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5 樹林と行商人と焚き火

 《蔓猿》。樹上での動きが俊敏な上、知性のある攻撃をしてくる二階樹林地帯の厄介者だ。

 ガツっと大きな音と脇に立った影に、シグリッドは遅れて状況を悟った。一匹に集中している隙に、頭上から石の投擲を受けた。先程の音は、アレクセイの盾が攻撃を防いだ音だ。

 謝罪の言葉を受け取る間も置かずにアレクセイは離れ、シグリッドが相手していた蔓猿に斬りつける。

 先に蔓猿が大きく腕を振り上げた。手先から伸びた蔓に似た何かを枝に絡ませ飛び上がる。空振りしたアレクセイの一撃を嘲笑い、樹上でキーキーと囃し立ててくる。

 その鳴き声が、ギッと濁る。両手を一まとめに拘束し、イリューは仲間の蔓猿に見えるようにその一匹を吊るし上げてみせた。やかましく喚く口の前に、きらりと短剣をかざす。蔓猿達の視線を一身に浴びながら、イリューは毛に覆われた首を横に掻き切った。

 ギッ、ギャッと続けざまに、他の個体も悲鳴を上げる。一匹はリヴの短弓に撃たれ、もう一匹はアレクセイの投げた石に落とされ、エーミルとシグリッドに地上でとどめを刺される。

 帰趨は決した。

 残る個体に向かって、イリューは腕にあった死骸を投げつける。甲高く鳴き声を上げ、背中を向けた二匹は枝から枝へと木々の帳に消えた。

 するすると流れる動作で木から降りたイリューに、リヴは荷物から清潔な布を取り出して駆け寄った。

「怪我っ、ないですか?」

「全部返り血だ」

 差し出される布を固辞し、顔に飛んだ血を袖で拭う。イリューの態度は冷静そのものだ。

 その様に、アレクセイは思わず呟きを落とした。

「なぜ」

「奴らは頭が良い上に地の利もあっちだ。長引く前に片付けたかった。勝手をしたのは悪かったな」

 そうだが、そうではない。アレクセイはもどかしく思う。

 一瞬で静かに終わらせられる一撃を、イリューはわざと大袈裟に演じた。知性のある生物に仲間の危機を見せつけ、血しぶきまで派手に上げた。それらが盾役として自分が担うべき意識の誘導であったことを、アレクセイは分かっている。四人だけでは勝てない。その判断がイリューの中で行われ、助けられた。

 だが問いかけたなぜは、そういうことではない。

「危険が、あったはずです」

 イリューが強いことはアレクセイも分かっている。

 しかし、その強さに防御の面は含まれていない。樹上でのやりとりでは、何かあってもアレクセイ達の救援は遅れる。孤立とは、命を危険に晒す行為だ。戦場においてはそうだった。

「……今更か?」

 訝し気に一言、イリューはそう返した。その瞳の黒に、死を恐れる色はなかった。

 異質さに、ぞわりと肌が粟立つ。反射は本能的な拒絶だ。

 それでも。

「駄目です」

 怯む感情を振り払う。リヴの手元から布を受け取り、アレクセイは一歩を踏み出す。

「貴方を危険に晒してまでの進行を、これ以降は一切望みません」

 言い切り、顎に指を添えて顔を上げさせる。戸惑うイリューの目元の赤を、丁寧に拭う。

「同意してください」

「これくらいは」

「同意を」

 強めの語気に、ふっと吐息がイリューの唇からこぼれた。笑いの呼気ではなく、言葉の圧に堪らず漏れたような。同時に見開いた目蓋を少しずつ落とし、やがてイリューは顔を背けようとする。

 それをアレクセイは、顎を押さえて留める。目をそらすことを許さない。

 少しずつイリューの顔が歪む。密かな力の拮抗により、イリューの顔とアレクセイの指が小刻みに震えている。

「……分かった」

 一向に逃れられない見つめ合いに、根負けの同意は返された。



 二階樹林地帯は、一階を越えた者にとって、明確な次の試練だ。一階と違って空間は全方位に開放されており、茂った植物のため死角も多い。敵性生物も種類が増え、飛行生物がいつ何時襲いかかってくるかも分からない。その上、慣れれば一日で踏破可能な一階と違い、二階の広さは把握されている分だけで十倍近い面積がある。必ず野営を必要とする構造は、踏破者を厳しく選別する。

