9 天幕と窮地と緑の液体
野営の天幕の内に、穏やかな空気が満ちている。女二人、シグリッドとリヴで過ごす就寝前は、昼間の緊張とバランスを取る癒しのひとときだ。
シグリッドは端で足を畳んで座り、その膝の上で書き物をしていた。日課にしている日記だ。この不可思議な塔と都市での出来事を、シグリッドは記録に残しておきたかった。この日々はきっと、大人になってからも自分を支えるものになると、確信している。
リヴは荷物の薬草を布の上に広げて在庫点検をしている。これもまた日課で、最近は塔二階樹林地帯の植物ならそれなりに見分けと効能が頭に入ってきた。故郷では農作物以外あまり気にしていなかったが、帰ってからは植生に目を配ろうと、興味も広がっている。
黙々とお互い作業していると、少し離れた位置に繋がれている夜番鳥の鳴き声がよく聞こえる。
「おい」
声掛けに、二人は顔を上げる。外に立った人物は、黒い影として天幕越しに見える。
「少し用がある。入ってもいいか」
「はい、どうぞぉ」
「リヴっ、貴方ッ!?」
能天気に即答したリヴに、シグリッドは慌てて手元の日記を閉じた。
「まずかったか?」
快い返事に入口の布をめくってしまったイリューが、そのまま動きを止めている。
「……構わなくってよ。少しはデリカシーを身につけたようで何よりだわ」
以前声掛けなしに天幕を開けるという暴挙に出たことのある男に、シグリッドは思わず厭味ったらしく言葉を続けてしまう。
鋭い観察眼を持ちながら、イリューという男は驚くほど無神経、無配慮だ。他人の、言葉にされない思考にひどく無頓着な節がある。恥への極端な無理解など、その表れだ。イリューが性的魅力を覚えないことと、シグリッド達が嫌がることは、まったく別の話だ。
「……次は一呼吸置いてから開ける」
「貴方、不遜に見えて割と従順なのよね」
それでも改善の意思はあるらしい男に、シグリッドはしみじみ呟く。
「ごめんなさい、勝手に答えちゃいました……」
「慌てたけどもういいわ。貴方も、入口を開けっ放しにされると虫除けが薄まるから、用があるというならお入りなさい」
許しを受けて、イリューは狭い天幕内に身を屈めて入る。入口はぴったりと丁寧に布を重ねて閉じた。
「行程が遅れてるだろ。薬草の在庫が切れそうなら、俺の方で補充する」
ちょうどいいタイミングだったのか、リヴの広げた薬草を見下ろしてイリューが告げる。
「うーんと、傷薬とかは問題ないんですけど、野営回数が増えることになったから虫除けがギリギリかもです」
「虫除けか……。それなら途中で代用を刈るか?」
「えっ、そんな簡単に採れるんですか? どんな子です?」
「乾燥品じゃないと少し匂いがきつくなるが、形は……そうだな」
腰の袋に手の甲を掠めさせ、イリューは広げられたリヴの布の上に一束の草を置いた。シグリッドには全部同じに見える、緑の草。そこから特徴の講座が始まる。葉っぱの形、最適な成長度合い、群生の場所。途中途中で差し挟まれるリヴの質問にも、イリューは丁寧に答える。
少しその光景を眺めた後、シグリッドは書きかけだった日記をもう一度広げた。続きを記入し終え、携帯用の筆記具をしまうと、その手は自然と前の頁をめくった。ここ何日かの記録を振り返る。ティボー参戦後、三度目の二階への挑戦。数日前の内容に、ちらりと紙からイリューへ視線を上げる。
「ねぇ、アレクセイ様とはきちんとお話しできて?」
講座が終了した気配に、シグリッドは口を開いた。
腰を上げかけていたイリューが、すとんとまた落とす。脛を床につけて足を折りたたむ、器用な座り方だ。故郷の座り方だとは聞いたが、血流が止まりそうだとシグリッドは見るたびに思う。
「できてるつもりだが、どこかで不備が出たか?」
「……この間の、貴方の危険行為よ」
あぁと納得の後、イリューの視線は記憶を探って、天幕の低い天井辺りを彷徨う。
「あやま……らされた」
「まぁ当然ね。貴方が三枚だとしても、この集団の一員である以上、無為に危険な行為は看過できなくってよ。それで? アレクセイ様に許していただける程度の反省は示せて?」
念のための確認だった。目の前の鈍感男に、アレクセイがちゃんと思い知らせたのか。
「許……されたが、嫌がらせされた」
「お待ちなさいな。どういうこと? 嫌がらせなんてあの方がそんな陰湿な」
