいるわたしに、あの頃のわたしがいちばん望んでいたことをしてあげようと思って」

 朝井さんの目から、ぽとん、と雫が落ちた。

「わたしは、友だちがほしかった。誰かにそばにいてほしかった」

 ゆらゆらと揺れる声で朝井さんは続ける。

「ごめんね。全部、自分のためだったの。わたし、本当に自分勝手なんだよ、秋国」

 そんなことない、と言いたかった。朝井さんが自分勝手だなんて、そんなことはない。俺のことを気にかけてくれて、一緒にいてくれた。それだけで、俺はうれしかったのだから。

「あの頃は、本を読んでる時間がいちばん楽しかった。何もかも忘れていられるから。秋国にも、そんな何かがあったらいいなと思ったの」

 わたしは、秋国の本になれたんだね。あの言葉の意味が、この時ようやく理解できた。

「俺は、朝井さんの存在に確かに救われた。気にかけてくれて、一緒にいてくれてうれしかった。朝井さんとおしゃべりするのは、楽しいよ。だから、謝ることなんてない。全然、そんな必要ない」

 俺ははっきりと言葉にする。

「ありがとう、秋国。そう言ってくれるだけで、今のわたしも、昔のわたしも救われる」

 朝井さんはハンカチで涙を拭い、いつもの笑顔を見せてくれた。

「ううん。俺も、ありがとう、朝井さん」

 朝井さんは、ひとりでいることが平気なんだと思っていた。朝井さんが、明るくてかわいくて誰からも好かれているのは、生まれつきなのだと思っていた。そこに努力が存在するなんて、想像したこともなかった。相手の気持ちを想像するということが、俺には決定的に足りていなかった。朝井さんは、想像したのだ。自分自身に重ねて、俺の気持ちを想像してくれたのだ。朝井さんの言うとおり、俺は友だちがほしかった。誰かにそばにいてほしかった。寿登のことを、忘れさせてほしかった。朝井さんは、俺のしてほしかったことをしてくれた。ただひとつ、寿登のことだけは、いくら朝井さんでも難しかったみたいだ。


   * * *


 眼鏡を替えたからと言って、何かが劇的に変わるわけではない。

 俺は相変わらず朝井さんと楽しく過ごしていたし、寿登ともぎくしゃくしたままだった。いいことがあったとすれば、同じクラスの桐谷に、「あ、眼鏡替えた? 似合うじゃーん」と明るく言われたくらいだ。しかし、それだけでも少し自信に繋がる気もする。そのせいか、同じクラスの人たちとも、少しずつ普通に話せるようになってきた。朝井さん繋がりで、時々女子ともお弁当を囲んだりもする。

 そんな中、俺は寿登に話しかけるタイミングを掴み損ねていた。これに関しては、なかなか勇気が出ないせいもあり、うまくいかない。目が合うことは頻々にあるのだが、寿登はいつも少し怒ったような表情で、すぐに目をそらしてしまうのだ。


 その日は、雨が降っていた。放課後、朝井さんと本屋に寄ってから俺は帰路についた。ザブザブと降る雨の中、ふと顔を上げると、家の前に誰かが立っていることに気付いた。誰だろう、と思いこっそりと観察する。ティーシャツに短パン、そしてビーチサンダルという軽装。その人物は、傘もささず、手ぶらで俺の家の前に立ち尽くしていた。不審者だろうか。そう思い、反射的に後退りしてしまい、後ろにあった水たまりに、バシャン、と音を立てて足を突っこんでしまった。俺が立てた水音に気付き、勢いよく振り返った不審者の顔を見て、ひっ、と細い声が出る。

「何してるんだよ、寿登」

 思わず駆け寄って、さしていた傘を寿登にかざす。ずぶ濡れになっている寿登は、水中メガネを装着していた。

「寿登、どうしたの。部活は?」

 雨でも部活自体はある。寿登を気にするあまりサッカー部でもないのにサッカー部の活動にすっかり詳しくなってしまったので知っている。サッカー部は雨の日はいつも、ミーティングか廊下で筋トレをしているはずだった。

