8 白い塊と不和と下着
木戸の隙間からも窺える陽射しの強さに、アレクセイは掛け布を被った。自分の体温で温まりきった寝台は不快だが、起きる気にはなれない。
「アレクセイ様?」
戸の開く気配と共に、気遣いの滲む従卒の声がする。
「エーミル……戻ったのか」
「あ、はい、その、泊まりを許可していただいてありがとうございました」
「いや……今まで配慮が足りてなくてすまない。私の事情に君は無関係だというのに」
「その……、剛健たるにかような代償がおありとは、自分こそ思い至らず」
言葉を濁らせるエーミルに、アレクセイはシーツの内で力なく笑みを浮かべる。公爵家御用達の娼館で御利用遠慮、とどのつまり出入り禁止になっている話はティボーが外面も保たず爆笑するほどだ。今宵の花を選べと言われて白状せざるをえなかった。試してみてもという誘いも固辞したのは、無理に相手させたい訳ではないからだ。それに、気分も乗らなかった。
「……二日酔いですか?」
気が利く従卒は寝台の奥脇に移動し、水差しからコップに注いだ。
「途中から、お酒を召される速度が上がってらっしゃいましたしね」
エーミルは、その瞬間を確かに捉えた。それでも終始素面のような態度であったことを、エーミルは恐ろしいと思う。理性の箍をほんの少し緩めるだけの酔い方。酒に酔ってですら、感情を制御する習性。
布の端を浅くめくってコップを差し出すと、白い塊が少し盛り上がる。シーツを被ったまま、アレクセイはうつ伏せだった身体を起こした。
ぬるい水を、不調の強い喉に流し込む。
「……他人の欲でしか生きられないとは、何なのだろう」
ガチャンとエーミルが持ったままだった水差しを、卓に取り落としかけて慌てている。
珍しいこともあるものだと、まだ器に残る水にアレクセイは視線を戻した。狭いコップの中では波紋も立たず、ただ持つ手の揺れに合わせて僅かに波打っている。
「私が見ていたあの人は、私の願望の鏡でしかなかったということだろうか」
バトゥルの押し付けを、アレクセイは諭した。だが自分もまたそうであったのかもしれないという思いは、落ち着かずに飲酒のペースを早めた。共にした帰り道でも、尋ねたい葛藤と踏み込む躊躇いに、酔いに任せてですら問いは口にできなかった。
自分が都合良く、利用していただけなのか。
卓上にこぼれた水を拭った後、エーミルは居心地悪く入口側に目を遣った。
「ご本人にお確かめになられれば良いのでは?」
その言葉に数秒硬直し、それからアレクセイはシーツを跳ね除けて振り返った。
黒い影が、そこにある。エーミルが窓へと近づき、木戸を押し開いた。白っぽい壁が陽光を照り返し、室内は急に明るさを増した。アレクセイは目を細める。まばたきを何度かして、それでも揺るがぬ黒に、コップが手のひらから落ちた。厚手の陶器は割れはせず、木目の床に転がり、残っていた水が零れる。
「道すがらお会いしまして。お気づきかと思っておりました」
気まずそうに言うエーミルに対して、黒の瞳は平然とアレクセイを見ている。
「……次の予定の確認だけだから通してもらったが、良くなかったか?」
再びシーツを被って籠もりたくなる衝動を、アレクセイは必死でこらえた。
茶を貰ってまいりますと、エーミルは早々に逃げた。それが思いやりの結果であることを、アレクセイは分かっている。
「話すべきという雰囲気に合わせたが、余計な気を遣わせたか?」
それでももう少しはいてほしかったと、往生際の悪い思いがアレクセイの胸にはある。シーツを脇に置き、アレクセイは手慰みに枕を抱えて、眉間にシワを寄せた。
「やりづらいなら他の人間に」
言葉を、アレクセイは手のひらを向けて遮った。
沈黙が続いてしばし、アレクセイは俯き気味だった顔を上げた。寝台端に動いて腰掛けると、その隣を叩いてイリューを招く。ぎしっと片寄った二人分の重みで寝台が軋む。
「貴方の優しさは、俺がそれをねだったからですか?」
少しの葛藤を抑えつけ、アレクセイは真っ直ぐに問いを向けた。