「下着一枚にされて辱められた」
「少しお話しする必要があるようね」
予想外の話の流れに、シグリッドは腰を浮かせた。
アレクセイは尊敬すべき人間だが、人の道にもとる行為は正さねばならない。シグリッドはそう、上位者に盲目的にならず、忠言できるよう教育された。
シグリッドは覚悟を決めた。
「何でお前が腹を立ててる」
シグリッドの気合いの入れようを、イリューは不可解そうに捉える。
そこに無視しがたい違和感を、シグリッドは覚える。
「貴方もしかして、根本的な意識共有をアレクセイ様としていないんじゃなくって?」
「俺が集団行動を乱せば、三枚が二人いる状況では瓦解しかねないって話だった。その通りだから控えてる」
シグリッドは浮かせた腰を下ろした。
「理で説いたのね。まぁ殿方らしい説教なんでしょうけど……」
尻すぼみに言葉を濁らせる。アレクセイが語らなかった部分。それを代弁するには、シグリッドには役が少々不向きだった。
すべての大前提。
どうしたものかとシグリッドは黙り、どうしたのかとイリューは発言を待つ。
膠着する空気を、ほがらかな第三者の声がほどく。
「みんな、心配してたんです」
ニコニコと、薬草を整理し終えて傍から二人を見守っていたリヴが、口を挟んだ。
イリューが顔を向ける。
「そこまで無謀な突出じゃなかった」
「仲間を心配するのに、無茶の度合いなんて関係ないですよ。そんなことするぐらいなら私達を頼ってください!」
胸を張り、そこに手を置いてリヴが主張する。
「だからシグリッド様のさっきのも、イリューさんが叱られた以上に嫌な思いしたなら、アレクセイ様を叱らないとって思ったんですよね。どっちも大事な仲間だから」
その眼差しがシグリッドに移る。イリューも釣られて視線を戻す。
シグリッドの顔は、掲げた日記で強固に隠されていた。
リヴとイリューは、何となく互いに顔を見合わせる姿勢に戻る。
「……俺は依頼されて、一緒にいるだけの雇われ人だ。お前達の仲間じゃない」
「焚き火を一緒に囲んでご飯を食べた仲はもう仲間ですよ」
「会ってひと月ほどだ」
「濃密ですよね。もう一年ぐらい経ってる気分です」
「お前らはもうしばらくしたら帰るだろ」
「……別れの前提と、関係性の発展は別問題でしょう。そんなこと言い出したら、万人がいずれ死に別れることをどう捉えたらいいって言うの」
嚙み合わないやりとりに、不貞腐れたような声が割り込んだ。どうにか復帰したらしいシグリッドが、少し赤らんだ顔でイリューを睨んでいる。照れ隠しの険しい表情なのは明白だ。
「関係性なんて、びびっととか、ぴたっと来たとかじゃ駄目ですか? わたし、イリューさんのこと、お仕事できる人って感じでカッコよくて好きですよ」
「好き嫌いは、仲間であるのと無関係だ」
真っ直ぐに向けられた好意を、イリューは気に留める素振りもなく流す。
シグリッドは、とても不思議に思った。
「じゃあ、貴方にとっての仲間って何なの?」
雇用関係を理由に否定して、一緒にいた期間の短さで否定して、どうせ別れるからと否定して。好き嫌いも関係なくて。そうやって違う違うと削ぎ落とした後に残るものの正体が、シグリッドには見えなかった。
シグリッドの心の底からの疑問に、イリューは口を噤む。
「仲間は、初めから、そうあるものだ」
しばらくの無言の後、口にされた言葉はひどく、限定的なものにシグリッドには聞こえた。それはただ、過去の記憶をなぞっただけのような。イリューの中の『仲間』を思い出しただけのような。とても定義の狭い。
「……よく分からないけれど、じゃあその時の仲間がいなくなったら、次はどうやって作るの?」
イリューの表情は変わらない。空気も変わらない。
けれどシグリッドは、自分が一歩踏み込んだ自覚を持って、言葉をかける。
「塔に来てから、色んな価値観をワタクシは知りました。己の浅はかさもね。その上で、どんな干渉があったとしても、最後に残るのは己の決定したことなのだと悟ったわ。好き嫌いで仲間を選ばなくてもいい。目標が同じで仲間を定めてもいい。いっそ同じ道行きだからでも構わない。どんな価値観でもいいわ」
固い固い壁の、その正体はどうでもいい。
「ただそれは、貴方の意思で選ぶものでしょう?」
ただその壁をイリュー自身がどうやって壊すのか。
シグリッドは問いかけた。
※ ※ ※
