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想像女

<壱>



雅彦を作ろうと思った。



わたしの特殊な想像力を使って、死んでしまった彼をよみがえらせるのだ。



夕日が射す通夜の会場で、月田羅利子は涙をふきながら、そう決心した。



棺桶の前では、血縁者達が整列し、ひとりずつ焼香をあげていた。羅利子をふくむ雅彦の同級生達も、制服姿でその列にならんでいる。



鹿村雅彦は、十七歳で死んだ。交通事故だった。



クラスで人気者だった生徒の死に、誰もが表情を暗くしていた。低い嗚咽が何度も聞こえてくる中で、遺影に写る雅彦の日焼けした顔だけが、まぶしい笑みを浮かべている。



焼香を終えると、羅利子はその遺影を見上げた。



雅彦君。ちょっと変わった形で、もうすぐ会えるからね。



心の中でつぶやき、小さく笑う。



すると突然、誰かに頬をたたかれた。



乾いた音が響きわたり、まわりにざわめきが走る。



頬をおさえて顔をあげると、目の前にひとりの女子生徒が立っていた。体を震わせながら、こちらをにらんでいる。



「あなた、いま笑ったでしょう?」



その女子生徒は、かすれた声で叫んだ。その顔はひどくやつれており、目の下には、涙の跡がくっきりと残っている。



羅利子は無表情で見つめ返した。



「このブス。雅彦が、雅彦が死んじゃったっていうのに、何がおかしいのよ?」



どうやらさっき小さく笑ったことが、彼女の気にさわったらしい。だからといって、手を出すことはないだろうと思ったが、口には出さなかった。



あまりこの女子生徒とは、話をしたくなかったからだ。



その女子生徒、木川奈津は、雅彦の恋人だった。



雅彦が生きていた頃は、この女が彼の体に触れるたびに、嫉妬に狂い、何度も殺してやりたいと思ったものだった。しかし、いまはもう、そんな気持ちは消えていた。たたかれたことに対する怒りも、まったくない。



なぜなら、自分とちがって、木川奈津はもう二度と、雅彦に会うことはできないのだから。



そのことを考えると、体中が優越感で満ちてくる。いままでの彼女に対する恨みなど、全然気にならなくなってくる。



「何とか言いなさいよ」



木川が、また腕をふりあげた。男子生徒達が間に入って、それを止めてくれた。


「離して、離してよ。あいつを殴らせて」



男子生徒達に引きずられながら、木川奈津は会場の外へ連れて行かれた。



羅利子は、無言でそれを見送った。





<弐>



月田羅利子は、小さい頃から友達がいなかった。



性格が悪かったからだ。



ひとの欠点ばかりを見つけては、いちいちそれを指摘するので、誰からも嫌われてばかりいた。自己中心的で、相手の気持ちがわからない少女であった。



だから、幼い頃から、いつもひとりで遊んでいた。



家が貧しかったから、オモチャもあまり買ってもらえず。いつも、いろいろと空想をすることで遊んでいた。



おいしいお菓子やケーキを想像し、想像の中でそれを食べ、味や食感、喉の通りや、胃袋に落ちる感触までも細かく想像して楽しんだ。



ぬいぐるみを想像し、それを抱きしめ、あやしているふりをして遊んだ。そのときも、ぬいぐるみの生地の手触り、重さ、ボタンでできた目のプラスチックの固さや、縫い目のざらざらした感触も細かく想像して楽しんだ。