「ナオ、泳ぎに行こう」

 雨音の中、ぺたんこになった髪の毛から、ぽたぽたと滴を落としながら、寿登はそう言った。

「泳ぎに……って、今から? どこへ?」

「川。小さい頃、よく行ったよな?」

「でも」

「泳ぐのが嫌なら、魚つかまえようぜ。ナオ、メダカ好きだろ」

 明らかにおかしい寿登の様子に、俺は戸惑う。

「雨が降ってるし、もうすぐ暗くなるし、危ないよ」

 よく見ると、短パンだと思っていたのは海水パンツで、寿登の格好はやはり不審者のそれだった。

「寿登、風邪ひくよ。とりあえず、家に入ろう」

 その手を取り、玄関の方へと引っ張って行くと、寿登は抵抗もせず、おとなしく着いてきた。

「あら、寿登くん久しぶりね。川で泳いできたの?」

 寿登を見た母の第一声はそれだった。まるで小さい子どもに対するような物言いに呆れながらも、寿登のこの珍妙な姿を特に不審に思っていない様子だったのでほっとする。

「スミマセン、こんな格好で」

 寿登は、ぼそりとそれだけ言った。

 俺と母とでシャワーをあびることを勧めたのだが断られたので、自室に通し、着替えとバスタオルと座布団を出してやる。ここまで、どうやって来たのか知らないが、おそらく電車だろう。このままの格好で帰らせるわけにはいかない。

「どうしたの、急に」

 そう尋ねたけれど、タオルをかぶった寿登は胡坐をかいて座布団に座ったまま、何も言わない。

「水中メガネ、取ったら?」

 自分も寿登の向かいに胡坐をかく。寿登は水中メガネを乱暴にむしり取り、

「あの頃みたいに、遊びたい」

 顔を上げ、震える声で小さく発した。

「え」

「あの頃みたいに、ナオと遊びたい」

 表情を歪ませて寿登は言う。目の周りに、水中メガネの圧迫の痕が残っている。

「でも、寿登はサッカー部の人たちといたほうが楽しいんじゃない?」

 へどもどとそんなことを言ってしまう。カブトムシを目の前にしたミミズの俺は、卑屈に縮こまってしまった。

「俺は寿登や周りの人たちみたいに、明るくないし、しゃべるのもうまくないし、とろいし、俺がいたら邪魔なん……」

「なんだよ、それっ」

 半ば叫ぶような寿登の声が、俺の卑屈な言葉を遮った。

「おまえがっ……おまえが勝手に気にして、勝手にそう思い込んで、勝手に離れていったんだ」

「だって」

 言い返そうと口を開く。だって、寿登は俺が離れていっても何も言わなかったじゃないか。俺がいなくても楽しそうにしていたじゃないか。声になる前の言葉が頭の中をめぐる。自分の気持ちを寿登に伝えようと決めたのに、肝心な時に臆病な自分が情けない。

