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嫌魔

<五歳>



嫌魔にね、とりつかれていたんだよ、おれ。



五歳から、十六歳になるまでの十年間、ずっとあれに苦しめられてきたんだ。



嫌魔というのは妖怪だ。



こいつにとりつかれた者は、まわりの人間に嫌われてしまうんだよ。



家族にも、友達にも、他人にも、全てにだ。



十年間、おれは理由もないのに、ひとから嫌われつづけてきたのさ。



つらかったな。うん、つらかった。





最初から、順を追って話そうか。





おれが五歳だった頃の、ある夏の日のことだ。



その日の夕方、おれは公園で、三人の友達とサッカーボールで遊んでいた。



太陽はほとんど沈んでいて、あたりは薄暗かった。まわりには誰もいなくて、ボールが地面をはねる音が、やけに大きくひびいていたのを覚えている。



友達からパスを受けたとき、ふと頭上に何かの気配を感じて、おれは顔をあげた。



朱色の空に、妙なものが浮かんでいた。



球形の、半透明な、膜のようなものだった。それは表面が腐った飴のようにねっとりとしていて、なんだか見ているだけで気分が悪くなってきた。



友達はみんな、突然上を向いたおれを見て、けげんそうな顔をしていた。



「あれは何だろう?」

おれはつぶやいた。

「あれって?」

友達が聞いた。

「ほら、あの丸いやつ」



膜を指さしてみせると、三人はいっせいに空を見上げた。その中のひとりが、首をかしげながら言った。



「何もないじゃん」

「え?」

おれは目をこすってから、空を凝視した。



膜は、確かにそこにあった。さっきよりも少し降下している。



「あそこに浮かんでるじゃないか」

「何が?」

「見えないの?」

不安になって聞くと、三人は気味が悪いものをみるような目つきになった。おれはくりかえし聞いた。

「本当に、何も見えないの?」

三人は同時にうなずいた。



どういうことだろうかと思ったよ。どうして自分にだけ、あの変なものが見えるのか。







もう一度、膜を確認しようとして顔をあげた。その瞬間、おれは目を丸くした。



膜が、こちらにむかってものすごい速さで落ちてきたんだ。このままじゃぶつかると思って、おれは目を閉じた。



そのまま数秒間、体を固くしていた。しかし、膜が当たる感触はなかった。



そっと目を開いてみると、まわりの風景が半透明になっていた。



滑り台や、ジャングルジムの輪郭がぼんやりとして見える。友達の姿も、うっすらとぼやけている。あわてて周囲を何度も見回してから、自分があの膜のなかにいることに気がついた。



いつの間にか、包まれていたんだ。半透明な膜の内側に入ったから、まわりの風景が半透明に見えたのさ。



おれはあわてて膜をひきはがそうとして腕を動かした。




しかし手は膜の表面をすり抜けて外に出た。まるで立体映像のように、その膜には何の手触りもなかった。膜は、何もせずに、ただおれの体を包んでいた。あれは、気味が悪かったな。



「何やってんだおまえ?」

腕をふりまわすおれを見て、友達のひとりがあきれた声をあげた。そいつには膜が見えていないから、おれの混乱する理由がわからない。

「た、助けてよ」

おれは友達に近づいた。



すると、三人の友達は、突然悲鳴をあげてあとずさった。おれは驚いて足を止めた。友達はみんな、何かすごく汚いものを見てしまったかのような目をしていた。



おれは、ぼうぜんとしながら聞いた。

「どうしたの?」

三人は困惑した様子で互いの顔を見つめあった。そしてひとりが、

「も、もう遅いから、おれ帰るよ」

と言って走り出すと、他のふたりもそれにならい、逃げるようにして公園から出て行った。



おれはわけがわからずに、ぼんやりと立ち尽くしていた。



結局、膜をはがすことはできずに、おれは包まれたまま家に帰ることにした。



あたりはすっかり暗くなり、空には星が見え始めていた。道を歩く途中、すれちがった人達が、なぜかこっちを向いて顔をしかめていた。だが彼らにも、膜は見えていないようだった。



家に着くと、門限に遅れたという理由で親父に叱られた。普段は温厚だった親父が、その日にかぎってめずらしくいらついていた。



説教はかなり長く続いた。帰りが遅かったくらいで、そんなに怒らなくても、と思ってむくれていると、親父はいきなり、

「何だその目は」

と叫んでおれを蹴り飛ばした。



信じられるか?まだ五歳の息子をだぜ?



廊下にたおれたおれは、腹をおさえながら泣き出した。すると、親父は我にかえったような表情になり、あわてておれを抱き起こした。



「す、すまない。ああ、おれは何やってるんだ?」

親父は必死であやまったが、そのあとすぐに虫の死骸にでもさわったかのような態度でおれから手をはなした。その目つきは、さっき公園で悲鳴をあげた、三人の友達のものとよく似ていた。



気まずい雰囲気のまま、晩飯を食べた。



なぜかおふくろも、おれへの接し方がいつもとちがっていた。



親父もおふくろも、何かにとまどっているかのようだった。



膜について、両親に話すのはやめておくことにした。叱られたばかりで話しかけづらっかたし、子供心にも、話したら、頭がおかしいと思われそうだと感じていた。




その日は、午後九時頃に布団に入った。しかし、膜の存在が気になって、なかなか眠れなかった。



熱帯夜だったので、布団は体温ですぐに蒸し熱くなった。その熱が、さらに睡眠をさまたげた。



しばらくして、寝転んでいる体勢に疲れてきたおれは、トイレへ行こうと思って立ち上がった。



部屋の襖を開けて、暗い廊下に出ると、両親の話し声が聞こえてきた。台所のドアの隙間から、細い一筋の光が漏れており、声はそこから聞こえた。

「あなた、どうしてあの子を蹴ったりなんかしたの?」

おふくろの、そんな言葉が耳にはいってきた。



自分について話していると気づいて、おれは足を止めた。



「わからないんだ。あんなに怒るつもりはなかったのに、なぜか今日のあいつを見ていると、信じられないくらいむかむかしてきて」

親父のため息が聞こえた。

「それで、あんなことをしてしまった。そんなつもりはなかったのに、体が勝手に動いたんだ」



「あなたもなの?」



おふくろの、目を丸くする様子が、見えてくるような口調だった。



「あなたもって、おまえもなのか?」

「ええ、わたしもなぜか、いまはあの子に近づくのが、嫌で嫌でたまらないのよ。別にあの子が悪いことをしたわけじゃないのに」

「まったくそのとおりだ。今日のあの子は、何かおかしい」

「何があったのかしら?突然こんなふうに感じてしまうなんて」



まだ五歳の子供が、両親に、見ているとむかむかするとか、近づくのが嫌でたまらないとか言われた時の気持ち、想像できるかい?



