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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

頭蓋骨―信長と光秀―

作者: 鬼京雅

 長年の宿敵である浅井・朝倉両氏を滅ぼした戦国大名織田家当主である織田信長。

 天下布武を成そうと己が描いた覇道を突き進むその男は自らの城にて酒を飲んでいた。肴は無い。いや、その肴は一人の畳をすり歩く少年によってもたらされた。その小姓は軽く会釈したのみで手にする木箱を持ち信長の前に進む。この合理主義である芸術好きは長々とした挨拶が嫌いであり、家臣には戦中でもあまり長々と作戦行動について説明する者はほぼ居ない。気の立っている時に信長の感情に一雫の波紋一つ立てた時点で、その者は織田家から放逐されるか殺害されるかのどちらかであるからであった。


「……とうとう仕上がったか。これは良い酒の器であり肴になるであろう。勝利の美酒に酔っている気の緩んだ諸将共に伝令を出せ。戦勝祝いとして我が美酒を振舞ってやろうとしよう。天下布武を行う上で大事たる戦気を引き締める為の美酒をな」


 信長は小姓から手渡された木箱の中から頭一つ分ほどの大きさの漆塗りの物体を取り出し観察する。上部には水が張れそうな器型であり、正面に大きなくぼみが二つ有る。その下には何やら小さな穴。その更に下には奈落を呑むような大きな穴が空いており、地獄の叫び声さえ聞こえてきそうな雰囲気があった。


「これは良い肴になるぞ……宴が楽しみである」


 それは正に不気味な頭蓋骨そのものであった。





 数日後・満月の夜――。

 全ての織田家諸将共は不気味な頭蓋骨で一人、一人信長より酒を頂戴し、信長の間の左右に座っていた。そして、この場に居なかった最後の諸将の一人、明智十兵衛光秀が現れた。ややひらめ顔の眉が吊りあがり神経質とも言える顔つきである髪の毛質が細い男は、正面に主人である信長と左右に並ぶ織田の軍団長達に深々と一例すると信長の前に進み背筋を伸ばしあぐらをかく。


「よく来た十兵衛よ。今宵は我の命により浅井朝倉を滅ぼした我が家臣・織田家諸将の集まりである。存分に楽しむがいい」


「明智十兵衛。存分に楽しませてもらいまする」


 この主人に対しては余計な謙遜はしないのが心得だ。いつ、どこで、どの瞬間に機嫌を損ねるかわからないからである。神経質であればあるほど、この信長という男の側にはいられない。常に刀で心の臓をつつかれているかのような状況では人の心は休まらない。


(そう、この程度ではこの明智十兵衛の心は揺るがぬ。常に重圧は心にあるがそれももう慣れて来た。この殿といれば死など恐るに足りぬ。武人だらけの織田家にあって、文武両道のこの私が必要なのは明白。だからこそ、私は織田家で重宝される軍団長筆頭なのだ)


 いつの間にか、自分の左右に並んでいたはずの諸将達は光秀を中心に円を描くようにあぐらをかいていた。その男達の目はことごとく死んだ魚のような目で光秀を見つめている。これだけの視線を浴びて不快感が増す光秀は毛質の薄い髪に触れると、更に不快感が増す物体が目の前に差し出された。漆塗りの頭蓋骨の上部には不純物の無い透明な液体が注がれていた。信長は口元の髭を笑わせながら言う。


「浅井朝倉を滅ぼし、日々の活躍御苦労である十兵衛。これは我からのささやかな振る舞いだ。かの朝倉義景の飲んでいた酒。これはこの国では手に入らぬ美酒であるぞ」


 口髭を揺らす信長はいつになく笑顔である。

 光秀はその性格からその笑みの裏を邪推してしまう。


(織田の諸将が集結と聴き何かと思えば酒か……。確かに浅井朝倉は滅びたが、武田上杉などの脅威は去っていない。むしろ浅井朝倉が滅びた事により、その領地や近隣の反織田勢力の動きも活発になるであろう。さっさとこの酒を飲んで殿にいい気分になってもらい、早めにこの宴を終わらせよう……また殿の思いつきで休まる事の無い日々が始まるのだろうからな)


 光秀がその漆塗りの頭蓋骨を信長から受け取り、美酒を飲もうとすると信長の声がそれを止めた。


「待て十兵衛。お前を囲む諸将共にも質問したが、その漆塗りの頭蓋骨は一体どこから手に入れたと思うか?」


「それは浅井朝倉の宝物庫などからの戦利品では……?」


 光秀の返答に周囲の諸将達の顔が曇る。

 いや、一番曇ったのは口髭を生やした刃物のように目の鋭い男だった。


「違う。これは我が家臣に仕上げさせた物であって戦利品ではない。よく考えてみよ。この場の者は全て答えられたぞ? 十兵衛よ。答えられぬならそちの全ての領地を召し上げる」


「……!?」


 光秀は黙った。

 黙るしかなかった。

 この信長という男は先に前例のない事を平然と発案し、やり遂げる天性の才がある。だからこそ武田や上杉と違い弱卒と呼ばれる兵達も信長を慕い、畏怖し、戦っているのである。他者からの助言を鵜呑みにせず自分で判断してから下知を下し、人を物としての機能として見る事の出来る稀代の天才は武田信玄の家臣のように大将の前で死ぬのを喜ぶような兵はほぼいない。

 さすれば何故、織田家の兵はうつけと呼ばれるこの男に従うのか?