蔦猿には知性がある。連携を図り、罠を仕掛け、肉食に傾いた雑食性のために人を狙う。ゆえに二階樹林地帯において、一番遭遇したくない生物であり、一番遭遇しやすい生物でもある。
樹上からの投石を、アレクセイは盾で弾く。接触の際に少し手首をきかせて、落下は人がいない場所へ調整する。傾けたそのままに盾の影から茂った樹上を見上げた。すぐ目につくのは一匹。把握していたもう一匹の姿が見えないことに、嫌な予感が背筋を走る。
その時――戦場を獣の咆哮が震わせた。
いつの間にか、黒々とした巨体が戦場の端に現れていた。通常の個体とは明らかに身の丈が異なる熊だ。その前にいた蔦猿が、キィキィとやかましく鳴いて触手で樹上に逃げた。あの蔦猿の一匹が、周辺にいた獣をわざと招き入れたのだ。鳴き声は悲鳴などではなく、策を弄した愉悦の声だ。
突然の乱入に、維持していた均衡が呆気なく崩れる。
一番手近にいたシグリッドに向けて、巨体の割に素早く熊が突進していく。
「大熊だ! まともに相手するのは馬鹿だぞ!」
辛うじて救助が間に合ったティボーが、庇ったシグリッドを腕に抱いて危急を叫ぶ。
《大熊》。塔固有かも判別されていない熊の一種。その特性は塔の不可思議など関係なくただただ大きく、ただただ強い。二階樹林地帯で一番の難敵。
「蔦猿残り四っ!」
エーミルは、撤退を判断するには問題のある現状を告げる。すでに下にいた他の蔦猿も上に戻っている。高みの見物だ。大熊から逃げる際、大人しく見送ってくれそうにはない。
「帰還も視野に入れろ!」
ティボーが飛ばす助言は鋭い。今日までの進行が無に帰したとしても、それが絶対の安全策だ。
アレクセイは踵を返した。撤退のしんがりでも、印による帰還でも、どのみち一度は誰かが大熊の注意を引く必要がある。
その決意の前に、イリューが音もなく降りた。森に紛れる衣装はいつものくすんだ暗い色合いで、イリューの本来の性質を示している。
アレクセイよりとても小さい背。
いつかの、無言で向けられた背中が重なる。
「十回は避ける。それまでに整えろ」
けれど今、声は静かに届いた。
言葉が、確かにあった。
自分に注意のない熊の背後に近づき、イリューが何か細い棒状のものを突き刺す。わずらわしさに体を振る動きに合わせて離脱した後は、大熊の敵意がイリューを向いた。振り上げられた前足の挙動を見抜き、イリューが地面を転がる。
十回。その数字の意味が、アレクセイの頭を駆け巡る。
今ので、一回。
「リヴっ、シグリッド!」
走り出しながら呼びかける。敬称を付ける余裕などなかった。
向けられた視線に、アレクセイは蔦猿を振り仰いで見せる。
リヴがすぐさま、いつの間にか固まっていた蔦猿に向けて短弓を放った。大熊の攻防に木を取られていた蔦猿は、一匹が体に矢を受けてバランスを崩して落ちる。致命傷にはならずとも、すぐさま駆け出したティボーが小柄な体躯を踏みつけてとどめを刺した。
残り三匹。
散りじりに逃げようとしている蔦猿の下で、アレクセイは盾を上に構えてしゃがみ込む。遅れて駆け寄る気配を感じる。
「右斜め二十五度!」
エーミルが叫んでアレクセイが盾の角度を修正するのと、シグリッドが踏み込むのは同時だった。盾に重さを十二分に受け止めてから、アレクセイは素早く立ち上がる。射出の要領でシグリッドを宙へと放った。
角度、高さは充分。足りない距離は幹を一度蹴り、シグリッドは驚いて硬直している蔦猿に斬りつけた。
二匹目の落下も、ティボーは淡々と処理する。
あと二匹。
危機感に蔦猿の一匹はアレクセイ達から大きく距離を開けた。樹上で油断なく、離れた一団の動向に目を向けている。すると、足元の木が突然の揺れに襲われた。どんっという衝撃の後、木がしなって揺れが連続する。足を滑らせるが、触手は間に合い、枝に絡ませてぶら下がった。何事かと下を見れば、いるのは黒い巨体だ。樹上を見上げている大熊は体重があるため、通常の熊とは違い、木に登れないようだ。腹立ちを示すように激しく、もう一度幹にぶつかった。みしりと、不穏な音が聞こえる。蔦猿は恐怖に身を竦める。なぜ自分がターゲットになっているのか。拙い思考は、ぶつりと触手が切られる感覚に途切れた。落下しながら上向けた視界には、いつの間にか上に登って短剣を握るイリューがいた。
悲鳴じみた鳴き声は、すぐに貪る音に変わる。
