崩壊反転
事件は続く。しかし、ここで俺がこの戦いに身を投じるキッカケとなった時のことを語ろうと思う。
月日は遡る。それはまだまだ冬の面影を強く宿す、二月のことであった。
時刻は午後十一時少し前。
俺──白神凛は菓子や飲み物の入ったコンビニ袋を右手に携え、家へと歩を進めていた。
高校二年生である俺が一人で出歩くにはやや遅い時間ではあるが、父は仕事で家を空けがち。母は物心着く前に他界しているため、他の家に比べ自由の効く環境にあった。
コンビニと家の距離は歩いて十分程。自転車を使ってもいい距離だが、散歩がてらこうして歩いている。
周囲に人影はなく、街は眠りにつこうとその闇を深く沈めていた。ただでさえ暗い冬の空は、街灯の少ない裏路地においては一際濃い黒を呈している。
数分歩き続けて違和感に気がつく。
あまりにも人がいなさすぎる。
無論人通りが多い道ではないのは確かだ。しかし遅いと言っても、日を跨ぐ程の深夜ではない。
普段であれば遅めの会社帰りのサラリーマンの一人や二人いるはずだ。
何よりも決定的な異変が一つあった。
数分は歩いているのに殆ど進んでいない。どうして気がつかなかったのだろう。右を見ても、左を見ても数分前と全く同じ建造物、自動販売機がそこにあった。
それだけではない。自動販売機や工事現場の立て札。そういった類のモニュメントに書かれた文字。その全てが文字化けし、得体の知れない不気味さを悪辣に彩っていた。
悪寒が背中を走る。その不気味な景色から逃げ出すように自然と駆け足になる。しかし一向に慣れ親しんだ家は現れない。
事態を全く飲み込むことができていない心とは裏腹に、自分が何か異常な状況に置かれているのだということだけは、驚くほど冷静に理解していた。
眩暈と吐き気がする。
何が起きているというんだ。 ただ俺はコンビニに行っただけじゃないか。
歩きながら夢を見るほどに呆けてしまったのだろうか。それとも俺は外になんか行っていなくて、初めから夢の中にいるんじゃないのか?そう思ってしまうほどに俺は混乱の中にいた。
闇雲に駆け抜けていると、道のど真ん中に人影が現れた。
いや、現れたというのはおかしい。人は急に地面から生えたり、突然飛んできたりはしないからだ。
しかしそう表現する他なかった。その人影は本当に突然、目をやったら、ずっと前からそこにいたかのように立っていたのだから。
その人影は本来ならば俺を安堵させる筈であった。しかし、この異常な状況で突然現れた人影は不気味さと異常さを助長するものでしかない。
何よりも身に纏う鮮血のような外套と街中にはおよそ似つかわしくない刃渡りの長い銀のハサミが浮世離れした危険な存在であると示していた。
その人影──絹のような長い黒髪と大きなマスクで顔を隠しているがどうやら女の様だ──は、こちらに一瞥をくれると、遊園地を訪れた少女の様に弾む足取りで俺に近づいてきた。
逃げなくては。そう思っているのに、俺の足は道路のコンクリートと溶接されてしまったかのようにピクリとも動かなかった。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃない。まだ何もしていないでしょう?」
まだ、ね、と目を細め、ニタリと笑いながら、女は俺のほんの数メートル先まで辿り着いた。
「──ぁ」
声が出ない。蛇に睨まれた蛙みたいに全身の細胞が硬直し、指先から喉奥の声帯まで自分の体ではないように強張っていた。
そんな有様であるのに全身を流れ落ちる滝のような汗のベタつく感触だけは嫌になる程感じる。
動け動け動け動け──!!
石にでもなってしまったかのように微動だにしない自らの脚に念じる。
女との距離はおよそ一歩分。一瞬の後に女が間合いに入り込む、その極限まで緊張が高まった瞬間──視界にノイズが走り、やがてノイズが消えると、俺はクリアな視界を取り戻していた。
眼前に広がっていたのは、不気味な女の姿も、迷いの森と化した景色でもない、いつも通りの景色であった。
気がつくと手足もいつも通りに動いていた。拳を開いては閉じ、指先の感覚を確かめながら、先ほどの出来事を思い出す。
夢?それにしては余りにもリアルで、さっきまで感じていたおぞましい緊張感は確かに今もその名残を残していた。
何よりも──汗ですっかり湿った服が、夢なんかではないと語っていた。
あの不可解な現象から数日が経過した。
新聞やニュース、友人の話などにもハサミを持った女の話なんてのは全くもって耳にすることはなく、眠気が呼んだ文字通りの悪夢に過ぎなかったのではないか──
時間の流れと共に、俺は次第とそう思うようになっていた。
授業の合間の小休憩。席を動くとこもせず、俺はただ頬杖をつきながら、呆けていると、友人が近づいてきた。
「なぁ白神。ここら辺にさ、口裂け女が出るって話、知ってるか?」
弛緩しきっていた心に再び戦慄をもたらしたのは、俺の友人であり、噂話やゴシップに精通した有村朋也の言葉によるものだった。
口裂け女?馬鹿馬鹿しい。今更そんな都市伝説だか怪談で怖がるとでも思うのかよ。
いつもの俺であれば、鼻で笑って一蹴していたであろう。
だが、ただの出来の悪い噂話として受け流すには、あまりにもタイミングが合いすぎている。
勿論、あの時目にした女がイカれた不審者で、それが噂となり口裂け女なんて誇張じみたレッテルを貼られた──そう考えることもできる。
しかし、それではあの狂った景色や、女と相対した際の人ならざるものといった気配を説明することができない。
まさか、化け物や幽霊の類だっていうのか?
