2 派閥子女と詐欺とみなしご
少しサイズの小さいベッドでの目覚めに、アレクセイはしばし硬直した。行軍の野営とは状況が違う。否応なく緊張感を抱かせる天幕とは違って不慣れで、現状を思い出すのに少しかかる。馴染んだ気温より、圧倒的に暑い。
「アレクセイ様、お目覚めですか?」
声をかけられ、鈍い頭が少しずつ回転を始める。
「エーミル、この地の酒は強いからあまり飲まない方がいい」
「また、やらかしましたか」
「イリュー殿にとんでもなくごねた記憶がある」
「昨日の御仁ですか。⋯⋯あまり馴れ馴れしいのを好む印象はないですね」
追い打ちに項垂れるが、ベッド脇の台に洗面用の桶が置かれると、アレクセイは身体を起こす。
「顔に出ないのは強みだと思っていましたが」
「行動を制御できなくては意味がない」
「まぁ、そういう性格だと思っておいでの方も多いでしょう。交渉事で積極的に出れるのは、かえって羨ましいです、自分みたいなものには」
寒風吹きすさぶ北方王国にとって、酒は生活から切り離せないものだ。公の会議ではなく、根回しのような交渉の場には酒が出ていることも多い。
羨望を口にする少年から、アレクセイは眉尻を下げて手巾を受け取る。
「兄上がいて救われているよ。裏方ならまだしも、私に公爵は務まらない」
水気を拭って虚空に向ける目は、遠い故国にいる兄の背を見ている。
アレクセイ――アレクセイ・エルドクヴァールは、由緒正しき武門、エルドクヴァール公爵家の次男だ。歳の離れた兄の嫡子も順調に育ち、弟二人の進路も確定して、スペアとしての役割も大分薄れた。そのため、ようやくお目付け役も兼ねた塔試しが叶い、この地に来ることになった。
塔試しは箔付けだ。すでに目いっぱいの箔がついている長男や、保険であるスペア次男がやることでは本来ない。
それでもアレクセイが試みることになったのは、兄弟揃っての夢だったからだ。幼き日、暖炉の前で耳を傾けた大叔父の冒険譚。いつか誰か一人でもという男子の曖昧な夢想は機を逸し、大人になるまで持ち越された。結果、有力だった下二人は他家との縁談や頭脳労働で動きづらくなった。反対に、一つの大きな戦の後始末も落ち着いた現在のアレクセイなら、実は一番調整がきくのでは?と、ある時誰かが思いついた。
そこからの経緯は、無理と無茶の貫き通しだ。所属する王立騎士団の副団長である叔父が頭を抱えていた。隊長として指揮する部隊の副官は胃を痛めていた。一致団結した兄弟だけが、機嫌よく見送ってくれた。
託されたのは、認定を受ける事だ。大叔父のそれは《強壮》だった。幼い時分は二つ名のようで憧れ、兄弟それぞれに自称して遊んだものだ。
《認定》。その者の技能、特性を見抜く塔の機能。
根幹、真髄、核心。言いようなら何通りもある。その人物がその人物であるための軸。
己の本質を晒す行為。
送り出してくれた兄弟の期待に応えたいと、気合一つ、アレクセイは立ち上がった。
「今日はどうなさいますか?」
「イリュー殿に、再度案内役をお願いしてみる。私達だけで認定に向かうのは無謀だ」
出会いは幸運だった。身のこなしの一級さはあの一瞬で知れた。技能、知識、共に申し分ない。話し口からおそらく年上だが、エーミルと変わらない小柄な体躯と若く見える顔立ちから、メンバーが委縮することもない。あまり年上だとまとめ役としてアレクセイも身の置き所に迷うが、兄ぐらいの年代なら付き合いも慣れている。
案内役を頼むのに最良の人材だと判断した。
「何やら訳ありらしかったが、互いの事情を腹を割って話し合えれば、折り合う点も見つけられるだろう」
木製の窓を押し開けると、強過ぎる日差しが皮膚を焦がす。宿の前の道は真っ直ぐ伸びていた。それを辿って左に顔を向けると、今だ慣れない壁がある。一見すれば傾いた壁、けれど、それが円筒状に近いことを、アレクセイは知っている。大きすぎて曲面とは判別しづらいのだ。
《塔》、神が放った矛とも呼ばれる、謎の巨大構造物。遠い砂丘からなら、それは斜めに地面へ突き立つ棒に見える。空へと伸びるその果ては、最新の望遠鏡ですら確認されていない。あまりにも人知を越えたもの。その神秘性と有用性は、違う宗教観の国さえも魅了し、この都市を成り立たせている。