慎重に、イリューは大熊を見る。充分に囮に意識が行っていると判断できると、静かに樹上を移動する。アレクセイ達の元へと合流する頃には、堪えていた息が一気に漏れ、呼吸は荒く乱れた。
「……何度か、麻痺針を刺したが、効果は保証できない。それでも半分ぐらいの効果が出れば、離脱の隙はできるはずだ」
凄惨な捕食風景を背後に、イリューは告げる。言葉通り、大熊の腿や四肢に棘のようなものが刺さっている。大熊に気にした様子はなく、一見大した傷にもなっていなさそうだ。
「賭けるか?」
「信じます」
アレクセイは迷わず即答した。
イリューが一瞬、ほんの少し何か言いたげな顔をして、けれど何も言わずに頷く。
蔦猿の最後の一匹は、仲間が無残に食われゆく様を見るまでもなく逃げ去っている。嫌がらせや愉悦で生存本能を鈍らせるほど、蔦猿の知性も腐ってはいない。
号令はなく、五人は互いに目配せで駆け始める。先を行くイリューの背を見つめた後、大熊の追走に備えて、アレクセイは最後尾に位置取った。
※ ※ ※
鍋の中、緑の液体が煮詰められて沸いている。
「……魔女の秘薬でも作る気かい?」
「滋養強壮に効く配合だとリヴに。濃縮できたらイリューさんに渡すよう託されました。……大丈夫ですかね?」
懐疑的なティボーに、エーミルも言葉を乱して不安を吐露する。
調理用の大きな匙でかき混ぜると、とろみが糸を引く。飲み物とは呼び難い。せいぜいスープだ。そして見た目はとても、美味しそうには見えない。
「あの男は、天幕の中か?」
あえて話題をそらし、ティボーは奥の天幕へ目を遣る。
「はい。気力を使い果たした様子で休まれています」
「当たり前だ、大熊相手に蛮勇もいいところだ」
「判断ミスと考えておいでで?」
「咄嗟の判断に、正解も間違いもない。あるのは結果だけだ。ただ感情を呟くとするのなら、心底不愉快だ。命がけの物語が盛り上がるのは、最後に生きてこそだ。保険もなしにやるもんじゃない」
カタンと焼けた薪が崩れる音がして、変化した空気の流れに炎が鍋肌を這い上がる。ボォっと一瞬巻き上がった火の粉を、ティボーは何かを思う目で眺める。
「……もっと、枚数の違いは隔絶的な実力の差だと思っておりました」
同行する三枚二人の安心感に、エーミルは少し勘違いをしていた。イリュー一人でも一階は楽勝そうだった。それにティボーが加わったのだ。彼らが本気になれば、二階の脅威などいくらでも払われるのだと。
「軍内の階級が実力の証左になるのかい?」
皮肉めいた例えに、エーミルは乾いた笑いしか出ない。
「枚数なんて、ただの到達の証だ。認定も印も、塔は観測しているだけにすぎない。恩恵も支援もなく、《塔を昇る者》は勝手に上を望む」
塔はただ、見ているだけ。
「その概念なら、一枚落ちるとはどういう状況ですか?」
無垢を装った問いかけに、ティボーは鼻を鳴らす。相手が不快に思うであろう詮索を、無邪気なフリでこなす。白々しさを、ティボーは若さに免じて許す。
「先を、上を、望まなくなることだ」
一枚落ちる、落とすこと。《塔を昇る者》ではなくなるということ。
ティボーはその時を思い出す。
五階最奥、そこに竜がいた。伝説や物語のような仰々しさではなく、ただただ自然な存在として生息していた。一匹、二匹ではない。人など容易に丸呑みできそうな竜が大量に、当然の生態系として生きていた。
人の身の限界を、感じた。
「塔からしてみれば、落とすのは許しであり、解放であり、見限りだろう」
見ているだけの塔から、見てももらえなくなる。
帰還した後、一枚落ちたことに気付いた時、ティボーは腹を立てた。憤った。この程度の怯みで反応した塔と、自分の怯懦に怒りを覚えた。
その八つ当たりが今の奇妙な縁に繋がっていると思えば、ティボーは何とも言えない心地になる。ティボーは今、全力でこの集団の二階踏破を助けている。詐欺行為の贖罪などでは決してない。ティボーは果たしたいだけだ。自分が助太刀すると決めた集団の目的を。そうでなければ、自分の格が下がる。
「……変な匂いが混じってきてないかい?」
「あ」
焦げかけている鍋を、エーミルは慌ててかき混ぜる。少し茶色っぽい部分が混じった。木の椀に注いだそれは、もはやスープの粘度すら越えている。
「……とどめになりませんかね」
「聞かないでくれたまえ」




