源頼光と四天王 藤原道長の命で清監を討つ (清少納言 絶体絶命)
古事談に「頼光朝臣遣四天王等、令打清監之時…」と、源頼光と四天王が清監と呼ばれる妖怪怪異を討伐したという話がある。酒呑童子退治、土蜘蛛退治、茨木童子の腕斬りと同様の「頼光四天王の怪異討伐譚」のひとつだろうと思われる。
清監を討つという、その古事談で興味深いことは、その話に清少納言が出てくることだ。
最初の夫である橘則光との間に長男の則長を儲け、則光と離婚して宮中に入ってからの、あの有名で煌びやかな清少納言の活躍というのは、この古事談にはない。
ここで述べられているのは、清少納言が宮使えを引退して、藤原棟世と再婚し摂津の国で娘の小馬命婦を生み育てて夫と死別した後、京に戻って出家し、兄の清原致信と同居していたころの話だ。
そう、それは五十代の清少納言の身近に起こったお話である。
この古事談の話というのは、藤原道長の日記『御堂関白記』で
「寛仁元年(1017年)3月8日、白昼堂々七、八騎の騎馬武者と数十人の徒歩の者たちが清原致信の家宅を襲撃し致信を暗殺。致信が発見されたときには郎党共々既に絶命していた」
とある、その話と、どうやら関係があるようだ。
清原致信暗殺が行われたのは、「白昼堂々」その規模も武者七、八騎と徒歩侍数十人という、世の中を騒がすに充分すぎるほど派手なものである。
こんなお騒がせを京のど真ん中でやって、騒動が終わるまで気付かれなかったなどとは、道長本人の黙認なしには不可能なことだ。
何が起きていたかを小説として物語ってみよう。
さて、寛仁元年の弥生は、その初旬のこと。
一条大路北側にある土御門殿には穏やかな一日を予感させる柔らかな春の朝の光が差していた。
しかし、その御殿の主である藤原道長は、執務室の一室で清原氏の文化的権威を何とか貶めようと、春の陽光に似合わないどす黒い陰謀を画策している最中だった。摂関家の外戚政治を守るための「他氏排斥」政策というやつである。
既に、清原深養父の血脈は充分なくらい官界で冷遇されていた。中宮定子が没してしまって、かの清少納言も宮廷内で孤立するような有様で引退している。深養父の孫であり清少納言の父でもある清原元輔は、七十九歳という高齢で肥後守になったものの、清原氏の他の親戚筋や子孫の出世は捗々しくなかった。清原氏は中央の政界から完全に押し出されていたのである。当然、その経済状態はひっ迫していただろう。文化的権威についても、披露する場が無ければ手の打ちようがないのだから。
その年の1月に太政大臣(唐土流に「大相国」と呼称されることもある)になった藤原道長は、落ち目とは言え日本史上屈指の大姓を持つ清原氏に、止めを刺そうとしていたのだ。
道長が、その穏やかな春の日の朝、土御門殿の執務室に使っている一室に、源頼光を呼び寄せて耳打ちする。
「今日この日、都に出るという怪異を、また一体、討伐してもらわねばならん。討って欲しいのは『清監』だ」
頼光から連絡を受け、土御門殿に六、七人の逞しい騎馬武者が、郎党の徒士侍達を大勢引き連れてやって来て、庭に集合させると、忽ちのうちに、御殿内は異様なものものしい雰囲気へと変貌したのであった。
渡辺綱の声であろうか、一人が朗々とした声を張り上げて、祓詞を唱え始める。と、それに唱和する兵たちの声が、土御門殿の庭から京の盆地に白く鈍く滲む光の中にゆらゆらと広がってゆく。
〽畏み畏み、
清きものと名を負ふ者の影、
夜のほとりにたちまどふを、
我らが太刀の光にうつし祓ひ奉る。
禊の風、道をひらけ。
まがつもの、ここを去れ。
清き名を称する家に宿りし怨み、
影を変じて世の人を惑わすなり。
これ、清監を討ち祓ひて、
皇つ御代の道をたださむ。