「――アレクセイ様っ、起きてらっしゃいますか!?」
辛うじてノックを先に、少女特有の高い声が部屋に響いた。塔の威容にしばし見惚れていたアレクセイは、入口を振り返る。
「シグリッド嬢? どうしたんだ」
応対に出ようとしたエーミルを片手で制し、多少身なりを整えてアレクセイは扉を開けた。
そこには、万全に身支度を済ませた――ただ昨日と違って、金髪を二つくくりではなく一つに束ね、乗馬服のようなパンツスタイルのシグリッドがいた。
「ワタクシ見つけましたのっ、素晴らしい案内役を!」
その頬は、興奮にほのかに色づいていた。
こみ上げる嫌な予感を飲み込み、アレクセイはとりあえず年長者たる威厳をもって、貴族的に微笑みを浮かべた。
※ ※ ※
食事処『ガナハの店』は昼夜問わず混んでいる。喧騒と湯気、酒の匂いはこの店を常に満たしている。食事の質、量、価格のバランスが優れていることは当然として、その人気の根底には店主ガナハがこの区域のまとめ役であることが大きい。
「はぁ!? 何べん頭下げさせりゃ気が済むんだ、このしょんべんたれが!」
「すんませんっ、ガナハさん!」
「とりあえずモッカんとこ行って、弁償分調達してこい!」
「はいぃ!」
飲食の場に大きく響く『しょんべんたれ』の一言にも動じず食事を取っていたイリューの目の前に、どんっと音を立てて酒瓶が一本置かれる。
「頼んでないが」
「サービスするから愚痴に付き合え」
拒絶を告げる間も許さず、酒はイリューの空になっていたコップに注がれる。
「最近の若いのの、あの考えのなさは何なんだよ、おい」
「若くない俺に聞いてどうすんだ」
「――イリュー殿」
奥行きのある低音が喧騒の中、不思議と耳まで届いて、イリューとガナハは不毛な会話を中断した。入口から、見覚えのある男が大股で、イリューの座るカウンター席まで近づいてくる。足の長さに距離は一瞬で詰められた。
「あの」
「よし、付き合え。若いの」
「え?」
座りもしていないのに目の前に差し出されたコップに、アレクセイは戸惑うしかなかった。
長い長い愚痴と状況説明を、アレクセイは嫌がることなく受け止めて、イリューの横に座って聞いている。
「おっしゃる通りだと思います」
「ただ塔があるだけの砂漠が、どんだけの苦労の果てにこの街になったと思ってやがんだ。物資も人も有限だってことを、お前ら若い奴らはすぐ忘れやがる」
「不徳を恥じ入るばかりです」
神妙にし過ぎてなぜかアレクセイが説教を受ける側になっている。
食事を終え、イリューは手を合わせた。故郷の習慣を終えてから、アレクセイに目を向ける。
「で?」
「先人の苦労に我々も報いねば……、は、え?」
「おい、邪魔すんじゃねぇ」
「年寄りは話が長いって愚痴の連鎖をうむ気か? 大体そろそろ本人達が帰ってくるだろ」
その言葉通り、どこかに行っていた一団が資材を抱えて酒場に戻ってきた。ガナハは顔を大きく歪めた後、後を他の店員に任せてその一団と店を出ていった。
「助かった。俺の飯がまずくならなかったお陰分くらいは話を聞くが、どうした?」
「あ、いえ、マスター殿のお話自身は興味深いものでしたので」
切り替わった展開に一息つこうと、アレクセイは持っているだけだったコップに思わず口を付けた。ふわっと香った酒精を意識する頃には、喉から先へ焼ける感覚が下っている。
「詐欺に、遭ったんです」
今日一日の受難を、アレクセイは振り返った。
シグリッドが宿の周辺で偶然知り合ったという手練れの案内役とは、塔の中で落ち合った。西方の血が流れているのか、アレクセイ達の国の文化や言葉にも理解があった。お目付け役として警戒していたアレクセイだが、身なりが整っており、立ち居振る舞いも無頼のそれではなかったため、緊張を緩めた。
その結果、どこかも分からない場所に置き去りにされた。
思えば無駄に戦闘が多かった。案内役の対価も前金で、一週間分ほどをシグリッドが自前で支払い済みだった。
その後の案内役の行方はようとして知れない。