 そんな俺とは正反対に、寿登は気持ちを言葉にして、次々にぶつけてくる。

「おれは、おまえが俺といるよりもひとりでいるほうがよくなったんだって思ってた。だけど、最近はずっと朝井と一緒だし」

 ぐう、と咽喉を鳴らし、寿登は続ける。

「おまえ、なんで朝井とは一緒に遊ぶんだ。ひとりが良かったんじゃないのかよ。おれのことが嫌だっただけだったのかよ」

 そして、

「なんで、どんどんおれから離れていくんだ」

 弱々しくそう言って、寿登はくっきりとしたまるい目から、ぼろぼろと涙をこぼしたのだ。

「俺は、寿登と一緒にいたかった」

 相手が取り乱すと、途端に気持ちが凪いできた。

「だけど、寿登には友だちがたくさんいたし、俺がいなくても平気だと思ってたんだ」

「そんなこと思ってない」

 寿登は即座に反論してきた。

「うん、ごめん」

 俺は素直に謝る。俺たちは、お互いに言葉が足りなかったのだと、改めて気付かされる。

「朝井と付き合ってるのか?」

 拗ねたように尋ねてくる寿登に、

「付き合ってないよ」

 思わず笑ってしまいながら答える。

「朝井さんは大事な友だちだよ」

「そうか」

 寿登も笑みを浮かべる。

 その後は、自然と無言になってしまった。俺たちの間には数年間のブランクがある。共通の話題があるはずもなく、お互いが相手の言葉を待っているような沈黙だった。その沈黙を破ったのは寿登のほうで、

「新しい眼鏡、似合ってるよ」

 そんなうれしいことを言ってくれた。

「ありがとう……」

 感動して、思わず涙声になってしまう。

「泣くなよ」

 さっきまで泣いていた寿登に笑われ、なんだか悔しくて、涙を必死にこらえる。

「今度さ」

 寿登が照れたように口を開く。

「休みの日に一緒にどこか行ったりとかしよう」

「うん、行きたい」

 俺は、力いっぱい首肯した。


   * * *


「ナオ、仮面ライダー好きだったよな」

「え……うん。でも、小さい頃のことだよ」

「明日、映画観に行こうぜ、仮面ライダー」

 数日後、金曜日の夜の電話で、そんなふうに寿登は俺を映画へ誘ったのだ。小学校低学年くらいまでは確かに仮面ライダーが大好きだったけれど、現在は、あの頃みたいに日曜日に早起きしてテレビにかじりついているわけではない。だけど、そんなことをわざわざ口に出したりはしない。余計な一言だとわかっているからだ。それよりも、久しぶりに寿登と遊べることがうれしくて仕方がない。

 当日、映画館の前で待ち合わせることになった。映画館は俺の家から自転車で十五分くらいのところにある。寿登の現在の家からは更に遠い。

 小学校高学年になる頃には、時々、寿登と映画を観に行った。特撮だったりドラえもんだったり、少し背伸びをしてSF洋画だったり。あの頃は、子どもだけで自転車で遠出して、子どもだけでお金を払って映画を観るということ自体が大冒険だった。そんなことを思い出しながら、俺は、川土手の道を自転車で行く。幼い俺にとっては遠かった道のりも、今の俺にとってはたいしたことのない道のりに変わってしまった。