そんな遊びを、小学生になるまで続け、いろいろと細かく想像していくうちに、羅利子は特殊な能力を身につけた。



想像することによって、自由な幻覚を見られるようになったのである。



たとえば、羅利子がパンを想像したとする。



見た目、匂い、手触り、やわらかさ、くわえたときの歯触り、咀嚼したときの食感などを、細かく時間をかけて想像する。



すると、羅利子の目の前に、そのパンがあらわれる。



そのパンは、幻覚である。他のひとには、当然目に見えない。



しかし、そのパンは、幻覚なのに、手触りがある。焼きたての匂いもするし、噛むと歯触りもある。甘い味もある。



羅利子は、視覚だけではなく、触覚、聴覚、嗅覚、味覚、身体の五感の全てでその幻覚を感じているのだ。



つまり羅利子は、想像することによって、限りなく本物に近い、リアルな幻覚を自由に見られるようになっていたのである。



羅利子はこの特殊な想像力で、欲しいものをいろいろと想像して、その幻覚を楽しんできた。



ブランドもののバッグ。高級な指輪。美味しい料理。甘いスイーツ。




しかし、今日、そんなものとは比べものにならないくらい、すごく欲しいものができた。





そう、鹿村雅彦である。




<参>



通夜が終わり、夜、家に帰った羅利子は、すぐに自分の部屋に閉じこもった。



押し入れの中から、写真をたくさん入れた段ボオル箱を取り出して、部屋中に中身をばらまく。



何十枚もの写真が、ひらひらと畳の上に落ちる。



その写真には、様々な表情の雅彦が写っていた。いままでに、こっそりと撮りためていたものだ。



いつもなら、一枚ずつ眺めては胸をうずかせていたのだが、今日はそんなことをしている暇はない。



ばらまいた写真の中心あたりに座り、気を落ち着かせる。



羅利子は、自分の想像力を使って、雅彦の幻覚を作りだそうとしていた。



はっきりいって、自信はなかった。パンや洋服といった物は、何度もくりかえし想像してきたので、ほぼ完璧なものを作りだせるようになっていた。だが、生きているものを、しかも人間を想像するということは、まだ一度もやってみたことがない。



動き、話し、考える、ちゃんとした雅彦を作らないといけない。でも、そんな神様みたいなことが、私なんかにできりのだろうか?



いや、必ず作りだしてみせる。私だけを愛してくれる、私だけの雅彦を。そうしないと、私の悲しみは癒されない。



羅利子は不安を振り払い、想像を開始した。



まず最初に、雅彦と初めて出会った日のことを思い出す。




雅彦とはじめて出会ったのは、高等学校の二年生に進級したばかりの頃だった。



新学期の朝、羅利子は教室の後のほうの席でぼんやりとしていた。新しい同級生の顔をひとりひとり眺めては、どいつもこいつも頭が悪そうなやつばかりだと思っていた。ため息をついて、鞄から本を取り出したとき、隣の席の男子生徒に声をかけられた。



「暇そうだね」



昔から男子と話すことに慣れていない羅利子は、とまどいながらも小さくうなずいた。



「おれも、暇なんだ。仲の良かったやつとは、みんな別々のクラスになってしまってね。話し相手がいないんだよ。ああ、おれは鹿村雅彦っていうんだ。よろしく」



気持ちのいいしゃべり方だった。羅利子は思わず笑顔を浮かべながら、こちらこそよろしく、とつぶやいていた。



そのあと二人で話をした。


雅彦は、とても会話が上手で、話し下手な羅利子の言葉を、じっくりと聞いてくれた。おかげで、内気な羅利子でも、気軽にしゃべることができた。



やがて親しくなり、その後も一緒によく行動するようになった。



好きになってしまったのは、すぐだった。



雅彦を見ると、頬が熱くなってしまう。軽く手が触れただけで、胸が激しく高鳴る。異性にそんな感情を持ったのは、初めてのことだったので、どうすればいいのかわからなかった。



毎日を、悶々として過ごした。



何度も告白することを考えてみたが、自分に自信がなくて、まったく言い出せなかった。





「恋人ができたんだ」



半年後、雅彦から明るくそう告げられた瞬間、体の中がからっぽになってしまったような気がした。そうなんだ、よかったね、と言って笑う自分に腹が立った。



それ以来、雅彦と話す機会はめっきりと少なくなった。恋人に夢中になる雅彦を、ただじっと眺めることしかできなくなった。何度もあきらめようとしたが、だめだった。心の揺れを、抑えることができなかった。