「……よく分からないが、俺にそれを伝えて何なんだ?」
「はい。この街のシステムが分からないので、自警団か何か、通報先を教えてもらえればと」
「ない」
「ない?」
「来訪貴族相手によくある手口だ。契約としてなら詐欺だが、戦い方をみっちり教えてから放り出すだけ、集中講義としては優秀なぐらいだ。帰りは何とか自分達だけで帰ってこれたんだろ?」
「待ってください、秩序維持の機関がないとは?」
「そのままだ。地域の揉め事は地域が、範囲が広がれば組合か商会が解決する。貴族宿の辺りも、宿同士が連携して対応してる。あの辺りは結構うろつく奴らにも厳しいはずだが、今回は洩れたんだろうな。そんなに信用できそうなヤツだったのか?」
アレクセイは眉を下げる。
「印が」
「印が?」
「三枚だったので」
向ける視線はイリューの左手の甲だ。
「三枚で、降りれるってことは……。金髪で青い目、身なりの良い伊達男?」
「お知り合い、ですか?」
「知ってはいる。《自己愛》のティボーか」
「自己、愛? それは認定ですか?」
「塔も認める名うての自己愛者だ。あいつの格ならうろついてもおかしくはないな。何か……暇つぶしにでも引っかかったか」
「そんな悪性まで塔は認定を?」
納得いかなさそうなアレクセイの片手を、イリューは取った。
急なことにされるがまま、アレクセイは腕を伸ばす。
「お前は人を殺すのに、人を騙した程度で悪か?」
上向けられた手のひらには、剣を握り続けてきたもの特有の痕がある。人を殺すための鍛錬の証だ。
持ち上げられた黒の双眸に責める色はない。ただ単純な疑問を口にした。それだけだ。何を悪に、何を善にするのか、規範を問うだけの眼差し。
アレクセイはそれに、咄嗟に言葉が出ない。
守るため、正しきを為すため、そんなものは国を離れればおためごかしに過ぎない。
一瞬の間に、イリューは興味を失った素振りで手を離す。
「ティボー相手の勉強代なら安い方だ。俺と同じ《塔を昇る者》を落とした三枚……、本来なら四枚の実力者だ」
「……シグリッド嬢が、立て続けの失態に落ち込んでしまって」
「お前達の目的は塔試しだろ。そこまでのフォローがいるか?」
「放っておけません」
「なら仲良く慰めあってりゃいい。お前達を急かすのはお前達の事情だ」
離れたイリューの手を、今度はアレクセイが掴み返す。
「助言をください」
真っ直ぐにこちらを射抜く薄青の瞳に、イリューは眉を僅かに寄せた。
※ ※ ※
シグリッドは手鏡を前に、短くなってしまった片側の髪を撫でていた。上の方から指で梳くと、肩の先辺りで途端にボリュームがなくなる。断ち切った先を整えたのもあって、バランスが崩れている。
シグリッド・ヴァルンヘルムは伯爵家の長女として生まれた。翌々年に次女が生まれたが嫡男の誕生は続かず、シグリッドは跡取りとして長らく育てられた。伯爵家の中でも高い家格はシグリッドに誇り高くあることを求めた。上位貴族におもねるでもない、へりくだるでもない。父親が政治中枢にいるからこそ、意見できるほど確固たる地位を維持する。蝶よ花よと育てられる次女を母親と共に愛でながら、そうあることにシグリッドは不満を抱かなかった。
そんなある日、母親は懐妊した。産まれたのは双子の長男、次男だった。二人は魔の五歳と言われる死亡率が高い時期も過ぎ、健やかに伯爵家の後継ぎとして生育していった。
そして、シグリッドは将来の定まらぬ立場となった。国内で有力な家門、同世代の縁談は大体決まってしまっていた。家格や世代を度外視すれば選択肢もあるが、価値ある縁組からは遠のく。活路は国外に見いだされた。
だから嫁に行く箔付けのため、シグリッドは塔試しを行うことになった。
「シグリッド様」
呼びかけられて、はっとシグリッドは鏡に写るリヴに顔を向けた。
「アレクセイ様から伝言です。今日も塔に行く準備をして、一階のロビーで待ち合わせようと」
「分かったわ」
頷いて返しても、リヴは動かなかった。それを不思議に思って振り返る。
「今日は編み上げてはどうですか? その、あんまり上手でなくても良ければ、お手伝いしますよ」