天津罪、国津罪、
諸の禍事罪穢
ことごとく、
弦打の響きに散り失せよ。
清き監の影を、
我らが太刀の光にうつし祓ひ奉る。
恐み恐み、
清き監の影を、
今ここに断ち切り奉る。〽
この祓の詞は、実戦で鍛えられた息の合った主従によって唱和されたのである。ひとりの陰陽師によるものと異なり、雄々しく地を揺るがさんばかりに響いた。だから、土御門殿から徒歩圏内にある清原邸にいた清少納言の耳に、聞くともなく聞こえたであろう。悪い予感すらしたかもしれない。
「あの祓いの詞は大相国、道長さまの御殿の方から聞こえてきておるが、今度は、何をお祓いなさろうとしておるのだろうか」
このところ、源頼光とその四天王が様々な怪異を討伐していると聞いていた清少納言。この春の陽気にそぐわぬ祓の詞を訝るが、当然、当事者意識はない。
暫くして、そのご門から、一群の武者隊が、出て来た。
逞しい武士が跨る全ての馬の足元には、『怪異清監』を討伐するための魔除けの白布が巻きつけられている。そして全ての兵が、騎乗の武士も大勢の徒士の侍も、腹巻に「護符」を貼り付けている。
なかでも名のある武士は、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武。
その四人を率いているのは、藤原道長から怪異討伐の命を受けた源頼光。
そして、頼光に副将を依頼された源頼親(この人は源頼光の異母弟)が、その郎党二人と参加していた。
合わせて八騎である。
頼光の弟と四天王は、頼光から
「今から怪異を討伐しに行く、その怪異の名は『清監』という。怪異の穢れに繋がる全てを討ち滅ぼせと大相国様(太政大臣のこと。藤原道長を指す)の仰せだ」
と伝えられている。
源頼光とその四天王は、その当時、藤原道長の私兵として、あらゆる汚れ役を担っていた。彼らには、説明はなくとも「清監」の「清」は清原氏を差し、「監」は鑑に通じ、鏡のように覗き見る意味であると通じていた。だから「清監」は清原氏を体現する人物だと分かっている。
頼親とその郎党は「これから討伐しに行く怪異の名が『清監』。その怪異の穢れを浴びたる物の怪の全てを討ち滅ぼせ」という大相国の命令を知るだけで、近頃有名な頼光と四天王の物の怪退治のひとつに便乗しているだけだ。怪異とは、物の怪、鬼、妖怪のことであると単純に信じているのである。
先程の祓の詞に有った「清き名を称する家」、「影を変じて人を惑わす」、「清き監」は清原氏を意味している。「太刀の光にうつし祓ふ」とは武者の暴力を“祓い”として正当化し、「皇つ御代の道をただす」は摂関家の政治的暴力を“国家のため”と偽装する言葉である。
つまり、その日の目標は、京の都の真っただ中で前大宰少監清原致信を「祓い清めること」だ。
単純無垢な頼親とその郎党はともかくも、どういうミッションが行われるのかを、残りの誰もが、完全に理解しているがゆえに、隊列は無言でただ粛々と目的に向かっていく。
一群の兵は土御門殿の前から二条通りを東に進む。
殿上人の牛車がふたつみっつと、こちらのほうにやって来るが、彼らに気付いても日常の光景を見るかのようだ。大した注意は払わない。ただ、お互いに距離を置いて通り過ぎる。
道を行き来する人々も少なからずいるが、この物々しい軍勢を見てものんびりしたものだ。
「物の怪の退治や、昼、日中からの出陣やさかい、遠うまで行くんやろな。どこにいくんやろか」
「ぎょうさん、兵を連れてはんなぁ、酒呑童子退治の頼光はんまでいてるで」
「東山を越えて出向くんやろな。妖怪退治らしいから」
土御門殿からこのような軍勢が出ること自体は珍しくもないことなのだ。
