第170の扉 真っ赤
ドクドクドクドク
翼の心臓が激しく脈を打つ。音がうるさい。隣にいる風花にまで聞こえてしまうのではないかという位の音が、自分から鳴り響く。翼は気がついてしまったのだ。今のこの状況に。
風花と二人きりなのだというこの状況に。
不可抗力とはいえ、この状況はかなりまずい。ピュアな翼の心臓は持つのだろうか。
「静かな場所だよね。あ、綺麗なお花がある」
翼の心臓がドックンバックンいっている中、風花は呑気に森の中を散策して楽しそうだ。またアホ毛が生えている。
「あ、こっちにも咲いてる。あれ? 糸みたいなのが張ってあるな。何だろう?」
綺麗な花を眺めて嬉しそうな風花。彼女のそんな様子に翼の鼓動が一層加速していく。以前までの翼なら、何の問題もなかったかもしれない。しかし、恋心に気がついた少年には、今の状況は刺激が強すぎる。さらに……
「どうしたの、相原くん。どこか痛い?」
「っ‼」
追い打ちをかけるように風花が翼の顔を覗き込んだ。いきなり黙ってしまった翼のことが心配なのだろう。彼女に悪意は全くない。キョトンと不思議そうに首を傾げながら、彼女の純粋な瞳が翼を捕らえた。
「あ、ぁ……」
しかし、彼女のその行動で翼の心臓は更に鼓動を早めた。顔が赤く染まり、息が不規則に乱れる。心臓が痛くなり、自分の胸元を握りしめた。
「え、どうしたの? 顔が真っ赤だよ。熱あるの?」
風花はそんな翼の様子がますます心配になり、顔を近づける。彼女のその行為が彼を追い詰めているということには気がつかない。
島に落ちた衝撃で何か異常が起きたのだろうか。それとも元々体調が悪かったのだろうか。とにかく彼の様子はおかしい。どうしよう、どうしよう。あ、そうだ!
コツン
「はぇ?」
翼の口から勝手に空気が漏れた。あまりにも一瞬の出来事で、翼には何が起こったのか全く理解ができない。
「んー、ちょっと熱いのかな?」
風花は混乱する翼を置いて、彼の赤い顔の原因を考えている。翼はそんな彼女をぼぅっとする頭で眺めていた。本当に熱があるのではないかと錯覚してしまうほどに頭が回らない。
先ほど風花が何をしたかと言うと、翼の頬を両手で包み込み、額に自分の額を合わせたのだ。おでこゴッツンである。翼は彼女の行動で、頭がショート。
「太陽が来たら、診てもらおうね」
風花は原因を考えてみたが、やっぱり分からなかったようだ。むしろ彼女が原因にたどり着いてしまったら、翼の赤い顔は更に悪化するからこれで良かったのかもしれない。
「相原くん、大丈夫?」
翼がそんなことをぼんやりする頭で考え込んでいると、再び風花が心配そうに翼の顔を覗き込む。翼は今ぺたんと地面に座り込んでいるのだが、風花は彼の膝の間に手をつき、身を乗り出して翼の顔を覗き込んでいた。翼が息を吐けば、それが届くくらいの距離に風花は居る。あまりにも近い。
「わわわわわ!」
意識を現実に引き戻した翼が慌てて後ずさった。赤い顔を更に真っ赤にして、あたふたと慌てている。リンゴが如く赤さだ。しかし、現実に戻ってきた翼の頭に先ほどの風花の近い顔と、額の感触がフラッシュバック。
「プシュゥ」
「相原くん!?」
ついに翼の頭から煙が沸き起こり、グルグルと目を回した。彼にしては今までよく耐えた方である。
「えっ……相原くん! どうしたの? ねぇ、しっかりして!」
風花は倒れ込んだ翼を抱きかかえてパニック状態。翼の体は服の上から触っても分かるくらいに体温が高くなっており、呼びかけにも反応しないのだ。彼女の腕の中でぐったりとしているだけ。
「ど、どうしよう。大変だ、相原くんが死んじゃう……あぁぁぁ」
いや死なない。おそらく彼は大丈夫なのだが、風花にはそれが分からない。
『二人とも無事か?』