リヴはそばかすの浮く顔にめいっぱいの笑顔を浮かべ、自分の櫛を構えてみせた。
髪の長さの不揃いさが目立たない提案に、シグリッドは鏡に視線を戻す。
「そうね。お願いしようかしら」
※ ※ ※
塔の前、巨大な円筒の根元に当たるこの場は、影が濃い。夜とも見まがう闇の中、不似合いな活気が塔前広場には満ちている。
「三階新情報っ、遺跡地下発見! 紙での情報はある限りの先着限りだ、寄ってきな!」
「不要品買いとりまーす! 不足してる生態系イロつけまーす! 塔に入る前に価格確認をー!」
「ほっきゅー、ほっきゅー。食べ物飲み物装備品、補給は忘れず丸いランタン配置が特徴の丸屋でー」
露店の広がりは無秩序に見えて、決して塔に向かう一本道は阻害しないように配置されている。道沿いに設えられた店は勝手知ったる雰囲気を出しており、交渉のために立ち止まる客達も通行の邪魔にならない脇へと誘導されている。
「おいお前ら! おのぼり貴族だろっ、情報買ってきな!」
一方で個人の商売人は自由だ。喧騒に負けぬどら声を張り上げ、客と見定めた者には通行を邪魔する勢いで近づいてくる。
目の前に割り込んできた商売人相手に、シグリッドは眉を吊り上げる。
「今なら二階分もセットでなんと――ぉおお!?」
まくしたてられていた口上は、後ろから続いていたイリューを視界に入れて止まった。畏敬とも畏怖ともつかぬ表情で、少しずつ距離を取り、離れていく。
「虫除けまで兼ね備えてるなんて、三枚とやらは随分御立派なのね」
「余計な揉め事を回避できる便利さに俺も驚いてる」
揉め事を起こしかけていたシグリッドは、それを皮肉返しととって不機嫌をあらわにする。
「シグリッド嬢」
小さく諫めるアレクセイの声に、シグリッドは表情を消した。当たり前に行っていたはずのそれが、なぜか今は意識しないとできなくなっている。この旅は、シグリッドの根幹を揺らしている。
広場の一角で、イリューは全員に止まれと指示した。通行の邪魔にならないように、五人で円形に固まる。
「さて、じゃあ情報を買う情報屋を選べ」
真っ直ぐに自分に向かって言われ、シグリッドは目を丸くした。
「ワタクシは……騙されたのよ」
「何で騙された?」
「それは」
口ごもる。失態を犯し、挽回のために焦った。自分の価値観で好む人物と思いがけず接触し、安易にそれを頼った。
「ワタクシの、見る目がなかったから」
「だそうだ」
「耳が痛いです」
「アレクセイ様は関係ありません! ワタクシが功を急いただけです!」
「それでも集団の責任者はこいつだ。その責任者であるこいつが、責任を負ってお前の喪失した自信を回復させたいと言ってる。だからもう一度、お前が選べ」
全部言ってしまうなと、アレクセイは少し眉尻を下げて笑った。
戸惑うシグリッドを、リヴは頑張れと言わんばかりに、エーミルは穏やかに見ている。
「何で情報屋に反感を持った?」
「……ワタクシ達を、見下していたからよ」
「塔の前では、印のあるなし、数は確実な上下を生む。それはお前らの貴族階級と同じだ。ここではそれが摂理だ」
ぐっと、シグリッドは拳を握る。
「だが、それが全てじゃない」
覆す言葉に、シグリッドはイリューを見る。
「お前はこの男に敬意を払うか?」
「当たり前よ!」
アレクセイを指して問うイリューに、シグリッドはすぐさま肯定を返す。派閥トップの公爵家次男、かつ王立騎士団の騎士となれば、当然のように敬意を持つ。
「逆は?」
逆と言われて、シグリッドは一瞬意味が分からない。シグリッドがアレクセイに敬意を払う逆。アレクセイがシグリッドに敬意を払う。
優しく自分を見るアレクセイの瞳を、シグリッドは見返す。
「払って、いただけてるわ」
「階級はあっても、尊重の意思は別だ。お前の感じた敬意のなさは、少なからず商売相手として不適格だ。特に信用がいる情報を買うには」
「ワタクシは」
自身の感覚を言葉にされると、余計に自信は損なわれていく。
「昨日の男を、信じてしまった」