塔への旅は慣れない貴族子女に簡単にできるものではない。手配にはかなりの金額が動き、かなりの人間が動いた。だがそれで保証されるのは行き来だけだ。塔を昇ることは、誰に世話されることもなく、アレクセイ達が挑まねばならないことだった。
そこでたまたまイリューと出会った。一目見て優秀な人材だと察して確保したまでは打算だ。知識を丁寧に語る姿に、世話好きなのだと頼った。強さに感服すれば憧れもする。優しさに触れて慕わしくもなる。対人の当然な積み重ねで、ここまで来たとアレクセイは思っていた。
なのに、足元の影を、今更知った。
アレクセイは、じっとイリューの反応を待った。
「……よくある喪失の話だ。俺にはもう、自分のために生きる欲がない」
最愛を亡くした。ひどい拷問にあった。理不尽に打ちのめされた。そういう、どこにでもある話。イリューはそう、冷静に自分を分析している。
「だからといって他人の望み通りに生きてるわけじゃない。分かってるだろうが、俺は空気を読むのが下手だ。人の欲を見抜くのも苦手だ。お前に欲があったって、俺がそれに十全に応えられるわけがない」
過剰、過少、どちらも起こりうる。それは欲の鏡とは言い難い。
「何を心配してるか知らないが、俺は俺だ」
この歪さが今の自分の形だと、イリューはアレクセイに伝える。
「……優しいと、思ったんです」
「知識の押し付けを優しく感じるのは、お前のたまたま欲しがってるものが貰えたからだろ」
「世話好きで」
「新人はすぐこいつに飛びつく。単独でフラフラしてるのは珍しいからな。それで長続きしたことはないが。分かってる奴らは、むしろ俺を避ける」
イリューの上げた手の甲に、三枚は刻まれている。アレクセイもまた、指針としたもの。軽い気持ちで縋れば、生き方の違いで嚙み合わなくなる。
「ご厚意に報いることができないと、思っていたんです」
成果で返そうとしていたところに、ティボーを連れて来られた。その誤差が、イリューのいう望みに応えるばかりではないということだろう。
そうやって応えきれないところが、イリューの姿だ。ずれてずれて、その結果弾き出される異物。それでも、イリューから突き放すことはしない。手を伸ばしている限りは、手を伸ばし返してくれる。
「依頼して、きっちり報酬まで出しといて、何でそうなる。……返すことなんかは考えなくていい」
まるで対価に対する当然の働きのように言う。
だが、アレクセイがイリューと交わした契約はあまりに不平等だ。
塔の都市の価値基準は独特だ。塔という未知を中心に、その中心に近づくほどに価値は跳ね上がる。その常識への理解が、都市に辿り着いたばかりのアレクセイには浅かった。本来四枚であるイリューを雇用する報酬など出せるものではない。ましてやティボーもだ。足りない報酬を補うのは、ティボーはプライド、イリューは――やはり優しさだとアレクセイは思っている。
「この街は、そういう場所だ」
繰り返しなのだと、アレクセイにも何となく分かる。イリューもまた、返しきれないものを受け取って、生きている。イリューにそれを渡したモッカも、ガナハも、返されることなど望んでいない。なぜなら望まれていなくてもみな強引に与えてくる。みんな好き勝手助けているだけ。
でも、それを次に送るかどうかは、本人次第だ。それは決して、当たり前の行為ではない。
あぁと、胸に感嘆を呟く。助け、尽力、献身。高見にありながら、それを厭うことのない精神性に敬服する。好ましいと、感じる心を素直に受け止める。
なのにどこか、心のずっと奥の方で、何かが燻っている。
この慈悲は、誰にでも施される。シグリッドにも、リヴにも、バトゥルにも。
だからこそアレクセイにも。
けれどイリューの忠義が向かう、特別な人間はただ一人だ。全てをもって尽くし、死後は生きる気力さえ捧げ尽くした今は亡き主君。国が落ち、本人が死に、それでもなお。
一途に、唯一、主と望む。
それを、――羨ましいなんて。
※ ※ ※
キーキーと甲高い鳴き声は周囲で木霊し、不快に耳に響く。蔓猿の樹上移動は人間の足より速い。無視して進行すれば興味も失うかと思ったが、知性と害意を備えた難敵は一向に追跡を止めない。