 木陰で休む仲間の元から、水音がする方へとアレクセイは足を向けた。

 波紋の中心に、血に濡れた装束を脱いで、汚れを落とすイリューが見える。

「肉食魚がいるという話ではありませんでしたか?」

「仲間の血の匂いは避ける」

 そう言って顎で指すのは、ぷかぷかと少し離れたところで腹を上に浮いている魚の死骸だ。凶悪な顔つきの魚の歯は、アレクセイが食生活で見るそれよりも圧倒的に鋭い。

 この森は驚異に満ちている。

「……今回は、撤退します」

 少しの逡巡の後、四人で出した結論をアレクセイは伝えた。

 樹林の情報は仕入れていた。建造物がないため分かりにくいが地図も受け取った。前もってリヴも遠距離武器を修練し、上空攻撃にも備えた。それでも続く緊張感は神経を削っていき、凡ミスも増える。野営で多少体力を回復させても、精神はすぐには回復しない。このまま進んでもじり貧だと、四人で判断した。

「そうか」

 頷き、イリューは水際へと戻ってくる。水から上がり、しずくを滴らせる上半身は、アレクセイが思うより充分鍛えられている。あちこちに残る不自然な肌の引きつれや色味の違いは、アレクセイも見知った戦いの痕だ。歴戦の傷、そう呼ぶに足るだけの痕に、アレクセイは実感を強くする。手の甲に刻まれた三枚の価値。進めば進むほど、その頂は遠ざかる。

「私達は、二つ目の認定に至れるでしょうか?」

 血を落とした服を絞り、イリューは着なおした。布は肌に張り付くほど薄いのに、その内側の鍛錬や経験を覆い隠す。イリューという人間そのものが持つ、特性のように。

「どこまで手段を選ぶかだ」

 他の面々がいる方へ戻る背中に、アレクセイも続いた。



 ※  ※  ※



「なんだぁ、そんなことぉ」

 笑い飛ばす声音は軽く、ついでにその足取りも軽い。

 体格の倍もあろうかという荷物を背負い、その足取りは誰よりも早い。アレクセイですら油断すると置いて行かれる。一団で一番小柄なシグリッドはモッカより大きいはずだが、もはやずっと走っている。

「やぁだもう、来訪さんは真面目だよねぇ。すぐ、そういう、至れるか至れないかみたいな話しだすんだもん。行けそうなら行くで、行けないなら帰ろでいいじゃん」

 最後尾、転びかけるシグリッドをイリューが支えた。その手前では高さを見誤った枝にアレクセイが頭突きをしている。

 一方モッカの足取りには淀みがない。樹林の高い草に足を取られることもなく、小枝に荷物をひっかけることもなく、モッカは先へ先へとずんずん進んでいく。

「あ、あの、どうしてそんなにいっぱい持てるんですかっ?」

「ん? それはおねーさんが丈夫だからだよぉ。身体ちっさくてもねぇ、重さを自分の重心で受け止められればそう難しくないんだよ」

「重心?」

「お馬さん乗ってるとない? どれだけ揺れてもぶれない、自分の中心」

「ああっ!」

「意識してみてぇ」

 会話は呑気だが、速度は呑気ではない。

 シグリッドが最後尾で、イリューに抱えられるのを必死で拒絶した結果、横からアレクセイに膝裏から腕を回して抱えられた。一行はひたすら樹林地帯を突き進む。

「よぉし、着いたよ!」

 視界が開けたところで、モッカが足を止めた。リヴが見えた光景に目を輝かせる。

「畑!」

 思わず叫んでしまうのも分かる光景が、一行の前には広がった。

 未開の樹林としか思えない二階地帯に、人の手が確実に加わっている耕作地がある。周辺は簡単な柵で区切られ、多種多様な植物が栽培されていた。果樹もあれば、材木の積まれた木こり小屋まである。

 エーミルとアレクセイも、予想外の景色に感嘆する。抱えられた恥ずかしさで顔を両手で押さえていたシグリッドだけ反応が遅れた。

「そう、塔の恵み様々」

 塔の都市は砂漠の街である。当然、耕作には向かず、食料の自給は難しい。それを解決しているのが二階樹林地帯だ。動植物が多く生息するその生態系は、塔の都市の食糧庫代わりになっている。特にモッカが指揮するこの一角は、栽培という方策をとることで安定供給を叶えている。同様のものは他にもあるが、この規模は稀だ。

