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4 水鏡と認定と飯屋店主

 実際の移動距離がどれだけなのか、四人にはさっぱり分からない。

 分からないが、四人は辿り着いた。

「え?」

 思わず声を漏らすのはリヴだ。驚きに目を見張っている。先程まで歩いていた。いつ終わるかもしれない薄暗い廊下、どこから何が湧くかも分からない緊張、溜まり続ける疲労。それでも足を進めるその一歩に、景色が一変した。

 戦時の野営地のような様相の、《踊り場》に。

 先程まで存在を感じることもなかった人々が、並んだ天幕間をうろついている。

「本当に、着いた」

 地図を確認して一行の進行を管理していたエーミルは、安堵の息を吐いた。記載では最深部であるはずの地点で先に廊下が続く状況は、今日一番エーミルの精神を疲弊させた。

「こっちだ」

 脱力してしゃがみたくなる思いを、エーミルは誘導の言葉に踏み止まった。

 一旦の祝辞も労いも、ましてや説明もない。とはいえ、本当に行くべきところがこの先にあることは、イリューの態度がなくとも全員分かっている。腰を下ろしたい欲求を堪えて、先導するイリューに続く。

「空きテントあるか? 本番は明日だ、今日はとっとと寝るぞ」

「買い忘れはないかい? 丸屋なら何でも揃うよ、寄ってきな」

「あぁクソ、ランタン狩り横行し過ぎだろ。どうする、収穫なさ過ぎるからこのまま二階も行くか?」

 五人前後の集団が、点々と各所に陣取っている。焚火を囲み、食事をしている一団までいる。それに気づいてシグリッドはふと見上げた。

 そこに、空がある。

「……デタラメですよね」

 その驚愕に気づいたらしいエーミルが近くで小さく言葉を崩して呟くのに、シグリッドは淑女らしくない頷きを連続で返してしまった。

 見渡せば、それは砦の修練場か、城の中庭のよう。四方には石造りの高い壁がそびえたっている。シグリッドの目に写る通り、上には空があり、その事実に気づいたことによって風も感じ始めた。外界の空気を、塔の中だというのに感じる。

「ここがお望みの場所だ」

 イリューは足を止め、四人を振り返った。

 その前には成人の腰の高さほどの石がある。横幅は大きく、人が二人並んで寝てもはみ出さないくらいだ。そのなだらかな天面が一部凹んでおり、そこに満ちた水が縁から細く零れている。

 《認定》。

 その未知への高揚に、誰も口を開けない。

 イリューが半身振り返った状態のまま、左手を水に浸して見せた。その甲に刻まれた三枚が、柔らかな色を伴う光を帯びたかと思えば、波紋の走っている水面にのたうつ紐が現れた。紐、のようなもの。黒いそれは一つの形で停止する。右、中、左。紐の連なりは上下方向に三本ある。途中、途中は切れており、完成した模様は紐とは言い難いものになっている。

 それを全員で見つめて、しばらく沈黙が落ちる。

「その、これは……?」

 いくら見つめても理解できるものはなく、さすがにアレクセイが説明を求めた。

「俺の故郷の文字で、認定の内容が書かれてる」

 何でもないことのように言いながら、イリューは手を引いた。再び水面が波立ち、その波に未知の言語は紛れて消えてしまった。

「どういう仕組みか知らないが、そいつが一番理解してる言葉になるらしい」

「字が読めない者もいるのでは?」

「そういう時は絵だ。具体性に欠けるように思えるが、当人にはえらく分かりやすい絵らしい。俺も一回出くわしたことはあるが、他人には解釈が難しくても本人にはピンと来るんだと」

 《認定》と言葉には聞いていても、その実態に四人は驚く。どこまでも謎多き塔に、やっと辿り着いた感動よりも圧倒される気持ちの方が強い。

「しないのか?」

 その問いにようやくアレクセイが動く。順番に異論などなく、若い三人は水面が見えるよう、少し近づいた。

「一応両手を入れろ」

 かけられた声に、アレクセイは両手を伸ばした。指先に触れた水は、温度差をかろうじて感じられる程度の冷たさだった。沈めて手全体を浸からせ待つと、踏破の興奮がまだ残る鼓動が落ち着いていく。