おれは足が震えだした。そしてそっと部屋にもどり、布団を頭からかぶって泣いた。



父さんにも母さんにも、嫌われた。自分はきっと、明日捨てられるんだ。



そんなことを、本気で考えていたよ。



その日の夜は、不安でなかなか眠れずに、ずっと膜をながめていた。



翌日の朝、おれは両親と目をあわさないようにして、素早く朝食をとった。



そして、制服に着替え、外に出て、いつも通りの時間に来た幼稚園の送迎バスに乗った。



車内で席に座ったおれを見て、先生や園児達はなぜか急にだまりこんだ。昨日いっしょにサッカーをしていた友達が、不自然に目をそらした。



幼稚園に着くと、おれはその三人の友達に話しかけた。するとそいつらは、昨日のように、悲鳴をあげながら逃げだした。



あわてて追いかけて、三人の中で一番足がおそいやつをつかまえた。そいつは必死で暴れながら叫んだ。

「はなせ。はなせよ」

「なんで逃げるんだよ?」

「はなしてよ。はなして」

「答えろ」

「わからないよ。昨日もそうだったんだけど、おまえがそばに来ると、なんだかすごく嫌な気分になるんだ」



その声があまりにも苦しそうだったので、思わず手をはなすと、そいつはおれをつきとばして、園舎の方に走り去っていった。



昨晩の両親と同じようなことを友達に言われて、おれは困惑した。



ふとまわりを見ると、他の園児達に無言で見つめられていた。



半透明な膜越しに見える彼らの表情は、激しい嫌悪にゆがんでいた。




そのとき、やっと気がついたんだ。



この奇妙な状況は、膜が引き起こしているんじゃないかってね。



両親や友達の様子がおかしくなったのも、この膜に包まれたあとのことだった。



そう、そうなんだよ。



あの膜は、周囲の人間に、強い嫌悪感をあたえる、不可思議な力を持つ存在だったんだ。





<六歳~十二歳>




それからの日々は最悪だったよ。



なにしろあの膜のせいで、出会った人間全てに嫌われるようになってしまったんだからな。



誰もがおれと目をあわせただけで吐きそうな顔をする。人混みの中にいても、おれのまわりにだけ必ず空間ができる。



友達はいなくなった。



突然の孤独を前にして、おれはどうすればいいのかわからなかった。



小学生になっても、当然友達はできなかった。



え?いじめられたりはしなかったのかだって?



いや、それはなかったよ。膜のおかげで、誰も近づいてこなかったからな。



みんな、遠巻きにちらちらとおれを見るんだよ。車に轢かれた猫の死骸を見るような目つきでね。なんであんなものがここにあるんだ。誰かあれを早く片付けてくれ。そんな感じの視線が四方八方から飛んでくるんだ。



そんな小学校での六年間を過ごして、中学生になったおれは、見事に陰気で無口なクソガキと化していた。



・・・・・・ぐれたりはしなかったのかだって?



そうだな。確かにこうも嫌われ続けると、どす黒い感情がたまってくる。暴力的な衝動がこみあげてきたことは何度もあったさ。





でも、両親のことを考えると、それはできなかった。




膜による嫌悪感は、相当なもののようだ。それはまわりの人間のおれに対する態度を見てよくわかった。



両親は、そんな膜に包まれた息子と、四六時中、いっしょに暮らしてきたんだ。



それがどれほど苦しいものなのか、おれには想像がつかない。



両親の姿は、目に見えるほどに衰えていった。



親父は髪が薄くなり、肌が乾燥して、皮膚の所々が小さくむけていた。おふくろはシワが多くなり、目の下に深いくぼみができていた。



・・・・・・もうしわけないと思ったよ。



捨てられてもおかしくないくらいに嫌われていたはずなんだ。それでも両親はちゃんとおれを育ててくれた。そのことは、いまでも、すげえ感謝している。



親父は毎日ことあるごとにおれを殴っていた。



殴る理由はどうでもいいようなことばかりだったけど、おれは黙って耐えていた。そうすることで、親父の辛さが少しでもやわらぐのなら、いくらでも殴られてやろうと思ったんだ。



そんな家庭環境でも、おれはまじめに生きた。典型的ないい子になるよう、努力した。学校での成績をあげて、運動もこなせるようにした。同級生達からは、優等生ぶってるって理由で憎まれたけど、両親が自慢できるような息子にはなったつまりだ。



ほめられなかったけどね。



いま思えば、不良になって非行に走ったほうが、ちゃんとした「嫌う理由」ができて、両親も楽だったかもしれない。






<十三歳>





ああ、そうだ。





そろそろあいつのことを話さないとな。





おれの初恋の相手、缶藤美代子のことを。




中学一年の春、昼休みの学校の廊下で、初めて彼女を目にした。



髪が短く、色の白い、静かな目つきの娘だった。



窓際に立って外を眺めている彼女を見て、おれは息を呑んだ。



彼女の体も、おれと同じ膜に包まれていたんだ。



頭が真っ白になった。



まさか、自分以外にも、膜に包まれた人間がいただなんて、思いもよらなかった。



話しかけねえとって思った。なんか声かけねえとって思った。でも、言葉が浮かばない。五歳の頃からずっと人に嫌われつづけて、会話なんてものとは、ほとんど無縁の生活を送っていた。話し方ってものを、忘れてしまっていた。



