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名も無き感情にいつの日か名前を…

混浴を後にして、浴衣へと着替えた僕らは食堂で夕食を共にしていた。


夕食のメニューはこんにゃくをおかずとした精進料理に近い健康的な献立であった。


「うん、意外と美味しいね、こんにゃく」


「うん、いかにも健康的な味付けというのがわかる」


美味しかったといえば美味しかったのだが…正直なところ、物足りないというのが僕の感想だった。


その後、部屋に帰って来た僕はとある事実に気がついた。


最初に部屋に来た時は混浴で脳のキャパが一杯になっていたから気がつかなかったが、この部屋、寝床が一組しかないのだ。


ベッドというよりは布団が大きいのが一組寝室に敷かれているだけで他に寝具のようなものは見当たらないのだ。


…一難去ってまた一難ってことですか。


僕は今日の寝床を心配しつつ、それでもそのことについて言及しようとしなかった。


あわよくば一緒に寝たいという感情と、ソファでひとりでゆっくり寝たいという感情が入り混じり、どうしたいのかも分からなかったからだ。


さて、どうしたものか…。


僕らは今は一人がけの二つのソファに座りながらテレビを見ている。


とりあえず、僕は愛里の出方を伺うことにした。


愛里はテレビを見ながら僕にいつものように話しかけてくる。特に何かを意識したような動きはない。


愛里はどうするつもりなのか…。


多分だけど愛里のことだから…当然の流れで一緒に寝ることになる気がする。


まぁ、寝具は1組しかないから僕が無理に遠慮しない限りはそうなるんだろうけど…なんていうか…それはいいのか?大丈夫なのか?。


それなりの付き合いだ、愛里は僕が人畜無害な人間だと理解している。だから女友達と接するように僕を拒むことはしないだろう。


だがしかし、それはなんていうか…僕なんかと寝てしまうと愛里の遍歴に傷が付くというか…。寝るといっても多分ほんとうにただ寝て終わるだけだろうけど…。


だからといって二度とくるかも分からないこんなチャンスを見逃すのは惜しいし…。


…まぁ、愛里に任せよう。


結局、僕は全て愛里に任せて考えることを放棄してしまった。


山奥の寂れた旅館とあって、なにやら消灯時間なるものがあるらしく、夜も更け、旅館の消灯時間を迎えた時、愛里が動き出した。


「そろそら消灯時間だし…寝よっか、さくらちゃん」


「…うん」


いっそここで『さくらちゃんはソファーで寝てね』とか言われたら楽でいいのだが…愛里がそんなこと言うわけもなく…。


「布団大きいね、二人で寝ても全然余裕だよ」


「そ、そうだね」


たしかに愛里の言う通り、二人並んで寝てもそれなりのスペースがある。


しかしだ、ちょっと手を伸ばせば届いてしまうほど近くて、何かの拍子に触れてしまいそうなこの距離で良いお年頃の男女が二人っきりで寝るとか…法に触れてないか?。


これは…僕はどうするべきなんだ?。


このまま何事もなく眠りに落ちてしまっていいのだろうか?。


別に愛里とどうなりたいとかそういうのはさておき、お年頃の男女二人っきりの密室でこんな至近距離で寝ることになって、もしもそれで何事もなく朝を迎えてしまったら…それはそれで愛里を傷つけてしまうのではないのだろうか?。


なんていうか…『ここまでして何の手も出されないってことはそれほどまでに女性としての魅力がないのだな』と愛里をガッカリさせてしまうかもしれない。


だから…これは僕は何かしらのアクションを起こさなければいけないのではないか?。そういう義務があるのではないか?。


いや、だがしかし、愛里に限ってそんな考えは…いや、でも…。


そんなことを考えながら僕が一人で悶々と、愛里が話しかけてきた。


「ねぇ、さくらちゃん。眠い?」


「いや、全然眠くない」


旅館が設定した消灯時間は現代っ子な僕らには性に合わないほど早い時間であったため、愛里はまだ眠たくないようだ。


僕もそういう理由で眠たくないのもあるが…それよりもこの状況に対する蟠りで眠気が吹き飛んでしまっているのが大きい。


「じゃあさ、じゃあさ…」


愛里は僕が眠たくないことを確認した後、声を若干弾ませながら布団の中で僕の方へ体を転がし、僕へと密着して来た。


「一緒に動画でも見ない?。せっかくの旅行だし、夜更かししようよ」


そう言って愛里は僕の真横でうつ伏せになりながら、自分のスマホを取り出し、映像を僕とシェアしようとした。


「あ、う、うん、いいよ」


愛里の突然の接近に不意を突かれ、一瞬どもりながらも僕もうつ伏せになって愛里がチョイスした動画を見始めた。


「せっかくだから我らがマキミカの動画見ようか」


そう言って愛里が再生した動画には高校生活で何度か目にした顔が並んでいた。


僕らの元同級生であるマキとミカが『人類最後のJKが卒業してみた』という題材で人類最後のJK代表として高校生活を振り返りながら和気藹々とテンポ良くトークを繰り広げていた。