「さぁさ、お手伝いお願いねぇ」

「はい!」

 リヴは元気よく返事する。

 周りはほんの少しだけ、何とも言えない顔になる。

 出口広場で、「何かしょげてんねぇ、おねーさんに話聞かせてみ?」と声をかけられた。話をすると、出たはずの樹林に逆戻りさせられた。そして今、疲れた体に鞭打って農業の手伝いをすることになっている。

 嫌だと言い出す面々ではないが、あの話の流れからなぜとは軽く心にあった。



「おお、ねえちゃん、良い腰してんな」

「えへへ、クワ使いには自信ありますっ」

「……おねえさん、不器用?」

「なっ、レース編みならまだしも籠編みなんてしたことないんだからしょうがないでしょうっ!」

「いやぁ、やらなやらなとは思うんですけどねぇ」

「切れない斧、カマは怪我の元ですよ、ほら」

「おおこりゃハシゴいらずでええね、にぃさんもうちょい右!」

「あぁ、あんまり身体傾けないで。落ちますよ」

 和やかな作業風景に、外から帰ってきたイリューは出くわした。現地作業員と交わされるやりとりに遠慮はなく、先程まであった彼らの疲労感も見えない。顔を別方向に向けると、持ち込んだ部品で柵を強化しているモッカを見つける。その横に腰を下ろし、右手に吊るして血抜きをしてきたウサギの解体を始める。

「ちょっとイっちゃん、肉食獣来ちゃうでしょうが」

「大分遠回りして、ほとんど血が落ちなくなってから帰ってきた」

「うんそりゃ大丈夫そうだ。じゃあワタシは芋酒出しちゃおうかなぁ、い〜もざけ〜」

 妙な鼻歌が始まるが、反応はせずにイリューはウサギの皮を剥ぎ、腹を裂いた。臓物と肉を分け、拾った大きな葉っぱの上に丁寧に並べていく。

「――そんで、まだどっちでもいい?」

 肉の部位を切り分けていた所で、問いは投げかけられた。硬い部位は細かく切り刻みながら、イリューは口を開く。

「ああ」

 柵の作業音も止まない。

 互いに片手間に問い、片手間に答える。

「そっかぁ、じゃあ夢見が悪いから生きてね」

 あの日と、浜辺で死にそうな男を見つけた時と同じ言葉を、モッカは口にする。


『生きてる? 死んでる?』

『……どっちでも……いい』

 あの日、そう答えた男は、今も変わらず死の淵に立っている。だから生きなければならない理由を、どちらでもいいのならこちら側に引き込む言葉を、モッカは贈る。

 だって死ぬのは、いつだってできるのだから。

 モッカは子供が産めない。多分、産むことができない。モッカは行商人であり、世界各地を旅した。それでも尊敬する曾祖父ほどではないし、男の兄ほどでもない。モッカの心には、どこかに良い男がいて良い恋ができたら、子供を産んでそこに骨をうずめるかという軽い気持ちがあった。良い男も、良い恋もあった。でも妊娠することはなかった。愛しい男との生活、けれど変わり映えのしない日々に時折心が旅に出る。進むごとに変わる景色、容赦なく襲い掛かる自然、予測のできない明日。旅への欲求が勝るごとに別れを選んだ。そんなことが、幾度かあった。

 あぁ自分は母にはなれないのか。その諦観は、死にかけた命に出会って覆された。救った、守った、愛した。縋られた、慕われた、愛された。その循環にモッカは満たされた。

 生命が産まれるのは奇跡だ。ならその奇跡を継ごう。モッカはそこに辿り着いた。

 だから、死の淵にいる男も生かし続ける。


「手伝いますか?」

 声がした方に顔を向ける。果樹の収穫を手伝い終えたアレクセイが、イリューの手元を覗き込むように立っている。イリューは手早く解体を済ませ、立ち上がった。何事か言葉を交わしながら、二人連れだって去っていく。

「……そこは女の子を手伝うんじゃないのぉ」

 少しの不満を力に込めて、モッカは柵に木槌を振り下ろした。



 昼間の作業員が帰った後、モッカ達は小さく焚き火を囲んで食事をしていた。直接帰還があるため、進行を重ねたい冒険者でない限り、普通夜には塔を離脱する。敵対生物の脅威を考えれば当たり前のことだ。