やがて、心の底に押し込めたその想いは、醜悪な嫉妬へと変わっていった。



羅利子は雅彦の恋人である木川奈津に、こっそりと嫌がらせを始めた。



靴箱に汚物をつめこんでやった。机に包丁で傷をつけてやった。体操服を引き裂いてやった。



顔を赤くして怒る雅彦のそばで、羅利子は木川に同情するふりをしてみせた。気分は少しも晴れなかった。むしろ前以上に、どす黒いものが満ちてきた。





数日後、雅彦にばれた。



朝早くに、木川の机の中に、魚の死骸を入れようとしたところを、見られてしまったのだ。



雅彦は、羅利子を殴るでもなく、さげすむでもなく、ただ悲しそうな表情をして見つめていた。それを見て、自分が雅彦に、友人として強く信頼されていたことに気づいた。



しかし、もう遅い。



雅彦に絶交を言い渡された。



二度と、口を聞いてもらえなくなった。



それでも、雅彦に対する想いは消えてくれなかった。むしろ、激しく拒絶されることによって、ますますいびつにふくらんでいった。







雅彦の写真を集めはじめたのは、それから一週間後のことだ。



友達や木川と遊んでいる雅彦の笑顔を、望遠レンズつきのカメラで、はなれたところから、何度も撮影した。もう彼は自分には笑いかけてくれないだろうから、こうして彼の笑顔の写真を集め、それを眺めながら、自分をなぐさめた。木川といっしょに写っているものは、木川の顔の部分だけを噛みちぎった。そしてそこに自分の顔がはまっているところを空想し、暗い喜びにふけった。





写真が段ボオル箱にいっぱいになった頃、雅彦は交通事故で死んだ。








<四>



畳の上にばらまいた写真を見下ろしながら、羅利子は目に涙が浮かびそうになるのをこらえた。



悲しみにおぼれて、気をゆるめてはいけない。



わたしは今、生きて動く雅彦という、難しい幻覚を作ろうとしているのだから。



わたしだけを、死ぬほど愛してくれる、わたしだけの雅彦を。




ふたたび想像に集中する。



まず、雅彦と同じ身長の骸骨を思い浮かべる。硬さ、艶、形などを細かく想像する。



すると、部屋の中央に、骸骨があらわれる。



幻覚だとわかっていたが、一瞬びくっとしてしまう。



今度はその骸骨に、内臓を当てはめてゆく。雅彦は、よく友達といっしょに、隠れて煙草を吸っていたから、肺は少し不健康だということにしておく。



骸骨の肋骨の内側に、想像したとおりの内臓が出現する。体液に濡れ、生々しく脈打つそれを見て、思わず吐き気を感じてしまう。



今度は脂肪や筋肉を想像し、それで骸骨をみっちりと包む。その上に、よく日焼けした皮膚をはり、体中に、髪から産毛まで、様々な体毛を植えてゆく。



さらに、脳や血管、人体を構成する全てのものを、想像し、取りつけて、完璧な雅彦の体を作り出す。




羅利子は、五時間ほどかけて、それを完成させた。



頭が痛い。大量の汗で、下着が肌にはりついている。



その場にうずくまった。こんなにも長時間、想像に集中したのは、初めてだ。



目の前の裸の雅彦は、まるで人形のように、目をつぶったまま動かなかった。



失敗してしまったのだろうか?やはりわたしの特殊な想像力でも、生きて動く幻覚などというものは、作れないのだろうか?