「凄いよね、身近にこんな有名な人がいるのってさ」


「僕は二人の存在を知ったのが去年だったから、あんまり馴染みが無いんだよね」


「え?でもさくらちゃん、二人の動画に何度も出てたじゃん?」


「そうだけど…僕、あんまり動画とか見たことないし、二人の動画見るのも初めてなんだよね」


「えぇ!?さくらちゃんとさくらちゃんのお姉さんが出た動画なんてダブルミリオンいったのに一回も見てないの!?」


「…いや、見てないよ」


「そんなバカな…当事者であるさくらちゃんが当時界隈を騒がせたラストチルドレン事件を知らないとは…」


「…何の話してるの?」


結局、愛里が一人で驚くばかりで事の真相を聞くことは出来なかった。


そんな僕らの目の前で今もなお、ミカとマキの動画は再生されているのだが…正直、僕の内心はそれどころではなかった。


なぜならば、すぐ傍で同じ布団に包まる浴衣姿の愛里の存在に気が気でなかったからだ。


流石に混浴でのラップタオルよりは防御力は高い格好ではあるが、少々はだけた浴衣からは彼女の肌が割と際どいところまで見えている。


まさか、上は下着すらつけてないのでは…。


垣間見える谷間からはそれらしき布地は見られなかったため、僕の脳裏にそんな考えがよぎってしまった。


いや、流石にブラくらいは付けてるでしょ…うん、付けてるよね?。


いやいや、付けてないとか流石にないでしょ?。


飢えたライオンの檻の中に無防備で突っ込むとかしないでしょ?。


っていうか、愛里分かってるのか?。


もうこの状況は何されても文句言えないぞ?。


もしも僕が相手じゃなかったら…本当に何が起きるか分かったもんじゃないぞ?。


これは…愛里のためにも言うべきなんじゃないのか?。


もしも愛里が今後、このような状況になった時に万が一のことが起きないように、この状況の危険性を愛里に教えるべきなんじゃないのか?。


いや、でもそれは僕が愛里のことをやらしい目で見ているってことを白状することに等しくて…それで微妙な空気になってしまったらどうする?。


僕の気持ちを吐露すれば、せっかくの卒業旅行が微妙な空気の死出の行軍になりかねない。


それは御免被る。


高校を卒業してしまえば、僕と愛里は離れ離れになってしまう。


もちろん、これが終われば金輪際会えないわけではない。


それでも、今日が終わればこれまでのような関係を続けられるかはわからない。


だから今日という日を記念にするために、そんな微妙な空気の卒業旅行にするわけにはいかない。

今は胸に抱えた蟠りに蓋をしてやり過ごすのが吉…。


僕がそんなことを一人で考えていると、隣にいたうつ伏せの愛里が布団の中でもぞりと動き、僕の方へと身体を向けて来た。


「ねぇ、さくらちゃん…」


目の前のスマホから流れる陽気で元気な声に混じって、愛里は吹けば消え去りそうなほどか細い声で僕に話しかけて来た。


「大学では別々になっちゃうけど…私はいつだってさくらちゃんの味方だよ」


その声は小さくか細いはずなのに、まどろむ彼女の瞳に映る僕にはノイズなんか気にならないくらいはっきり聞こえた。


僕のすぐそばで揺れる血色のいい唇、サラリと流れるたびに髪から漂う甘い匂い、愛おしいものを見つめるような優しい瞳…彼女を作るその全てから僕は目が離せなくなり、僕は固まったまま彼女の次の言葉を待ちわびた。