彼女も膜に包まれていたが、おれは彼女に対して嫌悪感を感じなかった。



どうやら、膜に包まれた者同士では、嫌悪感を感じないらしい。



結局うまい言葉が浮かばなかったおれは、相手に先に気づいてもらおうと思い、ゆっくりと彼女の背後に歩み寄った。





そのとき彼女は、無言で窓から外へ身を投げ出した。





あまりにもためらいのない動きだったので、ここが校舎の三階であることを思い出すのに数秒かかった。



ずしゃ、という音がした。



おれは窓からそっと、下を見おろした。



一目見ただけで、死んでいるとわかった。頭の中身をぶちまけて、生きていられるわけがない。うつぶせになって落ちていて、表情が見えないことがありがたかった。



落ちた場所は裏庭で、人の気配がなく、おれ以外誰も彼女の死に気がつかなかった。



おれはぼうぜんと突っ立っていた。頭の中がしびれたようになっていて、何も考えられなくなっていた。



昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴りひびいた。数人の男子生徒が、楽しそうにしゃべりながら後ろを通りすぎていった。





その時、異変が起きた。





彼女の死体を包んでいた膜が、小刻みに震えはじめたんだ。



それと同時に、死体の耳から、白い汁のようなものが、大量にあふれだしてきた。



おれは口を開いたまま、その様子をながめつづけた。



汁は、膜の内側の面に当たると、すうと消えていった。おれには、膜が汁をすすっているように見えた。それが数秒程続いたとき、突然汁の一部が人の顔の形になった。



背筋が冷たくなった。



汁が形をとったその顔が、死んだ彼女のものだったからだ。痛そうな表情を浮かべながら、その汁は膜の内側の面に吸い込まれていった。





おれはその時わかった。



あの白い汁が、彼女の魂だと。



理性ではなく、感覚でわかった。



それと同時に、この膜の習性をなんとなく理解した。



まずあの膜は、人間を包み込む。そしてまわりに嫌悪感を発し、その人間が他人に嫌われるようにする。



その人間は深く絶望し、やがてあの少女のように自殺する。



膜は、そうやって死んだ人間の魂をすする。



あの膜は、そういう何かなんだと、そのときのおれはさとったんだ。




それからしばらくの間、おれは完全に気持ちが歪んでいた。



ちょっとおれの指を見てくれよ。ほら、形が変なふうになっているだろう?



あのあと、おれは彼女が死んだのは自分のせいだと思って、何度も指をかじったんだ。それでこうなった。おかげでいまでも、缶ジュースのプルトップをうまく開けられない。



だってそうだろう?



あの時おれが、もっと早く話しかけていれば、自殺を止められたかもしれないんだ。



彼女の名前が缶藤美代子だということは、その後、学校中に広まった噂を聞いて知った。



缶藤美代子。彼女も膜のせいで、様々な苦しみを味わってきたのだろう。だから、あんなことをしてしまったんだ。



いまでも後悔しているよ。なんで、話しかけなかったのか。おれだったら、彼女の苦しみを分かち合うことができたんだ。



あの日の後、おれは毎晩、缶藤美代子のことを考えた。



もしあの時、自殺を止めて、彼女と仲良くなれたらという仮定の出来事を何度も想像した。缶藤といろんな話をしたり、いろんな場所へ二人で遊びに行くところを、思い浮かべた。



そのうちに、おれはその空想上の缶藤に恋をした。



それが、おれの初恋さ。



気持ち悪いって?わかってるよ。



毎晩、彼女との逢瀬を空想した。夢にも見た。



そして我にかえり、彼女が死んだことを思い出しては、うめきながら指をかじった。





<十五歳>





ふう、しゃべりすぎて、少し疲れたな。



じゃあ、次は、あの集団のことを話さないとな。



おれが高校生になった年の、七月のことだ。



夕方、学校から帰る途中に、公園のそばで、おれはまた出会ってしまった。



誰にって?膜に包まれた人間にだよ。



しかも今度は二人だ。



そいつらは、おれが通りかかるのを待っていた様子だった。



三十歳くらいの、やせたスーツを着た男と、黒い服とスカートをはいた、五十歳くらいの化粧の濃い女だった。二人とも、膜に包まれていた。



おれは、ぼうぜんとしながら立ち止まった。あまりにも突然だったからね。思わず、はあ?って声をあげてしまったよ。



膜に包まれたそいつらは、なれなれしい笑みを浮かべながら、おれの前に歩み寄ってきた。なんか、気味が悪かった。



「君も、嫌魔にとりつかれたんだね」

男がやさしく話しかけてきた。

「やま?」

おれが首をかしげると、女が答えた。

「あなたの体を包んでいる、それのことよ。それは嫌魔といってね、妖怪なの。それにとりつかれた人間は、すべてのひとに嫌われる」



はじめて膜の名前を知ったおれは、あらためて自分を包む膜、いや、嫌魔をじっと見た。




「自己紹介が遅れたね。わたしはガジの会の中崎という。彼女は田村だ」

そう言って、男はおれに名刺を手渡した。

「ガジの会って、何すかそれ?」

名刺を見ながら、いぶかしげに聞くと、田村が答えた。

「嫌魔にとりつかれた被害者の会、といったところかしら。とりつかれた者同士で集まって、語り合い、苦労をわかちあうの。嫌魔にとりつかれた人間にとって、もっともつらいのは、孤独。そうでしょう?でも、とりつかれた者同士なら、なぜか嫌悪感を感じることはない。だから、とりつかれた者同士で集まって、嫌魔への対策を話しあったりしているの」

