四畳半の怪球
【前書き】
東野圭吾先生と京極夏彦先生が対談したさいに、二人はこのようなことを述べている。
東野 「笑うスイッチと、泣くスイッチは――」
京極 「近所にある」
二人はそう語っておりました。
直木賞作家や水木しげる先生の後継者とも謳われる妖怪小説家の対談に、私風情が口出しできる身分でございませんが、あえてこの会話に付け加えたいことがあります。
ただの自論です。
笑うスイッチと、泣くスイッチの近所には、恐怖のスイッチもあると思う。
それが、この短編小説を書くにあたっての、もう一つのテーマであります。
貴方が、この短編小説を読み終わった直後、笑うのでしょうか、泣くのでしょうか、恐怖するのでしょうか――。
それとも、恐怖のあまり泣きながら笑っているのでしょうか。
貴方の心が、その時どの近所にいるかはわかりません。
ですが――。
忘れないでください。
笑いと、泣くと、恐怖のスイッチが、近所にあることを……。
そして、この話は、私の実体験であります。
――実話なのです。
【汚れて消える霊感】
あれは私がまだエネルギッュな二十代の夏のことである。
当時の私は割りの良いサービス業を生業にしており、人生の中で絶頂期といえるほどにバブリーな生活を送っていた。
常に財布の中には毎日二十万ほどは札束を仕込んでいるのが普通な生活で、人生なんてチョロイチョロイと舐めきった若者でした。
自分で述べるのも何ですが、愚か過ぎました。今となってシミジミと思い出し反省する日々が続いております。
そのような若き日の至らない私は、実家で父と兄との三人暮らしをしていました。
母は私が物心付く前からおりませんでした。
私に母がいない理由については、今回の話と関係ないので触れるのを控えさせてもらいます。
これがまた複雑な理由があるのですよ………お察しください。
それはさておき私の実家は、祖父が戦後に建てた古い一戸建ての木造二階建てです。
二階には十畳の和室が一つあるだけで、当時は兄が一人で二階を占領していました。
私は一階にある四畳半の部屋が自由なスペースとして与えられていました。
その部屋は元倉庫でしたが、家には寝に帰る以外は殆ど外で遊びまわっていた私だったので、それで十分と感じていました。
もっと大きなスペースが欲しくなれば、実家を出てしまえば良いと考えていましたから、まあ不満は出ませんでした。
今宵の物語は、その物置だった四畳半の部屋でのストーリーとなります。
この物語に登場する人間は、私と兄の二人だけです。
他に生きた人間は登場しません。
故に先ずは、私の兄について話させてもらいます。
私の兄は、私よりも二つ年上で、弟の私が言うのもなんですが、結構なハンサムでした。
私は昔から女性にモテないのですが、兄は異なり昔からモテモテタイプです。
背が高く、顔もスマートで、運動神経も優れており、学生時代には女生徒の間で有名な色男でした。
私が中学一年生だった頃、兄は中学三年生で、同じ家に住んでいましたから同じ中学校に通ってました。
その頃の私は、見知らぬ女生徒にラブレターや手作り弁当を手渡されるのですが、それらは決まって兄に渡してくれと頼まれる物ばかりでした。兄は、そのぐらいモテていました。
ですが、そんな兄も社会人になると異変が起きます。
モテなくなった訳ではありません。相変わらずモテます。
ただ、お金にだらしなくなったのです。
サラ金やらなんやらに金を借りては一人で返しきれなくなって、またあちらこちらから金を借りてくる。雪だるま式に借金が増える。
それで、殆どの女性も逃げていく。
最終的には、にっちもさっちも行かなくなると、姿をくらますのです。
兄への取立ては、当然ながら父に回ってきました。
父は我が子可愛さのあまり、兄の借金を肩代わりして支払うのです。
すると暫くして兄がひょっこりと帰ってるのです。
そして兄はまた借金を拵えて、一人で払いきれなくなる。
そして姿をくらます。
そして父が肩代わりする。
これを繰り返すのです。
私が知っているだけで四回は繰り返しています。
十万や二十万ではありません。毎回毎回、四百万、五百万の単位です。
そんな兄に呆れた私は、兄を軽蔑し無視しました。
同じ家に住んでいるのに、三年ほど顔を合わせなかったこともあります。
兄のせいにするのは卑怯な話かもしれませんが、私の人格が程よく腐ったのは、この兄のせいだと考えた時期もあります。
