1の犠牲か100の我慢か
私たちは窮屈な世界で生きてきた。
そう声高々と叫ぶ人たちがいる。
それが悲痛の叫びに聞こえないのは何故だろうか。
あまり言いたくないが、少数派の、数的弱者として脅迫に聞こえる。
最近の多様性という言葉の中には、どこかそう言った意味合いが含まれているように感じる。
いろんな人がいて、いろんな考え方があり、様々な生き方がある。
普通の定義が難しい世の中にもなってきていて、色々なことが許容される世界になってきた。
不変というものがないのはわかるけれど、最近の世の流れは怖いなと思う。
1の人たちに該当する方には申し訳ないが、100の人が世の中は多い。
1の人が使えることで、100の人も便利に使えるのなら特に問題はないとは思う。
でも最近は、1の人のために100の人が不便になったりすることが多い気もする。
私は大きな障碍もなく、心と身体の乖離も抱えていない自分がどちらの立場かといえば100に分類される人間だ。
そう言った方々の悩みは自分のことのように理解はできないし、困ったことを体感することもない。
しかしながら、1の人のために100の人が困ったりする内容に直面することはある。
トイレの色の変更や、均一なデザインによる視認性の悪さなど。
100の方が滞る社会になれば1も必然的に困ると思うのだが、抑圧された分が解放に伴った復讐になってはいないだろうか。
性別の話は結構センシティブだが、見た目が男で心は女だとして見た目も心も女の人が女性トイレで会えば見た目も心も女の人は恐怖するだろう。
それで誰でもトイレが出来たのだと思うのだが、今はトイレを男女共有にするなんて話も出てる。
1の犠牲があった社会なのだろうし、私は知らず100の利益を得ていたと思うが、100の我慢を強いるのはおかしいんじゃないかとは思う。
1も100も納得できる101なんて理想論かも知れないけれど、1の人のやり方が100に我慢をさせて優越感やら特権階級として認められたいというものを感じる。
長ったらしく語ったが寛容さを求める人が、寛容じゃないなーってことが言いたいだけだった話。