中崎がひきついで言った。

「ぼく達は、嫌魔にとりつかれたひと達を探しては、ガジの会への勧誘をしているんだ。どうだい、君もガジの会に入らないかい?悪い話じゃあないと思うけど」

おれは二人と名刺を見くらべてから、答えた。

「すいません。少しだけ考えさせてもらっていいすか」

中崎は笑みをくずさぬままうなずいた。

「いいとも、何かあったらいつでも、その名刺の住所をたずねてきてくれたまえ」



おれは二人と別れた。



ガジの会の話は、魅力的だなとは思った。しかしいい返事をしなかったのは、二人の挙動に不気味なものを感じたからだ。



あいつら、話している間、一度もまばたきをしなかったんだよ。



ささいなことといえば、ささいなことなんだけど、そのことが妙に気になったんだ。



別れ際に田村がこう言い残した。

「わたしにはわかるわ。あなたはきっとガジの会にくる。嫌魔にとりつかれた人間はけっしてふつうに生きることはできないのだから」



くやしいけど、そいつの言ったとおりになった。




三日後の、夜のことだ。



電気をつけたまま、自分の部屋のベッドでうたた寝をしていると、突然脳天に痛みを感じて目を覚ました。



何かが頭に強く衝突したようだ。



最初は、寝相が悪くて、壁にぶつかったのだろうと考えた。しかし、そっと頭に手をあててみると、ぬるりとした感触があった。



血が出ていたんだ。



おれはおどろいて飛び起きた。すると、ベッドのそばに、人が立っていることに気がついた。

「親父?」顔をあげてつぶやいた。「何してんだ?」



それには答えずに、親父はいきなり腕をふりあげた。その手には、金鎚がにぎられていた。



ものすごく嫌な考えが頭を駆けめぐった。すぐさまその考えを否定したかったが、金鎚の先に血がついているのを見てしまって、できなかった。



おい、冗談だろ?やめてくれよ。そりゃあ、おれは嫌魔のせいで親父を苦しい目にあわせてきたさ。そのことは、本当にすまないと思っているよ。でも、だからといって、親子でそれはないだろう。



必死でそう叫ぼうとしたが、動揺が大きすぎて、声に出すことができなかった。



親父は言った。

「電気のつけっぱなしはよくない」

金鎚がふりおろされた。





おれはそれをよけて立ち上がり、むちゃくちゃに叫びながら親父を突き倒した。



やせこけた親父の体は、あっさりと床に崩れ落ちた。



手に残る感触の軽さにがく然としながら、おれはそのとき初めて死にたいと思った。



そのあとすぐに、おれは家を飛びだした。そして中崎にもらった名刺に印刷されていた、ガジの会本部の住所へ向かった。



おかしくなりたいと思ったんだ。あのとき会った、中崎と田村には、どこか異常な気配を感じた。あいつらの所へ行けば、まともじゃなくなれそうだ。そうすれば、この苦しみから逃れられる。



そんな、自暴自棄なことを考えていたよ。


ガジ会の本部は、町外れの海沿いにあった。



白いコンクリートの、四角くて横長い建物だった。



まわりには、道路以外に何もない、静かな場所だった。闇の中、ゆっくりとした波の音が響いている。



建物の窓から、明かりがもれていた。深夜だというのに、中にひとがいるようだ。



おれは入口の引き戸の前に立った。ためらいをおさえながら、声をあげる。

「すいません」



・・・・・・・・・・・・。



少し待ったが、返事はなかった。



電気がついているだけで、誰もいないのかと思ったら、中の方から物音が聞こえた。



やはりひとがいる。



おれはもう一度、すいませんと声をかけた。しかし、まだ反応はない。



少しいらついたおれは、引き戸を開け、入りますよ、と言って中に足を踏み入れた。冷静でいられなかったもんでね。



玄関には、たくさんの靴がならんでいた。ガジの会のひとのものだろうか?



おれは靴を脱ぎ、廊下にあがった。



すると、奥の方から、ひとりの男があらわれた。



あの日、おれを勧誘した男。



中崎だった。




中崎は、おれを見ると、困ったような顔で、

「ああ、君か」

とつぶやいた。



おれも中崎を見て、困った顔をした。いや、正確には、どんな表情を浮かべればいいのかわからなくなって、ほぼ無表情になっていた。



中崎の全身は血まみれだった。スーツに、ズボンに、乾きかけた赤茶色の血が、こびりついていた。



沈黙があった。



それからしばらくの間、互いに、いや、ええと、とつぶやき、言葉を探しながら見つめあった。



「何、それ?」

やっと、おれの方からそう聞けた。



中崎は眉間にしわをよせながら、頭の中を整理するように天井を見つめた。それから言った。

「すごいタイミングで来たな君は。まあ、いいけどさ。とりあえず、説明をするからついてきなよ」



中崎は背を向けると、奥へむかって歩きだした。おれは迷ったが、すぐに自分には行くところがないことを思い出し、奴についていった。



中崎はおれを、畳の敷きつめられた広間に案内した。



なんとなく予感はあったが、その広間の光景を目の前にして、頭の中が、重くしびれた。



おそらくガジの会の人間であろう、二十人くらいの人間が、畳の上にたおれていた。



誰もが、おれと同じ嫌魔に包まれていた。



老若男女、いろんなひとがいた。



みんな、死んでいた。




畳の上には、便器にこびりついた糞のように、すさまじく汚らしい血溜まりが広がっていた。



死に方は、ひとりひとりちがっているようだった。



全身にあざがある者。



首にしめられたあとがあり、目を剥いている者。



喉に釘が刺さっている者。



肩から胸にかけて、長い切り傷が残っている者。



一目で確認できたのは、それだけだ。あとはよくわからない。急激な吐き気がこみあげて、口をおさえて下を向いていたからな。



さっきおれを殺そうとした親父の表情と、目の前に転がる死体達の表情が、頭の中で複雑にまざりあい、脳が熱くなった。



中崎は苦笑した。

「君も仲間になりにきたんだろ?でも、おそいよ。みんな死んでしまった」

「・・・・・・いったい、何が?」

おれはなんとか口をひらいた。舌の根が緊張で渇いていた。

「何が起きたんだと思う?」

ぼんやりとした口調で聞き返された。

「わかるわけないだろう、こんなの」そこで少しえずいたあと、中崎を見た。「まさかこれ、あんたがやったのか?」

「んん、やったといえば、やったのかな。この中の何人かは、ぼくが殺したからね」

おれは、一歩あとずさった。

「・・・・・・どういうことだ?」

中崎は、死体の方を向いた。

「彼等は神様のもとへ旅立ったんだ」




中崎はポケットから赤い錠剤を取りだし、おれに見せた。

「これ、なんだと思う?」

「知らねえよ。何だよ、いきなり?」

「ガジっていうんだ、これ。この薬を飲むと、とても幸せな気分になれるんだ。時々幻覚を見るけど、甘くて、あたたかくて、やさしい気持ちになれる」

うっとりと語る。

「・・・・・・それって覚醒剤か?」

そう言うと、中崎は傷ついた表情になった。

「その呼び方は好きじゃない。私達は、この薬に救われてきたんだ。このガジを服用することで、至福の時間を過ごし、嫌魔にとりつかれることで味わってきた苦しみや悲しみをを忘れる。それが、このガジの会の主な活動内容だったのさ」