まあ、そんな理由で私は人格を腐らせて、色々なものを失います。
信頼信用からはじまり友人知人など多くを失いました。
代わりに得たものは、けっこうつまらないものでした。
職場での中途半端な役職と、富豪には程遠い中途半端な財力です。
今は考えを改めて、信用や友達が宝石だと実感して、金や地位は道端の石コロだと感じております。
ちょっとオーバーに言いすぎですね……。
まあ、金や地位が悪かったわけでなく、私の掴みかたが悪かったのでしょう。
友のほうが、人生において宝です。失ってから、それらが何よりも大事なものだと気づくのに、私は多くの時間を費やすこととなります。
まあ、この話も今回の事件とは、あまり関係ない話です。
何が言いたいかと申しますと、心が汚れて失ったものが私には、もうひとつあったのです。
それは普通の人々が、あまり持っていないものでした。
わかり易く述べれば、「霊感」ってやつです。
私は小さな頃から人には見えないものが、ちらほらと見えていました。
父が運転する車に乗ってドライブの最中、路上に佇む老人の姿。
小学校の体育館にバケツを持って立つ少年。
民家の窓から外を眺める主婦の顔。
どれもこれも何処にでもあるような光景に思われるでしょうが、それらが私に見えた幽霊なのです。
私が持っている霊感では、不思議とどうでもいいものしか見えないのです。
気味悪い亡霊やら血みどろの落武者とかは見えません。
ある意味、幸いと言えました。
だから私は小さな頃から霊感があって他の人に見えないものが見えていても、幽霊を怖いと認識していなかったのです。
とある本で読んだのですが、霊感ってやつはラジオの周波数と一緒であるといいます。
周波数が合った時だけ、周波数が合う人にだけ霊は見えたり聞こえたりするらしいのです。
そして周波数の違いによって見えるものもかわってくるらしいのです。
有名な霊能力者は、すべての周波数にチャンネルが合う人らしいのです。
その説からすると私は、どうでもいい霊とチャンネルが合うらしい風変わりな霊感の持ち主だったのかもしれません。
私が見る霊の多くが、良いこともしませんが、人に害を与えるようなものではないようでした。大人しいのです。私にも無関心なのです。
もしかしたら、自分が死んでいることにも気づかずに、ただ日々を送っているだけの霊が、私には見えていたのかもしれません。
ですが、時には例外が生じます。
私に関わろうとする幽霊も出てくるのです。
近寄って来て話し掛けてきたり、後ろをついて来たりするのです。
そんな時は、私は決まって幽霊を無視します。下手に相手をすると、かまってくれる人発見、てな感じでついてくるのですよ。
それでも私のチャンネルに引っかかる霊は、無視されると大人しく何処かに去っていきます。
だから私は、霊たちが見えていても見えていないふりをするようになりました。
今でもそれが正しい判断だったと思っております。
そんな感じで月日が流れ、徐々に大人への階段を登り始めた私は、心を段々と腐らせて行き、それに連れて霊感を失っていきました。
心が汚れると霊感も弱まるようです。
ピュアな人に妖精さんが見えるのと一緒なのでしょうかね。
ですが、それでもたまにチャンネルが合ってしまう時があるのです。
悪いものと……。
年に一回あるかないかですが、実に困ったものです。
その日も、私はそうだと思ったのです。年に一回あるかないかの日だと思ったのです。
では、話を最初に戻しましょう。
実家の私の部屋。四畳半の部屋に――。
そこが、そこだけが、話の舞台です。
【四畳半の怪球】
そこは狭くてカビ臭い小部屋です。
四畳半の部屋には扉が一つ。その向かえにガラス窓がありますが、隣の家の壁と直ぐ近くで、年中日の光が入ってくる量も大変少ない部屋でした。電気を消せば、昼でも月夜のような薄暗い部屋に変貌してしまいます。
最初にも言いましたとおり当時の私は、家には寝に帰るだけなので、日の光が入る入らないすらも気にもせず、年中カーテンを閉めっぱなしにしていました。だから薄暗い部屋は、昼間でも常に暗くなっています。
そのような薄暗い四畳半にあるものといえば、スプリングの硬い安物のベッドとマンガ本が詰まった本棚、それと古いテレビが一台だけでした。
あとはベッドの横にスタンドが一つ立っているぐらいです。時計も目覚まし時計がスタンドの横に一つ。それだけです。