そして彼女は息が触れてしまうほど僕の近くで、僕へ向けてこう言った。


「だから…またこうやって一緒に遊ぼうね」


そう言うと、彼女は照れ隠しを誤魔化すかのように僕に微笑みかけて来た。


そんな彼女の何気ない仕草の一つ一つが、僕の胸の鼓動を急かした。


…人はこの心踊るような煩わしい感情を、恋と呼ぶのだろうか?。


多分、多くの人はそんな感情に観念して、これを恋と認めてしまうのだろう。


だけど…同時に僕はあることにも気がついている。


それは…『童貞がこんな状況で可愛い女の子にそんなことされたら、誰だってドキドキするに決まってる』ということである。


そりゃあそうだ、女性耐性が0に等しい僕なら、別に相手が愛里じゃなくてもドキドキするに決まってる。


そんな相手が誰であろうが抱いてしまうようなこの感情を、恋などと呼んでしまっていいのだろうか?。


女性経験が皆無な僕には、その経験から『愛里が特別である』ことを証明することは出来ないのだ。


それなのに、愛里に抱くこの感情を恋などと片付けてしまっていいのだろうか?。


確証もないのにこの感情を恋だなどと決めつけてしまうのは、愛里に対して失礼なんじゃないだろうか?。


そんな考えが、僕の感情を恋ではないと否定する。


だから答えが見出せなくて、そんな中途半端な気持ちを伝えることもできず、僕はこの心踊るような煩わしい感情に蓋をして、やり過ごす。


何かと理由をつけて飲み込んで、なかったことにする。


…そんなことは僕にとっては、何ら造作もない作業だ。


今まで沢山のものを妥協して来たから、少し我慢すれば簡単に飲み込んでしまえる。


だから、愛里の言葉に『うん』って笑って答えることはできる。


だけど…それでは一生、この感情にケリがつけられない。


僕はこの先も、一生こんな想いを抱いたまま、愛里と付き合わなければいけない。


そんなのは…嫌だ。


僕はおもむろに愛里の肩へと手を伸ばし、そのまま彼女を押し倒した。


僕に押し倒されて仰向けになった愛里の顔の両脇の床に手のひらをつけて、彼女の上にまたがって四つん這いになって、僕は彼女の困惑する顔を見下ろしながらこう言った。


「愛里さん…ちょっと話を聞いてもらえますか?」


「…え?なに?さくらちゃん。これは何の遊び?」


「遊びじゃないよ。…真面目な話」


困惑してとぼける彼女に僕は真顔でそう言いつけた。


「…なに?さくらちゃん」


僕の真面目な顔にとぼける振りをやめたのか、観念したかのように彼女も真面目な顔で僕を見つめた。


そんな彼女へ、僕は若干躊躇い混じりにこう切り出した。


「愛里さんが僕をどう見てるかわからないけど…少なくとも僕は愛里さんのことを一人の異性としても見てる。だから、こんな近くで一緒に寝るだなんて状況に僕の内心は穏やかではありません」


流石に面と向かって話すのは恥ずかしく、僕は時々愛里から目を逸らしながらそう口にし始めた。


そんな僕の言葉に愛里は何の反応をするでなく、無表情な顔で僕を見つめていた。


「別に今日に限らず、愛里さんが近すぎるスキンシップをしてくるたびに、表向きはなんともない振りをしてるけど、内心はいつだって慌てふためいていて、僕の心は落ち着きません」


観念したかのように打ち明ける僕の言葉を愛里は黙って聞いていた。


「愛里さんは今後も僕とこんな風に一緒に遊びたいって言うけど…そうするには僕はこんな騒がしい感情を抱えながら愛里さんと一緒にいなきゃいけないんです」


「…それは、私のスキンシップが嫌だったってことですか?」


「いや、そんなことはないです。…むしろ無くなったら寂しいと言いますか…正直、嬉しいです…はい」


僕は隠して来た内心を吐き出すことが恥ずかしくなり、思わず目を伏せてしまった。


しかし、愛里の上で四つん這いになっている関係で、目を伏せると今度は乱れた浴衣からチラリと見える谷間に目がいってしまい、僕は慌てて上へと視線を逸らした。


そして一旦深呼吸をしてから愛里にこう切り出した。


「トドのつまり…愛里さんは僕にこんな風に接したいと思う一方で、僕はそんな近過ぎる距離に悶々とせざるを得ないわけで…そんな想いを抱いたまま愛里さんと一緒にいなきゃいけないのは…我慢ならないです…はい」


一通り胸に抱えた感情の白状を終え、少し間が開いた後、愛里が躊躇いがちに口を開いた。


「えっと…それは…さくらちゃんは私のこと好きってことなんですか?」


抱えていた感情を白状してしまい、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうな僕と比べ、愛里は平然とした顔でそんなことを尋ねてきた。


そんな彼女の質問に僕はたどたどしくこう答えた。


「えっと…好き…といえば好きなんですが…でも好きにも色々程度がありまして…はっきり言ってある程度好みの女性が隣で寝てたら同じような感情を抱くと思います。だから、愛里さんのことが特別に好きかどうかは証明出来なくて…僕もどうすればいいのか分からない次第であります」