不安を感じて立ちあがり、雅彦の前まで歩み寄る。



彼の胸に、触れてみた。



心臓の鼓動が、手のひらに伝わってくる。



生きている。成功したんだわ。



喜びで、体が震えだした。



「雅彦」



そっと名前を呼ぶと、雅彦はまぶたを開き、死ぬ前と変わらない、太陽のような笑顔を浮かべて、明るい声をあげた。



「よう、ひさしぶり」



羅利子は、大声をあげて泣きだした。






<伍>



「綺麗な菊だね」



自分の席に飾られてある花を見つめながら、雅彦はつぶやいた。



午前の授業中。教壇では、初老の数学教師が黒板に数式を書いており、生徒たちは黙ってそれをノートに写している。教室に、チョークの音が響く。



誰も、教室を歩き回る雅彦の存在には気がつかない。



幻覚だから、当たり前なのだが、それでも羅利子は、不思議な気分になる。



木川奈津の席を見た。



葬式が終わってから、もう一週間以上たつのに、彼女はまだ欠席している。



まだ、雅彦の死を悲しんでいるのね。馬鹿な女。悲劇のヒロインにでもなった気でいるのかしら?そんなことで、死んでしまった雅彦が喜ぶと思っているの?



あざけるような笑みを浮かべて、幻覚の雅彦に目をもどす。



それにくらべて、新しい幸せを手に入れて、彼の死から立ち直った私は、なんて素晴らしいのだろう。


そのとき、側にやってきた雅彦が声をかけてきた。



「おい、あの窓際の席に座っているやつ、さっきからおまえのことをちらちら見ているぞ」

「え?」



目だけを動かして見ると、窓側の一番前の席に座っている男子生徒が、さりげなくふりむいたふりをしながらこちらを見ていた。



その生徒の名前は、沢野洋。クラスの中では、比較的おとなしい人間だ。



何か用かしら?



見つめ返すと、沢野はあわてた様子で前に向き直った。





一週間がたった。



羅利子は雅彦と、楽しい日々を過ごした。



海沿いや公園で、ゆったりと戯れあった。熱く抱き合い、くちづけをかわした。夢が叶って、羅利子は涙を流した。



人前で彼と会話をしていると、気がちがっていると思われるので、学校にいるときは、人気のない校舎裏で話をした。



雅彦は、羅利子にとって、最も心地よい言葉を何度も投げかけてくれた。それは、普通の恋愛ではなかなか得られない快感であった。



これが普通の男子ならば、付き合い続けてゆくうちに、ひとつ、またひとつと欠点が目についてしまうはずだ。下手したら、それが原因で別れてしまったりする。しかし、雅彦にはそれはない。もし欠点が見つかったとしても、想像によっていくらでも作り直せるのだ。