ベッドのせいで狭い部屋は更に狭く、ベッドと本棚の間は一畳程度しかスペースが空いていません。本当に狭いです。
ベッドなんて入れるべきではありませんでした。これには後悔したこともあります。
ある日の話です。ここから物語が始まります。
いつものことなのですが、遊び疲れて寝るために帰宅した私は、ふらふらとした足取りで自室を目指しました。
疲労がピークに達していた私は兎に角泥のように眠りたかったのです。それが実家に帰る唯一の理由でした。
遊び人だった私には、実家とは寝るだけの場所だったのです。
その日もそうでした。
いつもと変わらないはずでした。
その日の昼間にパチンコで馬鹿勝ちして、懐をホクホクさせながら夜中に出社。退社後連休だったので友達と遊びまくり、ヘベレケで帰宅。そして三十万ほど入った財布をポケットに入れたままズボンを部屋の中央に脱ぎ捨て、トランクスとTシャツだけでベッドに入り寝まくっていました。
衣類を投げ捨てるさいに、財布とズボンのベルトを繋ぐチェーンがジャラリと鳴りながら床に落ち、重い音を鳴らすのです。
その音が、金子がつまっていると思わせ、心地良いなと当時の私は思っていました。
私が衣類を畳むことはありません。女性にモテないわけです。
その日は、いつも以上に寝ました。十時間でしょうか、十二時間でしょうか。自分でもどのぐらい寝たかわからなくなっていました。
一度だけですが深夜二十三時に寝て、ぐっすり寝た積りで起きたら、まだ深夜一時だったことがあります。
可笑しいな、と思っていたら二十六時間も寝続けたのです。
その日も、そのような感覚でした。
寝ぼけながら目を覚ますと、室内は真っ暗でした。カーテンの隙間からは僅かにも光が入ってきません。だから夜だとわかりました。
何時間ほど寝たか確かめようと首を曲げて目覚まし時計を見ましたが、目覚まし時計の針どころか形すらわからない。何せここは真っ暗な四畳半。当然でしょう。
私はまだまだ眠たかったし仕事も休みの予定だったので、寝続けることを選びました。明るくなったら起きれば問題ないからです。
なので私は再び練ることにしました。
ですが直ぐに目を覚ます。
一分も立たない間隔で目が覚めたのです。
理由は小さな音です。
カサカサ……、カサカサ……と、音が聴こえるのです。とても嫌な音に思えました。
窓の外から聴こえてくるような風の音ではなく、暗い室内から聴こえてくる物音でした。
しかし、室内は闇。何も見えません。更に寝ぼけ眼の私には、すべてが霞んでよくわかりませんでした。
寝ぼけて幻聴を耳にしているのか、それとも夢を見ているのだろうか、そうも考えましたが、確かに小さな物音が聴こえてくるのです。間違いありません。
聴こえてくるのは部屋の中央あたりです。中央といっても四畳半の狭い部屋。それはベッドの直ぐ横です。
暗闇の中から聴こえてくる物音です。小さな音でも、それはとても奇怪に聴こえました。
気のせいであれば何よりだと思いましたが、現実の音です。
とても嫌な予感が心中に広がり始め、眠気も覚めてしまいました。
でも私はベッドの中で動くことなく、じっとしていました。
小さな頃から体験してきた怪現象の数々のお蔭で、警戒心が自動的に働いたのでしょう。
私はただ音が聴こえてくる暗闇のほうを横になったまま見詰めていました。
小さな音は途絶えません。そのまま続いていました。何か布の擦れるような音です。
ふと思い出しました。確かベッドの直ぐ横に、自分が衣類を脱ぎ捨てていることにです。
その音は、普段自分がズボンを履くさいに聴く音によく似ていました。
そんなことを思い出した頃に、私の頭も眠気が完全に消え、思考回路も正確に動き出していました。
だから一つの結論に達したのです。
ああ、今日がその日なのかと……。
年に一度、あるかないかの日。
失われた霊感が戻ってくる日です。
いいえ、たまたま善からぬ者と、チャンネルが合ってしまう厄日。
雑に述べれば、面倒臭い日です。
やがて僅かですが、目も暗闇に慣れてくると、その考えが的中したと思えるものが見えてきました。
闇に覆われた四畳半の室内。
部屋の壁が、マンガ本がつまった本棚が、古びたブラウン管テレビが、順々に輪郭を映し出し始める頃、部屋の中央に、本来ならばないものがぼやけながら見えてきました。