 織田信長の軍事行動は全てが画期的であり、全てが煌びやかである。だからこそ、その綺羅星に織田の兵は付き従うのであった。それは光秀が一番良く知っている。


(この殿はやる……ここで自分の領地を無くされたら明智軍は路頭に迷う事になる。織田家にて栄えた我が明智軍をここで潰されては叶わぬ……しかし、一体これはどこの誰の頭蓋骨だと言うのだ?)


 ふと、光秀は自分を囲む諸将達の顔を見た。誰もが視線を合わせようとしない。自分と視線を合わせているのは目の前の織田信長ただ一人である。その覇王になるべくして戦国の世を生きる男は瞬きすらせず光秀の返答を待つ。


(何故答えられたのに自分と目を合わせない? ……これはもしや、自分の知る人物の頭蓋骨なのか……?)


「どうした十兵衛? その頭蓋骨の主はわかったか?」


「いえ……私の家臣でなければ他に知る人物と思います。ですが、その人物が思い当たりませぬ」


「ほぅ、思い当たりはせぬか。浅井朝倉を滅びた先の事ばかり考えていてはわかるわけも無かろう。この宴は何故開かれたか? それを考えれば答えは容易に判断出来よう? のぅ諸君?」


『ははぁー……』


 織田の軍団長達は一様に礼をする。

 どの男も何かの心のつかえが取れたのか、光秀をひたすらに見つめる。そして、光秀の持つ不気味な頭蓋骨から何やら得体の知れぬ不快感が流れ込む。


(何だ? この違和感は……まるで人間の憎悪のような感情が私に流れ込む……これは戦場のような感覚。さすればこの頭蓋骨は敵の死骸の首か!? だが敵の死骸の首ならばよほど名のある人物のはず……でなければ我が主人は漆塗りなどという事はしない。その人物の名は……)


 ふと、目の前に広がる富士山のような偉大さを感じさせる信長の瞳の中に、一つの顔が浮かび上がる。


(……!)


 そして、光秀は絶句した。

 それはかつての……だった。

 呪われた頭蓋骨を持つ手が震え、全身から力が抜けていく。

 この空間に集まる全ての悪意は自分に向けられていると気づいた。今までも命懸けの戯言は幾つも乗り越えて来た。信長の戯言はもう慣れたつもりでいた。だがこれは新しい戯言だった。これからも、この新しい戯言は続くであろうという事も実感した。


(この程度でへこたれていては、この殿の右腕とは言えぬ。殿の悪意を受け、そして受け流してやろう……この命ある限り。私は明智十兵衛光秀なのだからな……)


 その頭蓋骨から流れる憎悪を受け流し、正気になる光秀はこの世の清濁全て飲み干す覚悟をした。

 ぐぐっ……と喉元に溜まる唾液を飲み下し、ただ一心不乱に信長を見つめる瞳に力を込めて言った。


「この頭蓋骨は私のかつての主人、そして織田家に対抗する悪であった朝倉義景でござる。その悪の頭蓋骨にて美酒を飲めた事、至福の極みでござる」


 そして、明智十兵衛光秀は元の主人の朝倉義景の頭蓋骨で酒を飲み干した。

 笑った。

 この男にしては珍しく声を枯らして笑った。

 これからの織田家が天下を取る計画すら話した。長話や夢物語を嫌う信長はこの光秀の話をよく聞き笑い、他の軍団長も光秀の織田家の栄光の歴史を描く未来図を共に夢想した。そしてその長である男は言う。


「天下布武は成す。それがこの戦国の世の覇王たる織田上総介信長の覇道よ」


 そして、そのよくある信長の余興はいつも通り終わりを告げた。しかし、いつも通りの終わりではなかった男はこの日、この瞬間に心の奥に抑えていた野心という火花が散った。が、すぐにかき消した。

 かき消さざるを得ない。

 歴史とは新しい何かで上書きされ、彩られつつ濁流の如く進む。

 それは間違い無く自分の主人である織田信長であるからだ。

 それに逆らえば歴史から自分は消える。

 それは人の本能がそれをさせない。

 光秀はその夜の天にある雲間に隠れる満月の黄色を鮮明に覚えていた。その瞳は本来の光秀を取り戻している。

 たとえどんな悪意を主人から向けられようとも、文武両道である明智十兵衛光秀が信長の右腕としてこれからも支えようと誓った。

 しかし、人の心の隅に生まれた火花とは容易に消せず、老年であるはずのこの冷静沈着で神経質な男を暴走させた。

 男という生き物は、一度火がつけば鎮火するまで消える生き物ではない。それはこの戦国の世にあっては、死を意味するものである。

 本能寺の変にて織田信長は最期まで己の自尊心を誇示するように躍動し歴史の舞台から消え、その後明智十兵衛光秀も主人の後を追うようにして戦国の世から消えた。

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