ただ、目的地はすぐそこであること、京の真っただ中で、真っ昼間に怪異の討伐を行うこと。それだけがイレギュラーなのである。
やがて、あらかじめ申し合わせてあったのだろう、清原邸の南面中央の中門が見える距離に近づくと、軍勢は、清原邸から郎党が出て来て「何事か」と問答を始めることを警戒して、すぐに行動を開始する。
頼光が高らかに隊列に命令をくだす。周りにいる都人にもよく聞こえるように。
「都に害をなす鬼、清監を討てー!」
この一言で、殺伐が始まった。大虐殺である。
この邸の主、清原致信は、歌人として有名な清原元輔の子として、あるいは誰もが知る清少納言の兄として紹介される人物である。道長から見て、致信は清原氏を代表する血を引き、学識と人望があり、文化的影響力、政治的影響力をその身に体現している、有能であるが故に危険な人物であった。
もう一つ清原致信が狙われる理由が、経済的理由だ。大和の国の諸豪族と大和の国の国司、それに藤原氏の氏寺である興福寺を背景とする利権争いである。
そのころ、藤原道長と頼通の父子の家司を務め「道長四天王」とも称される人物、それも傑物中の傑物が、大和の国と興福寺を操っていた。
女流歌人和泉式部を妻とし、『後拾遺和歌集』に和歌を残し、盗賊袴垂を威圧した逸話や祇園祭の保昌山の由来など、多くの説話に登場する藤原保昌が、その人である。
藤原保昌は、長和二(1013)年に大和守に任命されて以来、大和国の受領(国司としての最上席者)として、他の受領がそうであるように、大和の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げ、道長一派の勢力の拡大を図ろうと画策し、巨万の富を築いていた
清少納言の兄の清原致信は、その藤原保昌の郎党として働いていた。保昌が大和国において財を成すことを助けようと、保昌に命じられるままに、当麻為頼を殺しさえしたのだ。
当麻為頼が先頭に立って、大和の豪族から少しでも多くの財を巻き上げようと画策する藤原保昌の邪魔をしたからであり、また興福寺と所領を巡って、藤原氏の代理人である藤原保昌と対立していたからである。
しかし、当麻為頼の殺害を実行して、藤原一族の勢力拡大に協力した実績を持つ清原致信の存在が、今になって、藤原氏に都合が悪くなった。
先に清原致信は藤原保昌の郎党と説明したが、致信が就いていた大宰少監という地位は、致信のボスである藤原保昌自身が大和守になる前職の地位だ。つまり、次の大和守には、清原致信が、清原氏一族の期待を担って、任命される可能性が大きいのだ。
そして、この大きな利権に絡む、もう一人の男がいる。彼は、摂津、淡路、大和といった京の周辺部で、勢力扶植を邁進しようとして手薬煉を引き続けて来た人物だ。
源頼親である。
彼とその郎党がこの暗殺団に交じっていることは先に述べてある。
その頼親こそが、清原致信に殺された当麻為頼のボスとして藤原保昌と対立していた張本人なのだ。
だから源頼親には、当麻為頼の敵であるとして致信を殺す名目と動機があることになる。
だが、頼親自身は保昌の甥なのである。そして今や同じ道長一派に名を連ねたいと思っている。
その結果、有力な道長一派として実績のある兄の頼光に頼まれて、弟の頼親は兄と行動を共にすることにしたのである。
武家勢力を都合の良い手駒としてみている藤原氏にとって、このころの源氏は、餌を投げやっても害を及ぼさない一党である。そう考えている。
当時の殿上人の価値観からすれば、皇族である親王位からも系図で三代以上離れていて、氏族としては権力からほど遠い勢力だと思われていたのだ。
だが、清原氏の血族をうまみのある利権から追い出して、藤原道長一派が利益を独り占めする為には、都合の良い手駒と言ってよいだろう。
