第172の扉 その花が開く瞬間に
プツン、と何かが切れる音がした。
「桜木さん」
「?」
翼は自分に抱きついている風花を引き剥がし、木の影に連れ込む。風花はいきなりの行動にキョトンと首を傾げていたのだが、今の翼から先ほどまでの空気を感じない。どうしたのだろう。風花が考え込んでいると……
「ごめんね」
「え?」
翼は小さく謝罪し、風花を後ろから抱きしめて、膝を折って座り込む。風花はされるがままに翼の腕と足の間に収まった。
「相原、んっ!?」
風花が疑問を口にしようとするも、翼の手が口を覆ってしまう。彼の手から逃れようとするのだが、翼がしっかりと固定して離そうとしない。さらに……
「ごめんね」
「んんっ」
翼が後ろから耳元で囁く。彼のその仕草が、普段とは少し違う声が、何だかくすぐったくて、風花の身体から力が抜けた。口と腰には翼の手、すぐ横には彼の顔。翼の息が風花の耳を撫でている。
どうしてこんなことになっているのか、風花は全く理解ができない。混乱する頭を必死に落ち着けて、周りの音に耳を澄ますと……
先ほどと同じく、プツン、と何かが切れる音がした。そして
「おい、この辺りのはずだぞ」
「見つけ出して殺してやる」
何やら物騒な会話をしている10人くらいの集団が。全員緑色の皮膚、ギョロリと飛び出した目で、ゴツゴツとしたこん棒のようなものを持っている。いわゆるゴブリンという種族のようだ。
そして、彼らが通る足元ではプツン、プツンと糸が切れていた。それは翼が気絶する前に風花が見つけていた糸と同じもの(第170の扉参照)
動物を仕留める罠として使用しているのだろう。先ほどから聞こえていた音はそれである。
「どこに隠れてやがる、人間」
「空気が淀んでやがる、近いな」
キョロキョロしながら、翼と風花を探しているゴブリン。二人が入島したことで、空気の淀みを感じたようだ。敏感にその違いを感じられるらしい。鋭い殺気と共に目をギラつかせていた。
「これは不味いね」
翼が彼らの様子を見ながら呟いている。彼が風花を抱え込んだのはゴブリンから隠すため。直前までいろんな意味で限界だった翼だが、危険を感じ逞しく復活。自分の服と身体でしっかりと隠すように風花を抱きしめてくれる。
「んぅ」
事情を理解した風花から声が漏れる。翼に口を塞がせているのでくぐもった声しか出なかったが、胸の中にモヤモヤとした感情が広がった。この気持ちの名前は何だろう。
「いきなり口塞いでごめんね、とりあえず場所移動しようか」
「う、ん」
二人はゴブリンに気づかれないように、音を殺して森の中を駈けていく。
「あ、優一くん? ……ん、そうそう。今海の方に……」
移動しながら、翼がイヤホンマイクで通信を始めた。翼は真剣な表情なのだが、生憎風花はそれどころではない。
「……」
風花の頭の中で先ほどの行動がフラッシュバック。風花を庇うために抱きしめてくれた翼。後ろから力強く抱え込んでくれて、耳元には優しい彼の声。
『ごめんね』
「っっっ!」
風花は耳に届いた声と感触を思い出し、背中にゾワっとするものが走る。
普段と違い、低く艶っぽく囁かれた声。
耳を撫でた優しい吐息。
口を塞いだ暖かい手。
腰に巻かれた逞しくて、力強い腕。
「あ、もう着いたの? ゴブリンいるから気をつけてね」
風花がチラリと翼を見ると、ゴブリンへの注意を促しながら、集合場所を決めている。そして、翼を視界に入れた瞬間、風花の胸の痛みが加速し始めた。
どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
どうしてこんなにざわざわとするんだろう。
痛いのに、どうして嬉しい気持ちを感じているんだろう。
「桜木さん、優一くんたちもう近くまで来てるんだって」
「ぁ、あ、の……」
「あれ? どうしたの?」
通信を終えた翼が内容を伝えてくれるも、風花の頭の中には入らない。彼女の頭の中は、今、翼のことだけ。
翼の声がもっと聞きたい。翼に触れてほしい。
彼女の胸の奥にあった感情の蕾が、ついに、花開こうとしている。
「あぃ、はらくん」
「ん?」
翼は風花の異変に気がつき、しゃがんで目線を合わせてくれる。優しい光を放った彼の瞳が風花を射ぬいた。
「あ、のぉ、そ、のぉ」
「うん」
「わ、わ、わたし……も、もっとぉ」
その優しい瞳でもっと見てほしい。暖かい笑顔でもっと笑いかけてほしい。
風花は翼が差し出してくれた手を、無意識ににぎにぎと握りしめながら、言葉の先を紡いでいく。
「あぃはら、くんに」
「僕に?」
「……ぁ、の、あい、はらくん」
「ん? なに?」
どうしてだろう、言葉が上手く出てこない。
どうしてだろう、真っ直ぐに翼の目を見ることができない。
どうしてだろう、胸が苦しくて、痛くて、顔が熱くなる。
「桜木さん?」
「っ!?」
風花が言葉を紡ごうとしていると、翼がコテンと首を傾げて名前を呼んだ。その瞬間、頭が真っ白になって、身体の温度が一気に上昇する。
なんで、名前を呼んでくれただけで嬉しくなったんだろう。
もっと、呼んでくれないかな。
「ぁ、ぁ、ぁ」
風花は頬を赤らめて、涙目になりながら言葉を紡ごうとする。しかし、彼女の頭の中は今ぐちゃぐちゃ。上手く言葉が出てこないし、何も考えられない。そんなぐちゃぐちゃの中でも、頭にあるのは翼のことだけ。
「あ、の、わた、し……」
「姫様?」
風花が言葉の先を紡ごうとしていた時、近くの茂みがガサゴソ動き、太陽がぴょこっと飛び出してきた。そして、彼の姿を見つけた途端、風花に限界が訪れる。
「たぃよぅ」
「え、姫様!?」
翼の手を離して、太陽にムギュっと抱きついた。涙は流れていないが、声が震えて身体も震えている。そして、真っ赤な顔と、服の上からでも分かる沸騰した体温。
「うぅ……たぃよぅ、たぃよぅ」
「翼さん、何かしましたね」
風花の異常な様子に、太陽が翼をジト目で睨む。
「んぇ!? してない、してない!」
翼は首をブンブンと振って否定しているが、本当にそうだろうか。自分の胸に手を当てて考えてほしい。
「翼、流石にダメだろ」
「そうだぞ、桜木が可哀想だ」
太陽に遅れて顔を出した優一と彬人も、翼にジト目を向ける。風花がここまでの状態になっているのは初めて見た。余程のことを翼がしたに違いない。
「えぇ!? だから、何もしてないよ!」
「それならなんで桜木がこんなことになってんだ?」
「んー?」
優一の発言に翼はセレナ島に落ちてからのやり取りを思い出してみる。
風花と二人きりの状況に耐えられず、気絶。
目を覚ましたら天使の風花と遭遇。
後程、本物であると理解し、気絶寸前になりながらも持ちこたえる。
必死に耐えていると、プツンと何かが切れる音がして……
「あ……」
「「はい、有罪」」
優一と彬人が翼を両側から挟み込み、逮捕。太陽が開いた扉をくぐって、強制的に帰還した。
「はぁ、全く」
しがみつく風花を宥めながら、太陽も扉の中へと消えていった。