「・・・・・・・・・・・・」



ガジの会に対する、おれの不安は当たっていたようだった。



中崎は語った。



「今日の夜も、私達はガジを服用して、至福の時間を過ごしていた。すると、私達は神様を見た。ああ、いま思いかえせば、あれは集団幻覚だったのだろうが。私達は部屋の中心に、光輝く美しい神様を見たんだ。神様はこう言った。『嫌魔に包まれ、この世の苦しみを他のひとよりも多めに受け止めてきたあなた達は、神に選ばれし存在です。あなた達の魂を、極楽浄土へ連れていってあげましょう。だからいますぐみんなで、互いの命を奪いあいなさい』。ははは、ふりかえったら、すごく馬鹿げたことを言われていたんだな。わたし達はその言葉を素直に信じて、殺し合いを始めた。恐怖はなかった。極楽浄土への期待で胸を踊らせながら、みんなで楽しく殺し合った。ひとり死んで、またひとり死んで、それを繰り返して、最後に山崎さんという五十代のおじさんとわたし二人が残った。わたしは大理石の灰皿で山崎さんを殴り殺した。山崎さんは笑いながら、目から血を流して死んだ。数分後、君がやってきて、いまにいたる。まあ、そういうわけさ」

「そういうわけさ、じゃねえよ」おれは叫んだ。「何なんだよ、おまえら。まともじゃねえよ。そんな怪しい薬にはまって、それで、殺し合いだなんて」

「ああ、まともじゃないよ」中崎はおれをにらみつけた。「嫌魔にとりつかれた人間が、まともなやり方で幸せになれるわけがないだろう」



その時、中崎はふらりとよろめいて、その場に尻餅をついた。




「どうした?」

おれが駆けよると、中崎はため息をついてつぶやいた。

「だいぶ、血が抜けてきたみたいだ」

「血?」

中崎は無言で右腕をさしだした。



それを見て、おれは、ああ、とつぶやいた。



だが、何も感じなかった。驚き疲れて、感情が麻痺してしまっているのか。それとも、なんとなくこういうことを予感していたのか。



中崎の右手首には、ガラスの破片が刺さっていた。傷口から、どぷどぷと血が流れている。中崎の全身が血まみれだったので、めだたなくて気がつかなかった。



「あんた、それ・・・・・・」

「わたしだけが生きているってわけにはいかないだろう?君が来るちょっと前に、自分で刺したんだ。もうけっこう血が流れたんだけど、まだ死なないね。人間って思ったより丈夫なんだね」



そのあと、おれと中崎は何も話さずに過ごした。



中崎は、仲間の死体にむかって、手をあわせてじっとしていた。



いまは何を考えても、絶望的な気持ちになりそうだったので、おれはできるだけ頭の中を真っ白にして、窓から海をながめつづけていた。



「あ、そろそろ死ぬかな」

そうささやいて、中崎は寝転がった。顔が青い。相当血がぬけているようだ。



おれは黙って見つめていた。どんな態度をとればいいのか、わからなかった。



「あのさ」最後の力をふりしぼるようにして、中崎は言った。「さっきはあんなことを言ったけどさ、実は本当に神がやってきたんじゃないかと思っているんだ。きっと、仲間の魂は今頃、極楽浄土にたどりついているんだよ。だから、わたしも死んだら、極楽浄土へ行けるはずなんだ。だってみんな、何も悪いことはしていない。正しく生きてきた者ばかりなんだから」

おれに話すというよりは、自分に言い聞かせているような、そんな口調だった。



おれは、嫌魔が魂を吸うことを思い出して、やりきれない気分になった。



中崎はとつぜんひざに顔をうずめた。

「ああ、やっぱり死ぬのは怖い」

そのままの体勢で怖い怖いとくりかえしながら、中崎は息をひきとった。



おれはあらためて周囲を見わたした。死体だらけだ。こいつらの死に様は、あまりにもむなしすぎる。




そのとき、死体を包んでいた三十以上の嫌魔が、ひとつ、またひとつと小刻みに震えだした。缶藤美代子のときと同じだ。そして嫌魔は、極楽浄土を願った者達の魂をゆっくりとすすっていった。中崎の魂も、当然すすられていた。



「おまえら、何なんだよ?」

おれは嫌魔にむかって怒鳴った。

「なんでおまえらみたいなものが存在してるんだよ?」

返事がないとはわかっていたが、叫ばずにはいられなかった。いろんな負の感情が入り混じって、頭が破裂しそうだった。





すると、またもや、異変が起きた。




いいか?