 映画館の裏手の駐輪場に自転車を置き、表へまわる。早く着きすぎたかな、と思っていたら、驚いたことに寿登もすでに到着していた。

「おはよう、寿登。早いね」

 何気なく言うと、

「いや、楽しみだったから」

 決まりが悪そうな様子で、寿登は言った。

「そうなんだ」

 俺は戸惑いながらも、ほんのりとうれしくなる。

 チケットを購入し、ロビーのソファーでぼんやりと開場を待つ。

「寿登、仮面ライダー観てる?」

「いや、観てない。ナオは観てるんだろ?」

「昔はね。今は観てないよ」

 寿登の中で、小学校低学年あたりで俺の成長は止まってでもいるのだろうか。

「まじで。観てると思ってた。おれらストーリーわかるかな」

 そんな寿登の言葉に思わず笑ってしまう。ぎこちない言葉を交わしながら、それでも不思議と気詰まりには感じなかった。

 映画を観終わり、

「ナオ、どうだった? おもしろかったか?」

 寿登が心配そうに言った。

「おもしろかった!」

 まるで、息子との会話に困る休日の父親のようだ、と思いながら、俺は頷く。

「おれも。最近のライダーって、なんかすごいんだな。ちっこい子たちは、あの内容理解できてんの?」

「俺が小さかった頃は、結構普通に理解できてたような気がするよ」

「ああ、そっか。そう言われたら、おれもそうかも」

「昔より、頭が固くなっちゃったんだね、きっと」

「年寄りくさいこと言うなよ。おれら、まだティーンだぞ」

「ティーンて」

 また新作が公開されたら一緒に来よう、とか、今度テレビのほうも観てみよう、などと笑い合いながらロビーに出る。

「これからどうする?」

 寿登が言った。どうしようか、と思いながら、「俺、自転車で来たんだけど、寿登は?」と尋ねる。

「電車」

 ナオが自転車ならこのあたりでうろうろしてみるか、と寿登は呟く。向かいのゲームセンターへ行くことにし、連れ立って映画館を出ようとした。その瞬間、

「あ」

 寿登が小さく声を上げ、俺の腕を強く掴み、また映画館に引き戻した。

「どうしたの?」

「サッカー部のやつらがいた」

 ささやくように言った寿登の言葉に、俺の頭の中に更にクエスチョンマークが浮かぶ。どうして隠れる必要があるんだろう。

「カラオケ行くつってたからなあ。これから入るんだろうなあ」

 そんなことをぶつぶつと呟く寿登の隣で、浮かれていた俺の気持ちは一気に沈んでしまった。寿登は、俺と一緒にいるところを友だちに見られたくないのかな、と、そんなことを思ってしまう。やっぱり、俺のことが恥ずかしいのかもしれない。咽喉のあたりが締めつけられるように、ひりひりと熱くなり、俺はそれを鎮めるつもりで唾を飲み込んだのだけれど効果はない。どうして隠れたのか思い切って尋ねてみようと口を開きかけたその時、

「カラオケ、俺も誘われたんだけどさ、デートだからって断ったんだよ」

 寿登が外を窺いながら言った。

「見つかったらやばい。冷やかされる」

 聞き間違いかな、と思う。だけど、寿登は今、はっきりと「デート」だと言った気がする。いや、確かに言った。

「これ、デートなの?」

 呆気にとられながら、なんとか尋ねると、寿登の顔がみるみるうちに赤く染まった。

「デートだよ!」

 顔を真っ赤にしたまま、開き直ったように寿登は言い切った。

「あ……そう、そうなんだ……」

 半ば放心しながら、思わず、スマホで検索してしまう。デート。親しい男女が日時を決めて会うこと。あれ、俺たち男同士じゃないか。それでも、デートというのだろうか。ごちゃごちゃ考えていたら、

「好きどうしが一緒にいるんだ。デートだろ」

 寿登の強い言葉により、すとんと納得させられてしまった。

「今日は、デートだから。ナオもそういうつもりでいて」

 そう、はっきりした口調で寿登は言うのだけれど、俺のほうは言葉も出ず、ただこくこくと首を縦に動かすだけだった。


 よくよく考えたら、俺は友だちとゲーセンへ行ったことがない。長年ぼっちだったのだから仕方がないのだけれど、遊び方がわからない。フロアを満たす境界のない賑やかな音も初めてで、戸惑ってしまう。

「ナオ、あれやろ」

 寿登が示したのはクレーンゲームだった。遊んだことはないけれど、テレビなどで見て知識だけはある。俺は、まるっこい掌サイズのぬいぐるみがもりもりと積まれた機種を選んだ。ころころしていてかわいいので、もし取れたら朝井さんにあげようと思ったのだ。

「最初はこのボタンでこっちに動かして、次はこのボタン」

 初めてだと言うと、寿登がまずやって見せてくれた。寿登の操作するクレーンは、黄緑色のペンギンのようなぬいぐるみを危うい感じでキャッチし、排出口にころりと落とし込んだ。