振り切れない。アレクセイは判断し、踵を返しかけた。
「まだ進め!」
頭上からの一声に、踏み止まりかけた右膝を折った。前傾姿勢のまま、また次の一歩を左足で踏み出す。
後方でガツッと固い物がぶつかり合う音がした。おそらく投擲された岩との攻防の音。
「左寄りに突っ切れ!」
声の主の位置が先程より後ろにずれている。指示通りにアレクセイは走った。途中の邪魔な枝は、続く仲間のために切り払う。
木漏れ日の明るさが増した。指示の意味を悟り、アレクセイは下り気味になっている地形を一息に飛んだ。
視界に、穏やかな湖が広がった。林立した木が途絶え、青空を写す湖面が照り返す。思ったよりもあった高低差に受け身を取り、転がりながら次の動きへ体勢を整える。
「反転!」
仲間達が木立を抜けた途端に、アレクセイは指示を飛ばした。同時に全員の脇を抜け、一番後方に位置取る。ちょうど最後の木の枝に蔓型の触手を絡めて飛び出してきた一匹を、盾で弾き飛ばした。自身の遠心力をまともに衝撃として食らった一匹はのび、触手が解けて地面に転がる。
致命傷ではない。意識が戻らぬ内に仕留めれば、一匹減らせる。
だが追い打ちを誘う木陰にアレクセイは戻らず、踏み止まる。
その前方で、二つの影が交差した。
片方は蔓猿の別個体、もう片方はイリュー。蔓猿がいつもの触手移動で円弧の軌跡を描く中、イリューはただ短剣をかざしていた。
蔓猿の首から吹き出した血に、イリューが濡れる。
アレクセイは、沸き上がる感情のままに声を上げた。
「イリュー、下がって!」
呼び声は届く。
結果は一瞥だけで終わった。何の関心もない素振りで、奥で倒れている一匹にすぐ注意は移る。
向けられた背中に、アレクセイは明確に怒りを覚えた。
「――下がれ!」
腹からの発声は戦場と同じ、威圧を含んだ。空気を揺らす怒声に、敵味方問わず自分に注意が集まったのをアレクセイは感じる。音で気が付いたのか、横たわっていた一匹も身体を起こしている。さすがにイリューも退き、アレクセイの横を過ぎた。
盾を持つ手を握り直す。
アレクセイは諸々を一旦押し殺し、標的になることに集中することにした。
「早めの野営にしましょう。イリュー以外は、夜番鳥と焚き木の確保に」
戦闘終了後、硬質な声で告げられた内容に、少年少女は大人しく従った。ティボーだけは呆れた表情を隠しもしていなかったが、口は挟まずに他の面々に続いて去った。
湖のほとりに、イリューとアレクセイだけが残る。落ちた静寂に、少しあった距離をアレクセイは大股に詰める。木に凭れて立っているイリューの前に立つ。
「貴方を危険に晒してまでの進行を望まないと、私は言ったはずです。なぜ盾役の前に出たんですか」
「すぐ片付くと踏んだ」
「樹林から抜けることで蔓猿の移動範囲を限ったはずです。それを指示した貴方が、なぜ危険地帯に留まるんですか」
「お前らより慣れてる」
「……私が、あの状況で仕留めにかかると踏んで、助けに入る位置に降りたんでしょう」
次の言葉を告げるのに、アレクセイは一度唇を閉じた。湧き上がる感情を制御し、冷静に言葉を紡ごうとする。
「――俺を、そこまで未熟者だと?」
木陰でのびた蔦猿。追撃に踏み込めば、他の個体の敵意は必至だった。上空への警戒は難しい。だからアレクセイは踏み止まり、防御に徹した。それが己の職分だからだ。
それをイリューが読み間違い、アレクセイの前、樹林の方へと降りた。罠に構えていた一匹を仕留めるところまでは想定内でも、さらにその奥、初めの一匹を狩るには危険度が高い。なのにイリューはアレクセイの場所まで退かず、そちらに向かう意思を示していた。
「……読みが甘かったのは謝罪するが、助けが空ぶったのは危機がなかったってことで悪いことじゃ」
まだ言葉を続けるイリューを無視して、その背後、木の幹に手をつく。すぅっとアレクセイは大きく息を吸った。
「ご!」
近距離の唐突な大音声に、イリューは反射的に身を縮こまらせた。
「ご!」
「……ご?」