 水面が、静まっていく。

 その表面に、紐が左から右へと踊る。

 《塔を昇る者》。

 確かに北方王国の言葉で、それは書かれている。馴染んだ文字に何度となく視線を往復させる。満足するまで何度も繰り返し、それからアレクセイは手を引いた。

 その左手の甲には、見覚えのある印が一枚、刻まれていた。



「これぇでぇ、ええかのぉ……」

 四人は軽い放心状態にあった。不可思議としか言いようのない現象は塔に関連して、四人もそれなりに経験してきた。そんな中、手の中にある一枚の紙は急な現実感を四人にもたらした。

 認定証明書。

 数多の国に対して効力を持つ、一枚の紙だ。塔標準の日付、認定を受けた者の名前、認定の内容、そして認定証明人のこれらの認定が行われたことを確認したという一文と署名。国元で額に入れて飾られるか、金庫に厳重に仕舞われるかというほどに大事な、一枚の紙。

 その事実だけでも重いのに、アレクセイとシグリッドはもう一つの事実に気付いている。署名された認定証明人の名前は、彼らの祖父ら、下手したら曾祖父ら、その時代で認定を受けた親類の時と、同じ名前なのだ。

 証明書から顔を上げ、腰の曲がった褐色肌に白髪の老爺へ、二人は奇跡を見るような眼差しを注ぐ。

「送る」

「うんん? なんじゃぁ?」

「天幕までっ、送ってくっ!」

 こんなに声を張り上げるイリューは初めてなのだが、エーミルとリヴしかその驚きは味わえていない。

 証明人を送り届けたイリューが戻る頃、ようやく四人は落ち着いてきた。

「あの方は、どういう立場の方なんでしょうか?」

「どういう?」

「この都市の長老だとか、何かすごい認定を貰っている方だとか」

「ああ。発見の民の末裔だって噂は聞いたことあるが、どこまで本当かはさぁな」

 イリューの口振りは与太話の話し口で、大して興味のない様子だ。


 《発見の民》。広く世界にそう呼ばれる民族は、元は流浪の民だった。所有の概念を持たず、行きついた場所で必要な糧を得る。なくなれば他に移る。独自の思想をもった彼らは、法が整備され始め、権利を区分し始めた国とは相容れなかった。ゆえに死の砂漠に追いやられた集団がいたのだろう。その集団は、命なき砂漠に不思議な影を見つけた。影を辿り、大きな砂丘を越えた時、砂の大地に斜めに刺さる矛を見た。細長く、雲をも貫く偉容。だがそれは、近づけば巨大な円筒状の構造物だった。それが塔発見の逸話であり、塔の都市の始まりだ。

 今もなお、発見の民の思想は塔の都市に根強い。

『欲するものを得よ。だがその手から溢れたものは次の欲する者へ与えよ』

 発見の民は後年、搾取されることを厭い、所有の概念は得るに至った。塔の物品を用いた行商を開始した彼らは、けれど決して財を貯め込むことはなかった。

 慈善とも言い難い、足るを知る思想こそが、今も塔の都市の秩序を守る考え方だ。


「爺さんの名前に効力がある理由は、爺さんが《公平》と《誠実》を認定されてて、加えて塔に来るほとんどの奴らの言語を理解できてるからだ」

「ほとんどって、どれだけあると……」

 さらりと告げられた内容の衝撃に、シグリッドは思わず言葉を挟んだ。

 シグリッドには、自国の周辺三言語だけでも苦労した覚えがある。それでもまだ、文法が比較的似ているから楽な方だとは教師の弁だ。実際塔言語も会話は何とか旅の間に習得したが、右から左に横書きする書き文字は諦めた。先程のイリューの母国語など、どこからどこまでが一文字なのかも判別がつかなかった。言語とはそれだけ複雑なものだ。