「すごい! すごいね、寿登!」

 俺は素直に感動してしまい、思わずはしゃいだ声を上げた。寿登は照れたように笑うと、「次、ナオやってみな」と俺に促した。

「うん」

 背負っていたボディバッグを脇に置き、ボタンに手をかける。白いくまのようなぬいぐるみを狙ったのだけれど、数回挑戦してもなかなか取れない。

「難しいんだね、これ」

 寿登が簡単そうに取ってしまったので、もしかしたら俺にもできるかもしれない、と密かに思っていたのに、やっぱり難しい。お金の無駄になるので、そろそろやめようと言おうとしたら、

「一緒にやってみよう」

 寿登が言い、俺の背中から自分の身体を密着させ、俺の両手に両手を重ねてきた。突然、ダイレクトに伝わってきたぬくもりに、俺はびくりと震えてしまう。

「ひ、寿登、これやだ」

「このへんから」

 むずかる俺を意に介さず、寿登は俺の手の上からボタンを操作する。

「寿登」

 正直、ぬいぐるみどころではない。密着した背中と両手に神経が集中してしまう。心臓や血管が、ものすごいスピードで伸縮を繰り返しているのがわかる。頭からつま先まで、全身の体温が一気に上がったのがわかる。くらくらする。目が回りそうだ。

「寿登、これやだ。どきどきして苦しい」

 やめてくれ、と頼んだつもりだった。寿登の手が離れてほっとしたのも束の間、今度は腕ごとぎゅっと拘束されて、動けなくなる。

「寿登、ここ、外」

「外じゃなきゃいい?」

「そういう問題じゃなくて」

 わかったよ。笑みを含んだような声で、そう小さく言って、寿登は身体を離した。俺は心拍数を下げようと、不自然に深呼吸を繰り返す。

「はい、これ」

 寿登が俺に、ぬいぐるみをふたつ差し出してきた。黄緑色のペンギンと白いくまだ。チェーンが付いていてバッグに付けられるようになっている。

「あ、さっきの、取れてたんだ」

「ナオはこっち持ってて。おれが取ったほう」

 そう言って、寿登は俺の手に黄緑色のペンギンを押しつける。

「おれはナオが取ったの持ってるから」

 記念、と寿登が笑う。その白いくまは、俺が取ったわけではない。ほぼほぼ寿登が取ったようなものだ。俺はクレーンの動きすら見ていなかったのだから。そう思ったけれど、口には出さない。純粋に、うれしかったから。

「ありがとう、寿登。うれしい」

 お礼を言えば、寿登は照れたように笑う。寿登の耳が赤いことに気付き、俺はなんとも言えない面映ゆい気持ちになってしまった。それを隠すように、俺はバッグを拾い、ファスナーの引手に黄緑色のペンギンを付ける。

「ナオ、どっか行きたいところある?」

 ぬいぐるみを取って満足したのか、寿登が言った。

「そこに新しくできた本屋さん行きたい」

「よし、行こう」

 ついでに、その本屋の中のカフェで昼食をとることにする。

「ここ、来てみたかったんだ」

 きのこのクリームパスタをつつきながら俺は言う。寿登はパンケーキのセットを注文していた。それはごはんじゃなくておやつだ、と思ったのだが、寿登もそれはわかっているようで、俺の視線に、「別にいいだろ」とだけ答えた。

「ナオ、最近よく本とか読んでるもんな」

「うん、朝井さんにいろいろ教えてもらって」

 そう言いかけ、寿登の表情を見ると、あからさまに苦い表情をしていたので、息を吐くようにして思わず笑ってしまう。

「笑うなよ」

「笑ってない」

「うそつけ」

 こんな何気ないやりとり自体が久しぶりで、一緒にごはんを食べることも久しぶりで、寿登との距離がこんなに近くなったのも久しぶりで、何もかも久しぶりのことで、ずっと望んでいた幸福の中に、俺は今、確かにいるんだ。そう思うと、感極まってしまい、ふいに胸がいっぱいになってしまった。