翼を抱え込んでパニックを起こしていると、イヤホンマイクから優一の声が響いた。
「成瀬くんっ!!!」
『は!? 桜木、何かあったのか?』
翼と風花は一連のやり取りの際にイヤホンマイクのスイッチを切っていたため、優一たちは状況がつかめない。何かあったのだろうか。
風花の声は震えており、そして若干湿っているようにも思う。泣いているのだろう。
「優一、お前後で覚えてやがれよ」
「彬人さん、大丈夫ですか?」
優一が考え込んでいると、恨みのこもった彬人と呆れている太陽の声が。どうやら翼の予想通り、喧嘩していて彬人が船から落ちたらしい。相変わらず船の上は騒がしい。
「お前が勝手に落ちたんだろうが。それと黙れ、桜木の様子がおかしい」
ぎゃんぎゃんと騒ぐ彬人を制して、優一の冷静な声が響く。風花の慌て方が尋常じゃないのだ。
「姫様!?」
「桜木、何があった? 話せるか?」
太陽の切羽詰まった声と優一の声が風花の耳に届く。優しい優一の言い方に風花は心を落ち着けながら、話し出した。
『あ、あの、あのね……』
「うん」
『相原くんが』
「翼に何かあったのか?」
ゆっくりと話す風花の言葉を優一は急かさない。心の中はとても焦っているが、彼よりも風花の方が不安だろう。風花の言葉をじっと待つ。
『相原くんがぁ……倒れたの』
「倒れた!?」
『うん、さっきまで普通に話していたのに、突然目を回して倒れちゃったぁ』
風花は順を追って優一たちに状況を説明していく。熱があるのだと思っておでこゴッツンをしたこと。翼がリンゴと化したことなどなど。
「あちゃー」
風花から事情を聞いた優一が頭を抱える。当然だが、彼には翼の倒れた理由が分かった。
『どうしよう、どうしよう。相原くんが、動かないの。このままだと死んじゃう。うぁぁぁ』
風花は全く原因が分かっておらず、相変わらずパニック状態は継続しているようだ。依然涙声。
優一はいけないと思いながらも、風花のその必死な様子に口元を押さえて笑い声をかみ殺す。彼女は至って真剣なのだ。今も翼が死んでしまうのではないかという不安で、押しつぶされそうになっているのだろう。しかし、その必死さが笑いを誘う。
彬人も笑いながら、翼に合掌を捧げていた。船の上を噛み殺した笑いが響く中、ただ一人、太陽だけが、笑いの感情を握り潰し、口を開いた。
「姫様、すぐに我々が向かいます。翼さんは心配ありませんよ、安心してください」
『うぅ、太陽、たいよぅ。グスン』
優一が笑いを押し込められないので、代わりに太陽が風花を安心させる。流石は風花の従者。彼女のために笑いの感情を握り潰すことくらい、彼には容易いのだろう。
「今ご自分がどこにいらっしゃるか分かりますか?」
『たぶん、島の真ん中位の場所だと思う』
「すぐにそちらに向かいます。少しだけ待っていていただけますか?」
『うん……』
太陽は彼女を安心させるように優しく声をかける。最初はパニックになっていた彼女だが、太陽のおかげでだいぶ安心したようだ。しかし、風花が不安な状態であることに変わりはないだろう。一刻でも早く彼女たちの元へとたどり着けるように太陽たちは船を進めていく。
風花は太陽たちとの通話を終えると、イヤホンマイクのスイッチを切る。相変わらず翼は目を回したまま。気絶して風花の膝枕にお世話になっている。
「相原くん……」
風花は心配そうに彼の髪を撫でる。それと同時に、胸の中にまたチクリと痛みを感じた。首を傾げるが、今回もその答えは出ない。
「あ……」
風花の胸の痛みが消えた頃、彼女はあることを思い出した。
それはこの前の心のしずくで取り戻した記憶。懐かしくて、暖かい彼女の大切な思い出。幼い頃、熱を出した風花に母親がしてくれたおまじない。
「早く良くなりますように」
チュッ
風花は眠ったままの翼の額に唇を落とす。