オカルトを否定するわけではないが、それが目の前に堂々と出てくるなんて、悪い冗談でしかないだろう。
「俺も噂に聞いただけなんだけどさ。何でも髪が長くて、やたらデカいマスクした女が夜道に佇んでるんだと。幾ら何でも話がベタすぎ古すぎだと思わない?」
「……なぁ、その噂ってのは結構広まってるのか?」
「廊下歩いてるとちらほら聞こえてくる程度かな。でも実際に見た奴とかがいないんだよね。だから出どころは不明」
肩をすくめながら朋也はため息をついた。
特徴に具体性が欠けるし、実際に目撃者もいないという不明瞭さが気になるが、噂なんてものは往々にしてそういうものであるだろう。
しかし、重要なことは俺がそれを目撃していること。つまり噂は本当であり、何よりあの夜の出来事は夢でも何でもなかったってことだ。
キーンコーンカーンコーンと休憩時間終了のチャイムが鳴る。
次の教科担当が教室に入るのを見受け、丸男はそそくさと自分の席に帰っていった。
しかし、俺の心はここにあらず。最早授業など上の空であった。
その日の深夜。俺は数日前と同じ夜道を歩いてみることにした。
頭では自らの馬鹿さに呆れていた。
何故危険な厄介ごとに首を突っ込もうとしているのか自分でもわからなかった。
しかし、あの夜の景色を自らの中で消化するために、もう一度だけ出会いたかった。
──いや本当は、気がついていた。どんなに理屈を捏ねたところで、ただの怖いもの見たさでしかないことに。
そして、もしかしたらこれは退屈な日常を変えてくれる大きな刺激になるんじゃないかって──
歩き始めて数十分が経つ。既に数日前歩いていた家周辺の道を大きく離れ、普段あまり訪れない場所をさまよっていた。
見回すと少し寂れた商店街のような通りであった。通りのあらゆる店はシャッターを閉めており、活気のなさそうな商店街は、最早ゴーストタウンのようですらあった。
加えて、数日前と違い、今夜は既に日を跨ぐ程の深夜だ。辺りに人がいないのも当然だろう。
今夜は風が強い。ぽつぽつと生えている街路樹が轟々と揺れる様は、大きな化け物が蠢く様に似ている。
しかし、俺が探しているのは、あの日見た妙な女だ。前は勿論、後ろにも人影はなく、何かが起こる気配など微塵も感じなかった。
これ以上は無駄かもしれない。
ただの深夜徘徊と化しているこの時間は徒労でしかないと気づき始め、歩を家へと進ませる。
胸に湧いたのはほんの少しの落胆と安堵だった。
結局何もなかった。だがそれでいいのかもしれない。
噂は噂。俺が見た景色も何かタチの悪いイタズラかただの不審者で、俺の日常に変化はない。
多少退屈でもそれが一番なのかもしれない。
不意に一際強い風が吹く。突風とも呼べるそれは、勢いよく頬を撫でるように吹き抜ける。
妙に生温いその風は、何とも気味が悪かった。風の勢いに目を開いてることが辛くなり、思わず目を閉じた。
──ほんの一瞬のことであった。
風が止み、ゆっくりと目を開けると、左右に聳え立つ商店群の看板が、示し合わせたかのように文字化けしていた。
あの時と同じだ。たった少しの違いでしかないのに、景色が一変したかのような強い違和感。
見慣れた文字というのは、心の均等を保つ効果があるのかもしれない。
その全てが文字化けした景色は、違和感を超え、生きているその世界の前提条件を足元から崩してしまったかのような印象を与える。
世界にまるで自分しかいないように感じるほどの静寂の中で──不意に背後から、カツンという音が聞こえた。
足音、おそらくはヒールが地面を鳴らした音だ。
ゆっくりと後ろに振り向くと、十メートルほど離れた所にら数日前に見たのと全く同じ、マスクをした赤い女が溶け込むように立っていた。