まさに、「理想」の恋人であった。



これは他の女子では味わえない。特殊な想像力を持つ私だけができる恋愛だ。



そう考えて、羅利子は他の女子達に対して、優越感を抱いた。



さらに月日がたった。



羅利子は、学校の中で、ますます孤立していった。



雅彦と話しているところを誰かに見られたようだった。ひとりでブツブツ何かと会話する、キモイ女という噂がたち、同級生から避けられるようになっていた。



だが、それはかえって羅利子にとって好都合であった。まわりに人が近寄らなくなれば、雅彦て話せる機会が増える。





その日も羅利子は、放課後の誰もいない教室で、雅彦と窓の外を眺めていた。



吹きこんでくる風が冷たい。校庭の木々はすっかり葉を落とし、幹と枝だけの姿になっている。



「もう、冬なんだね」

「ああ、君がおれを作ってくれてから、もう二ヶ月もたったんだな」

羅利子は、雅彦と腕を組んだ。固い筋肉の感触が、とても気持ちいい。



「まだ、帰ってなかったんだ」

突然、後ろから声をかけられた。



驚いて振り向くと、教室の入り口のあたりに、いつの間にか、沢野洋が立っていた。

「月田さんって、いつも放課後教室に残るよね」

沢野は落ち着いた笑みを浮かべながら歩みより、羅利子の前で止まった。

雅彦が、眉間にしわをよせて、なんだこいつ、とつぶやく。


「わたしに何か用?」

ぶっきらぼうに聞くと、沢野は、ええと、とつぶやいて、そのまま黙りこんだ。



そして、少し間を置いてから、口を開いた。

「月田さんって、休み時間とか昼休み、いつも校舎裏に行くよね。あそこで何をしているの?」

羅利子は目を丸くした。

「なんで私が校舎裏に行くことを知っているの?」

「いや、その」沢野は声を小さくした。「いつも遠くから見ていたんだ。月田さんのことを」



その言葉の意味することを察して、羅利子は息をのんだ。



沢野は真剣な顔にかり、しっかりと言った。



「前から、月田さんのことが好きだった。もし、よかったら、ぼくと付き合ってほしい」



羅利子は、顔を赤くして、雅彦を見た。そのまま互いに呆然と見つめあったあと、雅彦は不安そうに顔を歪めて言った。

「断るよな。当然断るよな。おれがいるんだから」

その必死な口調を聞いて、思わず情けないと思い、そんな自分に驚いた。雅彦に対して、負の感情を抱いたのは、これが初めてだ。



羅利子は沢野に向かって言った。

「私なんかと付き合ったら、あなたまでみんなに避けられるよ」

「そんなことは、全然かまわない」

沢野は即答した。

その強い口調に、羅利子の胸は高鳴った。そんな上手な告白ではないのに、今まで教室の風景の一部だとしか思っていなかった沢野が、なんだかとても輝いて見えた。



「なんでこんな奴と話をするんだよ。さっさと断ってしまえよ」

羅利子の心を読みとったかのように、雅彦はあわてた声をあげた。

それを無視して、羅利子は言った。

「一晩だけ考えさせて。明日、必ず返事をするから」




「どうして断らなかったんだ?」

夜、自分の部屋で机に突っ伏している羅利子にむかって、雅彦は声を荒げて聞いた。羅利子は、ちらりと雅彦を見ただけで、何も返事をしなかった。

「まさか、あいつと付き合うつもりなのか?」

声が震えている。



そんな雅彦のことは気にせずに、羅利子は沢野のことを考えていた。

好き、だなんて言われたのは、生まれて初めてだ。

さっきからずっと、気分が高揚している。熱いため息が、何度も口からもれる。



それにくらべて、雅彦への想いは冷めてしまっていた。以前のような激しい感情が、完全になくなっている。たった一言の告白が、自分の心をここまで変えてしまったことに、羅利子は驚きを感じていた。



「おい、何か言えよ」

雅彦は、まだわめいている。昨日まで、たくましく感じていたその低い声が、いまではただの雑音にしか聞こえない。



一晩だけ考えさせてと言ってみたが、その必要はないようだ。






翌日から、羅利子は沢野と付き合いはじめた。その日、授業時間以外はほとんど沢野といっしょにいた。



そんな二人を、雅彦は心臓をえぐられたかのような目で見つめていた。






<六>


一ヶ月が過ぎた。



沢野との交際はうまくいっていた。お互い、クラスでは目立たない、おとなしい人間だったので、いろんな点で気があった。



二人がいっしょにいる間、雅彦は暗い目つきをして、羅利子にむかって大声で文句を言いつづけた。羅利子は必死でそれを無視したが、気になって沢野との交際を心から楽しむことができなかった。



数日前に、沢野と初めてのくちづけを交わしたときも、雅彦は羅利子の耳元に顔を近づけて、

「やめてくれ。やめてくれよ」

と泣きながらうめいていた。

そんな状況でも、羅利子は沢野のために、うれしそうな表情を浮かべなければならなかった。



このうっとうしい幻覚を消すことはできないかと思い、何度か雅彦が消える光景を想像してみたが、だめだった。あの日、あまりにも長時間集中して想像したために、雅彦の幻覚は、頭の中にこびりついてしまっているらしい。