いまからおれが話すことは、この異変だらけの話の中でも、もっとも馬鹿げた出来事なんだ。



しかも、だいぶ前にテレビで報道された、とある事件とも関係がある。





死体を包んでいた嫌魔のひとつひとつが、死体からはがれたんだ。



その三十以上の数の嫌魔は、宙を少しの間、ただよった。そのあと、一瞬ぴたりと止まると、いっせいにおれの方に向かって飛んできた。



そしてその全てが、おれを包んでいた嫌魔と次々に重なっていって、ひとつになった。



三十以上の嫌魔が、おれの嫌魔と融合しやがったんだ。



嫌魔の膜の層がぶ厚くなり、表面に繊毛がたくさん生えてきた。ぶつぶつした細かいイボが浮きでてきて、前以上に醜悪な形に変わってゆく。



おれはものすごく不安になって、それをはぎとろうとしたが、やはり触ることはできなかった。



異変はまだ終わらなかった。いや、それから始まったというべきか。



外の方から、ざわついた気配を感じていたんだ。何だろうと思って、おれは窓から外を見た。



そして、ぶったまげた。



朝が近づき、空はうっすらと青くなりはじめといた。



その空を、小動物の群れが飛んでていた。



ばかみたいにたくさんの数の鳥や虫が空を埋めつくし、縦横無尽に飛びまわっていた。



けたたましい鳴き声や、羽音が、窓ガラスを割りそうなくらいにやかましい。



数分もしないうちに、その鳥や虫たちは山の方へ飛び去っていった。



何が起きたのかわからずに、ぼうぜんとしていると、今度は町の方角から騒ぎ声がかすかに聞こえてきた。大勢のひとの悲鳴や怒号、泣き声やわけのわからない絶叫、それにまじって車の急ブレーキ音、衝突音。人気のないこの辺りにまで届いてくる。



何か災害でも起きたのかと思って、おれは建物の外に出た。



町の方角にもう一度目をこらしたが、とくに変わった様子はなかった。地震ではないし、火事で燃えている感じでもない。やがて騒ぎ声は、ゆっくりと遠ざかっていった。



朝日がのぼり、空が明るくなった。



このままここにいてもしょうがないと考えて、おれは町へ向かうことにした。とりあえず、さっきの騒ぎの原因を確かめてみようと思ったんだ。ガジの会の建物にむかって手をあわせておがんでから、おれは歩きだした。



さっきまで血生臭い部屋にこもっていたので、朝の空気がいつも以上に清々しく感じられた。



町の中には、誰もいなかった。



どの民家も、玄関のドアや窓が開けっ放しになっている。人の気配は全くない。どこかの信号機から、音の割れた「とうりゃんせ」が聞こえてくる。住民はみんなどこかに避難したのだろうか?しかし何のために?それがわからない。見たところ、どの建物も破損はなく、何か災害が起きたような形跡は見当たらない。



朝だというのに、雀や鴉の鳴き声がまったく聞こえないのも妙だった。あのたくさんの鳥や虫達といっしょに、みんな遠くへ飛んでいったのだろうか。なぜ?



次々とわいてくる疑問にいらつきながら、おれは商店街に足を踏み入れた。



そこにある小さな電気屋の店頭に、電源を入れたテレビが置かれていた。何の気もなしにそれを見ると、画面に見覚えのある町並みが映っていた。



それはおれが今いるこの町を、ヘリコプターで上空から撮影したものだった。



おどろいてテレビの前に駆けよると、画面が変わって、今度は町の外れにある病院が映った。大勢の人間が、その病院の入口に群がっていた。



どうやら、この町の異変について報道されているようだった。マイクを持ったレポーターの言葉を、おれは耳を近づけて聞きとった。



レポーターの話を要約すると、こうだ。



昨晩の深夜四時頃、この町の住人はみんな、突然家を飛び出して、町から避難したという。住人達が言うには、急に気分が悪くなり、なぜか町の中にいるのが、すごく嫌になったのだそうだ。町を出ると、気分の悪さはおさまったが、なぜか町に戻ろうとは思えない。念のために、いま住人のひとりひとりが、病院で検査を受けている最中である。



と、まあ、そういった感じのことを、レポーターは釈然としない顔つきで語っていた。



おれはすぐにわかったよ。



こいつは、嫌魔のせいだってね。



ガジの会の建物で、おれの嫌魔は三十以上の他の嫌魔と融合しやがった。そしたら、嫌悪感が届く範囲も、三十倍以上になったってわけさ。鳥や虫が飛んでいったのも、きっとそのせいだろう。



さっき言ったテレビで報道された事件ってのは、このことさ。あれ、おれが原因だったんだよ。



おれは、テレビの前で力無く笑った。



なんかもう、笑うしかなかった。







その後、おれは無人の町で適当に生活をした。知らない誰かの家に住みつき、一日中そこで過ごした。腹が減ったときには、近くのスーパーマーケットに置いてある食べ物を盗んで食った。退屈なときには、玩具屋からゲームを盗んでやった。



町から出ようとは思わなかった。



おれが動いたら、嫌魔の嫌悪感の範囲も動いて、また大騒ぎにねるんだろうし、何より面倒くさかった。



町に電気は流れつづけていた。テレビのニュースによると、この町にまだ人が残っている可能性があるので、しばらくは電気や水道は止めないようにしよう市政が判断したらしい。ありがたい話だった。



まわりが無人になったから、嫌われてつらい思いをすることがなくなった。ひさしぶりに、心の休まる暮らしができようになった。



テレビのニュースで、政府の調査団が、耐菌スーツを着てこの町へ入ろうとするところが放映された。何か新種の伝染病が発生したのではないかと疑ったそうだ。彼らは一歩も町に入ることができなかった。当たり前だ。耐菌スーツで嫌悪感を防げるわけがない。この町は、立入り禁止区域となった。避難した住人たちは、政府が用意した非常用の簡易住居で暮らすことになった。





さて、この話も、もうすぐ終わりに近づいてきた。



悪かったな。こんな暗い話につきあわせてしまって。





もうすぐ、終わるから。





最後まで聞いてくれよな。




町が無人になってから、一ヶ月くらいが過ぎた頃のことだ。



昼間、おれが食べ物を盗みに商店街へ行くと、一軒の小さな駄菓子屋の中から、物音が聞こえてきた。



おれはおどろいて立ち止まった。



おかしい。この町にはひとはいないはずだ。犬や猫なんかもいなくなっているはずしかし確かに、何かが動いている気配がある。おれは息を呑みながら、駄菓子屋の中をのぞいてみた。