追い打ちにもう一度同じ音が発せられても、イリューは状況が飲み込めない。寄せられた体は影となって圧迫感をもたらす。かけられる圧の意味が分からず、ただ音に疑問を呈する。
「め!」
「め……」
二音の復唱の果てに、沈黙が落ちる。近すぎて見上げている首が痛む。青の双眸が冷えた温度感で見下ろしている。
今、何が起こっているのか。
『ご』、『め』。
「……んなさい」
反発の気持ちを萎ませて、捻りだした答えを口にする。子供のような謝罪の言葉がむずがゆく、視線が泳ぐ。
アレクセイの視線から険が消えた。
「私を見くびっていたことは今ので許します。ですが、集団の規律は守っていただきます。前線は私に任せてもらっているはずです。上級者である貴方の勝手を許せば、ティボー殿にも同様となるでしょう。そんな集団がまともに機能すると思っておいでですか?」
「いや……そうだな、悪かった。独断が過ぎた」
実際、イリューならば森の中でも蔦猿の攻撃を捌ききり、倒れた個体にとどめを刺せたかもしれない。あの戦闘の目的、蔦猿の撃退という点では、イリューの選択は決して悪手ではない。
イリュー自身の安全が、どんどん優先順位を下げていっているだけで。
一番腹が立ったのは、それなのだ。
唇を引き結び、それでもアレクセイは言葉を呑む。不用意な言葉はかけられない。元よりどんな言葉もきっとイリューには響かない。
目的達成のためなら仲間でも自分でも殺す。
その根源を、知ってしまったから。
本当の意味で、ようやく最初の頃のイリューの言葉をアレクセイは理解する。このズレは、多くのパーティには致命的になる。
だからこそ、イリューは独りなのだ。
歯痒さが、ある。
ふうっと、アレクセイはまた込み上げたものを深い呼吸で鎮めようとした。思い返してぶり返した感情を、どうにか収めようとする。
「脱いでください」
どうにも収まらなかったので、言い放った。
「……なんでそうなる」
「蔓猿の血を浴びたでしょう。洗ってきますから、ちょっと下着一枚で反省していてください。腹が立った腹いせです」
「随分……なんというか、独特の嫌がらせだな。別に身ぐるみ剥がされて恥じらうタマじゃないぞ」
本来は極寒の雪の中で行わせる懲罰の一種だが、確かにこの場では効果はないだろうと、アレクセイも分かっている。大体、罰する立場にあるわけでもない。これは単なる、歯痒さの八つ当たりだ。
アレクセイが距離を置くと、イリューは木から背を離した。横向き、服の裾に手をかける。言葉通り動作に躊躇いはなく、めくり上げた服から頭を抜いた。アレクセイとは違う、少し色味のある肌が露わになり、絞られた筋肉が日差しに照らされる。続いて腰にかける手にも迷いはない。
次の瞬間、アレクセイは固まった。
目にしたのは、細い綱もどきの下着だ。布は股間の一点だけ広がっており、ひたすら簡素に局部のみ隠している。腰骨の上には、縒ったような形で白い布が斜めに伸びていた。背面は頭のない槌型で交差しており、引き締まった臀部の、尖りがちな頂点さえはっきりと確認できた。
なぜだか無性に、アレクセイは落ち着かなくなった。
脱ぎ終えた服を渡そうと顔を上げたイリューが、訝しげにアレクセイを見る。
「どうした」
「いや……それはお国の、伝統的な、下着、でしょうか」
「そうだが、ここいらの奴らも似たようなの使ってるだろ。大して珍しい形でもないはずだが」
「初対面、です」
動揺を押さえつけようとするが、単語の選択が狂う。喋り方も不自然になる。
イリューが、軽く寄せていた眉根を更に近づけた。
「何を気にしてる?」
「お尻が、見えて、います」
「男の下着なんてブラつく前を仕舞えればいいだろ。ケツが見えても、服を着るんだから問題ない。普通だ。……なんだ、何が言いたい」
懐疑を醸し出し始めたイリューに、アレクセイは内心で焦る。
歩いたらこぼれそうな。
ふっと思い浮かべた評価が余計な想像を働かせ、アレクセイは堪らず片手で目を覆った。
「は……破廉恥だなと」
「嫌がらせにしてもそういう辱めは止めろ」
いつになく感情露わに、イリューの顔がしかめられる。そっと広げられた服が、下半身を隠した。