良く飼いならした犬は、餌を投げやれば、太って大きくなるかもしれないが、主人には嚙みつかない。主人に噛みつこうとしたら餌をもらえなくなると分かっているからだ。
餌代はある程度嵩むかもしれないが、飼い犬は、しょせん犬であって、犬は主人である飼い主に取って代われない。
そういう考え方だ。
清原致信はそうはいかない。
彼は清原氏という日本史上屈指の大姓を持つ血流のトップにいる貴公子なのだ。
藤原氏の飼い犬にはならないし、なれない。
要するに、藤原道長にとって、清原致信と因縁がある源頼親を、都合よく利用することは、いわば必然であり当然なのである。
閑話休題
源頼光の「野次馬に聞えよがしの命令」で、騎馬武者八騎、徒士侍約七十人が、一斉に清原邸南面中央の中門から乱入した。
頼親とその郎党も、おかしいなとおもいながらも、怪異を討伐する名目があるから躊躇なく討入ることにした。当麻為頼の仇討ち、報復など、過去のことだ、今この時には全く念頭にない。「何にせよ、これで道長派に貢献できる。ポイントを稼がしてもらおう」そう思っていたに違いない。
清原邸の周辺に集まって来た京雀、京烏やらが、声を上げ、噂や風聞の種をばらまき、流言を飛ばす。
「なんやなんや、ここは清原はんの御殿でっしゃろ、こないなとこに鬼やら怪異がでてきはったんどすか」
「この騒ぎ、怪異討伐らしいでっせ、そないなわけで、わざわざ源頼光はんと四天王はんが出張ってるそうや」
「そういうたら、土御門殿からぎょうさんで祓の詞が唱えられとった。上京に響き渡るぐらいの声やった」
「また、頼光と四天王の大手柄やなぁ。神社仏閣へ祈願文や感状届けられるんちゃいますのん」
「この討伐も絵巻物になるんやろな」
他方、清原邸の中では・・・
〽清き名を称す家に宿りし怨み、
影を変じて人を惑わすなり。
〽諸の禍事罪穢
ことごとく、
弦打の響きに散り失せよ。
〽これを討ち祓ひて、
皇つ御代の道をたださむ。
〽清き監の影を、
我らが太刀の光にうつし祓ひ奉る。
殺伐が続いている清原邸内からは、そんな祓の詞の断片が、いくつも外へ聞こえてくる。
折あしく、そのころから兄致信宅に同居していた清少納言もその祓の詞を聞いていた。
殺伐の嵐の中に巻き込まれていたのだ。
「『清きもの』『清き名』 『清き監』 『皇つ御代の道』 『打ち祓ひ』 『太刀の光にうつす』 『弦打の響きに散り失せよ』、おお、おお、我ら清原の血を、弓矢や太刀で。打ち祓い、滅ぼそうというのか。なぜじゃ、なぜじゃ」
清少納言は寝殿の南廂、簾の内側にいてつぶやく。
武者たちが、庭や母屋に出て来た家隸、郎党たちを見つけ次第、射殺し、切り殺しては祓の詞を唱えながら、移動していくのを見ながら・・・同じ言葉を何度もつぶやく。
「我ら清原の血を、弓矢や太刀で。打ち祓い、滅ぼそうというのか。なぜじゃ、なぜじゃ」
恐ろしいものを見た清少納言は、ひとまず東対に逃げようと走り出す。宮中勤めのように十二単ではなく、世を捨てた身軽な僧形姿は、動きやすいはずなのだが、恐怖で足がすくむ。
「ふん! ふん! 足よ! 我が足よ! ふん! ふん! 我が足よ動け!」
と、気合を入れて、足に力を込めて、声まで出して、踏み下ろしてみる。だが、廊下の板を鳴らすはずの、その足音が全く聞こえない。聞こえるのは、剣戟の音と叫び声だけだ。庭から光が入り、いつも明るいはずの廊下が、アドレナリンの噴出で視野が狭まったせいであろう、墨で塗りつぶしたように真っ暗闇の夜のようだ。
「これが恐怖というものか」
息が浅くなり、自分の鼓動が今にも破裂しそうなぐらい大きく聞こえる。
やっとのことで、物陰に逃げ込んだ彼女は深呼吸を試みる。
その時、矢がバチン、バチンと音をたてて、軒に刺さる。