その日の夜も、雅彦は、布団に寝転ぶ羅利子にむかって懇願していた。

「なあ、頼む。お願いだから、あの沢野とかいう奴と別れてくれ。そして、おれの恋人にもどってくれよ。おれにはおまえしかいないんだ」

「うるさいわね」

寝返りをうって、背を向ける。



すると、雅彦は立ち上がって、荒々しく怒鳴った。

「いい加減にしろ。あんたはおれを作ったんだろ。だったら、あんたはおれを幸せにしなきゃいけないはずだ。造物主の責任ってものを考えろ」



羅利子は何も言わなかった。



雅彦はふるえる声でつづけた。

「あんた、おれを作ったときに、あんたを死ぬほど愛するという設定をおれにつけたよな?」



羅利子は記憶を探ってみた。

そういえば、そんなことをしたような気がする。



「おかげでおれは、いま、すげえつらいんだ。あんたに分かるか?本当に死ぬほど愛するということが、どんなに苦しいものなのか?」

雅彦の声は、涙まじりの絶叫となっていた。

「心臓がつぶれそうで、本当に死にそうなんだぞ」



羅利子は、半身を起こして雅彦を見た。いつの間に、こんなにやせたのだろう。あの輝いていた顔が、頬の肉がなくなったせいで、しゃれこうべのように見える。目のまわりがくぼんでおり、涙のあとが、赤く残っている。



わたしを死ぬほど愛したせいで、こうなったのか。







気持ち悪い。





「なあ、頼むよ。沢野と別れてくれ。そうしてくれないと、おれ、マジで死ぬかもしれない」

雅彦は、畳に額をこすりつけた。



そんな雅彦を見下ろしながら、羅利子はゆっくりとこう言った。



「じゃあ、死ねばいいじゃない」



重い沈黙が、部屋の中をただよった。



雅彦は顔をあげた。いまの言葉が、理解できないといった顔をしている。



「いいものをあげる」



そう言うと、羅利子は包丁を細かく想像しはじめた。外見、固い感触、切れ味などを、一瞬で思い浮かべる。



包丁の幻覚が、雅彦の目の前にあらわれた。それは鈍い音をたてて、畳の上に落ちる。



「それで自殺しなさい。そうすれば、もうずっと、苦しまないですむでしょう?」



呆然とする雅彦を見ながら、羅利子は心の中で笑っていた。



何で今まで思いつかなかったのだろう。初めからこうすればよかったのだ。雅彦を殺してしまえば、もう二度と、沢野との恋を邪魔されることはなくなる。まあ、死体の幻覚となって、一生視界に転がっているかもしれないが、それくらいのことはかまわない。口出ししないだけ、だいぶマシになる。


「あんた、それでも人間か?」

雅彦が、信じられないといった口調で叫ぶ。



「幻覚のあなたに言われたくないわね。よく考えてみなさい。わたしはこれからも絶対にあなたを愛さないわよ。だからあなたは、わたしが死ぬまでずっと苦しむことになる。そんなつらい思いをするくらいなら、いまここで一生を終えてしまったほうがいいんじゃない?」

優しく語りかける。

「わたしを死ぬほど愛しているんでしょう?だったら、わたしのために死んでちょうだい」



雅彦はうつろな目で、羅利子と包丁を交互に見比べた。そして腕を震わせながら、包丁を拾って強くにぎりしめた。



「首を切りなさい」

興奮で声がうわずってしまう。いくら幻覚とはいえ、目の前でひとの死を眺めるのは、刺激的だった。



ところが、雅彦は包丁の切っ先を羅利子に向けた。電灯の光が、銀色の刃を照らす。



「どういうつもり?」

羅利子は、ゆっくりと聞いた。


深く息を吸ってから、雅彦は答えた。

「あんたの言うとおりだ。こんな苦しみを味わいつづけるくらいなら、おれはここで命を断ってしまったほうがいいと思う。でも、おれは幻覚だけど、心は人間なんだ。死や痛みに対する恐怖がある」

少し間を置いてから、雅彦はつづけた。

「だから、あんたを殺して、おれは消えることにする。おれはあんたの幻覚だからな。死ぬんじゃなくて、消えるんだ。そうすれば、痛みはなく、眠るようにして、命を終えられる」