「なるほどなるほど、さくらちゃんのお気持ちは分かりました」


僕の答えに彼女は納得したように目をつぶり、そして少し間を置いてからその閉じた目をカッと開き、はっきり強い口調で僕にこう言った。


「さくらちゃん、それはずるいよ」


「…え?」


愛里から返ってきた思わぬ言葉に僕は戸惑いを隠しきれなかった。


そんな僕を尻目に愛里はこんなことを語り始めた。


「私はさくらちゃんのこと好きだよ、大好きだよ。どのくらい好きかと言うと、さくらちゃんのお嫁さんにならなってもいいって思うくらいには好きだよ」


「え?お嫁?」


愛里の突拍子のない発言に僕は嬉しさや照れやら恥ずかしさやらがごっちゃ混ぜになり、混沌としていた。


しかし、愛里はそんな僕を置いて話を続けた。


「さくらちゃんがいなかったら私はきっとこんな楽しかった高校生活は送れなかった。さくらちゃんが私を変えてくれたの、私はさくらちゃんに救われたの。さくらちゃんには返しきれない恩がある、だから私はさくらちゃんに恩返しがしたい、そのためなら人生を賭けたっていい。だからさくらちゃんが付き合いたいって望むなら、私は喜んで付き合うよ」


愛里の思いがけない言葉に僕が口をぽかんとさせていると、愛里が今度はこう切り出してきた。


「でもね、さくらちゃんの言ってることってつまり…『今以上の関係を望んでいるけど、それでどうなったって責任は持てない』ってことでしょ?」


「…え?」


「だって『このままの関係は嫌だけど、だからといって好きかどうかは分からない』ってことでしょ?…それは女の子に向ける言葉としては最低だよ?さくらちゃん」


「…ブハッ!!」


愛里に身体を刀で切りつけられるほどの痛いところをつかれ、僕は自責の念に取り憑かれた。


「そんな『自分でもどうすればいいのか分からない』ままじゃあ、私はさくらちゃんの力になれないよ。それじゃあ私もどうすればいいのか分からないよ」


「…ごめんなさい」


愛里に図星を突かれ、僕は自分の不甲斐なさにがっくりとうなだれた。


そんな僕に追い打ちをかけるかのように愛里はさらに言葉を付け加えた。


「普通の人ならきっと、はっきりと『好きです』とか言ってくれるんだろうなぁ」


「ご、ごめんなさい」


正論で滅多打ちにされ、僕が若干涙目になっていると愛里が僕の顔へと手を伸ばし、僕の頰を優しく触れながら、優しい口調でこう話し始めた。


「でも…さくらちゃんはそうだよね。そんな曖昧なものを曖昧なまま答えにすることが出来ないんだよね、さくらちゃんはそういう人だもんね。普通なら納得がいかなくても諦めて飲み込んで、正しいかどうかも分からない定石に当てはめて出てきたものを答えとしてしまうのを、さくらちゃんは納得がいくまで考え込んじゃうんだよね…ふふっ、超めんどくさい人だね、さくらちゃんって」


「ごめんなさい、めんどくさくてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」


自分の欠点を突かれ、自己嫌悪に僕が苛まれていると、愛里は続けて僕にこう語りかけてきた。


「でも、だからこそきっと…さくらちゃんの出す答えは明瞭で、私の胸にもすんなりと入って来てくれるんだろうね。さくらちゃん、私はね…そんなめんどくさい君に救われたんだよ?」


「愛里さん…」


「だから…納得がいかないまま、その名前のない感情を好きの一言で片付けなくてもいいよ。さくらちゃんが納得できる答えが出るまで、私は待つよ。さくらちゃんが抱えたその感情に名前が付くまで、私も付き合うよ」


そして彼女は照れ隠しをするかのように微笑みながら、僕に最後にこう言った。


「だから…これからもよろしくね?さくらちゃん」


「…ありがとう、愛里さん」


ほんと…僕という人間は誰がどう見てもめんどくさい人間だ。


『好き』なんていうありふれた言葉一つでさえ納得がいかず、口に出すのが躊躇われて…あぁ、ほんとめんどくさい。…そりゃあ高校時代ボッチですわ。


愛里さんは『僕が救ってくれた』と言ってくれたけど、僕だって愛里さんにたくさん救われた。


愛里さんの存在が、僕にとってどれだけ助けになっているかなんてものは測りきれなくて…そんな愛里さんへ恩があるのは僕も同じで…その上こんなめんどくさいことにまで付き合わせてしまって…。


だからせめて…彼女に対して真摯でありたい。


超めんどくさい僕なりにだから、普通の人から見たらもどかしい光景かもしれないけど、それでも僕なりに彼女に対して真摯であろう。


そしていつの日か…胸を張って彼女に伝えるのだ。


この名もなき感情の答えを…。

卒業旅行、これにて完。

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