それは、部屋の暗闇よりも黒い、真っ黒い球体でした。
球体といっても真ん丸ではありません。ぼやけて丸く見えるだけです。
ベッドに横になりながら見るかぎり漆黒の球体は然程大きくない感じでした。寝ている私と高さ的に変わりません。
その怪球は床の上に置かれて揺れている、起き上がりこぶしのシルエットのように見えました。
暗闇で揺れる怪球を見ながら、私は冷静に考えました。
これは怪異だと――。
幽霊――。
霊体――。
悪霊――。
怨霊――。
妖怪――。
魑魅魍魎――。
何に属するかわかりませんが、この世のものでない何かが確実に、目の前に現れたのだと直感で思いました。
その考えは、私の目が闇に慣れるごとに明確になっていきました。
ぼやけていた怪球の輪郭が、更にはっきりと見えてきたのです。
丸く見えていた物は、丸い物体ではありませんでした。
それは、膝を抱えるように体を丸めている人間の影でした。
私は、まずいと心中で叫んでいました。
とても厄介な者とチャンネルが合ってしまったと思ったからです。
人型の怪異は、両膝を抱え込みながらしゃがみ、右肩を私に向けているような角度で揺れています。
頭を両膝にくっつきそうな程に下げているせいで、闇の中では球体に見えたのです。
更に両手で足元の地面を掘っているような動きをしていました。両手が何かを探る動作で、全身が揺れているのです。
そこは四畳半の私の部屋です。人が地面を掘って何かが出てくるような場所ではありません。
多分、怪異が探っている場所にあるものといったら、私が寝る前に脱ぎ捨てた衣類ぐらいでしょう。
もう私の結論は出ていました。
無視です。
無視以外ないでしょう。
いつもどおり無視に徹することに決めた私は、そのまま寝たふりを続けました。狸寝入りです。
皆様もここまで聞けば、この怪異が危険だと思うでしょう。その時の私もそう思ったんです。
できれば再び睡魔に襲われたい気分でした。ですが、こんな時に限って睡魔は訪れません。
仕方なく私は、薄めを開けながら怪異のようすを窺い続けました。
暫く経つと全身を揺らしながら床を探っていた怪異が、何かを探り当てたのか動きを止めました。
私がおや、と思って注目していると、怪異は何かを床から拾い上げたのです。何かを手にしています。
その時でした――。
ジャランと金属音が鳴りました。
小さな音でしたが、静かな闇を孕んでいた四畳半にとっては、はっきりとした物音に聴こえました。
その小さな金属音には、聞き覚えがありました。
私の財布とズボンのベルトを結んでいるチェーンの音です。
おそらくは、謎の怪異が拾い上げたのは、脱ぎ捨てたズボンの後ろポケットに入っていたと思われる私の財布でしょう。
何故に、と思いました。
まさかと思い私は素早く動き、枕元にあるスタンドに手を伸ばしました。そしてすぐさま灯りのスイッチを入れます。
今まで真っ暗だった四畳半の闇が電球の光に祓われると、部屋の中央に現れたのは、怪異でも幽霊でもありませんでした。
それは、私の兄でした。
「な、なにしてるん……」
まだベッドで横になった状態の私が問うと、両膝を抱え込んだ兄が、私の脱ぎ捨てたズボンの上でしゃがみ込みながら、弟の財布を開いて一万円札を抜き取った刹那でした。
「いや、ちょっと……」
いや、ちょっとではない……。
ですが、声にはなりませんでした。
私が呆然としていると、兄は私の財布に一万円札を戻してから立ち上がり、四畳半の部屋を何事もなかったように出て行きました。
扉が静かに閉められると私はスタンドの明かりを消しました。
呆れた私は、何も追及する気になれませんでした。
それから一ヵ月後に、兄は五回目の失踪を行ないます。
【後書き】
短編ホラ小説、如何でしたか?
ホラー小説でなく、ホラ小説みたいですが、これは実話です。
マジですから!
本当にあった実話なんだからね!
まあ、そんなことはさて置き……。
皆様、如何でしたでしょうか?
私が前書きで述べていた話を本当でしたでしょうか?
笑うスイッチと泣くスイッチが近所にあり、恐怖のスイッチも近所にあるのではないかという話です。
この自論が当っているかどうかは、皆様自身で確認が取れたかもしれませんが、私にはどうだったかわかりません。
では、また別の作品で皆様とお会いできることを祈っています。
バイバーイ。
ヒィッツカラルドでした。
『四畳半の怪球』完。