共通点より違う点を考えてみよう
ついにエッセイの中でも愚痴り始めたかとなるが、こりゃ受けないだろうなと思う面がある。通常はどうやったら関心持ってもらえるか?ってスタートって考えると思う。やる前から負けを認めてるって感じがある。受けなくても価値があると思ってる。物語じゃないからになる。真理を解き明かす探求者みたいな気持ちがある。
昔は何故か?その好き勝手やってたものでPTもらえたのだが、今は誰にも評価されなくてもいつか目にした人が評価してくれればいいと残しておくだけはしたいと思う部分がある。残さなきゃ可能性は0なのだから。ただそこまで個人的なものじゃないと思うんだけどな。
なろうって共通点ばかりに目が行くけど、じゃ同じもの何度も読めばよくない?ってなる。これは食べ物の例えへの批判で書いた。まあ違うじゃないかってシンプルに書いたけど、よく考えると当たり前だが、似た作品ばかりなので同じものを何度も読みますって読者は想定できない。
あ実は共通点よりも同じものじゃ満足できない部分がかなり重要なのでは?と思えてきた。結論は似たようなものなので単純に言えば過程を楽しんでるんだけど。違う部分を着目することでなろう読者が大切にしてるもう1つのものが分かるのじゃないか?と思えてきた。
ただまあ実際はこの話問題点もある。昨今の流行のザマァや追放系ってのは、大きくまとめて、落ちた人が這いあがるや高い位置から底辺に堕ちてまた上がるってパターンめいたものがある。だからこの先似たようなパターンでザマァや追放系以外も多分生まれるんじゃないか?と見てる。
問題は短編とかじゃなくて、なろうの転生転移のヒット作の長さと比べるとその長期を持たせる長さこの物語じゃ維持できない。短編って片づけるのが嫌なのは、どうもわかってないのは長い短いじゃない。映画ぐらいの長さの分量の小説は一般的に長編小説と言われる。このタイプの物語って映画に合うんだ。
それに対してなろうの過去の転生転移って映画じゃはいりきらない。2クールから4クールのアニメぐらいになる。これ以上長いのも多々あるが、それは異常として片づける。大半の作品は物語としてはもう書く意味がないがだらだら読者がいるから続ける作品がちらほらあるから。まだ続きがあっても書こうとせず脇道それて長く続ける人もいる。コナンで言うあの人が言葉だけ出てくるが一向に出てこない状態と似てる。
物語としてはとっくに終わってるのにだらだらと意味もなく続く作品が追放系ザマァは多くなったなってのもある。そのすべてが失敗ではないが、転生転移並みに続けるのに向いてる作品はごく一部しかない。だから正直語る意味があるのか?とは思ってる。
さてそれでも、まあ人気の流れってのがある。だが実際はその話を何度も読んで満足はない。だから様々な疑似作品が創られる。食べ物と比べたときは違いすぎて奇妙に思うだろう。比喩で使ったものを真面目に分析するなとなる。だがこれ実は歌だとどうだろうか?歌はかなり何度も聞く。似たような違うものを求めなくても同じ曲をかなり繰り返す。
創作って点で同じものを繰り返す事を食べ物と比較することは意味が無いことじゃない。疑似作品の違う部分を実は楽しんでる。基本的には先駆者の新鮮な気持ちの劣化だろう。だが実際は歌と違う。同じものを繰り返さないのは実際はその違う部分結構楽しんでる。それが何か?を語るのはむつかしい。
今回のテーマは実は違う部分を重視してるってのをクローズアップするためでそれに対する答えがあるわけじゃない。
なろうの批判でどうも頓珍漢だと思うのは同じものばかり見て脳が死んでるのか?ってアニメ側で見られてる点だ。いやいや実際は違う部分楽しんでるんですよ。その違いの部分を楽しんでないから見えないだけで。大きな違い、細かな違いって見るのは違うのじゃないか?と思い始めたというのがあります。
食べ物比喩を批判しておいてなんですが、なろうってココイチのトッピングに似てるなと、カレー=異世界ファンタジーや追放系という土台部分で、その土台に対してこまごましたトッピングでオリジナルカレーを作ってるわけです。このトッピング自体をなろう外の人は多分楽しんでない。
トッピング個別にすれば、普通に美味しい物もあるでしょう。だがカレーと組み合わせて楽しむって要素としてはあまり楽しんでない。トッピングすべてが特に好きでもないからそれをどう組み合わせようが特に感じるものが無いと。
スタートと結果が決まってるから過程を楽しんでるというと何か違うんですよね。そもそもちりばめられた要素そのものが全く作品ごとでちがうわけです。大きくカレー料理を忘れさせるようなものじゃないけど。そして、先ほどの分につながるのですが、このスタートと結果が決まってる流れですが、正直転生転移よりうまくいってると思ってないんですよね…。
質の落ちる代替品にすぎないなとは思っています。カツカレーって言うと一つの料理に思えますが、カレーに対してカツをトッピングの一つだと見ると、追放系ザマァの流れって異世界ファンタジーってカレーの中でとても重要なトッピングの一つに過ぎないなと見ています。転生転移の連載の分量を維持できる流れじゃないからです。
だから過程がどうたらと語る程のものか?って思う部分があるわけです。トッピングはあまり真面目に受け取ってほしくないです。大事なのは、外との温度差は実際は違う部分に対する感じ方が違いすぎる点にあると見ています。共通点が重要なのは間違いないです。ただだったら何故同じ作品を楽しまないのか?
物語ってのはそういう部分どんな優れた作品でも、基本一回こっきりなんですよ。音楽とは違う。同じ創作なのに違うわけです。だから同じ作品を楽しめないのに、疑似作品ばかりが溢れるって点にかなり重要なものがあると私は見ています。共通点を探ってももう出てくるものは無いのじゃないか?と見ています。
どの作者もコピペでランキング上位を土台に作ってるわけじゃないんだからと作ってる人なら思いますよね。パクりが多いぞと、あのね、すべての一緒なの?多分ごった煮でしょ?それは違うんですよ。トッピングを含めたココイチのカレーは無限の料理があるとココイチ好きの人が語ってましたが、まあどうでも良い人には大げさなと思うでしょ。
でも実際作ってる人から見れば同じものなんて作ってる気持ちは無いのだがなと思ってると思いますよ。