息がまた浅くなって、ついに意識が遠のく。
どのくらいたったであろうか、侵入者たちの声と足音が、裏の方、つまり北の方へ移動していると気付いて目覚めた。
やがて遅れて来た武者たちが、東対の南廂に逃げ込んで気を失っていた清少納言の目の前に現れる。
「鬼め!清監め、そこに居たか! おーい、討ち漏らしの清監を見つけたぞ」
「おぉ、法師の姿の鬼め、すぐに打ち祓ってやろうぞ」
「ま、ま、まちゃれ、待たれよ。妾は清原の女ぞ、橘則光の妻ぞ、橘則長の母ぞ、藤原棟世の妻ぞ、中宮様、上東門院様に仕える小馬命婦の母ぞ。誰か、誰か、帝の中宮様、上東門院様に問い合わせておくれ。大相国様ならご存じじゃ」
清少納言は出来るだけ権威にすがろうと、思い出せるだけの縁者の名を出して命乞いをする。
碓井貞光がやって来て聞く
「そのほう、中宮様の縁者と申すか。嘘であったらただでは済まんぞ、坊主姿の鬼め」
「出家して僧形になっておるが、妾は女じゃ。人間の女であるのじゃ」
「ふん、おなごに見せかける男も、鬼も、物の怪もおるでのう」
ある書物には、出家姿だった鬼形の女法師清少納言は、暗殺集団に致信の男の身内と間違えられ殺されかけたと書いてある。その時、彼女は、これが尼である証(為レ尼之由えん)だと、とっさに(忽ち)衣服をまくって女性器を見せ(出㆑開)、訴えて難を逃れたということだ。
『清少納言同宿にてありけるが、依㆑似㆓法師㆒欲㆑殺之間、為㆑尼之由えんとて忽出㆑開云々(古事談)』
もしそれが本当であれば、見せたくないものを見せた清少納言も災難だが、暗殺集団も見たくもないものを見せられて、迷惑このうえなかっただろう。
だが、この時の清少納言は、中宮彰子(藤原道長の長女)に仕える娘がいたことを思い出しさえすれば、道長一派に十分通用する命乞いが出来たはずなのだ。真っ当に考えればそれが現実的だと思う。
この小説の物語の清少納言も、頼光四天王であれば、当然、中宮彰子(藤原道長の長女)の存在を知っているだろうと、その縁者だ、殺しては罰を受けるぞ、と命乞いをした。
「妾は女ぞ、中宮さまに仕える上東門院小馬命婦の母ぞ。帝の中宮様、上東門院様に聞いておくれ、大相国様にきいておじゃれ」
その命を懸けた問答をしている間に、怪異討伐を名目とした暗殺が終わった。
清原致信が家隸郎党たちが暮らす宿舎がある北雑舎付近まで逃げたが、そこで討ち取られたのである。
暗殺者集団は、ゆっくり再集合する。
清少納言は、碓井貞光によって源頼光の下に乱暴に引っ張られるように連れて来られた。
貞光に引き立てられて来た、僧形の鬼、まさに清監に相応しい女を見て、頼光が声をかける。
「何者だ。その鬼は。法師顔をしておるようだが」
「清原の女で、上東門院様にお仕えしている命婦の母であると申しております」
「ふむ、上東門院様か。するとそなたが清少納言か」
「清少納言?」
そう答えたのは碓井貞光だった。
貞光が、改めて清少納言の顔を見てから、頼光に言う。
「あの才女として有名な?
こやつが?
信じられぬ。
すっかり呆けきって、ただただ命乞いをする哀れで萎れた鬼婆ではないですか」
その言葉で、五十代で、出家姿だった鬼形の女法師、清少納言が、屹度なって、激しく言い返す。今になって持ち前の負けん気と機知が蘇ったのだ。
この言い返しで彼女の命は救われた。
この僧形の鬼、清監こそ、清少納言に違いないと、その場にいた者達が認めたのだから。
「鬼とは! 呆け切った鬼婆とは何を言う!
たとえ年はとっても、血迷っても、妾の和漢の才は衰えていないぞ!
試しにもう一度、雇って使ってみるが良い。
老いても千里の馬ぞ!
死んでも駿馬の骨だ!
なぜ買ってみぬのだ!