ひとりの少女が、レジの横に置かれてあるスナック菓子の袋をあさっていた。パジャマを着た、十三歳くらいの少女だった。おれが近づくと、少女はふりむき、少しの間、じっとこっちを見つめてから、ゆっくりと頭をさげた。

「こんちは」

はっきりとしない発音で、少女は言った。

「え?ああ、こんにちは」

つられて、おれも頭をさげた。

「お兄ちゃん、逃げ遅れたあですか?」

少女はこちらを直視したまま聞いた。なんだか、しゃべるのがおそい。

「逃げ遅れたって?」

「テレビで言ってたあです。この町、危ないバイキンいっぱいて。だからこの町のひとは、みんな逃げたて」

少女はおれに対して、嫌悪を感じていないようだった。

どうなってるんだと思いながら、おれは聞いた。

「君は逃げないのか?」

「はい」

「どうして?」

「この町にはあ、お母さんのお墓があるです。テレビでは、この町、立入禁止になったって言ってたあです。一度この町から出ると戻れなくなりそう。そしたら、お母さんのお墓参りに行けなくなるので、それはお母さんがかわいそうなので、わたしはこの町にいることにしたあのです」

ぼそぼそとしたしゃべり方で、少女はそう語った。



なんとなく、わかった。この娘、たぶん脳に障害があるのだ。





「そうなんだ。なんか、えらいね」

「おお兄ちゃんこそ、なんでえ、ここいるですか?」

「え、おれ?」あわてて考える。「その、おれ、この町がこうなったとき、家出している途中だったんだ。いま、この町を出たら、きっと救助隊とかに助けられて、検査を受けて、そのあとたぶん家族のもとに連絡されるだろう。それが嫌だったから、この町にとどまることにしたんだ。」



まあ、一部は嘘じゃない。



「お兄ちゃん、逃げていったあひと達みたいに、気分が悪くはないですか?」

「いや、何ともないよ」

「わたしもです。何ともないです。不思議です」



少女はポテトチップスの袋を開けて、中味を少し食べると、もじもじと恥ずかしそうに言った。

「お兄ちゃん、あの、よかったら、わたしといっしょに暮らしてくれないですか?」



いきなりでびびった。



おれは目を丸くして、無言で少女を見下ろした。



少女はつづけた。

「この町こうなってから、わたしずっとひとりでえ、生活してたです。でもわたしまだ小さいから、わからないことがいっぱいです。だからあ、いま、お兄ちゃんに会えて、すごくほっとしているです。お願いです。わたしといっしょに暮らしてくださいです」



手を、握られた。



おれは迷い、考えて、答えた。

「いいけど」念のために、聞いた。「おまえ、その、いま気分悪くないの?」

少女は首をかしげた。

「はい」

「そうか」



いったいどうなっているのだろう。なぜこの娘は、嫌魔の影響を受けないのか。



そのあと、少女は自己紹介をした。



「わたしの名前はあ、倉島利美です」





その日から、利美の家で寝泊まりをすることになった。



利美の家は、新築のマンションだった。部屋が広い。かなりの金持ちだったらしい。



カレーのCMなんかで見るような、システムキッチンのある台所。寝室には、ダブルベッド。でかいテレビのあるリビングルーム。あちこちに、おそらく利美がちらかしたであろう、オモチャやお菓子の食べかすが散乱していた。おれはまず、それを掃除することから始めた。



まあ、そういうわけで、おれは利美と共に生活をすることにした。



利美は、初対面のおれにまっすぐになついてきてくれた。



でも、おれはそれに対して、あえて無愛想にふるまっていた。話しかけられても、必要な会話以外の雑談では無視をした。家の中でも、なるべく顔をあわせないように避けて行動した。



不安だったんだよ。



嫌魔に包まれているおれと話していても、利美はなんともない。この状態は、何らかの奇跡か偶然で、何かの拍子で利美も、おれのことが嫌いになるんじゃないか。そんな不安があった。



もし仲良くしたら、その分だけ、嫌われたときの失望が大きくなっちまう。だから、好きにならないように、気をつけようとした。



でも、無理だった。



いままでずっと、ひとに嫌われてきたから、理由もなく憎まれつづけてきたから、利美になつかれたことが、うれしくてしょうがなかった。表面上は冷たい態度をとっていたけど、胸の中では、あいつに対する好意が勢いよくふくらんでいった。おれが風呂に入っているときに、脱衣場にバスタオルを置いてくれたりとか、それだけで、感動して泣きそうになっちまうんだ。



利美は、おれが無視をするたびに、悲しそうにうつむいていた。




利美と暮らしはじめてから、十日たった頃のことだ。



その日の朝、おれと利美は、食料を調達しにスーパーマーケットへ向かって歩いていた。



すると、途中で利美が、道脇のドブにあやまって落ちてしまった。ドブ水がはねて、利美のスカートが黒く汚れた。



おれは駆けよって手をさしだした。

「怪我はないか?」

「んん、大丈夫です」

利美はおれの手をつかんでドブから出た。ドブ水の、ゴミと苔のまじった、濃い悪臭が、汚れたスカートからただよってくる。

おれは言った。

「いったん帰って、着替えるか」

「なんで?別にいいです。このままスーパーに行くです」

「そんな、汚れっぱなしじゃあ、嫌だろう」



すると利美は、不思議そうな顔になって、妙なことを聞いた。

「スカートが汚れるって、嫌なことなのですか?」

「はあ?何言ってんだ?」

「わたしには、わからないんです」利美は、スカートの汚れた部分をつまんで言った。「嫌なことというのが、わたしには理解できないんです。前に、お医者さんに言われたあです。わたしの脳には、嫌だと感じる部分に、障害があるです。だからわたし、嫌っていうのが、どういうものなのか、知らあないです」