二人はしばらくの間、互いににらみあった。どちらの視線も、どす黒いもので満ちていた。



「馬鹿ねえ」

羅利子はわざとらしくため息をついた。

「その包丁はわたしの幻覚なのよ。幻覚の包丁で、本物の人間を殺せるわけがないでしょうに」



「普通の人間ならな」

雅彦は笑った。

「だが、特殊な想像力を持つあんたなら」





肩を刺された。





刃の肉にめりこむ感触が確かにある。





羅利子は愕然とした。



そんな馬鹿な。幻覚の包丁に傷をつけられるなんて。



もったいぶるようにして、血が流れだす。傷口から、熱い痛みがゆっくりと、広がってゆく。



「やっぱりだ」

うれしそうにつぶやき、雅彦は包丁をひきぬいた。



羅利子は雅彦を突き飛ばした。立ち上がり、震える足取りで部屋を飛び出す。



「逃げたって無駄だぜ。おれの本体は、あんたの頭の中にこびりついているんだ。あんたがどこにいようと、おれはあんたの目の前にあらわれる」



雅彦の勝ちほこった声を背中に受けながら、羅利子は階段を駆けおりた。涙で視界がかすんでいる。汗が、どっと浮き出てくる。



一階に降りると、両親のいるリビングに駆けこんだ。



「父さん、母さん」

娘の必死な叫び声に、テレビを見ていた両親はおどろいてふりむいた。

「どうしたんだ?」

父親が駆けよってきて、羅利子の肩に手を置く。

「痛い」

顔をしかめて、その手をはらった。父の指が、傷口に触れたのだ。

「どこか痛むの?」

母親が、心配そうにたずねる。



見れば分かるでしょう、と言いかけて、ふと気がついた。いま羅利子の肩は、赤黒い血で染まっている。それなのに、両親の視線はまったく肩の方を向いていない。



まるで、血が見えていないかのように。



まさかと思って、聞いてみた。

「ねえ、いま、わたしの肩から、いっぱい血が出てるよね?」



両親は、顔を見合わせて首をかしげた。そして、父親が答えた。

「何を言っているんだ?血なんて、どこにもついてないぞ?」



羅利子は顔を青くした。



そして、わかった。



なぜ、幻覚の包丁で刺されて、傷を負ったのかが理解できたのだ。




「気づいたようだな。そのとおり、その傷はあんたの幻覚だ」



いつの間にか、両親の背後に雅彦が立っていた。手に血のついた包丁を握りしめている。

雅彦はつづけた。

「さっき二階で刺された瞬間、あんたは、傷や血、刺される感触や痛みを、無意識に想像してしまったのさ。そして、それは幻覚となって、あんたの肩にあらわれた。実際のあんたの肩は無傷なんだ。だから、親に助けを求めても無駄だぜ。狂人あつかいされるだけだ」



危険を目の前にした時、人は恐怖を感じる。それは、その危険に巻き込まれたときの苦痛を想像してしまうからだ。



「おい、どうした羅利子、そんなに震えて?」

父親が声をかけるが、羅利子は聞いていなかった。



「どうだ?幻覚でも痛いだろう?幻覚でも苦しいだろう?あんたが凡人離れした想像力を持っていてくれて助かったよ。おかげでおれは、今まで苦しめられてきた復讐をゆっくりと果たすことができる」



雅彦は、包丁をかまえて飛びかかってきた。


羅利子は逃げようとしたが、足がもつれて、仰向けに転んでしまった。その上に、雅彦が馬乗りになり、包丁をふりあげる。



突然倒れた娘を見て、両親はきょとんとしていた。



想像してはいけない。自分が傷つくところを、決して想像してはいけない。



必死にそう考えたが、包丁が振りおろされた瞬間、喉が切り裂かれる様子をとっさに思い浮かべてしまう。





幻覚の血しぶきが、天井に飛び散った。





その光景を眺めながら、羅利子は自分の死を想像して


























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