「末裔だって噂の出元だろうが、行商人だったって話だ。現地で生きた言葉に触れれば、多少学びも早いんだろうさ」

 イリューの言葉はあっさりとしている。

 シグリッドは納得できない思いと、実際に流暢に書かれた北方王国語の証明書との間で揺れ動くばかりだった。どれだけの経験があれば、それほどの能力を得られるのか。

「依頼された内容は果たしたが、この先はどうする?」

 場の混乱に配慮する質ではなく、イリューはアレクセイに目を遣った。

「あのっ、帰りはここで一泊してから来た道を戻ることになるんですか?」

「予定通り、ここまでで帰るか?」

 挙手してのリヴの質問には答えず、イリューは視線を固定したままだ。責任者も依頼者も、あくまでアレクセイである。答えよりも判断を先に仰ぐ。

 アレクセイは周りに確認の視線を走らせて、頷きを返した。

「はい、最低限の目標はお陰で達成できました。この証明書を持って一度帰還したいです」

「なら、印に触れろ」

 出し抜けの指示に、不思議そうにみな、己の手の甲に刻まれた、一枚の印を見た。

「塔を出るイメージを浮かべろ、出口をくぐる感じだ」

 そう言われ、利き手で印の浮かぶ手の甲に触れる。無意識にみんな目を閉じて想像を始めた。仮想の出口を外側へと踏み出していく。


 すると――音、匂い、空気、何もかも切り替わった。


 唐突な変化に驚き、閉じていた目を開けると、そこはまた場所が違っていた。乾燥した空気と、塔の根本の濃い影。少し離れたところに連なる建物の景色は、塔の入口に似ている。ただ比べると圧倒的に静かだ。振り返れば、見慣れた壁がある。

「ここは」

「出口広場、入口広場から三十度程度ズレた場所だ。《塔を昇る者》は、階層を降りれない。帰る手段はこの直接帰還だけだ。次に入る時は、勝手に二階の開始地点からになる」

 イリューの説明に、四人は自分が神秘に触れるだけでなく、確かに神秘をその手に宿したのだと思い知った。

 塔へと入る時は巨大な壁の一部に入口があって、実際に入るという行為をした。だから一階砦地帯の雰囲気に合わせた不気味さが先行していた。だが二階への踊り場に着いた途端、神秘は溢れるばかりだ。

「すごいですねー! これがあれば危なくなってもパパっと」

 楽観的なリヴの言葉は、空気の揺れに途絶えた。

「治療師、頼む!」

 人のうめき、血の匂い、先程までなかったものの出現に、近場の天幕が騒がしくなった。慌ただしく人が行き来し始める。

「ちくしょうッ、アイツがまだ! 腕を食われた! アイツをっ誰か!」

「五階に間に合うわけないだろ! 自分の命先に心配しろや、バカヤロー!」

 四人の負傷者を、天幕にいた黒服の一団が治療に当たっている。アレクセイ達はこの喧騒を知っている。命の火が揺らぐ場面。戦場と同じ、緊迫感。

「嘘だろ、あいつら『白銀』の奴らじゃねぇか……。四枚でも選りすぐりだろ」

「帰れてないって、『先駆者』のマルクスじゃないか?」

 騒ぎに人が集まり、小声でも口々に囁かれる内容は耳に入ってくる。

 一気に押し寄せる情報に、リヴは震えた。アレクセイ達は知っている。けれどリヴは知らない。平和な穀倉地で、輜重の調達を分担された家の娘は、この空気を知らない。

 ふらりと、身体が傾く。

「駄目、駄目よ。何の怪我もない貴方は、今ここで倒れてはいけません」

 言葉は厳しくも、全身で支えてくれたシグリッドにリヴは縋る。

「エーミル」

「はい」

 アレクセイの指示に、すぐさまエーミルはリヴに荷物を下ろさせた。

「リヴ嬢、差し支えなければ抱えよう」

「わた、わたし、重、いです」

「淑女はみな羽のように軽いんだとは、母上からの教育だよ」

 軽口にリヴは泣きそうな顔をしながら笑った。だからそれに応えて笑みを向けてから、アレクセイはリヴを横抱きにして抱えた。

「アレクセイ様、今日のところは」

「ああ、失礼しよう」

「はい、アレクセイ様だけでお願いします」

「ん?」

 エーミルが手を差し出している。その手に合ったはずの荷物は、シグリッドに移動している。

「イリューさん、ここまでのご助力感謝致します。明日以降のことはアレクセイ様とお話しください」

「エーミル?」

 少し強引とも言える勢いに流され、アレクセイはリヴをエーミルの腕に託した。シグリッドが荷物、エーミルがリヴ、一つずつずれた結果、アレクセイの腕には何も残らない。

 アレクセイは事態を飲み込めない。

「では。あ、明日はさすがに休みを具申します。ですから本日はお帰りにならなくても問題ありません」

 自分も共に帰るつもりだったアレクセイは、素早く背を向けたエーミルを呆然と見送った。周りに集まっていた人混みに、その姿は埋もれて消えていく。

「え?」

 アレクセイはなぜか置いていかれた。

「……飯でも行くか?」

 イリューからの最大限の気遣いが、妙にしみた。



 ※  ※  ※



「最近の若い子達は何を考えてるんでしょうか……」

「それを俺に振ってどうすんだ」

 仲間外れにされた感覚とも違う、よく分からない疎外感に、アレクセイは食事を始めてもしょげていた。空になるたびイリューが勝手に酒を継ぎ足してやると、いつになく表情まで崩れ始めている。