おれは目を丸くして黙りこんだ。



おどろいたよ。そういうことがあるのかって。



でも、謎が解けた。



利美は、嫌悪というものを、感じることができない。だから、嫌魔に包まれたおれの近くにいても平気だったんだ。



嫌魔のせいで、利美に嫌われることはない。



少し考えてから、喜びがゆっくりと激しくわきあがってきた。



思わずおれは、利美の体を強く抱きしめて泣いていた。



やわらかかった。すごくあったかかった。



「どうしたです?お兄ちゃん、どうしたです?」



腕の中で、利美は顔を赤くしながらあわてていた。




それからの日々は幸せだった。



利美といっしょに普通に暮らした。その普通が、おれにとってはたまらなく幸せだった。



もう無愛想な態度をとる必要はない。素直な気持ちのままで、接することができる。利美は、突然やさしくなったおれにとまどいながらも、うれしそうな笑顔を見せてくれた。



利美は、おれのことを泣き虫さんと呼んで何度もからかった。



いや、な。利美がちょっとやさしいことをしてくれただけで、つい涙が出てしまうんだよ。



たとえば、メシを食っているときに、おれが箸を落とすだろ?すると、利美が、それを拾って、渡してくれる。



それだけで、泣いてしまうんだ。



なんか、胸が熱くなって、たまらなくなってしまうんだよ。



笑うなよ。仕方ねえだろ。



嫌魔のせいで、十年以上、優しさとは無縁な生活をしてきたんだからな。



はっきりいって、このまま利美と結婚してもいいと思った。おれは、利美のことが好きになっていた。





しかし嫌魔は、そんなおれの幸せを許してはくれなかった。




夏の終わりが近づいてきた頃の夜。



利美が夕食にグラタンを作ってくれた。

「前に、調理実習で作ったことがあるです」



ここでの食事は、基本的に缶詰めや保存食ばかりだったので、久しぶりに手料理が食べられるのはうれしかった。



利美がお茶をいれている間に、おれは食器の用意をした。湯呑みとスプーンをテーブルの上に置こうとしたときだ。



急に、嫌魔が小刻みに震えだした。



おれは湯呑みとスプーンを床に落としてしまった。やかましい音が響き、利美がおどろいてふりかえる。

「お兄ちゃん、どうしたです?」



おれは返事をしなかった。何か異変が起きることを察して、顔を青くしながら警戒した。





そして、最後の異変が起きた。







嫌魔が、おれの体から、はなれたんだ。






目を見開くおれの前で、嫌魔はゆっくりと移動し、利美の全身を包んだ。



突然凄まじいストレスに襲われて、おれはうずくまった。頭が激しく痛み出し、全身に鳥肌がたつ。ぜんそくになったかのように、呼吸がうまくできなくなる。



「お兄ちゃん?お兄ちゃん?」

心配そうに、利美が駆け寄ってきた。



その瞬間、鼻血がふきだしてきた。嫌魔の発する、町からひとがいなくなるほどの嫌悪感を、至近距離でもろに浴びてしまったんだ。



気がつくと、おれは裸足のまま家から飛びだしていた。理性が働かない。肉体がひとりでに、利美から逃れようとする。



それからのことは、あまりよく覚えていない。



とにかくひたすら走りつづけていた。息が切れ、小石で足の裏を切っても、休まずに走りつづけていた。




やがて町から出たところで、おれはやっと我にかえった。



利美を置いていってしまったことを思い出し、あわててもどろうとしたが、体が動いてくれなかった。



町の方を向いただけで、立っていられなくなるくらいの吐き気がこみあげてくるんだ。初めて味わった嫌魔の力は、想像以上に強烈だった。





きっと嫌魔は、おれが絶望し、自殺しそうにないから、狙いを利美に変えたんだ。そして利美を孤独にして、おれに捨てられたという絶望感をあたえて・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちくしょう。













<十六歳>




その後、おれは警察に保護されて、親元に帰された。



両親は、帰ってきたおれを暖かく迎えてくれた。もう、嫌魔のせいで嫌われることはなかった。両親は、いままでのおれに対しての仕打ちを深くあやまってくれた。



親父とは、あの夜のことは話さなかった。おふくろのためにも、あの時のことは互いに無かったことにしようという、暗黙の了解ができていた。





こうして、嫌魔から解放されたおれは、あっさりと平凡な日常にもどることができた。



そして、普通の高校生として、いま友達のおまえと話をしている。



こんな話、信じられないか?



まあ、信じてもらえなくてもいいさ。



嫌魔から解放されて、初めてできた友達がおまえだったからな。嘘だと思われてもいいから、聞いてほしかったんだ。




あの後からずっとな、おれはあの町の周辺に毎日通ってるんだ。



何でかって?



利美を助けるために決まってるだろう。



あの町に近づいて、嫌魔の嫌悪感に耐えながら、町に入ろうとしてるんだ。歯を食いしばって、全身に力をこめて、町を囲む金網を乗り越えて、全速力で走って町に突入してるんだ。勢いでなんとかならないかと思ってね。



でも、全然だめだ。



すぐにゲロ吐いて気絶してしまう。



それで目覚めたら、また体が勝手に動いて、町から逃げ出してしまう。



毎日、それをくりかえした。



もう、ぼろぼろよ。凄まじく嫌なものに、毎日触れに行くわけだからな。何度も何度も腹に激痛が走って悲鳴をあげた。転げまわった。おかげでほら、おれってすげえやせてるだろ?顔も結構青白くなってるんじゃないかと思う。この年で、髪もほとんど白くなってるしな。



でも、あきらめねえ。




少しずつなんだけどな、嫌魔の嫌悪感に、体が慣れてきている気がするんだ。



嫌魔は確かにとんでもねえ化け物だ。でも、完全じゃないと思う。完全だったとしても、もがいてやる。あらがってやる。あんな胸くそ悪いものに、なめられてたまるか。おれは中崎とはちがうんだ。



おれがあの町から逃げ出してから、もうだいぶたつ。



でも、町の中にただよう嫌悪感は、まだ消えていない。



それは、まだ利美が生きている証拠だ。



嫌魔は利美からはなれていない。利美の魂をすすってはいない。



利美はあの町でひとりで暮らしながら、きっとおれが帰ってくるのを待ってくれているんだ。



もう少し、もう少しなんだ。



おれはあの町の中に入れるようになってやる。そしてもう一度、利美を強く抱きしめてやるんだ。



絶対にな。





















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