02話 馴れ初めはパンチラ
「貴様は今日は飯抜きだ」
裕司が食卓についた真冬の第一声がそれだった。
「な…」
裕司が絶句していると真冬が得意気な顔をした。
「フンッ! お手もできぬどころか、御主人様に手を上げるような駄犬にはおしおきが必要だろう」
「うぐっ…」
理不尽な仕打ちが始まりとはいえ、売り言葉に買い言葉でやらかしてしまった覚えが裕司にもあるため、そう言われると真冬に対して強く出れない。
裕司がギリギリと歯を食いしばっていると真冬が調子に乗ってきた。
「どうした? さっきの威勢はどこにいったのだ、タロウ」
「そ、そのタロウってのは一体何だ!」
裕司の反論にも真冬は動じなかった。
「ん? ではポチの方が良かったか。私もかなり迷ったのだが、日本家屋にポチというのもな。うん、やはり貴様はタロウだ」
「俺の名前は渡瀬裕司だ!」
そんな不毛なやりとりにストップをかけたのは、さっきと同じく皐月だった。
「お嬢様。今日のところはおやめください、ということで先ほどご納得されたはずですが? それに、私がせっかく作った料理も無駄になってしまいます」
食卓には確かに普段の食事より豪華そうな料理が裕司の分も並んでいた。
どうやらドッグフードを食べさせるつもりはこのお嬢様にもないようだと喜ぶべきなのかもしれないが、飯抜きを言い渡されたばかりの裕司としては少し微妙な光景だった。
ところが真冬は、またしても皐月の言葉を受け入れた。
「……そうだったな。分かった。今日のところはこれでやめておこう」
「では、いただきましょう」
冷静な皐月の言葉で、静かに夕飯が始まった。
離れに引きあげた裕司は疲れたように畳の上に寝転んだ。
「なんて気まずい食事だったんだ……」
会話が一切なく、真冬が眼帯をしているせいかテレビもない食卓はひたすら沈黙が支配していた。
たまに食器が触れ合う音がするだけで、あとはひんやりとした空気の中で静かに食事が進んでいくというなんとも気が滅入る食卓で、裕司は胃もたれするような錯覚すら覚えた。
「これなら夏休みが終わって学校に行ってる方がマシかもなあ。その間はあの女ともおさらばできるし」
屋敷のある山村のふもとに広がる地方都市の、とある私立学校への転入手続きは既に済んでいた。真冬も在籍だけはしているようだったが、実際にはまったく通っていないそうなので学校にいっている間は顔を合わせなくて済む。
裕司としては今更学校などどうでもよかったのだが、卒業だけはしておきたまえと男の方で勝手に手続きを進めてしまっていた。
転入試験も一応受けたのだが、母親にあまり心配をかけまいと最低限の成績を維持するだけの裕司の学力では解答欄の半分も埋められなかった。それでもあっさりと合格してしまうあたりに、裕司としては何らかの作為を感じざるを得ない。
「あのおっさん、どんだけ金と権力を握ってんだ?」
しかも、その強大な力をわがまま娘のためにあっさりと行使するというのが恐ろしい。その娘に身柄を預けられた形の裕司としてはなんとも落ち着かなかった。
本当なら二学期からに備えてここは夏の課題の1つでもこなして、不正試験と疑われない程度の学力を身につけておかなければまずいのだが、そんな気力もなく裕司はゴロリと寝返りをうった。
その時、いきなり離れの引き戸がガラリと開いた。
ビックリした裕司があわてて立ち上がると、そこには真冬が立っていた。
裕司のテンションが一気に急降下する。
「なんだ……お前か。一体何の用だ」
しかし、まるで疫病神に出くわしたような裕司の態度も気にせず真冬は無言で部屋に足を踏み入れる。
「おい! お前勝手に…」
裕司は反射的に抗議しようとしたが、真冬の次の行動に裕司はその言葉を飲み込んだ。
真冬は両手を頭の後ろに回すと、カチャリと眼帯の留め金を外した。
そうして顔の半分ほどを覆っていた大きな眼帯をゆっくり下ろすと、閉じられていたまぶたを持ち上げジッと裕司を見つめた。
「お、お前は、あの時の……」
裕司はその顔に見覚えがあった。真冬とは前に一度だけ会ったことがある。母親が連続猟奇殺人事件に巻き込まれて死んだ、その日に。
