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次の日の朝、旅装を身にまとい、大きなリュックサックを肩に担ぐ。ドアノブに触れたが、私はふと振り返った。目に映るのは、18年過ごした思い出が詰まった部屋。
お父様がこの世界にある多様な宗教の聖書を読み聞かせてくれたベッド。この世界には様々な亜人たちがいて、少しずつ違う考え方や習慣を持っているんだよと、でも本当に大事にしていることは皆同じなんだよと教えてくれた。
お母様は、10歳の誕生日に鏡台で化粧を教えてくれた。クローゼットの中にはお母様がお祖母様から受け継ぎ、私に譲ってくれたドレスや、寒い冬に暖炉の前で一緒に編んだマフラーなんかがたくさん入っている。多くの時間を一緒に過ごし、いつも私に寄り添ってくれた。
前世の記憶がある私はとても不気味な子供だったはずなのに、お父様もお母様もそんな目を私に向けたことはなかった。弟や妹と平等に接し、私を愛してくれていた。
「部屋を出る前からホームシックになるなんて。この家に生まれて私は本当に幸せだったんだ」
私はそう呟き、ドアノブを捻る。廊下には、大粒の涙を流しているお母様の姿があった。お母様の傍まで進み、優しく抱きしめる。
こんなに細かっただろうか? 私がそんなことを考えていると、お母様は私の胸に顔を埋め、力強く抱きしめ返してくれた。背中に刺さる爪の痛みに、お母様の愛情の強さを感じる。
泣き崩れたお母様をメイドに託し、玄関の扉を開け屋敷の外に出る。差し込む朝日を遮る、見慣れた顔が2つ並んでいた。
「ルゥ、パステル、その格好はどうしたの?」
「我らはお嬢とグランゼへ参る」
「参るだにゃ!」
二人は何を言っているんだろう。私に食客を養えるような財産なんてあるはずもないのに。
「二人ともありがとう。でも、それはだめよ。お給金どころか、一枚のクッキーも焼いてあげられないの」
「辺境に着いたら、私達が魔物を狩って稼いでくるにゃ!」
「給金なら過分にいただいている。焼き菓子の材料代ぐらい何枚分でも払おう」
うん。比喩なんだけど、ルゥのように犬人族はあまりこういう言い方をしないものね。それより……給金ってなんだろ?
「お母様から?」
そんな気を回せる余裕なんてなかったと思うんだけど…….
「……」
無言で首を横に振り、ルゥは長いマズルで方向を示した。その先にあるのは、お父様の書斎。
「……お父様が?」
「昨日、お嬢に付いていくと暇乞いに行ったらな。この金で娘を頼むと、せめてグランゼまでは無事に送り届けて欲しいとな」
「なんで……食客の中でも飛び切り優秀な二人をこんな娘につけるなんて」
理由なんて決まっている。お父様は私を見放したりなんてしなかったんだ。
「泣くな。お嬢は正しいことをしたのだろう。胸を張って背筋を伸ばせ。毅然と前を向いて、堂々と進め」
「そうだにゃ! 背中を丸めてても、あの女が喜ぶだけにゃ!」
「うん。でも、後一分だけお願い」
一分だけと言いつつ、少なくとも数分はたった頃、私は涙をローブの袖で乱暴に拭いた。背筋を伸ばして、まっすぐに前を見よ……う?
「お嬢様、ルゥ殿、パステル殿」
「えっと、フランク?」
「お嬢様の出立に連れて行ってやってくだせえ」
前を見た私の瞳に映ったのは、馬丁のフランクと三頭の角馬。普通の馬よりも足が速く、スタミナもある優秀な馬だ。しかもこの子たちは……。
「……お気に入りの子たちをお父様が?」
「へえ。それと伝言をお預かりしています。『私はお前を信じているよ』とのことでした」
「……お父様」
それ以上言葉が出てこなかった。再び目頭が熱くなり、私は前を向いたまま目を閉じる。
お父様もお母様も、こんな私を信じてくれている。だったらやるしかない。汚名を返上し、嫌な予感が現実となったときに備えて力をつけ、信頼できる仲間を増やそう。幸いなことに、力をつける機会も、出会いも必ずある。向かう先は、魔物が跋扈する大森林に面した辺境グランゼ──別名『冒険者の町』なのだから。