宮中でも、土御門殿でも役に立つぞ!」
と。
致信暗殺後、清原氏は中央官界で目立った昇進をほぼ失い、文化的影響力も小さくなった。
それだけに、清少納言の枕草子の描写に代表される機知は、清原氏の「今は昔の栄光」を際立たせるものとなった。
なお、後にこの致信暗殺劇は、当麻為頼を殺害した清原致信にたいする源頼親の報復であって、源頼親の指示で行われたとされる。『御堂関白記』寛仁元年3月15日条によれば、頼親はこの致信殺害の罪を問われて、右馬頭兼淡路守の官職を解かれたという。事件の僅か7日後である。
飼犬は殺されず、美味しいご馳走(摂津守)をお預けさせられ、後にご主人様に大和守にしてもらったが、怪しい身内の不祥事で、また取り上げられて、土佐に流された。
ほとばしる 和漢の才を 買わんかな 千里の馬は 骨にあらずと
源頼光と四天王 藤原道長の命で清監を討つ (了)
【参考①】
前漢の劉向の編集になる戰國策の燕策にある「駿馬の骨」のお話とはこういうものである。
昔昔、唐土に千金を出して千里の馬を求めようと色々苦労を重ねている君主がいた。
しかし、三年たっても苦労の甲斐はなく千里の馬を得られない。
そこで、君主の僕が言上します。
「僕に千里の馬を買い求めるようご命令ください」
君主は僕に千金を与えて送りだした。
僕は、三か月して千里の馬を見つけたが、馬は既に死んでいた。
僕は、その死んだ千里の馬の骨を五百金で買い、戻って主人の君主にその旨を報告した。
君主は大いに怒って言う。
「主人である私が、僕に買い求めさせたのは生きた馬である。どうして死に馬に五百金を捨てるようなまねをしたのだ」
僕は、こう答えます。
「死んだ馬ですら五百金の値を付けて買ったのです。生きている千里の馬なら五百金どころではない、もっともっと高い値が付くと世間では考えることでしょう。天下の人は必ず僕の主人こそが『馬というものを良く知っており、それを高く買うことができる有能で気前のいい君主である』と見なすに違いありません。だから、意中の馬など今すぐにでも、やってくるでしょう」
その通り、一年も経たないうちに、千里の馬が三匹もやって来たのである。
郭隗は燕の君主である昭王に、こうして「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩えとして話して
「今王(燕の昭王)様が誠に士人を招こうとお考えなら、まず真っ先に隗(郭隗)を優遇することから始めてください。隗程度の者でも礼遇されるのです、まして隗より賢い者は猶更です。どうして千里の道ををあまりに遠いと、やって来るのを躊躇うことがあるでしょうか?」
【参考②】
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
(清原元輔 三十六歌仙の一人 清少納言の父)
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ
冬ながら 空より花の 散りくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ
(清原 深養父 中古三十六歌仙の一人 清少納言の曽祖父)
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感想は短くても大歓迎です。「ああ読んでいただけたんだなぁ」と励みになります。
作者の書き続けるモチベーションになります。
よろしくお願いします。
『古事談』に出てくる「清監」の「清」は清原氏の清、「監」は鑑に通じ、鏡のように覗き見る意味と解釈して、「清監」は清原氏を写し取った怪異であるとして、小説化してみました。
ちなみに「前大宰少監清原致信」という肩書付きの名前の中に「監清」とありますね。この文字をひっくりかえせば「清監」となるわけです。
『古事談』では、清少納言は晩年は荒れはてた粗末な家に住んでいて、あるとき家の前を通りかかった若い貴族が、「清少納言も落ちぶれたものよ」と家の前で話ををすると、鬼と見間違えるような老婆(清少納言)が出てきて、「なぜ駿馬の骨を買おうと言わないのか!」と怒鳴り返されたと伝えています。
その清少納言の挿話は、暗殺事件に関係していた実話に違いない、暗殺を書かずに後の世にこの挿話を伝えたいと思った誰かが作りかえた。
そんな想定で書いたのが、この小説です。
藤原道長の日記『御堂関白記』が伝える清原致信宅を襲撃暗殺事件で、その家に同居していた清少納言が、事件の際に下手人たちに言った言葉が「駿馬の骨」の下りの挿話になったと考えた方が絶対に面白いでしょ?
古事談は、当時の藤原氏絶対不可侵という政治環境下で、人々に伝えたい真実(藤原氏の権力闘争で犠牲者がでたこと)を伝えるため、清少納言をわざと貶める形をとって書かれたものであったと思うのです。
それが真実です。信じるか信じないかは、あなた次第です。




