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加害暴走

5話


 一筋の光すら届かない暗闇の中をあてもなく沈み続ける。その様は溺れる潜水士のようだ。


 だが、永遠に続くその沈降は次第に感覚も、時間も、空間も、己が存在という殻も黒く塗りつぶしていった。


 今あるのは境界線のボヤけた意識だけ。それだというのに、落ちている事実と、暗闇の中にいることだけが何故かハッキリと理解できた。


 落ちゆく自分らしき"ナニカ"が自然に霧散していく。──魂なのだろうか。それとも自分という意識の残滓か。


 避けられない消失。恐らくはこれが死なのだ。名前すら思い出せない自分だった"ナニカ"は呆気なく死んだ。


 死ぬっていうのは、消えるってことだ。それは子供の時に嫌ってほど理解したことだ。

 

 死後の世界なんて都合のいいものは存在しないんだって。悲観的とも現実的とも言える考え方を持っている。


 やがてある一つのことに気がつく。落ち続ける自分は霧散などしていなかった。ただ、その"ナニカ"が黒い霧を放っていただけで、深海のような暗闇も、ただ自分で埋め尽くした黒い霧でしかなかった。


 黒い霧は次第に一つの形を成し、"ナニカ"を包み込む。それはやがて手と成り足と成り、人の形を成した。


 あぁ──それならば話は早い。五体が満足なのであれば、この闇を抜け出す方法は一つ。上へと泳ぐだけのこと。


 ──届け……果てしない闇に光が射す。


 ──届け……感覚も、時間も、空間も、忘れていた自分の名も既に取り戻していた。


 ──届け……失ったものは取り戻した。ならば最後に必要なのはただ一つ。


 ──届け……確固たる目的。俺を殺したモノを殺すという目的。


 ──さぁ、あとは目を覚ますだけ。目覚めの時は今────!


 

 

 轟という音がした。吹き荒れる風は、爆風の如き様相を成している。


 その風は、横たわる俺を中心にドームを形成した。 

 俺の胸には依然として大きな穴が空いている。口裂け女によって穿たれたその穴は、血の代わりに黒い霧を噴出していた。


 黒い霧は溶けるように、風と混ざり合い、風のドームを黒く染め、やがて霧散した。


 ゆっくりと立ち上がる。胸の穴はすっかり塞がっていた。痛みも疲労も、何も感じなかった。


 寧ろ全身に力が漲っていた。

 大量に失った筈の血は過不足なく、体内を巡り、焼きつきそうな位に躍動しているのがわかった。

 その反面に恐ろしいくらいに頭はクリアだった。


 ──目が熱い。身体中の熱が眼球に集中したかのようだ。だが、両目は今もハッキリと目の前に佇む口裂け女を捉えている。


 ならば問題ない。必要なことはただ一つ、目の前の敵を殺す。そのことだけが、頭に浮かぶ唯一の感情であった。


「な、何故生きているの……心臓を確実に潰した筈なのに」


 口裂け女は、あり得ないものを見たという顔をしている。笑える話だ。


 あり得ない存在は自分自身だろうに。だが、無理もない。


 女の殺し方に不備はなかった。確かに俺は心臓を一突きされ、確実に絶命していた。


「理由なんていらないだろう?殺したものが、動いているんだから、それは生き返ったか殺せなかったの二択だろうに」


「心臓を潰されて死なない人間なんていない!坊やまさか、人間じゃあないの!?」


「愚問だな。アンタ化け物なんだろう?なら俺が人間か化け物かなんて、瑣末な問題じゃないか。アンタが気にしなくちゃいけないのは一つ。今から俺に殺されるのを、どうやって抗うかってことだけさ」


 そう吐き捨て、女を睨みつける。

 女は、混乱した様子ながらも、持っていたハサミに再び力を込めた。


「いいわ……一度で死なないなら、死ぬまで殺せばいいだけ。私を殺す?どうやって生き返ったのか知らないけど、素手のあなたに一体、何ができるのかしら──!」


 女はアハハと狂乱の笑い声を上げ、こちらに跳躍する。


 その脚力。確かに先程俺が必死に走った距離など、無意味にするものだろう。


 目の前に迫った女は、俺の顔顔に向け、凄まじい勢いでハサミを突き刺さす。

 

だが、それを僅かな動きで躱し、すれ違い様に拳を女へと打ち付ける。


 大きく吹き飛ぶ口裂け女。体を起こしながらも、口元からは血が流れているのが見える。


 再び、ハサミを構え直す。しかし、その様子は先ほどとは少し違って見えた。


 ──何かが来る。予感にすら満たない悪寒が背筋に走った。


 女は、離れた距離から、ハサミを大きく開き、その場で思い切り閉じた。


 空を裂く刃線。バチンと鉄と鉄がぶつかり合う音が虚しく鳴り響く。


「グハッ────!」 


 脇腹に痛みが走る。咄嗟に目をやると、大きな裂傷ができており、血が流れていた。


 苦悶に顔が歪む。それと同時に十分な距離があったにも関わらず、腹部を切られたことへの疑問が浮かんだ。


「何が起きたかわからないって顔ね。これは私の権能『見えざる裂けび』このハサミで私が切ろうと思ったものは、どんな鋼鉄を纏おうが、どれだけ距離を離そうが、何人たりとも避けることはできない──!」 


 繰り出されるハサミの連撃を距離を離し躱し続ける。しかし、どれだけ距離を離したところで、俺の身体には無数の傷が増えるだけであった。


 不可避の斬撃──それならばその斬撃ごと消してしまえばいい──!


 先ほどまで胸の穴から吹き出ていた黒い霧。意識を集中すると、それは俺の身体が無尽蔵に滲み出てきた。


 コレの正体はわからない。だが直感で一つ確信していることがある。


 この霧は破壊の為にあるのだと────

 

 口裂け女に向け、走り出す。

その間にも斬撃の雨は止むことはない。右手を前にかざす。


 黒い霧は雲のように集まり、やがて、八岐大蛇のような形を取り、斬撃の悉くを目にも留まらぬ速さで、文字通り喰らい尽くした。 


 暴力をそれを更に上回る圧倒的な暴力で組み伏せる。


 それを見た女は破れるほどに目を見開き、その表情は驚きから次第に激昂へと変わっていく。


 数秒の内に、既に女を射程圏内に捉えた。奴がハサミを振り下ろす。近づいて気がつく。ハサミは空間そのものを切り裂いているのだと。


「だったら、その空間ごと喰らい尽くすまで──」


 黒い霧は膨張し、鮫のような大きな牙を持つ顎となり、振り下ろした右腕ごとハサミを飲み込む。


「グァァァァァ!!!!」


 断末魔の叫びを響き渡らせながら、口裂け女は後ろへ大きく跳躍する。


 だが遅い!

 黒い霧をナイフ状に変化させ、二歩の内に間合いを詰め、残った左腕による女の攻撃を躱し、右脇腹から左肩にかけ、斬り上げる。


 疾る黒い閃光──その一閃は紅い雨を降らせた。


 口裂け女の刀傷に滲む黒い霧の残滓は、じわじわと広がり、女の身体は喰らっていく。


 容赦のない破壊の力。それを見て、身体中の血管や脊髄に氷水を入れられたようにスッと身体が凍りつく。


 この力を振るったのは紛れもなく自分だ。自分の意思通りとは言え、俺はこの手で目の前の女を殺したのだ。

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