「それより二階は」

「やはり抱えたのが悪かったんでしょうか。しかし、あそこは」

「……酔ってんな」

 いい加減、イリューにもアレクセイの特性が分かってきた。顔には毛ほども出ないが、酔ったアレクセイはしつこくなる。そして今日は話が通じない。どうしたものかと、テーブルに残った料理に視線を落とす。その左手に、触れるものがある。

「おい」

「私は紳士として恥じない行いをしたつもりなのですが」

「今恥じろ。何でそこで人の手を握る」

「イリューが話を聞いてくださらないからです」

「お前が言うか。……何で未だに敬語なんだ?」

「敬意があるからです。この三枚の価値を、今日改めて思い知りました」

 両手で捕らえたイリューの左手に、じっと視線を注ぐ。一枚目を刻んだからこそ、三枚の偉大さを、今日の騒ぎも合わせて感じられる。

 その価値に、勝手に頭が下がる。

「……北方の紳士ってのを俺は知らないが、人の手に勝手にキスする野郎はどっちかっていうと下心ありの遊び人に思えるが」

 手の甲に口づけた、少し前かがみの姿勢のまま、アレクセイは目を瞬かせてイリューを見上げる。

「下心?」

 きょとんと動きを止めているアレクセイから、イリューは左手を引き戻す。コップを取り、底に残った濁りを喉に流し込んだ。それからパンをちぎり、更に残った肉料理のソースを拭って食べる。

 その間に隣では、自問へと体勢が変化している。長い脚を組んで、俯きがちに背を丸め、何度もまばたきを繰り返している。

「私は男です」

「ここまでデカい図体の女は俺も見たことないな」

 どういう経緯で発された言葉か、理解しつつもイリューは一瞥で済まして、食事を続ける。

「イリューは……女性?」

「付いてる」

 事実の提示で即否定され、アレクセイはまた自問に戻るべく視線を下げて、その途中の視界にイリューの左手を見る。三枚の刻まれた、自分と異なる肌の手。もう一度取って握って、その印を撫でる。

「……あるのか?」

 下心。

 行為の是非を問う問答の途中で、再び手を取られることは予想外で、さすがのイリューも訝し気にアレクセイを見る。

 黒い瞳と、アレクセイは見つめ合う。



 何か野郎二人が変な雰囲気を醸し出してやがると、ガナハは店の一角に苦々しく思っていた。別にどいつがどうだろうと構わないが、人の店でやるなと思うのは店主の勝手だろう。