 食事を終え、カフェを出たところで、

「それじゃ、ナオの見たいところ、どこでも行こう」

 そう寿登は言って、極めて自然に手を握ってきたものだから驚いてしまって、言葉が出ない。確かに、幼い頃はよく寿登と手を繋いだ。しかし、俺たちはもう高校生で、そして、ここは公共の場だ。そんな場所で男同士が手を繋いでいて、周囲にどう思われるか。そんなことをぐるぐると考える。だけど、この寿登が与えてくれる心地よいぬくもりをすっぱりと拒否してしまえるほど、俺はストイックではなかった。拒否するなんて、もったいない。結局、そのままの状態で新刊コーナーを見ていたら、

「やっほー、秋国と真鍋」

 後ろから声をかけられ、寿登とふたり、同時に振り向く。

「偶然。今日はふたりで遊んでるの?」

「朝井さん」

 俺は慌てて寿登の手を振りほどこうとしたのだが、寿登が握る力を強くしたため、その試みは失敗に終わる。朝井さんは、俺と寿登の繋がれた手に視線をやり、「仲良しだね」と笑った。

「邪魔すんなよ」

 寿登が冗談めかして言う。

「失礼な。邪魔なんてしないよ。馬に蹴られちゃうじゃん」

 呆れたような声を発し、朝井さんは笑う。

「じゃあね、秋国、また学校で」

「うん、またね」

「俺には挨拶ないのかよ」

「じゃあ、ついでに真鍋も、またね」

 朝井さんは笑って手を振った。俺も手を振り返す。

「馬に蹴られるって、なんで?」

 寿登が疑問を口にする。俺は聞こえないふりをした。


 夕方まで目一杯遊んで、帰路につくことにする。じゃあまたね、と別れの言葉を口にしようとしていたら、

「帰る前に、ちょっと川寄ってこ。ナオは帰り道だろ?」

 寿登が言った。

「え……」

 瞬間的に、あの雨の日の寿登の姿を思い出してしまう。また、泳ぐとか言い出すんじゃないだろうか。そう思い、

「七月って言っても、川の水は冷たいよ。やめたほうがいい」

 慌てて止める。

「泳がないって」

 寿登は苦く笑った。

「あの時は切羽詰まってたんだよ」


 自転車を押してたらたら歩き、川土手の道に出る。道の脇に自転車を停めて土手を下りると、遊歩道だ。

「整備されてる。昔はただの砂利だったのに」

 寿登が言った。

「そうだね」

 さすがに、もう、あの頃みたいに川では泳がないけれど、河原でのんびりするくらいならいいかもしれない。

 二人掛けのベンチを見つけ、そこに並んで腰掛ける。

「よく、川で遊んだよな」

 寿登がぽつりと呟いた。

「楽しかったよな。懐かしいな」

「うん」

 だけど、もうあの頃には戻れない。なにも考えず、なにも憂えず、なににも気付かずにメダカを追いかけていたあの頃とは、もう違う。子どもじゃなくなった。だけど、大人にもなりきれない。だから、たくさん考えて、たくさん悩んで、気付いたり気付かないふりをしたりしながら、進んでいくしかない。

「ナオ」

 寿登が妙に甘ったるい声で俺を呼んだ。

「ん」

 軽く返事をして、隣の寿登に顔を向けると、

「う、ぶ」

 くちびるを塞がれた。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。理解できたのは、寿登のくちびるが離れてからだ。

「急にやめてよ。俺、変な声出しちゃった」

「じゃあ、今度はゆっくり」

「ん」

 キスをするのは初めてだ。その初めてのキスが、寿登で良かった、なんて、乙女チックなことを考えてしまい、ひとりで赤面する。

「顔赤い」

 目の前に寿登の笑顔がある。

「少し大人になったような気がする」

「なんだそれ」

 まだまだ自分に自信は持てないけれど、俺の言葉に寿登が笑う、そんなあたたかなしあわせのためならば、苦しくても、悲しくても、寿登のそばにいることを選ぼう。俺は今、そう決めた。



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