「慣れない世界に飛び込んで不必要に毛を逆立ててるところに、知ってる価値観で良いものを装われたら脇も甘くなる。それ自体は連帯責任で問題ないだろ。四人揃って騙されたなら、四人揃って間抜けで、相手が見事に上手だったってだけだ」
身なりが整っていた。佇まいが知っているものだった。内面的な部分で覚えていた反感を忘れて、外面的な取り繕いで信じてしまった。
「それで、今はどいつを選ぶ?」
広く群衆を見渡す。大きく店を構えた情報屋は見当たらない。在庫の要らない水物の商売は、個人での取り扱いがせいぜいなのだろう。ブランドに甘えることはできない。積極的に売り込みをかけている情報屋を見る。品のなさがやはり鼻につく。それが自分勝手な価値観だとしても、強引さは相手を軽んじているように思えてしまう。
もう少し外側へと、意識を向けた。
外側の、腰を落ち着けて座る何人かが目に入った。老爺。片足、もしくは片手などどこかしら不遇なもの。ぼろを纏った子供。点々と彼らは一角に陣取り、時折前を行く者と言葉を交わしている。物乞いにも似た、雰囲気。
「……あの子」
その中の幼い少年が一人、周囲を見回して時折立ち上がり、大人の袖を引いている。
シグリッドの言葉に、イリューは足を向けた。その後を全員でついていく。
「客は俺じゃない、こっちだ」
近づくイリューに気づいた少年が、ぴょこんと勢いよく立ち上がった。何か言われる前にと、イリューはシグリッド達を指差す。首を傾げる少年に、シグリッドは恐る恐る問いかける。
「情報を、売ってるかしら」
不思議そうに少年が、イリューをまた見る。イリューはそれに三枚を刻む左手を振って見せた。情報屋より確かな情報源が、今は口を挟む気がないという意思表明だ。
少年が肩から掛けた布鞄に手を突っ込む。三、四歳の細い体格に見合わず、鞄は重そうに膨らんでいた。
「いっかい? にかい?」
「一階の、その、基礎的なところから」
「おねーさんたちは、よそのひとでいい?」
「ええ」
「じゃあね、しゃがんでもらっていーい?」
精緻な模写のされた地図を広げ、少年は大きな瞳で請うた。
自分を取り囲む影に物怖じせず、少年は一階砦地帯について説明した。石造りの迷路である基礎、出現する敵生生物の特徴と弱点、それから通路が薄暗くなっている現状。
「その、勝手採取というのは、結局何なのかしら?」
「んと、『テイキサイシュ』があるんだ。まちのためにきまったぶん、テイキテキにシゲンをとるやくそく。でもランタンなんかは、とりやすいからじぶんのためにいっぱいとってっちゃうひとがいるんだって。しばらくまてば、もとにもどるんだけど、さいきんずっといっかいはくらいままだって」
だからスライムが強敵になり、だから治療院で資材不足になる。少年は短い指でその時々どこかを指しながら、言葉拙くも伝えていく。
時折シグリッド以外も質問を挟み、説明は続いた。やがて指折り数え、少年は話すべきことを話し終えたことを確認した。
「ほかにもある?」
中心になっていたシグリッドが代表して周りを確認し、少年に首を振る。
「じゃあ、これ」
下に置いていた地図を丸め、少年はシグリッドに向けて差し出した。
「とーちゃんのちず。みんなほめてくれるから、にかいもみかんせいでよかったら、またきて」
代金を渡し、その場を離れる。
「なんで、あいつにした?」
渡された地図をつぶさないよう、そっと抱きしめるシグリッドに、イリューは尋ねる。
「……笑顔だったの」
父親の地図だというそれを掲げる少年の瞳には誇らしさがあって、そして顔には笑顔があった。ありがとうと返す言葉も、がんばってと見送る言葉も、当たり前の敬意に満ちていた。
それが、遠くからの他の客とのやりとりでも見て取れた。
「押し売りから買っても、多少ぼったくられるぐらいで情報はそう変わりない。物知らずの新人相手じゃ、金額的にも大した詐欺ができるわけでもないしな。ただ、ここでの暮らしはこういうことの積み重ねだ。嫌な思いをしたくないっていうなら」
目を合わせたイリューの見慣れない黒い瞳に、シグリッドは緩んでいた頬を引き締める。
「見て感じて、考えろ」
イリューの言葉に、シグリッドは深く頷いた。