 ガナハが飯屋をやるのは腹が空いてる奴より、腹がいっぱいの奴を見る方が幸せだからだ。笑ってる奴らが多い方が、自分も嬉しい。

 腹が空くのは、とてもつらいことだ。

 皿が足りなくなりだして、ガナハは幾つかの座席から回収して厨房へと向かおうとした。その途中で扉が開いた気配を感じ、顔を向ける。

 やたら大きな荷物を背負った褐色肌の小柄な女性と、その後ろから痩せこけた少年が店に入ってくる。

「ガナハぁ、ワタシらの子だよ。認知してぇ」

 喧騒の中、その一言は不思議と店内に響いた。ぴしりと、静寂と硬直が降りた。

「モッカ! お前またかッ、何人目だよ!?」

 大音量の怒声がその静けさを消し飛ばした。

「うーんと、何人目ぇ?」

 語尾を伸ばして問いを向ける先は、カウンター席のイリューだ。

「俺が四人目って話で、一年一人のペースって話じゃなかったか?」

「じゃあ、十四人目くらい?」

「二十人超えてんだよっ、馬ぁ鹿ッ!」

「あらまぁ、もうお婆ちゃんだねぇ。ねぇ、お爺ちゃん」

「ガキもこしらえてねぇのに爺さんになってたまるか! あと、ほぼ歳変わんねぇあいつを子供扱いとか冗談でもすんなっ、マジで!」

 怒り気味に人差し指を向ける先はイリューだ。イリューはそれを、当たり前のように受け止めている。

 その横でアレクセイは固まる。酒が入っている頭でも衝撃の事実に、アレクセイは驚愕する。ガナハとイリューを忙しなく見比べる。

 ガナハは筋骨逞しい濃い肌の中年だ。対してイリューは、年月を経て落ち着いた樺の木材のような肌色に、感情の読み取りづらい一重だ。国元でも稀に異なるルーツを持つ家門で、アレクセイも成人の一重は見たことがある。赤子のような目元には、若く幼い印象が強い。騒ぎにも動じずに食事を進める横顔にはシワもなく、少々年上程度、それこそ兄の世代ぐらいの認識でいた。

 だからこそ、気も緩んだのだ。

 もう一度ガナハを見る。ガナハはどう見ても青年と呼ぶには円熟感がある。そしてイリューに戻す。イリューはどう頑張っても中年と呼ぶには若い。

 混乱が極まる。

「やだもうお誘い? こんなとこで恥ずかしいわぁ」

「俺とっ、お前はっ、そんな関係じゃねぇ!」

 戸惑うアレクセイは所詮場の端での出来事。

 中央では恫喝にも怯んだ素振りなく、モッカが笑顔で会話を続ける。

「ガナハ、結構資材持ってったんだってね」

 空気が、変わる。

「それ、は……」

「店ガラガラだったよ。あんまりうちの店子困らせないで欲しいな」

 どこまでも和やかに、言葉は紡がれる。

「また、あいつらが……」

「ううん、いいんだよ。ガナハのツケがどれだけあったってワタシ達の仲だもんね。定期納入に欠品が出そうでうちが大わらわになったって、ワタシ達の仲だもん」

 明るく朗らかに、褐色の笑顔は晴れやかに。

 じりっと無意識にか、ガナハが後ろ足を引く。

 ――ぐぎゅうぅぅ。

 その誰もが介入を躊躇う空間に、空腹の主張は派手に響いた。

 女の影、後ろで少年が俯き、腹に手を置いている。

 ガナハは雑に頭を掻いた。

「ああもうッ、とりあえず飯食ってけや!」


 西南の貧民だったガナハにとって、空腹は何より優先されることだった。

 ガナハは塔の独占を企む派兵の一兵士だった。食いっぱぐれがないという徴兵の文句に踊らされた。塔は砂漠の真ん中にある。そしてその外輪には標高高き山脈の峰々。難攻不落と謳われる塔の地形は、数多の進軍をその都市に至る前に跳ねのけてきた。ガナハのいた軍もそうだ。下っ端として雑用を任されていたガナハは、人手不足から調理も担わされた。続出する体調不良、切れる兵站、乏しい兵糧。頂を超えても進軍など到底かなわない。

 だからガナハは判断した。機会を伺い、頂の手前でこれ以上の進軍を考えられない程度に一部の食料を焼き、持てるだけの食料を盗んで逃げた。それも、山脈を越える方向に。選ばれていた道は雪こそないものの寒く、越えたはいいものの生き残れることはないとガナハは察していた。ただ腹を空かせて死ぬことはない。軍も、あそこからならまだぎりぎりの食料で戻れる。だから、ガナハは自分の人生に満足した。

 けれどガナハの人生はそこで終わらなかった。

 他の方向からの行商人にガナハは拾われ、塔の都市に辿り着くことになった。


「おう、坊主、うまいか?」

 すごい勢いで首を頷かせる少年の頭に、分厚い手のひらを乗せて撫でる。

 よく具材を煮込んだスープはこの暑い街では人気がない。けれど、ガナハは一鍋必ず作る。ずっと空腹だった者に、このスープは優しく沁みる。ガナハは身をもってそれを知っている。

「ワタシ、芋と野菜とお酒お願いー」

「お前は肉も食え」

 偏食極まりない女の頭には、撫でるのではなく軽く叩く仕草で手を乗せる。

 がりがりにやせ細ってなくなってしまった妹と、変わらない位置の頭。

 腹が空くのは、とてもつらいことだ。

 ガナハは今日も、料理を作る。


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