 それを引き留め、今の時間を提案したのはモッカだ。イリューの狩ってきたウサギが振る舞われ、モッカ印の樹林地帯特製酒が一杯ずつ配られた。後は持ち帰るつもりだった、リヴが背負っていた干し芋などの糧食を少々。

 特別贅沢なわけでもない、満腹にもならない夕食だ。

 なのになぜだか、満足感のようなものが、アレクセイ達四人にはある。

 柵付近に夜番の見張りが立ってくれているとはいえ、不思議と心が凪いでいる。

「ああ、そうそう。バトゥル君が三枚になったんだって」

 誰に向けた言葉か、咄嗟に理解できなかった面々はモッカの視線を追う。ちまちまと名残惜しむように木杯を傾けるイリューがいる。

「イリューのお知り合いですか?」

 特に答える必要を見いだせなかったのか、黙したままのイリューに、アレクセイが会話を繋げる役割を担って問いかける。

「んーっと、イっちゃんの信者? 被害者? 監視者?」

「知り合いではある」

「イっちゃんのそういうとこぉ。バトゥル君、あんな健気なのに」

「顔を合わす度罵られるが」

「愛と憎しみは一歩違いだよねぇ」

「ちょっとお待ちなさいな、殿方の話をしているのよね?」

「……この話続けます?」

 色んな意味で不穏な気配を感じ取ったエーミルは伺うが、それに応じるものはいなかった。

「罵られるってなんなんですの。そうなるにあたって何かあったんでしょう?」

 問い詰めるシグリッドに対して、イリューは一切響いていない態度を見せる。そこに答えはあるようなものだ。

「貴方のそういう所、ワタクシも問題だと常々思ってますのよ! 何なんですの、その歯牙にもかけてないという態度!」

「シグリッド嬢、落ち着いて」

「アレクセイ様も思っておられるでしょう? いくらなんでも朴念仁過ぎますわ! もう少し空気に配慮するとか何とかあるでしょう! ワタクシ達だって女ですのに、花摘みに普通についてこようとかどういう思考ですの!?」

「それはイっちゃんが悪い」

「はい、あれはイリューさん悪いです」

 女三人の非難に、イリューが手負いの獣でも相手にするように、ゆっくりと杯を置いた。

「いや……危険が」

「そんなことは分かってます! その上で女に興味がないにしても、ワタクシ達への配慮がなさ過ぎです!」

「……面倒なだけで興味がないわけでは」

「なお悪い!」

 完全に説教態勢になったシグリッドに、イリューは黙って全てを甘受する姿勢を取った。

 エーミルはただ恐々とするのみだ。母一人姉二人を持つ身として、イリューの選択を全力で肯定する。女性からの説教はただ黙して受けよ。これが大した伝統も格式もないエーミルのノルドフェルド男爵家唯一の家訓だ。

 年若い女に説教される男というのも居たたまれないので視線をそっと外す。すると何やらアレクセイがソワソワと落ち着かない。香りの時点で酒精が強いことは分かって酒は回収したため、今日は変な積極性はない。無謀にも仲裁に入りたいのだろうか。それは完全なる悪手である。エーミルには、アレクセイが最後まで余計な介入をしないよう祈るしかない。

 手持ち無沙汰に、外へ意識を向ける。

 虫の音が聞こえる。遠くにフクロウに似た鳴き声、それから焚き火の音。空の星、肌に風と熱。

 状況は野営時と変わらないのに、なぜか五感がしっかりと世界を拾う。警戒時よりもよっぽど、頭が働く。

「不思議でしょ」

 小さく語りかけられ、エーミルは空に上げていた視線を横に落とす。

 褐色肌の小柄な女性が、にこにこと機嫌良さげに笑っている。随分年上らしいのに、エーミルには今、モッカがとても可愛らしく見える。

「気持ちで世界は変わるんだよ」

 とっておきの秘密のように囁かれたそれに、エーミルは目を見張る。モッカの瞳が、世界の美しさを写すように輝いて見えたから。

 焚き火の反射でしかない現象を、エーミルはそうじゃないと理屈付けずに受け止める。

「はい。とても綺麗です」

 自分の幸運を、エーミルは今日も噛み締めた。


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