あの日、半狂乱の様子で家を飛び出していった母親を探して、裕司は廃墟が多くてあまり治安のよくない地区を走り回っていた。
しかし母親の姿をすっかり見失ってしまい、途方に暮れた裕司はつい注意散漫になって路地を駆けてきた少女と出会い頭にぶつかってしまった。
互いにもつれるようにして地面に転がった裕司がうめきながら目を開けると、驚いたような顔をしたすごい美少女と至近距離で目が合った。
ドキッとした裕司があわてて少女から体を離して立ち上がる。それでも少女は驚愕の表情を浮かべたまま一向に起き上がろうとしなかった。ワンピースの裾が際どいところまでまくれ上がり、見えてはいけない淡いピンク色の布地がチラリと覗いているのにも気付いていない様子だった。
更にドキドキとした裕司が、「だ、大丈夫か」とドギマギしながら少女に手を差し伸べる。
それでやっと我に返ったのか、少女は恐る恐るといった様子で裕司の手を取りようやく立ち上がった。
目立った傷もなさそうだったしどこか痛そうにしているわけでもなかったので、「悪かったな」と言って裕司が立ち去ろうとすると背後から少女のかすれた声が聞こえてきた。
「そなた……名は?」
その古風な言い方にひかれて顔だけ少女に向きなおると、裕司は早口で自分の名を告げまた母親探しに戻っていった。
その晩、警察からの連絡で母親が連続猟奇殺人事件に巻き込まれて死んだという知らせを裕司は受けた。
その後のドタバタもあって、少女との出会いは今の今まで裕司の記憶からすっかり抜け落ちていた。悲しい日の一連の出来事として、思い出すことを半ば避けていたともいえる。
だが、眼帯を取った真冬の顔を見ることで、ようやく裕司はあの日の少女との出会いを思い出した。
「どうして……お前がここに」
真冬の素顔を呆然と眺めながら、裕司の脳裏に様々な疑問が駆け巡った。
なぜあの時の少女がこの屋敷にいるのか。なぜ自分の主人づらをしているのか。遠縁などという胡散臭い理由でこの娘の父親が自分たち兄妹に接触してきたのは、まさかあの一瞬の交錯のせいだったのか。
その時、混乱した裕司の頬をヒンヤリとした夜気が撫でた。それと同時に、裕司はクラリとした目まいに襲われる。
立ちくらみかと思ってとっさに壁に手をついた裕司に、真冬がゆっくりと近づいてきた。裕司の様子を心配しているのとも違う、その真剣な顔に裕司は魅入られたように目が離せなくなる。
とうとう真冬は裕司の目の前に立った。あの日見た少女の高貴さを漂わせる美しい顔が、あの日と同じ距離にあった。
裕司の混乱は頂点に達し、今感じている目まいとあの時のドキドキが重なってなんだかよく分からなくなってきた。部屋の中でなぜか渦巻くように感じる風も、そんな裕司の混乱を冷ます役には立たなかった。
不意に真冬の手が持ち上がり、裕司の頬にソッと当てられた。
「……え?」
平手打ちをされた頬に少し冷たい真冬の手が心地よく、裕司は目まいが治まっていることに気が付かなかった。奇妙な夜風もいつのまにかやんでいた。
裕司の動揺をよそになおも裕司を真剣に見つめていた真冬は、急に苦笑いを浮かべた。
「なるほどな。さすがにそうすべてが上手くはいかぬというわけだったか」
しかし、思い直したように真冬は頭を振った。
「いや、だがそれでも十分大した事には違いない。やはり、貴様を飼うことにした私の判断は正しかったな」
真冬がとろけるような笑みを浮かべた。
「フフフ。私が死ぬまで、たっぷりと可愛がってやるぞ。だから、楽しみにしているのだな」
裕司の魂までからめ取ろうとするかのような真冬の言葉に、裕司はゾッとするほどの狂気を感じた。頬に添えられた真冬の手から逃げるように思わず裕司は後ずさった。
「お、お前は、何を言って…」
だが、裕司の戦慄などおかまいなしに真冬は告げた。
「私がここで眼帯を外したことは、皐月には内緒だからな。もし話したら妹がどうなるかなど、貴様には今更念を押すまでもなかろう?」
裕司に逃げられた手を自分の口元にそえると真冬はクスクス笑った。
「ではまた、明日からよろしく頼むぞ。タロウ」
これみよがしにそう言い、ようやく真冬は離れから出て行った。
残された裕司は、打ちのめされた思いでつぶやいた。
「お、俺は一体……何に捕まったんだ?」